「清末見聞録(清国文明記より)」・北京の元旦
明けましておめでとうございます。夜中に帰宅しました。大井松田辺りで事故があり、2時間近い渋滞に巻き込まれてしまいました。帰宅してあらためて息子と新年の祝杯を挙げました。今日からブログを再開します。まずは明治時代終わり頃の北京の元旦の様子など。
座ったまま元旦を待ち、一晩中寝ない。朝日がようやく昇る頃になれば、再び一家ことごとく神前に礼拝して、二日の早朝にもまた礼拝して終わるという。元旦には角子(チャオズ)といい麦の粉で肉を包んだもの(餃子のこと・若いとき中国で暮らしていた父が生前餃子のことをチャオズ言っていた)を食べる。また年糕(ニェンカオ)といって、餅米や餅粟で作った餅に棗を混ぜたものもあるが、これはお菓子として食べるもので、日本の雑煮のようなものはない。また屠蘇酒は元々中国由来のもので、「歳時記」に
唐の孫子邈(ぼう)という人、道術あり。毎歳除夜には
薬嚢(やくのう)を井の中に浸し、元旦にこれを取りて
酒樽の中に入れ、名付けて屠蘇酒という。これを飲めば
疫疾に染まず。
とあるのが起源だが、この風習は日本に残って、本家の中国では伝わっておらず、今は屠蘇酒を飲むものはない。ただ木瓜(ぼけ)を細かく切り、酒に浸してこれを飲む。名付けて薬酒という。香気があり味は大変よろしい。
市中の光景は戸ごとに黄龍旗および紅旗を門に掲げてお祝いをするけれど、店は閉じたままで商売はしない。ただそこかしこの店の中には銅鑼を打ち鳴らしながら騒いでいるところがある。あるいは早朝からあちこちで爆竹を鳴らしている。在留同胞の某君が初めて北京に来たのは団匪の乱(だんぴのらん・義和団の乱)が治まったばかりの頃であった。ときどき政府批判の騒ぎなどもあって人心不安の時だったので、彼は元旦のあちこちで鳴る爆竹の音を寝耳に聞いて飛び上がって驚いたという。爆竹の音に開ける北京の元旦の光景は実に壮快である。年賀の客は主に二日以降であって、元旦は人通りもほとんどなく、除夜の晩とは打って変わって静かな年の始めである。演劇は年末を休んで元旦からやっている。劇場は観客であふれんばかりである。
年賀のために知りあいの中国人の家を訪ねた。客庁には椅子、テーブルをほどよく配置し、書画の扁額、掛け軸があるのは日本と同じ、そのほか、水仙、梅、桃および玉堂富貴四種の花を飾ってある。日本では先ずお屠蘇を、そして酒肴を供するけれど、北京では茶菓を供するばかりである。これは外国人だからということではなくて、中国人同士でも同じである。そうして中国人の挨拶回りは身分のあるものはたいてい馬車に乗っていき、目指す家に到ればお供のものは名刺ばさみの中から封筒よりも大きな紅紙の名刺を捧げて、大門内の先方の召使いに渡すと、その召使いはまたこれを捧げ持って馬車の傍らに来て、わざわざの御入来ご苦労に存じますと謝辞を述べる。お互いが特に親しい間柄の時は車を降りて客庁に行き、互いに新禧(シンシー)、新禧(新年おめでとう)、良いお年を迎えられましたか、などと言い交わして、しばらく語り合った後辞去する。
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