「清末見聞録(清国文明記より)」・迎春の準備①
竈祭(既述)の前後から市中は色めき立ち、一般に迎春の準備に忙しい。東西両廟の縁日なども普段は二日ずつであるが、年末には続いて四日間の祭りがある。そのほか城の内外あちこちで年末市が立つが、越年に必要な種々の品物を売っている。
日本の年の市には門松、〆飾りまたは羽子板などが景気よく売られていて、春が間近に迫ったような心地がするが、北京では松は墓地の印の木に用いるので、門松などという吉事に使うなどもってのほかで、〆飾りもなければ羽子板もない。その代わりに春聯(しゅんれん)といって大小の門、あるいは部屋の入り口に貼り付ける対聯(ついれん)は迎春の時期にこれを新しいものに替えることになっているから、紅紙に吉祥の語句を書いたものを売っている。そのほか、日本の年の市で見受けないものを二、三あげると、
門神 門神とは門を守って悪魔を追い払う二柱(ふたはしら)の神である。一つは白面で一つは紅面である。この門神の画像を門の扉の左右に貼付する。この風俗は一説には漢の時代に始まったという。後漢の応劭(おうしょう)著「風俗通」のなかに
度朔山(どさくさん)の桃樹の下に二神あり、一は
神荼(しんと)といい、一は鬱塁(うつるい)という。
良く鬼を執(とら)う。鬼皆これを畏(おそ)る。
今人桃の板に二神の像を描きてこれを戸に懸け百鬼を
禦(ふせ)ぐ、名づけて桃符(とうふ)という。
とあるのがすなわちこの風俗の起源である。ただし現今の門神は桃板を用いずに、紙に描いたもので、白面は神荼で紅面は鬱塁である。また一説によると、門神の起源は唐太宗がかつて鬼を畏れて、秦瓊(しんけい)、尉遅敬徳(うつちけいとく)の二将に命じて門を守らせたことがある。後世この二将の像を描いて門に貼付するようになったというのである。白面が秦瓊で紅面が尉遅敬徳であるという。この二つの説はそのどちらが本当か分からない。この風俗は古くから伝わって今もつづき、新年には門神の像を貼ってそれに代えるのである。
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