「清末見聞録(清国文明記より)」・打鬼
打鬼(タークオイ)はラマ教の一儀式で、正しくは送崇(そうすい)という。追儺(ついな・鬼祓い)の類である。正月八日には弘仁寺、十五日には黄寺、二十三日には黒寺、月末には雍和宮(ようわきゅう)でこの式を挙行する。弘仁寺は元の興慶宮の跡で西安門内にあったが、義和団の乱の時にフランス人がこれを焼失させてからは送崇の礼を行わない。黄寺は城北安定門外、練兵場の北、蒙古外館の西にある。正しくは普浄前林といったが、建物に全て黄色の瓦を用いたので俗に黄寺という。乾隆四十四年秋七月聖僧班禅額爾徳呢(パンセンエルトニ)がチベット(西蔵)から北京に来朝し十一月に示寂(じじゃく・高僧が死ぬこと)した。乾隆帝はこれを礼して大理石造りの塔を黄寺の西に建て、御製の清浄化城塔記碑を立てた。俗にこの塔を白塔といい、寺を西黄寺という。これより黄寺は東西二つあることになった。黒寺は城北徳勝門外路西にある。建物の瓦が全て黒いので黒寺と名づけられている。前後二つの寺がある。前黒寺は慈渡寺といい明の時代に建てられた。後黒寺は察罕喇嘛(チャカンラマ)廟といい清の時代の創建である。雍和宮については別に項をあらためて説明する。
以上の諸寺で打鬼の儀式があるが、私は正月二十九日の雍和宮の打鬼を見た。午前十時には寺中のラマ僧およそ百余名、紅色または黄色の法衣を着て、駱駝の毛で作った帽子をかぶり、法螺貝の合図とともに、法輪殿に集まっておのおの着席すると、しばらくして先駆けとして二人が篳篥(ひちりき)を吹き、つぎに大ラマは烏帽子形の黄色い帽子をかぶり、黄色い絹の衣を着て、右腕は肩から下を出して進み出て設けられた席に着く。これより集まったラマ僧一同は読経を一時間ほど行い、しばらく休憩した後、また読経を一時間行い、それが終わると僧たちは皆門内の広場に出てくる。十数名のラマ僧は東方に座ってお経を唱え、そのほか数十名の僧たちは色とりどりの法衣を着て、頭には仏、牛、鹿、その他種々のかたちをした紅黄青黒の面をかぶって鼓をうち、鐘を叩いて楽を奏し、それとともに二人あるいは四人あるいは六人ずつ中央に出て飛び跳ね踊る。これを跳布札(チャオプチャ)という。極めて古式豊かなもので、魔鬼を追い払うためのものであるという。かわるがわる跳舞することおよそ二時間、草や茅で作った鬼を送って門を出て、これを門前で焚き爆竹を鳴らして打鬼の儀式は終わる。
*日本では節分の夜、豆まきをして鬼を祓うがこれを追儺という。昔は大晦日に行ったものだという。
« 中国ウオッチ・切符売り切れ | トップページ | 中国ウオッチ・蓮舫議員 »
コメント