「清末見聞録(清国文明記より)」・天壇-五壇
天壇は城南永定門内の東にある。周囲十里(約4キロ)を垣で囲っている。明の永楽帝十八年に作ったものである。門を入ると松柏が鬱蒼として草花もきれいに整えられたなかに一本の路がある。放牧された馬などが木陰に眠ったりあるいは草の上を走り回っている。中門を入り右に折れて塹壕に架かった橋を渡り、別に一廓(いっかく)を成した門の中に入ると、中に一宇の殿堂がある。これは天子が親しく天壇を祀る時の休憩室である。殿中にはただ一脚の椅子があり、その後ろに木製の屏風が立てられている。これが玉座である。椅子および屏風はすべて紫檀および楠を用い特に屏風には南画風の山水の彫刻を施しすこぶる精巧ではあるが、楣間(びかん・ひさしなど屋内の高いところ)に乾隆帝の御筆で「欽天旱天」の扁額が懸かっているだけで、室内の装飾は別に見るべきほどのものもなく割合に簡素である。
便殿から南へ行き一門を入り、松柏の茂った中を過ぎると、ここに圜丘(かんきゅう・円丘)がある。いわゆる天壇がこれである。壇は三段から成り、最下段は径二十一丈(約63m)、中段は計十五丈(約45m)、上段は径九丈(約27m)、高さは各五尺(1.5m)、その形が円形なのはいわゆる天円地方の説によって天をかたどったものである。天子はこの壇に上がって遙かな蒼穹を仰いで天を祀るのである。この圜丘の北に一殿があり皇穹宇(こうきゅうう)という。また、その北に高い堂宇があり祈年殿という。いずれも天をかたどって円形である。北京城壁の上から南方に碧瑠璃の瓦色燦然とした高塔を望むのはすなわちこの祈年殿である。
天壇の西方大街を隔てて先農壇(せんのうだん)がある。中に先農壇、天神壇、地祇壇、大歳壇等を設けてある。ここでは天子が自ら籍田(せきでん・天子が祖先の霊に備える米を作るために耕作する田)の祭りを行う。そのほか城東朝陽門外、東嶽廟の南方に朝日壇(ちょうじつだん)があり、また城西阜城門外に夕日壇(せきじつだん)があり、城北安定門外に地壇がある。春分には日壇に祭り、夏至には天壇に祭り、秋分には月壇に祭り、冬至には地壇に祭る。以上天壇、地壇、日壇、月壇、先農壇を総称して五壇という。北京観光の客は天壇に行かないものはないが、ほかの四壇に行くものは極めて稀である。実際天壇が最も整備されていて、先農壇がこれに次ぐが、ほかの三壇は規模も小さくしかもずいぶん荒れている。五壇の沿革や祭祀の法などはあまりにも専門的だからここは省略する。
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