「清末見聞録(清国文明記より)」・北京近郊の名勝・十三陵①
明治三十九年五月十三日、宮内学士、松村、中村、川村の四君と待ち合わせて十三陵に向かう。安定門を出て黃寺を過ぎ、元の建徳門址を出て十五清里(一清里約400m)にして清河に達した。時はまさに初夏、柳は緑の糸を東風にくしけずらせ、芳草青々行人の摘むに任す。未だ高粱(カオリャン)が目を遮ることもないので、景色を見るのにちょうどいい。馬に鞭を当てて風を切ってお互いに競うとき、その壮快なことはたとえようもない。路傍の所々に墳墓がある。あるものは一廓をなしていて煉瓦で墳を築き、前に大理石の碑を立て、松柏をしるしの木に植えてあるが、普通は土を積み立ててまんじゅう型に塗ってある。しるしの木もなく、墓の周囲はことごとく耕して穀物を植えてある。祖先を尊ぶことが盛んであるから、墳墓の地は決して他人に譲り渡すことはないけれども、年によって豊凶もあるので、あるいは流賊が起こることもあり、いつ何時この土地が人手に渡らないとも限らない。そうすれば無縁の墓はたちまちにして掘り崩される。古詩に「古墳犁(すかれて)為田、松柏摧(くだかれて)為薪」というのはもっとものことと思われた。
また行くこと十清里、平西府に到って小憩し、携えてきたパンで空腹をしのぎ、乗ってきた馬にかいばをやった。また、ゆく道の菜黃麦緑の間に丹頂鶴の立っているのを見て、中村君は馬を下りて大声で呼んでこれを追えば、鶴は悠然として飛ぶ。仰げば西北には一帯の山脈が連なり、煙霞がたなびく様はいかにも長閑である。
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