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2012年2月 7日 (火)

「清末見聞録(清国文明記より)」・謝畳山祠

 文文山(ぶんぶんざん・名前)と並んで二山と呼ばれた宋末の忠臣謝畳山(しゃじょうざん)の祠は、法源寺の北にある。法源寺を見て帰路思いがけずその祠に出会えたのは望外の喜びであった。
 公が魏天祐(ぎてんゆう)のために強制的に燕京(今の北京・当時の元の首都)に連行されて、謝太后の殯処(ひんしょ)、および瀛国公(えいこくこう)の所在を訪ねて再拝慟哭してついに病に臥し、幾ばくもなく憫忠寺に移った。たまたま寺の壁間に曹娥(そうが)碑を掲げているのを見て、泣いて曰く「小女子なおしかり、吾(われ)豈(あに)汝に若かざらむ」と。このあと絶食して死んだ。
*謝畳山については詳細を知りません。国が滅びるのを憂えて悲憤のうちに亡くなった人のようです。
 曹娥の話は「演技三国志」などにも引かれているから、珍しいことではないが、一応その由来を語ろう。昔、漢の和帝の御代、上虞(じょうぐ・虞はここでは役人の意か)に巫者曹盱(そうく)という者があり、舞が上手であった。ある年端午の節に酔って舟中で舞い、過って江(江といえば長江のこと)に落ちて死んだ。その娘曹娥はそのとき年は十四、江を巡って哭泣すること七日七夜、ついに身を江中に投じ、その後五日後に父の屍を背負って浮かび出てきた。そのとき彼女の魂はすでに天に帰していて身は空蝉の殻であった。里の人はその志を哀れんでこれを江辺に葬った。そのことがついに雲上の聞くところとなり、孝女として表彰し、邯鄲淳(かんたんじゅん)に命じて文を作らせた。淳、そのとき十三歳、筆を執ってたちまち文を作った。のち大儒蔡邕(さいゆう)がその文を読み、題して、
  黄絹幼婦外孫虀臼
という。                                            黄絹は色のある糸(絶)、幼婦は少女(妙)、外孫は女の子(好)、虀臼(さいきゅう)は辛味を受けるもの(辤・じ)、すなわち絶妙好辤の意味である。この物語は長く文壇の逸話となっている。謝畳山が読んだのはすなわちこの邯鄲淳が記した碑文である。曹娥は身を殺してついに父の屍を得た。謝公は国がすでに滅んで誰に向かって忠義を尽くせばよいのか。これが謝公が節を屈せずに絶食死を求めた所以であろう。
 明の景泰の時代に諡(おくりな)を文節と賜り、よって祠堂を憫忠寺のそばに設けた。なお文天祥の祠をその受命(刑死)のところに設けたようなものである。祠は文天祥の祠と同じほどの一棟で、中に肖像を安置してある。扁額には題して薇馨堂(びけいどう)という。これは謝公のことをあたかも伯夷・叔斉が周の粟(ぞく)を食わず、首陽の薇(わらび)しか食べず、ついに死んだのに似て、その馨香(けいこう・よい香り、そしてその香りが遠くまで届くこと)は千載(せんざい・千年)たっても香るとの意味であろう。

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