自殺について
「らも」さんのブログで中国の自殺について取り上げていた(森鴎外の「高瀬舟」のような話-他人の手を借りる自殺-がきっかけだった)。中国の自殺の実情についてはそちら(「アラフィフの海外で節約生活」)を見ていただくとして、私なりに日頃思っていることがある。
自殺には社会的要因が大きいことは誰もが認めることだろう。また病理的要因による自殺もある。これらは防ぐことも可能であったとして、マスコミによりしばしば犯人捜しが行われる。
また尊厳死という死に方がある。自死であることもあるし、医師など第三者が関与することもある。私はこの尊厳死を支持する。
西洋ではキリスト教が自殺を自らに対する殺人として否定するので、現代は自殺を西洋的視点から否定的に見てしまう(しかし考えてみるとキリスト本人は自分が死ぬことから逃れようとしないのだから、ある意味では尊厳死であり、極論すれば人の手を借りた自殺でもある・言い過ぎか)。アジアには(そう括ってしまうのも乱暴だが)本来はそういう見方よりも、人生でもっとも重い自己決定としてのとらえ方があったように思う。
人間は必ず死ぬ。かけがえのない、限られた生を全うするべきである、という考え方をもとに、自殺を否定するという考え方もあるし、また限られたかけがえのない生をより見事に生きるために、価値が損なわれて生きるに値しないと思える余生を自分で断ち切るという考え方もあり得るわけである。
私は江藤淳にそのモデルを見た。同じような例がいくつもあるだろう。
私はよりよく生きるため(死ぬためではない)に覚悟を整えていくことこそ晩年の目的と考えている。
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