「清末見聞録(清国文明記より)」・北京近郊の名勝・十三陵⑤
昔はさぞやと思わせる広大な大理石造りの橋が今は壊れているのがある。川は水が涸れているから直ちにこれを越え、十数町にして長陵に達する。正門よりここまでおよそ十五清里ある。馬を下りて門衛を呼び、門を開けさせて廓内に入る。域内は昔ながらに松柏が鬱然としている。右に牌楼があって順治帝が陵墓の修理を命じた上諭を満漢文で刻し、裏には乾隆及び嘉慶帝の謁明陵八韻を刻してある。これより稜恩門を過ぎ、稜恩殿に上る。殿は東西三十余間、南北十五間、殿中に三十二本の柱がある。その柱は大きさ二抱え余りあって高さは五丈余り、皆楠の木で石のように堅い。中央に明成祖文皇帝の神位がある。殿の後ろからまた小門を過ぎると成祖の陵である。煉瓦で高く築いた上に碑を立てて題して 大明 成祖文皇帝之陵
という。その後ろは円丘で上には楡の木が叢生している。これが成祖が葬られているところである。陵の上に立てば天寿山脈ははるかに西に走って居庸の険に連なり、石人石獣はさながら豆粒のようである。想う、昔燕王はその声望海内を圧し、ついに天下を簒奪し、碩儒(せきじゅ・立派な儒者)方孝孺(ほうこうじゅ・洪武帝、建文帝に重用されるが、燕王(のち永楽帝)の挙兵に抵抗してとらえられる。永楽帝即位の詔書を書くようにいわれたが拒絶したため処刑された)を殺し、拭うべからざる汚点を青史に垂れたけれども、いわゆる逆取(不正な方法で天下を取る)順守(武力で取ったものを文徳で守る)で、永楽十九年都を北京に移して天下の面目を一新し、励精治を図り(政務に励んだ)、海内晏如(天下を平和にして)民をして皆その所を得さしめ、大いに文教を奨励し「永楽大典」を編纂させて長く後生を裨益した。明一代の名君と言うべきである。もし史上にこれに類似し、これを凌駕する人は唐太宗だけであろう。今や祀絶えてすでに久しく、目を挙げれば山河は依然として昔通りである。今昔の興亡、その感慨に堪えられようか。
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