「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・泰山③
今私は泰山の絶頂に立って四方を睥睨して見るに、劫初の風(ごうしょのかぜ・この世が始まったときの風)が雲を吹き霧を起こし、混沌濛々(もうもう)さながら天地が未だ剖(わか)れる前のようである。もし晴天であれば東には日観、西には秦観、南には越観の諸峰があり、東南の方角、眼力つきるところはるかに瑯琊の海を望み、正北に隠々一抹の青黛の如き太行山を見、諸水縈紆(しょすいえいう・たくさんの川が曲がりくねり)帯のように流れるのを見るであろう。孔子ではなくとも真に天下を小とする気概がわいたであろう。折悪しく雨降り霧開かずしてこの大観をほしいままにすることはできないのは遺憾であるが、雨を冒して絶頂を極めることができたことは幸いの極みである。昔は斉の管仲曰く、泰山に封し梁父に禅するもの(泰山に封禅したもの)七十二家と。そうしてその経に見えたのは堯典が始めである。堯は位を舜に譲り、舜は代わって天子になるに及び、その年の二月、東巡して岱宗(たいそう)に到った。岱宗はすなわち今の泰山である。故に賽客(さいきゃく・お参りする人)は今も二月を以てこの山に登る。秦・漢以後封禅(ほうぜん)を云う者は必ず泰山に封じた。泰山は五嶽の宗(中心、大元)である。故に山麓から絶頂まで約四十里、盤道石径新たに修めたようである。
帰路に就く。盤道急転直下、雨に濡れて滑ることはなはだしいけれども、駕籠かきは巧みにこれを降りていくこと飛ぶが如し。中天門に到れば下界はすでに晴れている。泰安より汶水(ぶんすい)に到るまで眼下にはっきりと見える。古龍泉観の辺りから左に折れ渓流を渡り、五町あまりで石経峪(せっけいこく)に到る。けいりゅうのちゅうしんに当たって山骨が露出している。その幅員が約三十間あるのに経文を刻してあるが、過半は剥落してわずかに小部分が残っている。この石経はいつ刻されたかは定かでないが、たぶん北魏時代のものであろう。字体は古雅なので好事家は多くその拓本を珍蔵しているという。傍らに高山流水亭がある。題して曰く
晒経石上伝心訣 無字碑中写太虚
ここから往路を辿って、午後五時に帰寓した。
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