「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・歴山
済南に到着した翌日、内堀君と同夫人、ご子息の太郎君、秋田、上田、井出君らと共に歴山に遊ぶ。夫人は駕籠に乗りその他は皆車に乗る。昨夜遅く灯火の下に見た市中も、白日の下に見ると、思ったよりは清潔である。目抜きとも云うべき街には老舗が軒を並べて商況すこぶる活気がある。しかし市街は極めて狭くて車を並べて走らせることができず、行き遭うときは互いにぎりぎりでようやくかわすことができる。路面はきっちりと隙間なく石を敷き詰めてあるが摩滅がひどくて凸凹が甚だしく、うっかりすると車から投げ出されることがある。小車という一輪車に男子はもちろん盛装した夫人などが乗っているのは一奇観である。屋根を葺くのにわらを用いているのをこの地で始めて見た。
南門を出ると歴山は眼前に聳えている。山腹に寺院があって岩窟ないに多くの仏像が刻してあるので千仏山ともいう。老檜が林立した得がたい霊場である。高楼に上がると済南城は脚下に見え、右手には武備学堂、警務学堂、左手には商業学堂博物館が見える。左手の方に遠く数里の外に一帯の砂漠のように見えるのは黄河である。濁流滔々ほとんど赭土色であるから、もしその上に浮かんだ白帆がないならば、誰もあれを黄河と思うものはあるまい。山頂には奇巌が屹立している。古の帝舜はかつて歴山に耕したと伝えられる。故に俗にこの山下を舜の耕したところと云うけれども、歴山と称するものは全部で四つあり、一は河中、二はすなわちこの地、三は冀州(きしゅう)、四は濮(ぼく)の雷沢(らいたく)である。舜の古跡は濮州雷沢の辺りなりと宋の羅泌(らひつ)の「歴山考」に説いている。
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