「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・泰山②
また行くこと数里、檜樹(かいじゅ・ひのき)が少なくなり松樹が多くなる。ここへ来た者達が岩を削って字を題している。あるものは造化鍾(あつむ)神秀といい、若登天然という。従善如登などはあまりに儒臭を帯びてむしろ不快に感じる。水流雲在などがこのような山水秀霊の地にはふさわしいと思う。懸崖があり、滝が懸かっている。題して太古清音という、実に天地開闢の初めから同じ声韻を伝えてこの瀑布は鳴っていたのだろう。橋を渡って黄峴嶺(こうけんれい)に到れば二本の大きな松の木がある。それぞれ一抱えもありその形は傘を広げたようである。名にし負う五大夫松というのがこれである。昔秦の始皇帝がこの地に遊歴して雨に遭いこの松の蔭に雨宿りして封じて五大夫としたと伝えられている。それ以来二千余年、当初の松はもちろん朽ちたのであろう、その後幾度か同じ形の松を植え継いで名勝を残しているのである。この辺りをまた御障巌(ぎょしょうがん)というのは宋の永定年間に御幸を止めたからである。また上ること数里、朝陽洞がある。前峰がそびえ立ち老松が多い。これより上り坂はますます険しくなりいわゆる十八盤の険となる。挙足騰(のぼる)雲の感がある。後人は前人の履底を見、前人は後人の頂を踏むとは真にこのことである。上から鉄鎖を下げて登攀に便利なようにしてある。そんなところなのに駕籠はこの難所を登っていくので、我らは駕籠の上からはらはらするばかりで、自分で歩く方がいくらか気安いかもしれない。この要害を過ぎると南天門である。門柱に題して、
開闢九霄仰歩三天勝蹟
階崇万級俯臨千嶂奇観
という。顧みれば雲は深く咫尺を弁じない(しせきをべんじない・わずかな距離なのに識別ができない)。上に三、四の人家があるのでここで小休止して昼食を採る。一里あまりで碧霞元君の祠があり、さらに一里あまりで東嶽廟がある。有名な摩崖碑はこの東学廟の後ろにある。すなわちその名の示す如く懸崖を摩して紀泰山銘を刻してある。唐の開元十四年九月十二日の建造で、高さは約三丈、隷字を以て書し一字の大きさ約五寸、筆勢飛動するが如し。真に一偉観である。また登ること数丁で玉皇廟がある。すなわち泰山の絶頂である。廟前に無字碑がある。高さおよそ二丈、秦の始皇帝が建てたものと伝えられる。碑面には一字も刻していないから、これを無字の碑という。碑は花崗岩であるが年数を経ること久しく、刻した文字は空しく風雨に消えたのではあるまいか。
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