「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・芝罘
眠りから覚めて起き出すと、左手には渺々たる黄海の波雲に連なり、右手には山東の連山が夢のように淡く見えている。やがて見えてきたうち連なる島は廟山列島である。それよりさらに幾時間、百九十海里の航海を終えて、五日正午芝罘(チーフ)に着いた。湾内に停泊している汽船の過半には旭日旗が翩々(へんぺん)として翻っている。船舶の数はそのままこの地における我が国の勢力を示すものであるから、その大多数であるのはすこぶる人意を強くするに足りるものであると思った。
湾は烟台(エンタイ)半島とその前面に横たわっている芝罘島との間にある。それでこの地は芝罘の名で知られているが、実は烟台といわねばならない。秦始皇二十八年、秦の始皇帝がこの地に巡守(巡狩と同じ意、天子が諸国を視察すること)して石に刻し、三十七年再びこの地に来て巨魚を射たことが「史記」に見えている。そしてその当時の石碑が近年までこの芝罘島に立っていたのだが、ある県知事が、大官たちがしばしばその石碑を見に立ち寄るのが煩わしいといって海中に投じたのだという。
上陸して愛国亭に投宿して服部博士の紹介状を携えて小幡領事を訪ね、山東游歴の志を継げて紹介の労をお願いした。我が領事館は烟台半島の一角にあり、直に芝罘口に望み眺望絶佳である。挨拶を終えて市中を一見し、ドイツ紹介で芝罘から青島行き切符を求めたが、二等で十五弗だった。
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