「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・済南府
八日より十二日まで私は同郷の内堀君を頼りに山東を訪ね歩き、その間あるいは済南の風俗を視察し、あるいは時の巡撫・楊士驤(ようしじょう)氏に面談したが、楊氏は私が山東遊歴のために特に護照(フチャオ)すなわち旅行券を発行し、あるいは曲阜における孔子の後裔に紹介の労を執り、あるいは沿道の地方官に電報を打つなどして至れり尽くせりの便宜を図ってくれた。その好意には感謝にたえないが、これも皆内堀君の周旋のたまものであった。
済南府は春秋の頃は斉の歴下の地で、すこぶる枢要のところであった。今の府城は唐・宋以来の旧址で、明の洪武四年改めて煉瓦を以て築いた。内城及び外廓の二城壁があり、周囲十二里余り、高さは三丈二尺、厚さ三丈である。四門あり、東を済川(せいせん)、西を濼源(れきげん)、南を歴山、北を会波という。今済南に来たついでを以て私はここに山東の形勢と山東人について一言申し述べる。
山東は泰山、瑯琊(ろうや)山の山脈が経となり、緯となって、全省丘陵が起伏している。博山(はくさん)の石炭やその他幾多の農産物が無いわけではないが、山東は一体に山国だからその産物は全省の民を養うには足らない。そこで昔斉の管仲などは非常に産業に注意し、商業を奨励し鋭意富強を図ったので、その勢いは一時天下に覇を唱えるに至ったのである。あたかも上杉鷹山公が米沢のごとき山間の痩せ地にあって、非常に産業を奨励したから、米沢の富を増進したようなものである。管仲の遺風というわけでもあるまいが、山東人は天与の恩恵を受けることに乏しいから、かえって反発心を起こさせるものと見えて、一体に進取の気性に富みもっとも商業に巧みである。北京・天津における有力な商人は多くは山東人である。満州における中国人は多くは山東出身である。馬賊の大部分も山東人である。山東人は体質も強壮かつ偉大で、直隷・河南や江南一帯の漢人とは大いに相違があると思う。
山東から北京までは黄河を渡れば何の険阻もない、斉人が昔燕の患いをなしたのはもっともである。そうして江南一帯の米穀を北清に輸送する大運河は、山東全省を貫通しているから、もしいったん敵が山東に拠ってこの大運河を扼したならば、鉄道が貫通し、海運の便の開けた今日と違い、昔時にあっては北清一帯は直ちに飢饉に苦しまねばならない。元・明の如く都を燕京においたものが、極めて山東を重視するのはそのためである。
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