「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・曲阜聖廟②
聖廟は古の闕里(けつり・地名)の地すなわち孔子の古里にある。後漢の元和二年、天子が魯に行幸して孔子を闕里に祀り、爾来伝えて今に至る。廟は曲阜城南門に当たり、金声玉振坊を入れば左右に下馬碑があり、櫺星門(れいせんもん)を入り太和元気坊に到れば東門には徳侔(ひとし)天地と題し、西門には道貫古今と題している。さらに至誠坊、聖時門を入れば、東を快覩門(かいともん)といい西を仰高門という。また、弘道、大中、同文等の諸門を経て、右に衍聖公斎宿所、左に有司斎宿所がある。奎文閣を入ると、唐、宋、金、元、明、清の諸朝の碑亭が軒を並べて立っている。その東に毓拝門(いくはいもん)、西に観徳門がある。私たちは馬を下りて観徳門から聖域に入る。金声玉振坊からの幾重の諸門は天子臨幸の時でなければ、常は決して開かない。廟域中は老檜古柏が鬱蒼として繊塵(こまかいちり、わずかなちり)をも止めない。大成門の東西に金声、玉振の二小門がある。金声門を入れば、門内に一株の古柏があり天をついている。これは孔子の手植えであるという。廟庭の中央に杏壇(きょうだん・そもそもは孔子が教授した遺跡、一般的には学問を講ずるところ・足利学校にもあった)がある。孔夫子道を説き給いし処と云われる。杏壇のことは荘子の書に書かれているが、本当にそこが杏壇だったのだろうか。あの古柏老幹もたいしたものだが千年以上経っているとも思えないが、しかしあの古柏とこの杏壇をうち仰いでは孔夫子の名残があるかと感じられて尊い。歩いて東の階段から上る。大成殿は輪焉(りんえん)たり奐焉(かんえん)たり(併せて建物が立派であることを表す言葉)、荘厳典雅を極める。楣間(びかん・廂の間)に扁額あり、題して生民実有という。鞠躬如(きっきゅうじょ・腰をかがめてかしこまる)として堂に上れば、正面には聖人がおられるではないか。玉冠を戴き袞龍(こんりゅう・天子の礼服)の御衣を着して端座し給い、眉目の間には無限のじん埃を表し、口には笑みを含み、諄々として教えを垂れ給うが如し。覚えず頭を垂れると聖霊髣髴として咫尺の間に来格し(すぐ目の前に孔子が現れたような気がする)、視ずしてその神を見、聴かずしてその声を聞き、ささやかなこの小躯は直ちに偉大なる聖霊に摂取され、恍惚として自分を忘れ、そして周りの人も見えなくなった。
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