阿部謹也著「『教養』とは何か」(講談社現代新書)
この本は先般紹介した「『世間』とは何か」の続編である。実は二冊同時に購入して、先にこの「『教養』とは何か」を読んだ(十年ほど前か)。恥ずかしながら半分以上が分からなかった。何しろここに書かれていることが何で「教養」とは何か、という表題に関係しているのかが分からない。「教養」がおとしめられ、馬鹿にされる今の世の風潮に反発を感じていたところで、さて「教養」とは何だろうかと思っていたのでこの本を選んだのに。
今ならこの本の言いたいことの半分くらいは分かる。そしてこの本は「『世間』とは何か」を読んでからでないとほとんど理解することは困難だ。ほとんど世間についての言及に終始しているからだ。そして最後の最後でなぜ世間と教養がリンクするのかが明かされる。
過去、世界には個人という意識は存在しなかった(とこの本は語る)。近代以降、個人というもの、アイデンティティーという考え方が獲得されたために、そういう考え方が存在しなかった時代の人々の意識については想像することができなくなっている。それ(個人が存在しなかった時代の人々の意識)を理解するためには『世間』とは何か、ということを知らないといけない。というわけで前作が書かれた。
そして現代は社会と世間という二重の囲いの中で個人が生きることになった。過去、個人は世間と融解していた(というより不可分だった)。個人と世間が明快に分離した西洋社会と、未だに分離が曖昧な日本社会を対比させながら、社会と個人との関係を見直さないといけないというのが著者の考えだ。
教養とは世界観だろうか。西洋では(今では日本でも)個人が個人として教養を持ち、より完全な個人になることが理想とされてきた。教養とはそのような目的で獲得すべきものだった。しかし著者は次の段階を模索すべき時代が来たことを宣言する。
著者がこの提言をこの本の結論で挙げたときには、著者は全く想定していなかっただろうが、まさに現代のインターネットの時代の知のあり方は、ある意味で著者のいっている、あるべき状況そのものではないだろうか。私のこのブログでの意見表明もまさにそのようなものである。
ちょっと格好つけすぎか。でも読み終わったときよりも、この文章を書いてみてからの方がこの本に書いてあったことが理解できたことに驚いている。やはり読みっぱなしでなく、考えてまとめてみることに意味があることが分かって大変満足している。
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