「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・張夏
さて、一切の用意が整ったので内堀君に熱く謝辞を述べ、十三日午前九時、二頭立ての馬車に乗って済南を出発した。二頭立ての馬車と云えば馬は龍の如く車は漆塗りの金紋付きで、峨冠繡衣(高い冠ときらびやかな衣装)の大臣大将、帝都の大道を疾駆する様を思い起こさざるを得ないが、当地の馬車はもちろん中国馬車で、一言で言えば大八車の上に蒲鉾形の箱を載せ、その被いは浅黄色の布であって、雨に濡れ、砂に汚れている。主人は車の中に座し、轅(ながえ・馬車の前方に突き出た長い棒)の左に御者、右に従僕が乗る。私は内堀君の雇っている中国人を借りて従者とし、私と同行する飯河道雄君は内堀君乗用の白馬を借りてこれに騎乗した。
西関を出て城外に出れば、気も心も空と共に晴れ渡った。道は歴山の西に通じ三間幅の大道である。所々に重修大道の碑が立っているが、ことごとく破損して砂礫が磊々(らいらい・石がごろごろしている様)としているから、バネ無しの馬車は特に振動が激しく、うっかりすればたちまち頭をいやと云うほどぶつけてしまう。馬には代わる代わる乗ることとしたので、飯河君は三回、私は一回頭をぶつけた。十二時黄山店に到り、饅頭、卵及び粟粥で昼食とした。行き会う小車に載せた貨物は麻が最も多い。これは泰安地方から出るとのことである。午後六時張夏に到着した。行程八十清里(約32キロ)。宿には門の対聯に
昨馬先揮祖逖鞭 聞鶏輙舞劉琨剣
なんぞとえらそうなことを書いてあるが、実に不潔極まるもので、今日初めて中国内地旅行をしているのを実感した。宿の有様は十三陵の項に詳しく書いたから今は省略する。ただ北清ではどこにも炕(カン・オンドルのように床下に火を入れて暖めるもの)があるが、山東では炕の代わりに寝台を用いる。それだけ気候が暖かい。
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