「清末見聞録(清国文明記より)」・北京近郊の名勝・万里の長城①
その名が世界にとどろく万里の長城を一目見ようと同志を募ってたところ、小林学士、及び三井からの留学生、都築、鈴木、松本の三君が集まり、明治三十九年八月十日を期して出発することに決めた。旅具の準備は先般明陵に行ったときの経験により、白米五升、パン三斤、大和煮及び福神漬け各三個、醤油一瓶、砂糖一斤、茶一缶、ウィスキー一本、洗面器、鍋釜、茶碗、箸、匙、マッチ、蠟燭等を購入し、その他寝具として各自毛布を携帯することとする。馬はボーイに命じて雇い入れさせ、一日一匹八十銭と決まった。
十日払暁、床を蹴って起き出せば軒端に雨垂れの音がして雲は低く垂れている。食事が終わる頃には幸いに雨もやんだので勇んで出発した。馬の数は全部で六旗、騎乗するものは五旗で、大行李を載せるものが一旗、馬夫二人がこれに従う。徳勝門を出て元の土城を過ぎ十五清里で清河に達する。これから右に折れれば湯山街道で、長城へは左に行かなければならない。さすがに昌平州、南口を経て蒙古への大道であるから、往来の旅客が絶えない。北京への貨物は獣皮が最も多いようであった。また三十清里で砂河に到る。砂河城は昔のままに今も大道の東にあるが、城中にはもはや家屋は一軒もないとのことである。宿の出外れに大理石造りの一大橋がある。名付けて朝宗橋という。明の万暦年間の建造で規模がすこぶる雄大なものである。ここは北京から十三陵への大道だから明代では歴代の天子もしばしば臨幸されるので、かくの如く堂々とした橋を架けたのであろう。これよりまた十里にして右へ行けば昌平州に入り、左に行けば南口に通じる。清の人が一人同じく騎乗して後になり前になりしていたので目礼を交わす。また行くこと二十里にして西方一帯の山脈がいよいよ近くなり、はるかに高粱の穂末から西嶺の上に蜿蜒たる城壁を望み、あれこそ万里の長城であろうと、皆々同じ心に勇み立ちしきりに馬を急がせた。小河を渡り村落を過ぎ小高い丘の上に立つと、北シナの平原が眼下に広がっていて、一条の鉄路が南から北に通じ、たまたま汽車が三、四両の貨車を引いて北へ走っていくのが見えた。これは北京から北の方張家口まで行く京張鉄道で、このときはちょうど工事中であった(今はすでに張家口まで通じている)。これより龍虎台を過ぎ、日もようやく暮れかかるとき、南口城に達した。先に長城であろうと思ったのはこの南口城であった。
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