「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・泰安府
十四日午前六時に張夏を出発した。残月が高く楡樹の枝に懸かり、暁風が袂を払ってすこぶる壮快である。村を出ると一筋の川が山の間から流れ出ている。右の山は形が冑のようで、左手の山は岩石稜々、所々に虧隙(きげき・虧は欠けていること)が有り、風雲を呑吐している。青楊樹村の辺りは柳が多い。金岑関(きんしかん)、湾徳、長城等の村落を経て墊台(しつだい)に到り休憩した。これよりようやく山道になり、到る処に岩石が露出して、馬車はほとんど転覆しそうになること数回、頭はむろん何回となく打った。耿義亭(こうぎてい)に到れば泰山はすでに左手に見える。全山岩石である、詩にいわゆる「泰山巌々」とは虚言ではない。山麓を右へ、泰安府に入り午後四時半に徳昌号に宿泊した。この日の行程百里。
ここも済南と同じく府であるが、済南が全省の首都でこちらは一府の首市であるにすぎないから、その規模の大小、商売の繁閑はとうてい同日の談ではない。しかし塵土少なく街上清潔である。衙門にいたって知府に面談した。庭上草茫々、白洲は一段高くなって、この府の民事刑事一切の判決はこの公廷で行われるのであるが、何事だろうさながら乞食のような賤夫が炕席(カンシー)を公廷上に敷いて眠っていた。時の知府は玉構氏といい六十余歳の好人物である。衙役等は主客各一椀の茶を持ってくる。話が終わって辞するときは主客共にこの茶を飲むのが礼である、茶を飲むのはすなわちもう暇を告げると云うことと同じである。かねて巡撫からの通知があったので、当時知県は留守であったが、敷物、簾、茶碗、燭台の類いを送ってきた。
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