「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・膠州湾
六日正午ドイツ船提督号に乗り込んだ。この舟は天津・上海間を通っているのである。同船のウチにんめいの宣教師は英国人であったが、皆弁髪を垂れ中国服を着ている。これは中国人の拝外思想を融和しようというのであろう。彼らは日本の智慧板(三角形や四角形台形平行四辺形などの板を組み合わせたもの、組み合わせでいろいろな形を作る)をもてあそんでいた。たぶん天津で買ってきたのであろう。日は船中に暮れて明ければ七日、船はすでに山東の角を廻って南下している。この辺り一帯の山脈は全く不毛の地で、山骨が露出して頂は鋸の歯のようである。所々に島嶼が散在している。名にし負う田横島はこの辺りである。昔漢の高祖が長鞭を振るって天下を御したとき、斉の田横は節を折って高祖に拝趨するに忍びず、東海の中に逃れついに自刎して死んだ。その徒五百人が皆この島で殉死した。故に名付けて田横島というとのことである。アア昔はかかる気節を尚ぶ(たっとぶ)人もいたのである。
やがて青島がすぐ目の前になった。膠州湾はたとえば囊(ふくろ)のようで、膠州はその嚢の底にあり、ドイツ疎開の青島は嚢の口の右端にある。今我が船はその嚢の口を入り右に折れて桟橋に横付けとなった。時に午前十一時である。ここに上陸して青島で唯一の日本旅館松森に投宿した。
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