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2012年3月12日 (月)

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・山東鉄道

 青島から済南府まで山東鉄道が通じている。むろんドイツの経営である。済南まで二等運賃七弗二十セントである。私は銀塊のほか、主に香港弗を持っていて、メキシコ弗は嚢中ただ六弗と少しである。それなのにここでは香港弗は通用しないというので、ハタと当惑したが宿のものの世話で取り替えてもらって、ようやく車中の人となることができた。車中は宣教師の一群のほかは皆中国人で、私を珍しがって一時英語と中国語の包囲攻撃を受けたが、中国人の例によってまず戸籍調べから始まり、我が国についての愚問、果ては私の服を手にとって、露骨にもこれはいくらぐらいしたものだ、などとうるさい。しかし彼らは失礼だなどとは思っていないようである。
 昔秦の始皇帝が東巡して登った牢山が右手に見える。今は山の中腹にホテルなどもあって外人の遊びに行くところになっているとのことである。朝七時に青島を出発してから一時間あまりして初めて膠州に着いた。駅の北に大きな西洋風のバラックがあるのは、ドイツの兵営跡で今は学校に用いているという。高密、濰県(いけん)を経て青州に至る。いにしえの斉の都はこの北方数十里のところで、今も臨淄(りんし)と呼んでいる。孟子が斉の宣王に説いた雪堂の跡や、牛山などもその地にあるとの話であったが、ただ遠く想像するばかりである。王村の右手に一帯の山脈が見えるのは長白山である。この山については面白い伝説がある。「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」に曰く
    桑門恵霄(えしょう)と云う者この山中を通るとき、打ち叩く
    鐘の声が聞こえたから声を辿りて尋ね行けば、荘厳の一寺があ
    る。訪ねて食を請えば一人の沙弥が桃を与えた。これを食いて
    話するほどにまた桃を与えた。さて、貴僧ここに見えてから久
    しくなったはや御帰りあれというので、暇を告げて立ち出れば
    寺は消え失せた。不思議のこともあるものだと思い帰り来たれ
    ば、弟子迎えていずこへ御出ありしか、和尚の出で給いしより
    早二年となったと云ったとのことである。
この話を思い出してかの山を仰げば、満山一樹無く、仙人の住処があるようには感じられない。棗園店(そうえんてん)を過ぎる頃、いにしえの武蔵野では無いが、夕日が草陰に没するのを見る。ちょうど下総・常陸あたりを走るような景色、山東は山国といえども比較的の話で、このように広大な平野もあるのである。午後七時半、済南南東站(とうてん)に到着し、人力車を雇い東門を入り灯の影くらい狭隘な市街を通って、華家井(かかせい)の内堀維文君の家に到着したのは八時であった。高師(高等師範学校)出身の秋田友作、上田芳郎、飯河道雄の三君及びその他二、三の諸君がちょうど居合わせたので思いもかけない和気藹々とした団欒の会合となった。

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