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2012年4月

2012年4月30日 (月)

北村稔著「中国は社会主義で幸せになったのか」(PHP新書)③

 1953年当時の共産党内部報告文書が周鯨文により引用されている。この報告は内務部副部長の王一夫が洪沢湖(江蘇省と安徽省にまたがる湖)付近の農民の生活を視察したものである。
「村に入ると木が一本もない。・・・かまどは屋外にあるが炊事した様子もない。食べているのは滓のような食べ物で、我々が見たこともないような代物である。想像を絶する貧窮である」
 周鯨文は続けて、「1953年はその上に大水害に襲われた。・・・毛沢東は『一人の餓死者も出してはならぬ』と厳命したが、内務部に集まる報告ではどの被災区も大量の餓死者が出ていたのである。・・・しかもこのとき中国は大量にセイロンやソ連に食料を輸出して、ゴムや機械を買い付けていた。そして毛沢東はジス(ソ連製の高級自動車)に乗り、スリーファイブ(外国煙草)をふかしていたのである。・・・現在の農民は古代の農奴より惨めである。・・・農民に依存して天下を取った共産党は、天下を取ると同時に農民を忘れた。しかも我々の政権は恥知らずにも労農同盟を基礎とする、と宣伝しているのである」と伝えている。
 それでもこのときはまだ餓死者は一部の地方にとどまっていた。この後毛沢東の主導のもとに「大躍進政策」(1958年から)が開始される(詳しいことを知りたい人は毛沢東について書かれた本なら必ず言及しているので読んでみてください)。このイデオロギーのみで現実を無視した政策により、農村は壊滅的な打撃を受け、餓死者は少なくとも2000万人、一説には4000~5000万人とも云われる。この未曾有の失敗により、毛沢東は国家主席を辞任し、劉少奇が主席となる。
 劉少奇と鄧小平はこの後国家を立て直すためにそれまでの極端な政策の軌道修正を行い、中国は急激に回復するのだが、これに対して巻き返しのために毛沢東が行ったのが「文化大革命」(1966年から)である。
 では知識人達の運命はどうだったのか・・・次項で述べる。

 「中国農民調査」という本がある。賃桂棣、春桃という夫婦作家が、三年間農村で取材して2004年に出版した本で、出版して二ヶ月で発禁処分を受けている。この本は調査、と題されているが調査報告書ではない。若き毛沢東が1920年代から1930年代に行った「農村調査」を踏まえて名付けられたものである。毛沢東はこの調査によって「大公無私」「大衆路線」「実事求是」の思想を生み出した。個人の利益より公共の利益を優先し、農民の言葉に耳を傾け大衆とともに歩み、事実に基づいてことの是非を判断する、というのがこの毛沢東思想である。それから70年後の農村の実態と農村政策の改革の歩みを描き、現在の問題点を浮き彫りにしたルポルタージュである。前半は最近農村で起きた凶悪事件を詳述し、その事件の背景と当局の処理経過について述べ、農村の実態が「解放前」と何ら変わっていないことを明らかにしている。
 何故この本が発禁になったのか中国政府は明らかにしていないが、政府にとって都合が悪いからであることは明白である。
 何故中国では毎年数万件とも云われる地方での争議が起こるのか、この本を読むと分かる。まだ飛ばし読みしかしていないが参考になる。
日本でも翻訳されて出版されている。出版は文藝春秋、訳は納村公子、椙田雅美氏である。

中国ウオッチ・昔の中国と今の北朝鮮

 40年前(30年前となっていたが間違いだろう)の1972年頃を振り返り、今の北朝鮮みたいだった、と云う回顧記事があった。「もうあの時代には戻りたくない」と結んでいる。
 その頃米中関係の緩和に伴い(1972年ニクソンが訪中、日中国交正常化もこの年)中国に滞在する外国人が激増した。記事によれば、外国人と接触するときにどうするかについて細かな規定が設けられ、暗記させられたそうである。
 当時はデパートは配給券を持たないと買い物が出来なかったのだが、外国人は配給券なしで買うことが出来、同行する中国人はそのときは買い物券なしで買い物が出来た(配給券のシステムがあることを知られないようにしていたのであろう)。ただし外国人がいなくなったら全部返品しなければならなかったという。
 当然外国人との想定問答集もあり、決まった答えや、答えていけないことが事細かく決まっていた。収入などは聞かれても答えてはならないとされていた。ただし「何人家族ですか」という質問には「本当のことを答えても良い」ことになっていた。
 ある老人がたまたま外国人に「何人家族ですか」と質問された。彼は緊張のあまり、問答集に書かれているように「本当のことを云ってもいい」と答えたのだそうだ。

 たぶん北朝鮮もその辺は徹底しているだろう。だから昔中国から帰って、天国みたいなところだったと云う人がたくさんいた。北朝鮮に行って同じことを云う人がいるだろう。

関越バス事故から思う

 関越道のバス事故は連休の衝撃的なニュースであった。状況を聞いているとちょうど防音壁の角に突っ込んだ形になった極めて運の悪い事故だったようだ。この場所でなければこれほどの大惨事にならなかっただろうと想像される。
 原因が運転手の居眠りであったことは運転手自身が認めていることで、これからはバス会社の管理状況などに問題がなかったかどうかが厳しく問われることだろう。格安ツアーと言うことでバス会社、特に運転手に大きな負荷がかかっていた可能性は大いにある。運転前にゆっくり休養をとっていたのかどうかも疑われるところである。

 ところでこの事故から思ったのはデフレの社会的罪悪、ということであった。罪悪とはどのようなものだろう。品質の低下である。とにかく安くなければ売れない、ということで材料を切り詰め、賃金を安くすることでコストを削減し、価格を下げる。当然材料の質も下がるだろうし、賃金が下がることにより、不良率が上がることになる。当然品質が低下することにつながらざるを得ない。
 この格安ツアーもデフレの風潮の一環である。ツアーの品質低下とは何か。安全性の低下である。当然事故の可能性が高くなることにつながる。
 本当に生活に困っている人を除けばここまで安いものを望んでいるわけではないのではないか。ものには適正な原価というものがある。今はその適正と考えられる価格を大きく割り込んだものが当たり前になってしまった。1000円を切るジーンズなどその最たるものだろう。
 適正を著しく欠いた世界はつまり人の値打ちも適正を欠いたものにならざるを得ない。あえて言えば人も安くなければ売れない。そして安くしても売れない、というのが今の日本だ。その質が低下するのは当然なのだ。
 この悪循環、いわゆるデフレスパイラルをどこかで逆回転させないと今回のような事故は再び起こるだろう。そして生活の質はどんどん低下していくだろう。だから危険ではあるがインフレ誘導は不可避なのではないか。
 私たちが出来るのはそれによる物価の上昇を覚悟すること、特に老人は貨幣価値の低下による蓄えの吐き出しにつながるが、それを適正な社会的コストとして受け入れることだろう。今は社会そのものがデフレで品質低下を起こしている。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・光武陵

 河に沿ってくだり、鉄謝鎮の西門を望む頃、南方に鬱蒼とした柏の林が見える。光武陵である。面積およそ二、三頃(けい・面積の単位で一頃は約1.7ヘクタール)、周囲は半壊した土塀で囲まれ、中には高さ五丈ばかりの極めて大きな円錐形土饅頭がある。その南面には東漢中興世祖光武皇帝之陵と題した碑がある。乾隆五十六年、河南府尹(いん)張松孫(ちょうしょうそん)が立てたもの。西側に廟があり、内に肖像を安置している。神道には明・清の御祭祝文を刻した碑が数十両側に林のように立っていて、その東方陵(みささぎ)の壁に近く宋太宗開宝六載に建てた大宋新修後漢光武皇帝廟碑銘があり、これは蘇徳祥奉勅撰。行書で筆力優麗である。石碑の幅は四尺一寸、長さは一丈あまりの豊碑で、後世にこれを保存するために煉瓦で蔽ってある。その向かい側に万暦十九年重修碑がある。昔光武帝が天下を統一した後、建武二十六年に寿陵を営むに当たり、前漢の末に諸陵が頽(す)たれて、文帝の覇陵が一つだけ完全な形に残っていたのに鑑み、勉めて倹素なのに従った。その余徳か否か、今も昔ながらに在って、後人がその遺風を憑弔することが出来る。光武陵の南は北邙山(ほくぼうさん)ではるかに西に連なっている。北邙山頭には隴圃(ろうほ・田の畝)の間に古墳が数知れず累々としている。これは皆古今の名臣を葬ったものだ。今は漢のものか唐のものか分けようもない。暮雲惨然、林野を籠(こ)むる時(夕色が当たりに立ちこめる頃)洛陽に到着し、東関福陞店(ふくしょうてん)に宿泊した。この日の行程九十里。

「考史游記」では午後六時半に北邙山を過ぎ、七時半、洛陽の河南府福陞店に宿す、とある。途中の様子をみて詩が引用されているが略す。

2012年4月29日 (日)

中国ウオッチ・だから?

 中国は躍進を続け国民の生活レベルは飛躍的に向上している。ただそれに伴い格差もそれ以上に広がっているのも事実である。
 現在の中国は、官僚の汚職の蔓延、閉鎖的な教育、増加する拝金主義者、後を絶たない食品問題などを抱えている。
 中国の著名なコラムニストの魯国平氏はそんな現状に対して「官僚の多くが汚職をするような国にまともな制度はない。教育が洗脳であるような国に文化が生存するような余地はない。金銭を信仰する国で健全な人心は存在しない。功利が発展を支えるような国は道徳を持たない。嘘が常識の国に正常な社会は成り立たない。食品問題が普遍的に起きる国で、まともな生活環境は期待できない」という文章を公開した。

 現状の中国を愛するが故に、思いあまって心のたけを表したのだろう。まことにうまくまとめている。このことで当局などから制裁がないように祈る。

 けれどそう言ったからといって何が変わるのか。なるほどそのとおりにちがいないが・・・だから?

引き続きデジタルスキャン

 学生時代から写真を趣味にしていたので撮りためたネガが30数年分ある。デジタルに完全に移行してまだ6~7年だ。現在そのフィルムのデジタル化を続けている。もっと古い、子供の時からの写真もあるが、セミ判というブローニーフィルムの特殊サイズなので今デジタル化する道具を持たない。それにあえてデジタル化するほどの写真もほとんどない。
 以前デジタル化したものもあるが改めて一から再スキャンしている。補正をしながらなので案外時間がかかる。古いフィルムは退色復元をかけ、全てにアイスデジタルテクノロジー(ほこりや小さい傷を分からなくするソフト)をかける。そうすると一コマ4分弱かかるので数百本のフィルムをスキャンするのには気が遠くなるほどの時間が必要だ。補正はおおむね元より良くなるが時にとんでもないものになったりする。そこで改めて編集ソフトで適宜再補正を行う。
 大変手間はかかるが好きなことなので楽しい。自分の時間がふんだんにあることは本当にありがたいことだ。

下に昨日スキャンしたものをあげる。敦煌に行ったときに撮ったものだ。

Img810ゴビ砂漠

Img836古い穀物倉庫の趾

Img851鳴沙山

容量不足

 昨日は張り切りすぎた。一日に8つも記事を書いてしまった。元々あまり働き者ではない、エネルギー容量が大きい方ではないので電池切れ気味となった。それと土日は入ってくる中国のニュースの量も少ない。少なければめぼしいものも当然ない。

 テレビでは一週間のニュースをまとめていろいろ総括をしている。朝から大きなバス事故があったので交通事故に関するコメントが多い。相変わらず交通事故を社会現象のようにとらえて対策を論じているが、事故は事故を起こした人間によるものがほとんどであって、特に子供やひとの列に突っ込むような暴走事故は対策を講じようがない。ガードレールを作ろうが一方通行にしようが道路を広げようが、暴走する人間をなくすことにつながるものではない。とりあえずは犠牲に見合った処罰の整備を最優先していくしかないだろう。ニュースを見ていると実感はないが、酒酔い運転に対して厳罰を処するようになってから酒酔い運転による死亡者は激減していると先日の免許更新の時の講習で聞いた。明らかに問題があった交通事故の加害者には今以上に刑罰を重くすることが死亡事故の減少に最も実効性が高いと思う。

竹添井井著「桟雲峡雨日記」について

 昨日の「考史游記」からの引用で、竹添先生を不肖としたのは私の不肖であった。さっそくに「清国文明記」にも竹添井井の「桟雲峡雨日記」についての言及があったので下に報告する。

 竹添先生、名は漸、字は光鴻、または漸卿といい、通称は進一郎。井井(せいせい)は号である。天保十三年(1842)三月十五日、九州天草で生まれた。父の光強は筍園と号し、広瀬淡窓の門下であった。井井は父から四歳で「孝教」、五歳で「論語」、七歳で「資治通鑑」を教えられたという。井井は慶応元年(1865)漂流したという名目で上海に赴いている。戊申の役の際には熊本藩の参謀を務めており、そのとき勝海舟と知己を得る。その縁で明治政府に登用され、森有礼が全権大使で中国に赴任したときに勝海舟の推薦でこれに随行した。天津領事館勤務から後北京公使館書記官となった。北京公使館の時に公使に願い出て北京から四川への旅に出た。明治九年(1876)五月二日に北京を出発し、保定、石家荘、邯鄲を経て洛陽に入り、さらに函谷関から西安に行き、ここから秦嶺を越えて、南鄭から剣閣へと桟道の難所を進み、成都、そしてさらに重慶に至っている。その後長江を船で下り、三峡を通過し、洞庭湖を見て八月十一日に上海に到達した。
 この旅の旅行記が「桟雲峡雨日記」である。全文が漢文で書かれており、そのままでは普通読めないので、岩城秀夫氏が翻訳したものが東洋文庫に収められている。上記の概略はその本からの抜粋引用である。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・孟津

 下孟渡口(かもうとこう)は俗に白坡口(はくはこう)と云う、いわゆる孟津(もうしん)である。また盟津(もうしん)とも書く。昔武王が殷紂を朝歌(ちょうか)の地で破って征服したとき、これを渡ったのでまた武済(ぶせい)とも云う。唐の安禄山の乱のときに、安禄山が敗れた後、史思明(ししめい)が進んで汴(べん)を陥れてまさに洛陽に迫ろうとした。李光弼(りこうひつ)は洛陽を守るのは困難とみて、軍を河陽に移していわゆる河陽の三城をまもったから、史思明は洛陽に入ったがついに西畿内を超えることが出来ずに関中はことなきを得た。河陽とはすなわちここ(孟津)であって、三城は川の両岸の中州に設けたのである。竹添井々翁(たけぞえせいせいおう)の「桟雲峡雨日記(さんうんきょうにっき)」には中州はすでに湮没(えんぼつ・跡形もなくなくなること)せり、とあるけれども三十年後の今日は前面に二、三の中洲があるのが見える。湌桑(そうそう)の常ならぬ(世の移り変わりの激しいことのたとえ。仙人の麻姑が、東海が三度桑畑に変わったのを見たという「神仙伝」の話に基づく)河の流れ、中州の如きはたちまち生じてたちまち没するのが常なのであろう。後に来た人があるいは私の記した中州が湮没しているのをみておかしいと思うものもいるだろう。ただし下孟渡口の対岸は俗に牛荘(ぎゅうそう)と云い、「桟雲峡雨日記」にある鉄謝鎮(てつしゃちん)より三、四里上流にある。渡し場には形ばかりの小屋を構えて飲食物を売っている。また衙門(がもん・役所)の出張所がある。渡し船の章程(しょうてい・規則)には、
  轎(かごのこと)八百文 霊柩一千文
  重載車毎套三百文    空載車毎套百五十文
  重載小車百五十文    空載小車八十文
  牲口(せいこう)六十文 貨挑五十文
  空行人二十文      空挑二十五文

と規定しているが、今は概して一人六十文、車百五十文を要求した。河岸には二十余反帆を掛けた大型の帆船が数艘あり、渡し船の集まるのを見て船を出す。見渡せば川幅はおよそ二清里、濁流は滔々と矢を射る如く流れて雲に入る。両岸は一帯の丘陵が連亘(れんこう・連なっていること)している。これが自然の堤防になって河水の氾濫を防いでいる。鄭州より下流は一望渺々、堤防を見ず、また丘陵もない。水災は常に下流にはなはだしくして上流にはないのはこのような地勢がしからしめているのである。十二時に乗船した。船頭の気質は何処も同じと見えて、乗客に酒銭を強請して喧噪を極めている。零時半に出帆して一時間を費やして対岸に着いた。

2012年4月28日 (土)

映画「博打打ち 一匹竜」1967年・東映映画

 小沢茂弘監督、鶴田浩二、松尾嘉代、待田京介、中村竹弥、天津敏、丹波哲郎、山城新伍ほか。
 シリーズ第二作の今回は、鶴田浩二は刺青師、相生宇之吉である。わけあって大阪を離れ、東京で修行して名をあげて6年ぶりに帰ってみると師と仰いでいた人物は落ちぶれて針を持つこともなくなっていた。しかもその娘・小雪が松島(大阪の遊郭)で苦界に沈んでいると知り、その楼を訪ねる。小雪は結婚して子供もいるのだが、その子供が高熱で寝込んでいるという知らせが入る。しかし廓を出ることは掟によりかなわない。それを聞いた宇之吉は、廓の女将(松尾嘉代)に何とか掟を曲げて子供に逢わせて欲しいと頼むが、頼んでいる最中に小雪は耐えられずに廓抜けをしようとする。行きがかり上宇之吉はその責任を引き受ける。
 今回の悪役は鬼若(天津敏)というやくざの組長(ここでは代貸しのような地位だが大阪では組長と云っているようだ)で、その親分は中村竹弥である。
 いろいろ行きがかりがあって小雪の身柄を引き受けた宇之吉を陥れるため、小雪は拐かされて四国の琴平に売り飛ばされてしまう。それを突き止めた宇之吉は四国へ飛ぶ。仲介に入った四国の親分(丹波哲郎)の計らいで何とか小雪を助け出した宇之吉は、身の証を立てるため再び大阪へ戻る。それを阻止しようとする鬼若によって宇之吉の弟分の待田京介は惨殺されてしまう。
 クライマックスは刺青(大阪では我慢という)大会(だから我慢大会)である。実は鬼若の兄は大阪で一番という彫り師なのだが、宇之吉の師を陥れたのはこの兄弟だったのだ。宇之吉の背の彫り物は師の彫った「一匹竜」、これが優勝となり、師も現役復帰する。大阪の親分・中村竹弥と四国の親分・丹波哲郎の前で鬼若は逃れぬ証拠を突きつけられて追い詰められる。逆上して斬りかかる鬼若に対し、二人の親分の許しを得てついに宇之吉は鬼若を成敗して大団円である。親分の娘・松尾嘉代の「待っているわ」の言葉に頷く宇之吉、「正当防衛だからすぐ帰ってこられるぜ」と丹波哲郎が言えば「証人はいくらでもいる」と中村竹弥がつけくわえる。めでたし、めでたしであった。

 我慢大会に本物の刺青を入れた人たちがずらりと登場する。本物のすごさである。こんな機会はあまりないから自分の刺青が見せられて自慢そうでうれしそうである。

カモは再び

 詐欺に引っかかる人のブラックリストが闇の世界で高値で売買されているそうだ。一度詐欺に引っかかる人は再び引っかかる確率が高いからで、中には三度も四度も引っかかる人がいるらしい。

 民主党の小沢元代表が、街頭演説で「民主党は初心を忘れてはならない。二年半前に国民に約束したことを思い出せ。国民の生活を最優先にする党にもう一度戻ろう」と力説していた。

 二年半前に国民は民主党の夢のような約束を半ば疑い、半ば期待して、自民党とは違う何かがあるのではないかと思って民主党を政権党として選んだ。結果はどうだったのか。役人天国は自民党の時よりひどい。デフレで普通の国民は生活レベルを下げざるを得ない中で役人は寒風に当たらないように守られている。そして政治主導といいながらほとんど官僚の言いなりだ。そして事業仕分けに至ってはただのパフォーマンスで、実行の成果がほとんど見られない。

 だから小沢元代表は云っているのである。民主党は間違っていた、初心に返ってやり直すからもう一度指示して欲しい(今度は自分が先頭に立つから・・・とここまでは云っていない。今に云うだろう)。これを聞いてもう一度引っかかる人は詐欺にもまた引っかかる人ではないのか。本当にうまいことを言うものだ。

晴天

 巷は本日から大型連休だ。テレビで高速道路の渋滞のニュースや海外へ出かける人たちの姿が映し出されていた。こちらはもっと大型連休中である。何せ特に用事のないとき以外はずっと連休である。
 それにしても外は快晴、出かけないのがもったいないような陽気である。いつも連休と云えば息子を連れて両親のところへ行った。我が息子に会うことを親父がことのほか喜んでいたのだ。昨年のゴールデンウイークに息子を連れて行ったのが最後になった。息子もそれが分かっていたからわざわざ広島から我が家に帰り、そして千葉まで同道してくれていたのだが、今年は各自思い思いの行動だ。
 しかし出かけるのが当たり前の陽気に、ひとりでぼんやりと家にいるのも思えば贅沢なことだ。その贅沢ついでにさわやかな風に一杯やりたいところだが・・・夕方まで自重することにしよう。

 連休明けに父の一周忌である。

映画「博打打ち」1967年・東映映画

 小沢茂弘監督、鶴田浩二、待田京介、若山富三郎、小池朝雄、山城新伍ほか。
 映画「博打打ち」はシリーズになり、全部で11本作られたがこれが第一作である。
 大阪の飛田遊郭が舞台の任侠映画である。遊郭を縄張りとしている黒田組と、流れ賭博師の海津銀次郎との争いがクライマックスとなるが、そもそものきっかけは廓の旦那(山城新伍)が博奕にのめり込んで借金を重ね、ついに自分の楼を黒田組に召し上げらそうになって、賭場で見かけた銀次郎に助けを求めたことにある。一度は借金の不足分を銀次郎に都合してもらったものを性懲りもなくまた賭博に入れ込んで、ついに楼は黒田組に獲られてしまう。それまで必死に駄目な旦那を支えて廓を切り盛りしていた女将はついに力尽きて自死してしまう。なんとか銀次郎や周りの人の助けで葬式をあげ、銀次郎に二度と博奕はやめろと諭されるのだが・・・。
 その後信じられないほどに性懲りもなく、なんと集まった香典を元手に賭場へ行こうとするのである。ここではあまりのことに見ている方も腹が立ってくるのだが、その狂いようを山城新伍が絶妙に演じている。面倒を見るよう指示されていた銀次郎の弟分(待田京介)は情にほだされて禁断のいかさまの札を使って助けようとする。もちろんうまくいくはずもなく見破られてしまうのだが、その落とし前を銀次郎は平然と引き受ける。
 物語はエスカレートしていき、ついには黒田組の代貸し(若山富三郎)の暴虐な仕打ちについに銀次郎が牙をむく、というところでクライマックスとなる。

 映画全体の三分の一くらいが手本引きという花札賭博のシーンである。その手さばきの鮮やかさと、手を読まれないための無表情のなかのわずかな表情の動きが緊張感とともに描かれている。
 映画の冒頭が小池朝雄の胴師(博奕の親役)によるシーンから始まるのだが、その仕草とその手元を見つめる鶴田浩二の眼とともに、その緊張感は美しい。
 期待以上に面白い映画であった。
 ところで任侠映画の女性は西部劇の女性と同様虫けらのように扱われ、男同士の愛が最優先されることを改めて発見した。

文人墨客

 文人墨客にあこがれがある。ちなみに文人墨客の資格として
  詩を作る
  文を作る
  書を書く
  絵を描く
  篆刻をする
 この五つに優れていなければならない。
 残念ながら何一つ優れているものがない。特に詩と絵については今のところ手を出す気がない。文についてはこのささやかなブログで文章の練習をしているつもりだ(練習文をお読みいただいて申し訳ない)。
 これからやりたいと思っているのは書と篆刻である。昔、若干は囓ったことがある。子供達の学校で使っていた書道の道具を引っ張り出して丁寧に洗い直した。お手本も王羲之や顔真卿の拓本を用意しているのでいつかその気が高まるのを待っている。
 篆刻もやる気は十分ある。十年くらい前から中国や台湾に行ったときに石を買いためているので今7~8個はある。今買おうかどうか迷っているのは本格的な篆刻刀だ。せっかく買っても使わないおそれもある。石なら眺めたり触ったりしてそれなりに楽しめのが篆刻刀は下手にいじったら怪我をする。また、石を机に固定する小さな万力も必要だ。専門店に見に行ったりしているが未だに眺めるだけに終わっている。篆刻用の辞典と有名な篆刻の印例集を持っている。始めるならまず蝋石のような柔らかい石で普通の彫刻刀で練習すれば良いのだが、それもまだ手をつけていない。
 結局あこがれの文人は遙かな高みにあって一歩も近づいていないのだが、ため息をつきながら、いつかは私も、と思っている次第である。

ごてあらポー

 ごてあらポーなどと突然云われても何のことか分からない人もいるだろう。「御殿場粗挽きソーセージ」のことだ。アニメと実写を組み合わせたコマーシャルが流れている。「粗挽き、挽き、挽きごてあらポー」と歌う。アニメは下手ウマ風の愉快な絵であり、女の子と男の子二人が歌に合わせて振りをする。その実写の女の子がかわいい。
 とても印象に残るかわいい子なのだが、アニメが強烈なので気がついていない人も多いかもしれない。かわいいと云っても小学生3~4年生くらいだから美少女タレントと言うほどのものではない。
 ただそれだけなのだがこのコマーシャルが流れるとつい見てしまう。

北村稔著「中国は社会主義で幸せになったのか」(PHP新書)②

 この本は「19世紀末から今日までの中国の歴史を、中国共産党が追及した社会主義革命に中心を据えて分析した書物」である。中国の政治変動の中でどのように中国共産党が政治権力を掌握したかを分析している。著者は本書の狙いについて「中華人民共和国の出現は社会主義の衣を着た封建王朝であった」という観点に立って現代中国を読み解こうとするものであるとしている。
 この観点は目新しいものではなく、しかも説得力があって分かりやすいのに何故かあまり一般的ではない。
 この本で述べられている中国の近現代史はバランスが良く、うまくまとまっていている。簡単に振り返りたいときには参考になる。
  
 清朝が辛亥革命で倒れた頃、中国人の9割が農民であった。日本が太平洋戦争で敗れ、中国から撤退したときもその割合はさほど変わらない。
 マルクスが資本主義社会の問題点を指摘して科学的(!)共産主義を提唱したときに想定した社会というのは、労働の対価に見合うだけの収入を得られず、資本家に搾取された労働者が、革命により資本家を打倒して階級をなくして平等となり、計画経済で皆が豊かになる社会であった。農民は想定されていない。つまり中国は共産主義者が考えている資本主義社会ではなかったのだ。
 日本軍は都市部を次々に占領していった。国民党との戦いは都市部をめぐってのものである。そして国民党は同時に共産軍とも戦っていた(後に国共合作によりともに日本軍と戦うことになったが、互いに日本との戦争が終わったら相手を亡き者にするつもりであった)。その実力は圧倒的に国民党がまさっていた。そして共産軍は本来寄って経つべき労働者階級がほとんど存在しないから農村を拠点にゲリラ的に戦っていた。
 ここで大事なことは中国の過去の王朝交代は、必ず貧窮の限界に追い詰められた農民蜂起によって始まり、そのエネルギーを集約したものが次の王朝の実権を握ってきたと云うことだ。
 毛沢東が天才であったのはこの農民による王朝打倒の歴史を知悉した上で、共産革命を農民から起こそうとしたことである。彼はマルクスの理論を二段階で達成しようと考えた。まず農民による革命、そして資本主義社会を出現させて真の共産革命を起こそうとしたのだ。

 太平洋戦争が終わった時点で、共産党軍が急速に実力をつけてきたと云っても、蒋介石の率いる国民党軍はそれに倍する軍事力を持っていた。しかしソ連の後押しにより、日本軍が支配していた満州など中国東北部はそのまま共産軍の支配下に入り、ソ連進駐軍の接収した日本軍の武器は全て共産軍に渡されてその実力は拮抗するようになった。
 結果的に蒋介石は敗れて台湾に脱出した。
 そして1949年、中華人民共和国が成立した。だがこの時点で主導権を持っていたのは共産党だとはいえ、それ以外の日本と戦ってきたいろいろな組織や考え方の人々が数多くいたのだ。
 理想に燃えて建国に参加した数多くの人々がどのように共産党の一党支配体制に強引に収斂させられていったのか、これは語るも涙の話だが、きりがないので次の項では農民がどうなったのかから始めよう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・穴居

 九月六日、午前六時に出発して鼓楼大街から西へ折れ、西関を出てから十数里で古太平庄(こたへいしょう)に到り、また数里で永安寨(えいあんさい)に入る。今日はちょうど市が開かれている日だと云うことで多くの人が群集している。その市で売っている野菜の中で青色の茄子を売っているのは珍しいと思った(緑色の茄子のことであろう)。御者は穴銭二文を出して煙草一包みを買った。わずかに二文で煙草一日分を手に入れることが出来るのでその生活程度の低いことが(生活費が安く済むことを言っていると思う)推察される。ここから道は急坂になる。坂の上に立てば南方に黄河の流れるのが見える。この辺りは沖積土層の断崖で、崖側に数十の穴を穿ってある。その中には実際に貧民が穴居しているものがある。貧民ばかりではなく、この穴を掛け茶屋にして、旅客が穴中に休息してお茶を飲んでいるのを見受けた。ここから河に沿い西へ西へと遡り十一時に河畔に出た。下孟渡口(かもうとこう)と云う。孟県から四十五里、河南府と孟県との中央にあたる。

「考史游記」では穴居の様子を竹添先生(不肖)の詩で表している。
  崖を鑿(うが)ちて室と為し     土 席と為し
  只扃扉(けいひ・扉)有るのみ  壁を須(もち)いず
  屋上坦々として            広きこと幾弓
  牛は碓車(たいしゃ)を挽き   人は麦を曬(さら)す
  屋に在りて地を戴き        出でて天を践(ふ)み
  上天下地                咫尺を距(へだ)つ
  内藤先生曰く、これは真景を描出して余蘊あるなし。

2012年4月27日 (金)

北村稔著「中国は社会主義で幸せになったのか」(PHP新書)①

 著者は執筆当時立命館大学教授。1948年生まれだからまさに団塊の世代である。私は1950年生まれだから団塊の世代に含まれたり含まれなかったりする。その世代の心ある人であれば、中国の文化大革命とベトナム戦争とは何だったのか、自分なりに考えたことがあるはずで、そうでない人とは同世代として語るに値しないとまで思うものである。
 当時我が家では朝日新聞を購読していた。だから朝日新聞を通して文化大革命についての報道に接していた。文化大革命が1966年からだからちょうど高校時代である。朝日新聞を読んでも結局文化大革命とは何なのか分からなかった。大学に入って中国について関心が高まった理由の一つは文化大革命とは何なのかを知りたいと云うこともあった。
 1976年に毛沢東が死んだときにはもう就職していた。その後いろいろあって、ついに鄧小平が表に登場し、文化大革命は誤りであったと正式に表明し、改革開放を唱えて路線を変更、今日の中国がある。
 朝日新聞(朝日新聞ばかり取り上げるのは当時それしか読んでいなかったからで他意はない・・・ちょっとあるけど)は文化大革命の当初からどちらかと言えば文化大革命礼賛のスタンスだった。そこで取り上げられる具体的な事例は今思えばほとんどつまらない記事ばかりで(中国側がそういう記事を提供していたのだろう)何故それをすばらしいことのようにコメントするのか不思議だった。
 思い出すのは、紅衛兵のある少女が学校でテスト中に、廻りの子供達に答案を見せたので先生が注意したところ、自分は出来たのだから出来ない児を助けるのが平等というものである、と先生をたしなめた。それがすばらしいと中国で話題になっているとの記事だった。おまけがあってそれに感激した日教組の女教師が、私は全ての子供にオール5をつけます、全ての子供は平等です、といった記事も併せて載っていた。
 また、駅の切符の代金を年齢で区別するのではなくて身長で決めるという話も載っていた。バーより高いのが大人料金で低ければ子供料金と云うことらしい。それもなんだか合理的ですばらしいことのように書かれていたが、何をそんなに褒めるのか理解できなかった。
 そんなへんてこりんなことだけ覚えている。
 そうして私にとって朝日新聞は文化大革命を礼賛していたように見えるが、鄧小平が誤りだった、と表明した後で、朝日新聞が文化大革命を礼賛したのは誤りだったというのを見ていない。見逃したのだろう。

 本の紹介のはずがとんでもなく逸れてしまった。
長くなりすぎたので本の内容については次に回します。

中国ウオッチ・愛国心

 中国青少年研究センターが、日米中韓の高校生比較研究を行い、中国の高校生がナショナリズムが最も高く、最も堅実な人生観を持つと発表した。
 それに対して上海交通大学の教授が調査結果を詳細に分析してコメントを述べた。
 中国の高校生は「中国人であることを誇りに思うか」という質問に対して90%が「そう思う」と答え、四カ国中のトップであった。ところが「選択できるならば他の国に生まれたかった」という回答も49%と四カ国中で最高であった。また「外国の文化、生活に興味がある」という回答も88%と最高だったという。
 同教授はこの結果などから「一見人格分裂しているようであるが、これが真実を表している」という。自分の気持ちとは別の、正解とされている回答を選ぶことを中国の教育は求めており、生徒はそれに従っているのだそうだ。だからこの調査をもとに中国の高校生に愛国心があるかどうかなど分からないとしている。「たぶん愛国心を口で叫びながら、機会があれば外国に移民したいというのが本音だろう」とのべ、「本心を語ることの出来ない中国の教育が健全な子供を育てられるとは思わない、どの国の教育を受けたいか質問したら中国以外を選ぶ高校生は、他国に生まれたい、という回答を遙かに上回る回答となるだろう」と結んだ。

 確かに愛国心は作られるものであろう。そもそも国という仕組みも作られたものなのだから。国民が、国という仕組みに依存して生きることが一番安全で楽な生き方であるという前提のもとに国家は存在している。だから愛国心という接着剤を教育することで国の仕組みを成り立たせる必要がある。しかし前提が疑わしいとき愛国心教育は過剰になる。 
 私から見れば中国の高校生は本音と建て前を上手に使い分けながら機会があれば世界へ飛躍したいという意欲を持っているように見え、その元気の良さに期待を感じる。日本の若者の海外に対する臆病さを最近しばしば耳にするが、何故こんな情けないことになったのだろう。日本の教育とマスコミによるおかしな洗脳の方がよほど問題があるような気がする。

映画「キング・コーン 世界を作る魔法の一粒」

 食品の実態を知ろうと考えた若者二人が、アメリカのトウモロコシが重要なポイントではないかとみて、自ら自分のルーツであるアイオワの農地に赴き、まずトウモロコシを自ら作ることから始める。
 そして経費と精算見込みからの売り上げ予想の試算から明らかに赤字であることを知る。それでもトウモロコシは膨大な量が生産されている。このからくりは補助金にあった。トウモロコシの生産を申請すると政府が補助金をくれる。そして収穫量に応じてさらに補助金を受けることが出来るので、わずかではあるが必ず儲かるようになっている。この利益がわずかであることも大きな問題で、中小の規模では成り立たない。規模が大きいほど事業として成立する仕組みなのだ。
 トウモロコシの収量は一エーカー当たり1000Kg以下から平均5000Kgとこの百年で5倍以上になった。これは農法の改善と品種の改良による。そしてある時期を境にアメリカ政府の農業政策が大きく変更された。生産量の制限政策からひたすら増産へと変わったのだ。
 そして今トウモロコシはあふれかえっている。そのあふれかえったトウモロコシは家畜の飼料ばかりでなく、コーンシロップやコーンオイルを始めあらゆる食品に使われて、今やなくてはならないものになっている。
 このようなことを若者二人は、役所や農業をしている人たち、企業などに気軽に押しかけて取材して撮影する。いいことばかりではなく、数々の問題も明らかになっていくのだが、それをヒステリックに糾弾したりせず、事実を淡々と伝えて映画を見ている人自身がどう考えるかにゆだねている。

 実はこの前に「やばい経済学」というドキュメンタリー映画を見たのだがそちらは週刊誌的なタッチで、見続けるのに絶えられずに(というか見ていると眠くなるので)やめてしまった。それよりずっとさらりとしているのにこちらは結構飽きずに最後まで見ることができた。
 そしてドキュメンタリー映画、特にアメリカンテイストのものはどうも肌合いが逢わないみたいだ、ということが分かった。

被害者情報

 京都・亀岡市の暴走事故被害者の個人情報を警察や学校が漏らしたと云って問題になっている。心の底からかどうか知らないが、加害者の親が、謝罪したいと思って被害者のところを訪ねるために連絡先を知ろうとするのは別に異常なことではない。日本は加害者の親であっても自分は関係ない、といっていられる国ではなく、当然の行動だろう。
 だが安易に被害者側の了解を取らずにそれを教えるのはやはり問題であることも間違いない。だがマスコミがまるで正義の味方みたいにそれを国民の代わりに糾弾するような姿勢はいかがなものか。マスコミこそ被害者の家を訪ねて強引に取材をしているではないか。誰にその住所や連絡先を聞いたのだ。全部が全部被害者の了解を取ってからその情報をとったなどとはとても思えない。あまりえらそうにするものではない。マスコミには糾弾する資格などないのである。ただ警察や学校の軽率であることを静かに伝えれば良い。
 それよりも思うことだが、加害者の情報はあまりにも守られすぎていないか。事件が重大であるならば、そして法律がそれに対する制裁としてはあまりに軽いものしか整備されていない(故意でないとしてもこれだけの人間を殺したり傷つけておいて最高で7年の刑だそうだ。少年であることも考慮されるだろうから長くても数年で無罪放免である)のならば、マスコミは正義の味方として未成年者であっても加害者の実名と顔写真を公表すべきであろう。それが社会的制裁としてのマスコミの役割だろう。
 警察の失態となると浮かれて異常に騒ぎ立てるマスコミにはどんなトラウマがあるのだ。ますます警察をおかしくしてしまうではないか。マスコミの中にも馬鹿がいるように警察にだって馬鹿はいる。警察全部を馬鹿にしてはいけない。問題の軽重をもう少しわきまえた報道をしてもらわないとこちらまでおかしくなりそうだ。

中国ウオッチ・黒龍潭

 中国雲南省の世界遺産、麗江古城周辺はこのところほとんど雨が降っていないという。そのために水源である黒龍潭が干上がってしまったと報道された。
 黒龍潭は澄んだ豊かな湧き水が出る池で、その水面に高さ5600mの玉龍雪山を映す風景絶佳の場所であり、麗江の人々の憩いの場所でもある。この池から清流が麗江古城に流れ込んでいる。
 昨年三月にここを訪ねた。雲が出ていたので残念ながら玉龍雪山は映していなかったが、豊かな湧き水は目の当たりにした。それが干上がるなど信じられない。
 しかし黒龍潭の湧き水は玉龍雪山の雪解け水を水源にしているのではなかったか。その水が涸れるなどと云うことはあの辺りを流れている川も水がないと云うことだ。金沙江(きんさこう・長江上流)などの水も少ないのだろうか。よほどのことである。

 雲南省は5月から雨期に入るはずである。普通は四月から雨の日が増えてくるのにまだ降り出していないというのは深刻であり、心配だ。

Dsc_0560この水が干上がったそうだ。

Dsc_0593黒龍潭からこの麗江古城にこのように清冽な水が流れている。




中国ウオッチ・超少子化

 中国の一人っ子政策により、中国の年齢別人口構成が著しくゆがんで、将来日本以上の少子化になることはすでに明らかになっている。それに対し、中国政府は様々に特例措置をとることで少子化を緩和しようとしている。実質上の一人っ子政策の見直しである。
 ところで統計数字によると中国の合計特殊出生率は1.5以下になったそうである。あれ、一人っ子政策なら1.0以上なんてあり得ないではないか。一人っ子政策が実施されてからすでに30年以上過ぎているので子供を産む可能性のある女性は全て一人っ子政策の対象者のはずである。それなのになんで出生率が1.5で、なにも制限していない日本よりずっと高いのだ。ありえない。
 
 上海はすでに合計特殊出生率が世界最低の0.7だそうである。上海は物価高で生活費も高いから子育てには向いていないし、これなら分かる。それなのに全国平均が1.5とは。ことほど左様に中国というのは不可解で信用が出来ない国だなあと思う。一人っ子政策をやめたら明日にでも2.0を超えるだろう。何も心配はいらない。今の人口そのものがすでに過剰のような気もするが。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・孝子の故里

 幾度か床虫(南京虫か蚤であろうか)に夢を破られ、九月五日五時半に清化鎮を出発した。昨夜の雨で道路は泥濘と化し、車輪の半ばが没してしまい、馬の行き悩むことがはなはだしい。この辺り一帯は竹藪や稲田が多い。北京では米が一斤で時価百十文、ここでは約四十文、大変な相違である。柿は到る処で枝に赤く実って見事である。丹河の北に漢の孝子丁蘭(ていらん)の故里がある。丁蘭は二十四孝の一つ、その母が死んだ後、母の像を刻んでこれに生きていたときと同じように仕えた人である。沁河(しんが)を渡ると河内(かない)県で、東関外は東関孝子郭巨(かくきょ)の故里である。郭巨も二十四孝の一つで、家が貧しくして母親に孝行できないといって、愛する自分の子供を穴を掘って埋め殺そうとしたところ、図らずも金の釜を掘り出した人である。今日たまたま二十四孝のうちの二人までもその故里を通り過ぎたことで、游子もはるかに故国の両親を懐(おも)った。
 河内県を過ぎる。広恵洞渠(こうけいどうきょ)の碑がある。これは明の万暦年間、この地の水利工事を起こしたことを記したもので、この辺りに稲田が多いのはその余沢である。日暮れて後、孟県に到着して大昇店(たいしょうてん)に宿泊した。行程百里。

「考史游記」には馬車を調達したことが記されている。早朝の出発で寒かったようだ。十一時頃懐慶府(かいけいふ)を通過していくつか石碑を見ているが、先を急ぐために懐慶府の城内及び城外をじっくり見られず残念だったと記されている。

二十四孝と云えば確か帝釈天の見事な壁面の透かし彫りは二十四孝の図柄だったように記憶しているが。
 

2012年4月26日 (木)

葉室麟著「散り椿」(角川書店)

 人を思う気持ちというのはこんなにも深いものなのかと感じた。
椿は散るとき花びらが散るのではなくて花全体が落ちる。その椿の中に花びらで散る椿があるという。それを散り椿というそうだ。その散り椿に託して人の心の中の思いが語られる。
 妻と共に藩を去った男が十八年ぶりに帰って来た。男・瓜生新兵衛は亡き妻の妹の家に居候のように住み着く。その家の主である坂下藤吾の父は一年前、突如自害して果てていた。瓜生新兵衛は藤吾にとって伯父であり、また自害した父と新兵衛は若い頃藩の四天王と云われた友であった。
 藤吾は父の死後家禄を大きく減らされ、朋輩からの冷たい扱いの中で屈辱に耐え、何とか出世して家を再興しようと必死であったからその伯父の出現は迷惑以外の何物でもなかった。
 藤吾にとってあこがれであり、目標でもある榊原采女が四天王の一人であり、伯父と友であったことは驚きであった。折しも榊原采女は藩を壟断している家老・石田玄蕃とその黒幕となる人物と藩を二分する争いの中に会った。
 伯父の致仕と榊原采女の父の暗殺事件、父の自死、これらの真相が伯父の出現で徐々に明らかになっていくとともに藤吾もその争いに巻き込まれていく。始めは冷たい眼で伯父を見ていた藤吾が徐々に男として目覚めていくとともに読者も物語の世界に引き込まれていく。
 死んだ叔母を挟んでの伯父と采女の確執がどのようなものだったのか、藤吾も大事に思う人を持つことによって見えてくる。

 最後のクライマックスに向けて感情の高まりが一気に押し寄せてくるのが心地よい。物語を楽しむ快感である。この本も絶対おすすめである。胸を熱くして時代小説を読む喜びを堪能できます。

中国ウオッチ・ものの見方

 中国の巡視船とフィリピンの沿岸警備艇が南シナ海のスカボロー礁(中国名・黄岩島、例によって国際的には認められていない中国の勝手な呼び名である)で二週間近くもにらみ合いを続けていることは報道されているとおりである。中国は大型の軍艦のような巡視船まで繰り出して一時三隻が居座っていたが、先日二隻が引き揚げて一隻だけまだ残っている。
 このことについての中国の新聞は「フィリピンは事態を国際社会に知らせて反中国の感情をあおり立て、中国に譲歩を迫ろうとしたが、それに応えた国は全くなかった」と伝えた。
 このことに関心のある国が、ことごとく中国に不快感を感じていることを全く無視した報道である。中国政府の意向を受けた提灯記事だと思うが、本当にそう思っているのであれば中国のものの見方はゆがんでいると云わざるを得ない。しかし中国国民はそれを知らされていないから記事を鵜呑みにする人は数多くいるだろう。

 フィリピンは南シナ海で過去最大クラスの天然ガス田を発見したと報じた。場所は南シナ海の南沙諸島に近いリードバンクで推定埋蔵量は20兆立方フィートだという。これにより、フィリピンは輸入化石燃料への依存を大幅に削減できるとみている。
 しかしこれにより中国が南沙諸島への介入を一層強めることは必至であり、中国とフィリピンの関係はさらに悪化するとみられる。こういうときにアメリカの役割があるのだが(というよりこういうときしかアメリカはいらないが)、どこまでフィリピンをかばってくれるのか。
 それこそ中国のメディアが嘘をつくことが出来ないほど関係諸国が一致して中国の非を鳴らす必要がある。
 中国もアメリカも世論を全く無視してかかるわけには行かないと信じたい。ここでこのようなことを伝えるのもささやかなアピールになると思えばこそのこの文章である。

中国ウオッチ・総資産世界一

 2012年2月現在の世界の銀行の総資産額世界一は中国人民銀行だった。ちなみに中国人民銀行の総資産額は4兆5000億ドル、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)は3兆ドル、欧州中央銀行(ECB)は3兆5千億ドルだった。
 中国はいつの間にか世界一のお金持ちになっていた。お金はたくさんあるところにさらに集まってくるものらしいからしばらく安泰だろう。

 日本も一時期はずいぶんいいところまで行ったが、いったいあのお金はどこへ行ってしまったのだろうか。私の金ではないけれど。

中国ウオッチ・中原環境保護視察団

 中原(ちゅうげん)とは黄河文明発祥の地域、河南省周辺を指す。
 その河南省鄭州市で環境保護の行事活動が毎年行われている。今年もその式典を行った後、視察団が河南省各地に向かった。そこで明らかにされたものがいくつか報道されていた。
 開封市では巨大なゴミの山が見つかった。400~500tもあるもので汚水がしみ出して悪臭もひどいという。このゴミの山は17年前から成長し続けており、行政側は何も対策をしてこなかったし、する予定もないという。開封市のゴミ処理能力は限界のため、現在新しい処理場をこのゴミの山の近くに建設中である。その処理能力から見るとたちまち片付きそうだが、処理場が出来たら片付けるという言葉が出ないところを見ると手をつけたくない惨状なのだと云うことがよく分かる。
 また同じ開封市で環境保護違反で半年前に操業停止を命じられているビール会社も視察した。生産を停止し、3ヶ月以内に改善が認められれば再開を認める、ということになっているはずだがビールケースが山積みで、トラックが製品を積み込んでいた。ビール会社側は「誓って生産は停止している」といい「停止したのが五六日前なので製品が残って」いるのだそうだ。しかし出荷待ちのビールには視察の前日の日付が表示されていたそうだ。
 
 ゴミの山は北京でも、もっとすさまじい山があるという報道を見ている。各地にそんな山があるようだ。日本でもゴミ屋敷の話を見聞きするが、ゴミというのはいったんため出すとたちまち処理限界を超えるようだ。気をつけよう。
 ビール会社の話は・・・操業停止命令を出してもそれが励行されなければ命令にならない。たぶんなにがしかのお金がお目こぼしのために動いているのだろう。お目こぼしのお金を稼ぐためにもビールを造らなければならないのだろう。しかし操業停止命令が出るほどの衛生管理状況で造られたビールというのはかなり危ない。

中国ウオッチ・雨合羽

 北京地下鉄15号線の国展駅は折からの北京モーターショーで賑わっていた。天候が思わしくなく、雨具の用意のない乗客も多かったので、北京市がかねて用意していた雨合羽を無料で配布することになり、駅員が要望した人に配りだした。するとその係員を数人の男女が取り囲んだかと思うとそこにあった雨合羽を一人で数枚ずつ次々に奪っていった。
 その後雨合羽を奪っていった男女が駅の出口付近で「一着10元」の値段をつけて雨合羽を売り出しているのに気がついた駅側は、あまりのことに憤慨、警察に連絡して男女は取り押さえられた。彼らは雨合羽を没収された上で厳重説諭を受けて釈放されたという。

 ただでもらえるものに殺到すると云えば、日本のデパートなどが、中国で開業するときに先着何人に無料で何かを配る、などと行って客集めの目玉にすると異常なまでの人出となり、先着何人などと云う条件など聞くものかわ、全員が自分によこせ、と店側に詰め寄って大混乱に陥ったというニュースをたびたび見た。
 中国人はそもそも並ばない。幼稚園児が欲しいものに群がっているようなもので、そもそも並んでいないのだから先着もなにもあったものではないのだ。中国人も豊かになったと思ったらまだ精神は貧困なようだ。それとも豊かなのは一部の人だけでまだ貧しい人が多いのだろうか。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・道清鉄道

 道清鉄道(どうせいてつどう)は現在衛輝府の東道口鎮(どうこうちん)から懐慶府の東北清化鎮(せいかちん)に至る九十三マイルの線路を運転している。将来山西の沢州まで延長し、山西地方の石炭を運送し、道口鎮からは運河の閔を借りるはずである。もとは「ペキン・シンジケート」が経営したが、利権回収熱のために中国政府の手に帰している。この線路は道口より出発して衛輝府に至るまでは、京漢線と並行し、新郷から京漢線を横切って西に向かう。それで衛輝府で京漢線から道清線に接続するものと思われるが確かなことは分からないから直に新郷に来たのである。道清線の新郷駅は新旧二つあり、旧駅は京漢線、新郷駅の南十町ばかりのところにあり、接続の便を図ってさらに五町ばかりのところに新駅を設けた。大竹氏らの見送りを受け、十二時半になって発車した。道口行きは旧駅に行ってまた乗り換えなければならない。ここから西に向かい、獲嘉(かくか)修部の各駅を経て三時四十分に清化鎮についた。ちなみに云う。汽車賃は新郷から清化まで五十マイルで、一等千五百文、二等九百文、三等六百文である。ただし銅銭十を百文とし、一弗は八百四十文、一両は千二百文である。しかも銅銭は河南省のものしか通用せず、ほかの省のものは使えない。
「考史游記」にあるとおり、やはりこの日には清化鎮まで行ったようだ。新郷では休憩で立ち寄った宿で大竹氏達に逢ったもので大竹氏達は宿泊していたのだが、著者は泊まっていないことが分かる。昨日の項は私の勘違いであった。地図で見ると開封と新郷は近い。大竹氏は開封(開封が東に当たる)から馬車か歩きで来たのであろう。

2012年4月25日 (水)

葉室麟著「星火瞬く」(講談社)

 この物語もビルドゥングスロマンの一種だろうか。ビルドゥングスロマンはしばしば教養小説と訳される。教養小説などと云うと誤解を招きそうだが、少年や青年がいろいろな経験を重ねることで成長していく物語を云う。いい物語が多い。
 シーボルト事件をご存じだろうか。あの事件により日本から永久追放されたシーボルトが三十年後に再び幕末の日本に来ていた。そのとき15歳の自分の息子を伴っていた。この物語はその息子・アレクサンダー・シーボルトが主人公である。
 彼らが長崎に到着し、シーボルトが日本に残した娘のイネとの再会(つまりアレキサンダーにとっては姉との出会い)があり、数多くのシーボルトを慕う人たちとの再会から物語は始まる。
シーボルト親子は横浜から江戸へ向かい、シーボルトは希望通り幕府の顧問として採用される。その間に息子のアレキサンダーにはいろいろな人々が関わってくる。清河八郎、高杉晋作、勝麟太郎、小栗忠順(ただまさ)、そしてこの物語の本当の主人公であるロシアの革命家のバクーニン等々である。
 物語は風雲急を告げる幕末の中で、横浜を舞台に何かが収斂し、そして新しい時代への次のステップが爆発的に動き出す。
 幕末を異国の少年の目という全く新しい視点から見ることで勤王とか佐幕とか云う立場とは全く違う世界が見えてくる。そしてその幕末という時代に世界がどういう状況だったかが同一平面で見えてくる。

 この本は探してでも読む値打ちのある本だ。ラストに向けてだんだんテンションを上げていくように出来ているので、途中でうっかり投げ出さないようにして欲しい。そして読み終わったときには必ず読んで良かった、と思うことを保証する。
 

中国ウオッチ・黄砂

 毎年人々を悩ませる黄砂が今年もやってきた。22~24日に新疆ウィグル地区や内モンゴル地区に吹き荒れた砂嵐が上空のジェット気流に乗って早くも24日には日本に黄砂として舞い降りて、今日も引き続き黄砂警報が出されている。
 お隣の韓国でも日本以上に黄砂の被害に遭っており、一部韓国メディアは中国の汚染大気も含んで、黄砂には猛毒が含まれていると報じた。
 
 ところが黄砂が有毒化しているのはもしかすると事実かも知れないという情報が入ってきた。
 新疆ウイグル自治区には塩湖が多い。昔山の雪解け水が豊かな川に流れそれが湖に注いでいたが、砂漠化と共に川は枯渇、巨大な湖は干上がってわずかに塩湖として残っている。ところが最近の干ばつによりその塩湖の多くがついに干上がってただの塩の平原になってしまった。
 その塩湖の周辺で砂嵐が発生すると、その塩分が砂嵐に削られて舞い上がっているのだという。実際に北京での黄砂を分析したものの中に海水に近いほどの高濃度の塩分を含んでいるものが観測されている。
 この塩はただの塩ではない。多くの地中に含まれる化学物質が川に運ばれて長時間かけて高濃度に濃縮されたものを多量に含んでいる。これが特に細かい粒子になって吸い込まれると人体に悪影響を及ぼすおそれが大きい。
 北京の大気汚染の原因物質は排気ガスばかりではないのだ。
 内モンゴル地区での調査ではアルカリ性の化学物質を含んだ黄砂により数百平方キロメートルの地域の草が枯れて砂漠化を加速していることが確認されている。
 
 黄砂を侮ってはいけない。常に化学物質を大量に含んでいるわけではないが、そのつもりで対処を心がける必要があるようだ。

中国ウオッチ・恐ろしい話

 日本ではまさかこういうことはないだろうという中国での恐ろしい話。
 雲南省昭南市のある小学校で生徒数665人のうち半数以上の368人が下痢や腹痛、発熱などの食中毒とみられる症状で病院で治療を受けた。入院したものも数多い。その後の調べによって給食が原因と判明した。ここまではありうる話である。
 ところがその給食がどんなものだったのかが明らかになってさらに驚くべき実態が分かった。
 そのときに出されたなかに黒く変色したエンドウ豆があり、おかずは渋い味がしてしかも異臭がしていたという。ところが教師は「必ず全部食べるように、残したら10元の罰金だ」といって全員に食べることを強要したという。この罰金は校則で定められたものだそうだ。
 この件で当局が調査した結果、給食のために購入した食材の記録がないという。食品は週に一度乃至二度運ばれてくるが、学校には冷蔵庫がなく、地下室に保管されていた。学校食堂も運営業者も定められた許可証を取得しておらず、申請もされたことがないという。責任者はすでに身柄を拘束された。

 明らかに食べたら具合が悪くなりそうなものを強制的に食べさせられた子供のことを思うとこちらまで胸が悪くなる。平然とそれを調理する連中、子供がいやがるものを無理矢理規則に従って食べさせる教師など親なら殴りたいだろう。
 ところで教師は日本のように同じ給食を食べないのだろうか。そしてその教師達(一人のはずがない)はその給食を分かって食べさせたのだろうか。もしそうなら教師の資格を取り上げて刑罰の代わりに一週間くらい同じものを食べてもらったら良いのではないか。
 案外食べても平気な教師ばかりかもしれないが。

中国ウオッチ・読書量

 中国のメディアが中国人の読書量が少ないことを他の国との比較をあげて報道していた。それに基づいて評論家が中国国民は低IQ国家になってしまったと嘆いていた。
 その報道によれば中国人が一年間に読む本は平均0.7冊、韓国は7冊、日本は40冊、ロシアは55冊だそうである。日本の40冊は漫画も雑誌も入っているのではないか?実感よりも多く感じる。それよりも中国の0.7冊は確かに余りにも少ない。本当だろうか。
 中国に行って時間が余ると繁華街の本屋を覗くことがある。中国語の本が読めるわけではないが、本屋の雰囲気が好きなのだ。そうして各コーナーをぶらついていると何となくどこのコーナーがどんなジャンルか分かってくる。値段を見るととても安い(最近急激に値上がりしていると漏れ聞くが)。日本で読んだことのある中国の古典の薄いものを記念に買って帰ることもある。何冊か本棚に飾ってある。
 そうして感じたことは本屋に人が少ないことと、本屋で熱心に本を物色している人が何となく普通以上に本にマニアックな人に見えることだ。ビデオやCDを売っている店の賑やかさとは全く違う。あの様子から見ても確かに中国人は本を余り買わないのかもしれない。

 考えすぎかもしれないが、文化大革命を経験してから中国人は文人であることを危険なものと感じているのかもしれない。文人すなわち読書人がターゲットになってそれだけで粛正の対象になった。それがトラウマになって未だに読書を回避してしまうのかもしれない。
 あくまで報道された統計の数字を前提にした妄言だけれど。

中国ウオッチ・4000万台

 中国の自動車生産台数が2015年にほぼ3000万台に達する見込みだという。さらに2020年には4000万台に達する見通しだ、と中国の新聞が報じていた。
 景気のいいことで結構である。そんなに作って売れるのかなと思ったら、世界の自動車保有台数は1000人当たり140台であり、中国は2010年に58台、昨年でも70台に満たなかったのでまだ伸びる余地があるのだそうだ。ちなみにアメリカは800台。
 中国はアメリカと同様国土が広くて自動車を持つことの値打ちは大いにあるに違いないが、人口は都市部に集中しており(昨年ついに都市人口が50%を超えた)、しかも自動車を保有している割合はたぶん都市部の方がずっと高いに違いない。その都市部の中で車がひしめき合っているから、どこの大都市も交通渋滞と車両から排出される排気ガスによる大気汚染が大きな問題になっている。そのためにどの都市も地下鉄を開業させて自動車の流入を制限する方向に動いている。この数年は地下鉄工事による渋滞もひどかった。
 現状の都市部の交通事情を見ていると中国の車の生産が3000万台だの4000万台だのと右肩上がりに増える可能性は低いと思うのだがどうだろうか。そろそろピークに来ているのではないか。
 それでも買い換え需要だけでも莫大な需要が見込める。そうなるとただ車を所有する喜びのためだけではない、もう少し性能や居住性を重視する需要が見込めるだろう。なるほど、日本の自動車会社はそこを狙っているのか。がんばってください。

中国ウオッチ・制御不能

 中国の次期主席が確実な習近平国家副主席が、人民大会堂で日本の貿易促進協会の訪中団と会談した際に「中日両国は相手の核心的な問題を適切に処理し、制御できないようになってはならない」と述べた。
 これが尖閣諸島の購入を表明した石原慎太郎東京都知事のことを念頭に置いていることは明らかだ。さらに「中日両国は一衣帯水の関係で、ときどき問題が起こるのは不思議ではないが、善意、友好の気持ちがあれば解決できると思う」と述べたという。

 習近平が制御を云々しているのは何に対してなのだろうか。中国国民についてはすでに制御していると思っているはずだ。ということは日本国民に対してでしかない。日本国民を日本政府は制御せよと云っているのだろうか。そして訪中団にそのメッセージを、帰ったら政府に伝えて協力せよと云ったのであろうか。

 日本国民は中国の国民のように制御されることを望んでいない。まさか政府も制御などしようとしていないと思う。

 このような言葉が出ると云うことは、国民は制御すべきものであるという認識が考え方の根底にあると云うことだろう。それとも最近中国国民がなかなか制御通りに行かなくなっていることへの本音がちらりと出たと云うことだろうか。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・新郷の奇遇

 九月四日五時五十分彰徳府を出発した。昨夜降っていた雨もやんで今日は晴れ、爽快で云うことはない。蘼々(びび・草の名・関連の意味の草笛か)の楽声を聞いたという淇水(きすい)を渡り、孔子が昔南関外に磬(けい・楽器の一種)を撃った淇県、殷紂(殷の紂王・殷が滅びたときの悪逆非道な王)が都とした衛輝(えいき)も瞬く間に過ぎ、八時三十分新郷(しんきょう)県に到着して下車し祥和桟(しょうわさん)に入る。宿のものが、今日本の人が四人いますという。お互いに名乗り合うと日本大学生大竹多積氏ほか三君である。氏らは七月上旬に日本を出発して上海に至り、江(もちろん長江)を遡って漢口から信陽、許州、鄭州を経て開封に入り、昨夜新郷に来たので、薬を携え道々これを売って旅費に充て、なお新郷に一週間滞在した後北京に入り帰朝の途につく予定だという。その話によると、開封には私が訪れたときはわずかに高等学堂の三宅氏一人であったが、今はかつて共に泰山に登り、聖廟に詣でた飯河君及びほか数名いるとのことである。思いもかけぬ他郷の地で祖国の人に逢うという喜びはその身がその場にいるものでなければ想像も出来ないであろう。
「考史游記」ではこの日新郷県から乗り換えてさらに清化鎮に足をのばして西関外の太和客桟に宿泊している。別行動であったのだろうか。新郷県から清化鎮までは道口瑪頭(どうこうばとう)を経由する道清鉄路に乗っている。

2012年4月24日 (火)

中国ウオッチ・レアアースの盗掘

 中国江西省贛州(がんしゅう)一帯でレアアースの盗掘が横行しているという。中央政府はレアアースについて「厳格な生産管理」をしているはずだが、そのために価格が高騰して「ヘロインを扱うより儲かる」状況となっている。
 贛州は中国のレアアースの主要産地の一つで、しかも鉱脈が浅く広く分布していいるので採掘が容易である。そのため地元政府は中央政府の意向を無視し、官民挙げての採掘を行っており、それを中央政府が盗掘と云っているのだ。ここでとれるレアアースは以前は1t30万円前後だったが、今はなんと500万円くらいになっている。これでは採掘をやめられないわけだ。

 レアアースは採掘後の鉱石の処理液や、含まれている放射性物質などの廃棄物による環境汚染が深刻なためにコストがかかるのだが、このような違法な採掘の場合ほとんど垂れ流しの状態である。
 地元住民は今のところ採掘の労働と口止め料として多額の報酬があるために大喜びでこの盗掘に協力している。
周辺の環境汚染による問題はこれから顕在化するだろう。この処理にはたぶん手に入れた報酬よりもはるかに高いコストが必要になることを彼らはまだ知らない。

中国ウオッチ・タラ騒動

 中国ではめったにタラは取れない。だからタラはほとんど輸入であり、高級魚として高級ホテルや西洋レストランでしか食べることが出来ない。
 ところが最近大手スーパーなどでときどき見られるようになったのだそうだ。もちろん値段はかなり高い。ところがそれが実はタラではなくて深海魚のバラムツだったことがマスコミにすっぱ抜かれた。
 バラムツはアブラソコムツと共に深海に棲息している深海魚だが、あのおいしい赤ムツや黒ムツなどと呼ばれるムツとは直接の仲間ではない。ましてやタラとは全く違う。ただ脂肪がたっぷりで食べるとおいしい。しかしながらこのバラムツの脂肪はワックスエステルという脂肪で、人間が消化することの出来ない脂肪である。そのために少量なら軽い下痢を起こす程度だが、大量に食べると脱水症状を伴う激しい下痢になって時に命を落とすことがある。
 慌ててスーパーなどの店頭から撤去されたようだ。

 値段が高くて良かった。だから誰もたくさん食べる人がいなくて下痢程度で済んだようだ。 

「二度とこのようなことが起きないために」という言葉

 集団登校の小学生達に無免許運転の18歳の若者(馬鹿者である)の車が突っ込んで死傷者が出た。現場を想像すると言葉がない。
 ところでこのような場合に必ず「二度とこのようなことが起きないために」という。これを聞いてなるほどと思う人はいるのだろうか。これくらい空しい言葉はないではないか。このような言葉を語る人は加害者だったのだろうか。加害者なら、二度ともうしません、ということに意味がある。
 先日の暴走車の歩行者なぎ倒し事件の時にもそのような言葉が聞かれた。ニュースになるような事件や事故の時には決まり文句になっている。確かに事故や事件が起きにくくするために打てる手立てはいくつかあるだろう。しかしその手立てを尽くしたとしても事故や事件は起きるに違いない。
 世の中にはこのような事件や事故の加害者になる可能性のある人たちがたくさんいることをみんな知っている。そのような人たちは決してこのような事件や事故について「私はこのようなことを起こさないようにしよう」と思ったり考えたりしない。
 「二度とこのようなことが起きないように」という人はこのような加害者予備軍を全て隔離でもしようというのか。その方がずっと恐ろしい。
 世の中にはこのような人間は必ずいるし、この人達も含めての社会であると云うことを覚悟しなければならない。
 偽善者ぶった空しい言葉はもうやめて欲しい。事件や事故を起こした人間をその結果に見合った断罪をすることで処理するしか無いではないか。
 事件や事故の責任があたかも社会であるようなそのような物言いが、加害者の責任をあいまいにして被害者をおとしめることになっていることにそろそろ気がついてもいいのではないだろうか。

中国ウオッチ・金銭至上主義

 中国共産党の機関誌・人民日報が、西側の民主主義は金銭至上主義である、とする文章を掲載した。
 2007年の金融危機以来の西洋の経済危機が西側民主主義の欠陥を示していると云いたいようだ。
 確かにアメリカのグローバリズム戦略が、アメリカにだけ都合のいい金銭至上主義の原因になっているといえないことはない。アメリカはことあるごとにアメリカの民主主義は全世界のモデルであり、どの国もそれに従うべきである、というスタンスで世界の紛争に関与し続けている。 相手の国の民族や文化を知ることも理解することもないその態度は紛争を解決するよりはこじれさせているように見える。
 また社会正義を斟酌しない、数学的論理だけで利益を追求する経済活動も実態経済無視のバーチャルな世界に迷い込んで世界を疲弊させている。
 中国がそれを指して問題視するのは正しい。
だがそれは民主主義の問題ではない。ましてそれを非難する中国自身が世界中のどこの国よりもアメリカに酷似した中国式グローバリズムを展開しようとしているようにしか見えない。

 だが少なくともアメリカは自国の問題に対して批判を握りつぶしたり圧殺したりしない。そして選挙という方法で為政者を選んでいるから修正が不可能ではない。
 中国が民主主義批判をするのが、本当に西洋のシステム批判であるならその意見は聞くに値するが、ただ自国の権力システムを維持しようとするための意見であるなら北朝鮮のたわごとと同じだろう。

中国ウオッチ・烏坎村

 広東省烏坎村で中国で初めて三月に民主的な村の役員選挙が行われたことをご存じだろうか。中国にも選挙はあるが、当局から推薦を受けた候補についての信任投票でしかない。純粋に立候補による選挙というのは極めて異例なのだ。
 これはこの村が旧役員の不正(村の土地の不法な転売や村の予算の流用)に対して、村民が結束してそれに反発したことによる。当初当局は旧役員側の肩を持ち、警察まで動員して強引にことを収めようとした。これに対しほとんどの村民約3000人が抗議行動を実施、ついに事件は中国全土のみならず海外にまで知れ渡ることになった。
 その後当局は当初の対応が間違っていたことを正式に謝罪、村民の要求した選挙による役員の選出を認めたのだ。

 旧役員幹部9人のうちの8人が現在徹底的な取り調べを受けており、有罪はほぼ間違いないとみられている。

 中国ではこのような争議が毎年数万とも十万件とも云われるほど多発している。烏坎村のように正当な結末になることは奇跡的に稀なケースで、ほとんどは暴力団と地元警察による弾圧で泣き寝入りに終わる。
 北京にはそのような村からの提訴を受け付ける窓口があり、常に数百人以上の人々が押しかけているが、取り上げられることは滅多にないために、その周辺に住み着いてなんども窓口に通う人たちで陳情村が出来ている。地方の役員の職権乱用による不正な土地の売買は中国の難題だ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・鹿島立ち

 九月三日午前七時、畏友桑原学士と同行で長安に向かって北京西火車站(かしゃてん・駅)を出発した。たくさん知り合い達が見送りに来てくれた。思えば一年半ほどここに旅の客として滞在し、砂漠の砂の吹く春の朝、あるいは清光隈なき月の夕べ、友と歓談して楽しかったことも無いことはないが、侘びしい思いをしたことの多かったこの都も、今はいよいよ去ることになると思えば、何となく見返りがちになるが、汽車はそんな気持ちになど容赦もなく走り出し、帽子を振りハンカチを振る友の姿もたちまちにして見えなくなった。盧溝橋を渡る頃には何度か賈島の詩を口ずさみ、感慨深い思いがしたが、すでに桑乾川を渡ってしまえば後は浩然として図南の志あり(となんのこころざし・荘子の故事に鳳が遠く南海に羽ばたき行くことを企てるとある。ここでは遠征する心持ちを表している)。桑原君の雄弁に耳を傾けつつ、いくつもの短亭長亭(亭は元々十里ごとに設けられた宿駅。この場合は列車の駅のことだと思う)を過ぎ、劉備が履(くつ)を織ったという涿州(たくしゅう)も、風蕭々たりし易水も(刺客の荊軻が燕の太子丹の依頼で秦の始皇帝の暗殺に出発する際に、易水のほとりで詠んだ詩・易水行 風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた還らず)、光武(光武帝・王莽の簒奪により漢が滅び、劉氏がことごとく殺されたとき、辺境にいて難を逃れ、決起して漢を再興した)が麦飯に飢えを凌いだ滹沱河(こだがわ)も、いまはその眠っている姿が像になっている蘆生(ろせい)の邯鄲(かんたん)の夢の跡も(昔蘆生が邯鄲で仙人に不思議な枕を借りて寝たところ、立身して富貴を極めるという一生を経験するが目覚めてみればわずかな時間に見た夢であったという)、二喬を置かんとした曹孟徳の銅雀台の跡(曹孟徳は三国志の魏の曹操のこと。二喬とは呉の二大美人と云われた喬姉妹のこと。姉は孫権夫人、妹は呉の英雄・周瑜夫人である。有名な赤壁の戦いは曹操がこの二喬を手に入れようとして起こした戦いだとも云われる。銅雀台は銅で作られた台で鳳凰をあしらった屋根がついていたという。巨大なもので曹操のおごりのシンボルとも云われる)も、行って訪ねるわけにもいかずにただ過ぎていくばかり、太陽はすでに太行山脈の彼方に落ちて夕照も褪せてきた頃、彰徳府に到着した。下車に際し桑原君の帽子が見当たらない。車中に灯りがないのでマッチを擦って探したところようやく腰掛けの下にあるのが見つかった。我が国と同じように屋号を記した提灯を吊し、口々に屋号を叫んで大勢やってきた客引きの中で、永陞(えいしょう)というのに伴われて停車場前に宿を取った。ちなみに云う。魏の曹操が都とした鄴(ぎょう)は、彰徳府の東北百十里、今の臨漳県(りんしょうけん)の地で、これを見るには彰徳の北、豊楽鎮から下車するのが便利である。

2012年4月23日 (月)

北朝鮮コメンテーター

 北朝鮮の内情はほとんど不明なので、特定の情報源を持つ北朝鮮コメンテーターがあちこちの番組に交代で呼ばれて、本当か嘘か分からないことを語っている。
 どうも北朝鮮の今度の体制はかなりお粗末なようだ。コメンテーターのご託宣を伺わなくても先が長くなさそうな気がする。何せトップに立つ連中の演説の言葉が余りにも程度が低い。

 ところで北朝鮮の現体制が崩壊したらこの北朝鮮コメンテーターの人たちは職を失って困るだろうなあと思う。いやその後もきちんと仕事をしそうな人も中には見られる。

 そうか、北朝鮮が崩壊した後も生き延びそうなコメンテーターの云っていることを選んで聞いていればいいのか。

写真の整理

Pict0015


 昨日も今日も雨。食料を買い出しして籠城中。古いパソコンに外付けしていたハードディスクに手当たり次第に保存していた写真の整理を始めた。同じ写真のファイルがいくつもある。確認してまとめていく。きりがないほどあるが無限にあるわけではない、いつか片付くだろう。

 上の写真は6年前のちょうど4月23日に下呂から御嶽山の濁河温泉へドライブしたときに八重桜を撮影したものだ。峠越えの山道にはまだ雪が残っていて、すでにタイヤを冬用から夏用に履き替えていたのでツルツル滑り、ものすごく怖かったのを覚えている。今年はその年以上に雪が多いだろうからたぶんまだ雪があるだろう。この桜も咲いていないかもしれない。濁河温泉の露天の共同浴場は連休明けにならいとは入れないと云われた。仕方がないので近くの民宿の風呂に入らせてもらった。

Pict0037この宿で風呂に入った。昼飯を作ってもらって食事代こみで風呂も入らせてもらった。

 こうやって写真を見ているとまた出かけの虫が騒ぎ出す。

中国ウオッチ・長江をくぐる

 武漢市が発注した中国南車の地下鉄車両が公開された。
 武漢市は長江と漢江が街の中心部で合流する都市である。元々武昌(長江南岸)と漢口(長江北岸、漢江東岸)と漢陽(長江北岸、漢江西岸)の三つの街が一つの市になったものである。古くから水上交通の要であった。
 しかしそのために市街地は川で分断された形になっている。
だから地下鉄でその分断された街をつなぐには橋を渡るか川の下をくぐる必要がある。すでに長江の下をくぐる工事はほぼ完成しており、今年内には地下鉄が開業される予定であり、そのための特注車両が公開されたと云うことだ。
 中国では昨年から今年の末までに主要都市の地下鉄開業が相次ぐ予定である。中国のインフラ整備が本格的に進められている。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・帰京

 開封から鄭州までは汴洛(べんらく)鉄道に乗る予定であったが、洪水のために不通になったので、また馬車に乗り十月三日開封を出発し中牟(ちゅうぼう)を経て鄭州に出た。済南を出てから二十余日、行程一千三百里、忠実に仕えてくれた僕(しもべ)の王姓をねぎらって、四日午後三時私は一人京漢鉄道の急行列車に乗った。偉大なる黄河鉄橋を過ぎ太行山に沿って北上、五日に保定に到着し、中津学士を道案内に、甲斐、矢板、太田、竹下、北村諸学士、高等師範の関本、中谷諸君と会い、みんなで歓を尽くした。その間いろいろ学堂を参観しあるいは有名な蓮池所員を訪ねたりなどして、十月九日保定の諸友と別れ、北京の仮寓に旅装を解くこととなった。

 これで山東紀行が終わりました。つづいて次回からは長安紀行です。長安紀行は桑原学士と同行して出発します。桑原学士、すなわち桑原隲蔵(くわばらじつぞう)博士です。桑原隲蔵は東洋史学者で、フランス文学者で京都大学教授の桑原武夫の父君。同じ旅を桑原隲蔵は「考史游記」と言う本で著しています。「考史游記」には「清国文明記」の著者・宇野哲人が序文を寄せています。「考史游記」はすばらしい本で二回読みました。余裕があれば参考に併せ読んでいきたいと思います。「考史游記」はほぼ漢文の書き下し文みたいで、読み慣れないと歯ごたえがかなりありますが、幸い写真が数多くつけられています。岩波文庫で出ていますので興味のある人は読んでください。かなり厚い本です。

2012年4月22日 (日)

幸せに生きる秘訣

 先日ドライブ中にカーラジオを聞くともなく聞いていたら、女性心理学者が生き方の問題についてキャスターの質問に答えていた。「究極のところ幸せに生きるための秘訣は何ですか」という質問に対して、彼女は一瞬間を置いてから「あきらめることです」と答えた。
 何を言っているんだ、とそのとき思ってその後詳しい理由を聞かないままCDに切り替えて音楽を聴いてしまった。しかしその言葉が耳に残ってそのことをずっと考えている。
 それで思い出したのは同じ心理学者の加藤諦三の言葉だ。彼がラジオの人生相談の時に決まり文句で言うのが、うろ覚えなので不正確だが「人生にはどうしようもないことと何とか解決できることがあります。解決できることに立ち向かってがんばりましょう」であった。

 マイケル・ジャクソンはそんなどうしようもないことを何とかしようとして不幸せに死んだように見える。彼は黒人であることを拒否し、白人になろうとした。整形を繰り返し、肌の色を抜くために手立てを尽くした。ついにはその整形が崩れだして化け物のような姿になった。これは彼が悪いわけでは決してないけれども、どうしようもないことはあきらめる、ということが出来なかったことによる不幸だ。そんなことに努力しなければ幸せになれたかもしれない(これは私に見えた彼の姿で彼を愛する人には不快な話かもしれないので申し訳ないことだが)。

 人には違いがある。大金持ちの家に生まれた人と貧乏な家に生まれた人。美しい人とそうでない人。もてる人ともてない人。頭のいい人と悪い人。背の高い人と背の低い人。もっと云えばハンディを持って生まれた人もいる。そのことは事実としていかんとも為しがたいことがほとんどである。そこまで極端な差ではなくても、自分が普通であることすら許せないと考えてしまう人もいる。
 何故自分は容姿端麗で、頭が良くて、異性にもてて、金持ちの子に生まれなかったのか、それを恨むような人間は決して幸せになることは出来ない。

 結構美人で気立ても良さそうな女性と結婚したのに離婚を繰り返す人もいる。離婚を繰り返す人は決して幸せにはならない。完全な女性を求め続けるからだと云われる。

 誰かの文章で読んで強烈なイメージが残っているものがある。インドの貧民街で見たという若夫婦の姿である。二人はカーストの最下層以下の賤民で、暮らしている小屋も形ばかりの、寄りかかれば倒れてしまうようなむしろがけのものだ。若妻はようやく手に入れたわずかの食料を煮て、縁の欠けた器によそっている。着ているものはぼろというのもおかしいような粗末なものだ。折から早朝の朝日が小屋に射しかける。二人はお互いを見つめ合って心からにっこりとうれしそうにほほえみ合う。その姿が朝日に映えてこの上もなく美しかったというものだ。二人はこの上もなくその瞬間幸せだっただろう。

 どうしようもないことはあきらめる、というのが幸せのキーワードだというのはなるほど真理かもしれないと納得した。
(もちろん言うまでもなく努力して何とかなることをサボってあきらめていては自分が惨めなだけで、決して幸せにはなれないことは当たり前である。念のため)

中国ウオッチ・量り売り

 中国では量り売りでの売買が結構多い。その秤が結構いい加減だったりする。当局は秤の正確さを守るため、違法な秤について定期的に摘発を行っているという。なんと最近ではデジタル式の秤に細工をして捜査一つで目盛りの水増し量をコントロールできるものまで出回っているのだそうだ。これだと摘発が入ったときにちょいと操作するとインチキな秤が正確な秤に変身するそうだ。
 現在、市場などでは公的な秤の設置が義務づけられていて、もし秤に疑問のあるときにはそれで量り直して確認できるように出来るらしいが、わざわざそこまでする人はいない。
 秤まで融通性があるのか。基準が変動するのは中国のお家芸らしい。

愚民視

 今回の北朝鮮のミサイル発射に関する政府の情報混乱についてテレビで再三取り上げていた。今回問題とされていたのは14日の7:40にアメリカの人工衛星の熱探知でミサイル発射が探知され、直ちに情報が日本に入ったのに、その事実が国民に発表されたのは40分以上経ってからだったことだ。すでに8時過ぎには韓国やアメリカのメディアはミサイル発射とその失敗を伝えていた。ほとんどの国民はミサイル発射とその結果を見守っているさなかのことだ。
 直接的には田中防衛大臣が非難されていたけれども、国会での質疑や昨日や本日の詳しい状況検証の経緯を知るにつれて藤村官房長官の行動に問題があったことが明らかになってきた。今回の北朝鮮ミサイル問題に限れば、問責決議を受けるべきは藤村官房長官であることが明らかなように思う。
 何故藤村官房長官は情報入手したのに直ちに発表しなかったのか、連絡を受けてすぐに危機管理センターに詰めなかったのか。思い出すのは東北大震災の時の福島第一原発の事故に関連しての菅直人前首相の行動である。全く同じだと思うのは私だけだろうか。
 経験のないことでお粗末な対応になったことは仕方のないことと了解できるが、問題なのは彼らの精神の根底にある考え方なのだ。事実をありのままに発表すると国民に不安を与えて混乱が起こるのではないかという考え方だ。

 極論すれば国民の愚民視である。それは極論だと思いますか。尖閣海域で中国漁船が体当たりをしてきた映像のビデオを公表させなかったこと、スピーディの情報を知りながら知らぬ存ぜぬと言い張る態度、福島原発の状況が常に事実を隠そうとしては顕れるという経緯を辿ったこと、そして今回のミサイル発射に関する発表の遅れである。全て国民にありのままを伝えるといらぬ混乱を招くからと云うのが言い訳である。実際には隠したから混乱したのだが全くそれに気がつくことが出来ていないようだ。

 日本国民には確かに軽挙妄動する、問題のある人がいる。連帯を叫びながらがれき処理には髪を振り乱して絶対反対する人たち。ゴミ処理場の建設や刑務所、精神病院の建設に対して正義の名の下に反対する人たちもいる。人間は自分に直接に関わったときにはいやなものを拒否するのは仕方がないといえるが、それについて忸怩たる思いを持ちながら反対するのではなく、自分は正義で相手は敵、という二元論的な態度で反対するのが問題なのである。問題に関係がないのに正義の旗をかざして外部から焚きつけに来てそれを商売にしているような連中までいる。
 
 菅直人を始めとして旧社会党をバックにしてきた民主党の主要勢力はある意味でそういう人たちを支持母体としてきた。だから日本国民は全てそういう人たちであるという間違った認識をしているのではないだろうか。
 ある意味で、そのような世界観の党に日本の政治を預けてしまったという点で日本国民は愚かだったかもしれない、とその愚かな独りとしてテレビを見ていて考えた。

中国ウオッチ・時速500キロ

 中国科学部は高速列車の特別計画として「列車速度の引き上げ」を行うことを目標に掲げた。
 中国の鉄道車両メーカー・中国南車が先日テスト走行で最高時速なんと575Kmを記録した。列車の状態は良好でさらに速度アップが可能だという(ただし公式発表は520Km)。これはリニアの話ではない。
 この成果をもとに最高速度ではなく、列車の営業速度を引き上げる計画である、と当局は話している。

 速度を上げるほど車両や線路にかかる負荷は大きくなる。完璧に設計通りに作られた線路と列車を前提にするとあるいは実験通りさらに高速走行は可能であろう。普通はかなり安全を見て走行速度を決めている。しかし手抜き工事が横行する中国で限界に挑戦するような走行速度アップをしたら半年や一年は問題なくてもその後に何が起こるか心配だ。 

中国ウオッチ・宿題

 中国ではよくあることだが、福建省アモイのあるビルで女子中学生が一人、エレベーターに閉じ込められる事故が発生した。時間は夜九時、通報で30分後には消防隊員が器具を持って救援に駆けつけたがうまくいかず、メンテナンス会社の人間が到着後、上の階からエレベーターの天井に入り、ようやくドアを開けることが出来た。
 消防隊員によるとドアが開いたとき中学生は床に座って一生懸命宿題をやっていたそうだ。女子中学生はこのビルの住人で「助けを呼んだが誰も気がつかないので仕方なく宿題を始めた」そうだ。


 
 ところで日本の中学生の課外勉強時間の平均は他の国の半分以下だそうだ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・大梁の月

 連日の雨が中秋になって晴れた。この日は朝からあちこちで爆竹の音が聞こえる。かねて親しくしていた間柄では月餅(ユエピン)、果物などを互いに贈答する。月餅は大小の差はあるが、全て月にかたどって円く、その中にジャムや肉類の餡を入れて、その種類はおよそ二、三十種ある。中秋の夜これを明月に供えることは我が国の月見団子と同じ。月餅のほか、柿、梨、桃など全て円形の果物を供え、今日は皆晴れ着を着て相往来して賀意を表するのは御正月と同じようである。
 この夕、加藤君と龍亭に上る。時に日はすでに没して夕照がまださめやらない。明星は早くも西天に輝いている。楊湖の水は一面に煙って、一本の路が夢のように龍亭に通じている。二曾祠(にそうし)といって曾文正公、曾忠襄公を祀った祠が、湖の東方に在って金碧が水に映じている。と見る間に中秋の名月はすでに二曾祠の彼方に出て、色の紅いことは夕照の雲のようで、ようやく上がるに従い銀色を帯びてきて、ついには皎々(こうこう)として白玉のようになった。夕照は全く消えて月影は一つ色に万象を照らしている。門を叩いて僧を呼び、石段を踏んで龍亭に上る。南門の大街の灯火が湖の外に見えて、さながら龍灯のようだ。四顧茫々、楊湖の水に映ずる名月の下に、私たち二人は黙って並んで立っている。城中所々に爆竹の音がして、その絶え間には蘆荻の間に水禽の声が冴え冴えと聞こえる。
 嗚呼私は今梁王の昔全盛を極めた大梁の地、宋の故宮の址に立って名月に対している。伶人(音楽を奏する楽人)玄妙の秘楽を奏して梁塵(梁の上のほこり)を動かし、佳人玉殿に歌舞して行雲を止むる時、金樽玉杯を照らしたのも、この皎如たる名月である。人生の変改窮まりなく、名月は反って古のようである。
  管弦の遊びの跡はありにしを
       むかしながらにすめる月影
雨後泥濘がはなはだしいためか、誰もここへ来て月を賞ずる者がなく、加藤君と共にこの寂寞の境にあって、昔ながらの名月に対し、徘徊去るに忍びない。

2012年4月21日 (土)

毒蛇

 アメリカ人と日本人と中国人が毒蛇のいる穴に落ちた。日本人は恐怖でショック死した。アメリカ人は戦ったが咬まれて死んだ。中国人も咬まれたが・・・死んだのは毒蛇だった。

 

 よくできたジョークだ。中国人にはすでに体内に毒蛇を殺すほど毒がたまっているというわけだが、でも自然に生きる動物は危険を察知する能力がある。中国人には近づかないだろう。

中国ウオッチ・激素牛乳

 中国の大学の先生が、中国の牛乳について「ホルモン注射や抗生物質を浴びるように飲ませた乳牛から搾乳された牛乳は汚染されている。安心して飲めるものはごく一部のみに過ぎない」とすっぱ抜いた。
 これに対して中国乳業協会や大手メーカーは「確かに2005年まではそのようなこともあったが、現在はそのようなことはない」と反論した。
 高齢になって乳の出が悪くなった乳牛にホルモン注射をすることで無理矢理搾乳するのは結構当たり前の手法だったようで、また畜舎での病気予防のために抗生物質をえさに配合することも珍しいことではない。
日本でも鶏や牛、豚に抗生物質を投与することは普通のことである。

 問題はその投与している量であり、一時過剰投与が問題視されたこともあり、現在は日本の場合はかなり厳しく管理されている。
 しかし中国の場合はその管理が問題で、効果があるとなると必要な量をはるかに超えたものが使用されていることが多い。農薬や肥料も過剰な使用が問題なのである(その過剰さも中国の場合は尋常ではない)。

 中国で業界がマスコミの突っ込みに、使用していないはずはないのに今は使用していないかのような回答をしているのがそもそもおかしいのだ。うそをつくと云うことは何か隠しているからに他ならない。
 中国では今「激素牛乳」として話題になっているそうだ。

 ブラックジョークとして「朝起きて下水油で揚げた揚げパンを食べ、メラミンや抗生物質入りの激素牛乳を飲み、違法添加物で処理した豚肉を食べ、農薬まみれの野菜を食べ、避妊薬に汚染された魚を食べ、工業用アルコール入り(メタノール入り)の酒を飲み、硫黄を混ぜたパンを食べ、塩素入りのコカコーラを飲み、革靴ヨーグルトを飲み、気分が悪くなったら皮革カプセルを飲むのが中国人の生活だ」というのがあった。 中国人も日本と同様アレルギー症状を呈する子供が激増するかもしれない。これで名実ともに先進国の仲間入りだ。

映画「鬼平犯科帳 劇場版」

 1995年の映画。ほぼテレビでの配役のままである。先般「必殺」の劇場版を酷評したが、こちらは大変良いできである。あえてクリアにせずにフィルム感のある映像にしたのではないかと思うが、画面に空間の広がりがあって雨のシーンなど特にいい。
 それにつけても「必殺」のお粗末さが思い出される。たぶんセットなどに「必殺」の方が金をかけたのではないかと思うが、嘘くささにさらに脚本のお粗末さがかぶって二重にひどかった。しつこいようだがテレビ以下の作品、テレビはCMで息が抜けるが、CMがない分お粗末なものを息もつかせず見せられた。おまけに配役もひどかった。思い出すだけでまた腹が立ってきた。

 こちらの配役は原作のイメージを壊さない。おまさ役の梶芽衣子(昔から大好き・女囚サソリシリーズは全て映画館で見た)、沢田子平次役の真田健一郎(本当に剣道の腕が優れているように見える)、木村忠吾役の尾美としのり、小房の粂八役の蟹江敬三、大滝の五郎蔵役の綿引勝彦がとくにすばらしい。(おまさ役は真木洋子が演じていたときもあったがこれも悪くなかった)。
 物語は、長谷川平蔵率いる火盗改めが重罪犯をどんどん摘発するために、江戸の街が住みにくくなった闇の世界の連中が、大阪の闇の元締めである白子の菊右衛門(藤田まこと・彼は悪役の方がすごみがあってずっと演技が引き立つ)と結託して長谷川平蔵を亡き者にするか、少なくともお役御免にしようと画策するというもの。
 江戸の闇の世界を仕切っているのが荒神のお豊(岩下志麻)で実は若い頃の平蔵と因縁があった。ついに魔の手は同心達の家族にも及び、平蔵の家族にも危難が迫る。敵の行動の意味をつかむまでの息の詰まるような駆け引きがあり、いったん相手の思惑を見切ると絵に描いたような采配をふるう長谷川平蔵の姿はまことに胸がすく。
 映画はこれでなくてはならない。しつこいようだが「必殺」で余りにもひどいのを見せられたので期待半分で見たが、大満足であった。

園遊会

 19日の「春の園遊会」で天皇皇后両陛下が各界からの招待客にお言葉をかけている様子がテレビで放映されていた。
 その招待客の中に台湾の駐日大使夫妻がいた。陛下は大使に対し、東日本大震災での台湾の支援に深く感謝する、とのお言葉を述べられた。また美智子皇后も大使夫人と英語で会話を交わされた。
 日本の皇室が台湾の代表を園遊会に招いたのは極めて異例のことで、近年では例がないと云うことである。

 このことは20日に台湾メディアで大々的に報じられた。
 このことは日本のメディアでは報道されたのだろうか。寡聞にして知らない。
 中国の何倍もの義援金を、それもどこの国より迅速に国を挙げて集めて支援してくれた台湾に対して、日本政府の謝辞は極めてお粗末なものだった。お礼のための各国への新聞メッセージも台湾には行わなかった。日本の外務省は常に中国を慮る。確かに中華人民共和国を中国として正式に承認した時点で、台湾は正式には国として承認されていない立場にある。しかし今回のような恩義に対して心から謝意を示すのは人として、そして国家として当然のことである。中国がそれを不快に思うのは別の問題である。もしそれを不快であると露骨に態度にだすようなら、中国という国はそれだけゆがんだ国であることを世界に示してしまうから中国は日本が台湾に謝意を示しても何も言わないだろう。それでも外務省は中国に気を遣い、民主党の日本政府はお粗末な対応をしていたようにみえる。
 天皇陛下はだからあえて異例の招待をしてわざわざ台湾の大使に国としての謝意を伝えたのだ。これでやっと日本の謝意は伝わっただろう。それにしても日本のマスコミはニュースの優先順位の感性がおかしいのではないか。特に中国に対するスタンスには首をかしげることが多い。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・繁塔寺

 仁和門を出て右に曲がり七、八町行くと繁塔寺に出る。これは五代の末、周の顕徳年間創建の天清寺址でこの塔のみが残っている。明の万暦四十五年に立てた繁塔寺重修記及び繁塔寺開山源流記があってこの寺の由緒を明らかにすることが出来る。
 塔の高さはおよそ五丈、五重をなし、第三重までは周囲十丈余りもあり、第四重は急に小さくなっている。たぶんもっと大きな塔を建てる設計だったがおそらく費用などの都合で中止ししたものかと思われる。煉瓦は黄色の釉薬をかけて一枚ごとに仏像を彫刻してある。塔の内部は第二重までは上れるが、塔内には大宋太平興国二年と記された石経が二枚、一つには十善葉道経要略、一つには金剛般若波羅密経を刻したものを壁間に挿入してある。
 繁塔の側に晋の師曠(しこう)が楽を奏したと伝えられる吹台(すいだい)と云う小高い丘がある。

2012年4月20日 (金)

映画「旗本退屈男」

 1958年東映映画。市川右太衛門の映画出演300本記念映画。旗本退屈男は1929年の第一作から都合30本作られたが全て市川右太衛門が演じている。
 私も小学生の時リアルタイムで何本か見た記憶があるがこの作品は初めてである。記念作品なだけに配役が豪華で、中村錦之介、片岡知恵蔵、大友柳太郎、東千代之介、大川橋蔵、月形龍之介、大河内伝次郎、里見浩太朗、そのほか女優陣や悪役側まであげたらきりがない。タイトルバックによれば北大路欣也も出ていたはずだがどれだか分からなかった。 物語は伊達騒動を描いている。誰が味方か敵か分からず、意外な人間が悪役側にいたりするが、最後の方で(ほとんど最初からそんなはずがないと思ってみていたけれど)理由も立場も明らかになる。だから早乙女主水之介も相手を切り捨てずに峰打ちだった訳が分かる。
 ちゃんと政岡や鶴千代が出てくるのは伊達騒動らしいが原田甲斐そのものは出てこない。でもよくできていて期待していた以上に面白かった。
 ただ市川右太衛門が余りにも貫禄がつきすぎてしまって立ち回りで息切れするのではないかと心配であった。
 悪役側の原健策、進藤英太郎、薄田研二、山形勲は相変わらず正義側以上にすばらしい。
 ところで片岡知恵蔵と市川右太衛門の顔は確かに並外れて大きい。

茶を飲む

 お茶が好きである。お茶が好きな人がたくさんいるからお茶がこれだけ発達したのだろう。
 普段は緑茶(日本のお茶)、茉莉花茶(ジャスミン茶)、白茶、普洱茶(プーアル茶)を飲む。たまに苦い薬草茶を飲むが続けて飲む気はしない。
 緑茶は弟の嫁さんが清水出身なので里帰りのお土産にもらう。何よりうれしい。特に新茶は最高だ。中国の龍井茶(ろんじんちゃ)も全く発酵させないから緑茶である。杭州へ行くときは必ず買って帰る。かなり高価だが香りが良くてうまい。
 茉莉花茶はやはり中国ではどこでも売っているからついでに買う。ホテルなどでも部屋で飲むお茶は茉莉花茶が多い。茉莉花茶は緑茶にジャスミンの花弁を混ぜて香りを移したものだが、烏龍茶や白茶に混ぜたものは高級品で値段が高い。良いものは香りを移した後ジャスミンの花弁は取り除いてある。
 北京で白茶を初めて買った。飲んだ後口が甘い。ほんの少しだけ発酵させたお茶だ。一番体質に合う。このお茶を飲み出して血糖値がすとんと下がった。今切らしている(一番好きだからよく飲むので当然無くなる)ので次に中国へ行ったら必ず買って帰るつもりだ。
 普洱茶は雲南省に行ったときに買った。普洱茶は発酵茶だがほかのお茶と全く違い、カビで発酵させたもので長期間かけて熟成発酵させるものほど高い。八年ものと10年ものの両方買ってきた。今は八年ものを飲んでいる。独特のかび臭さがあって本物は日本人には人気がないと雲南省の現地のお店のおばさんが言っていた。私は反ってそれが好きである。

 インターネットで調べたらものすごく情報が多い。興味のある分野なのでじっくり勉強してみよう。
 とりあえず分かったことはお茶には大別して六種類あること。発酵の程度や発酵のさせ方の違いで分ける。ただし茉莉花茶を含めて花の香りをつけたお茶は花茶と云って分類は別のようだ。
1.緑茶(不発酵茶)
  酸化発酵を行わないもの。
2.白茶(弱発酵茶)
  ほんの少し酸化発酵をさせるもの。
3.青茶(半発酵茶)
  ある程度酸化発酵を行わせるもの。烏龍茶など。
4.紅茶(完全発酵茶・全発酵茶)
  酸化発酵を完全に行わせるもの。
5.黄茶(弱後発酵茶)
  白茶と同じ工程の後、軽く酸化発酵させたもの。
6.黒茶(後発酵茶)
  緑茶にカビによる発酵を行ったもの。普洱茶など。

 もなさんのブログにもあったけれど今中国ではお茶の値段が高騰している。雲南省で干ばつだったために収穫量が落ちたことで値上がりを見越して買い占めた輩がいるらしい。ただ、余りに高価になりすぎて誰も手が出なくなり、買い支えられなくなって急激に値段が下がりだしていると、もなさんが報告していた。反って中国まで行って買うより横浜の中華街の専門店で間違いないのを買った方が安いかもしれない。
 白茶の買い出しに足をのばしてみようか。

鶏飯再び

 先日の鶏ガラを少し残して冷凍していたので、ゆっくり静かにくず野菜と煮て、スープストックを作った。おいしかった鶏御飯を再び作りたかったのだ。問題は具材だ。鶏皮を細かく刻んで鶏皮自身の油が出るまで炒める。びっくりするほど油が出るのだ。牛蒡、人参を細切りしてその油で炒める、さらにシメジと糸こんにゃくを合わせて炒める。いわでものことだが糸こんにゃくは短めに切ること。水気がなくなるまでよく炒めたらできあがり。米をよく研いでからスープと酒、白だし醤油、塩を適量加えて水の量を調整、それに先ほどの具材をたっぷり加えて炊き込むのだ。
 炊けるまでの間に一杯。つまみはエゴマの練り味噌、ニンニク味噌、ネギ味噌。今回の旅の間に仕入れたものを嘗めながら冷やで飲む。あはははは、笑いたくなるほど幸せだ。
 炊きあがった鶏飯は鳥の脂で米がつやつやと輝いている。水分量ばっちりであったが具材がやや味付けが足りなかったかもしれない。けっこく濃く味付けしたつもりだったが。次の参考にしよう。でもとにかくうまいのはうまい。うますぎたので鶏飯でも酒を飲む。
 この具材にむかごが入っていたら完璧なのだが手に入らない。豆御飯の豆がもうすぐ出回るので今度はそれを入れてみよう。

 旧友から写真付きのメールが来た。旧友もいろいろ出かけて人生を楽しんでいるようだ。ブログを見て楽しんでくれているというコメントがものすごくうれしい。
 そうこうしていたら別の旧友から電話があり、同じようにブログを楽しみに見てくれているという。三月に訪ねた群馬県桐生の友人だ。少なくとも年に一度は会おう、といって別れたところだが、最低二回は会うことにしよう、という。望むところだ。別の旧友を誘ってまた秋頃行こうか。彼は早朝に流す「清国文明記」を必ず見てくれている。独りでも読んでくれる人がいればやりがいがあるというものだ。

 ますますいい気持ちになってちょっと飲み過ぎた。飲みながら「新吾十番勝負 完結編」を鑑賞。その結果はよれよれのブログの感想文に見ての通りである。そのままこたつで寝てしまった。
 今朝は鼻がむずむずする、やたらにくしゃみが出る。風邪を引いていないか心配である。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・相国寺

 相国寺は城の東北仁和門内にある。北斉時代の創立で唐朝に至って今の名に改め、明朝時代に崇化と称し、清朝時代にまた唐の時代の名に戻した。御堂には仏像が三体あり、いずれも慈悲忍辱(にんにく)の相、見る値打ちのあるものであり、製作は決して平凡ではない。堂の右隅には一古鐘がある。鐘の銘は消え失せて古色蒼然たるものである。住僧らはこの仏像と鐘とは共に唐朝時代のものだと云うが、真偽は知りがたい。寺中に六角堂がある。堂内には五百羅漢及び観音を安置してある。殿堂はもとより後世のものと思われるが、その結構は奈良六角堂などと比較研究したら、その道の人には面白いことと思う。さすがに唐・宋以来文学上にも歌われた由緒ある御寺であると思うが、寺の境内はあたかも浅草観音のようである。外国人がこの地に来るのが稀であるから私の後にぞろぞろついてくるもの七、八十人。写真を撮ろうとするとレンズを覗いたりするので、ようようの思いで経楼に上って写すことが出来た。

2012年4月19日 (木)

映画「新吾十番勝負 完結編」

 第三部とほとんど間を置かずに作られたようだ。1960年製作。
 完結編はそれまでにたまったものを解放するカタルシスの体裁を採る。この完結編もまさにその通り、第三部を見てぼやいたとおり、観客を不満の鬱積状態においたものをどのように見事に解放するかがシリーズ物の最後に当たる作品の提供者の手腕である。
 父母を慕うなどと云う弱い心や、女に惑わされる心を振り切るため、葵新吾は山中で滝に打たれ(実際は滝の手前にいて打たれていない・滝に打たれると確かに絵になりにくい)修行に励むシーンから始まるのだが、その後はひたすら迷いの中を相変わらずさまよっている。
 クライマックスは御前試合に示現流を代表して参加して勝ち抜き、ふたたび宿敵武田一真と戦うところである。もちろんその試合に勝つのだが、何故勝ったのかが私には分からない。だって迷っているばかりでそれまでにレベルアップなんてしたと思えない。武田一真の調子が悪かったのだろうか。
 髪型がうるさい。ずっと前髪が左側だけ垂れている。佐々木小次郎ではあるまいし、いい年をしていつまで前髪を垂らしているのだ。いらいらする。ところが、前田一真を仆してやっと父母との対面がかなう場からまたもや逃げ出した姿を見ると前髪はなくなっている。
 やっと葵新吾も武田一真を仆して男になったようである。そうか、葵新吾も男か女か分からない中性の子供から、男性になったようである。めでたし、めでたしであった。

逢坂剛著「平蔵の首」(文藝春秋)

 長谷川平蔵がよみがえった、と帯にある。
逢坂剛の長谷川平蔵は、逢坂剛らしくハードボイルドである。手先となる者達も、与力や同心達も池波正太郎の火盗改めとは面目を一新している。だからキャラクターは長谷川平蔵以外全くかぶらない。

 連作の形で「オール讀物」に掲載した物を単行本にしたものだが、よくできていて大変面白く読ませてもらった。話の流れを全て明らかにせず、謎は謎として読者を引っ張り、最後になるほど、と手を打たせるのは捕物帖のスタイルを踏襲しているし、ハードボイルドもその手法の物が多いから違和感はない。

 だがあえて云う。当たり前のことだがこれは池波正太郎の鬼平犯科帳ではない。逢坂剛の造形した長谷川平蔵であり、新しい物語だ。懐かしい面々には出会えないし、鬼の平蔵の胸の中の、実は熱い血潮のじんわりとしたぬくもりが伝わってくることもない。逢坂剛は物まねではなくハードボイルドで鬼平の世界を再構成したのだ。

 池波正太郎のあの胸がほんわりと暖かくなり、時にまぶたが熱くなる言い回しが心から懐かしい。もう一度池波正太郎を読み直してみたくなった。

眼鏡

 眼鏡を新調したときはとてもしっくりしていてかけ心地がいい。ところがすぐ駄目にしてしまう。眼鏡をかけたまま寝てしまい、ゆがませてしまう、眼鏡をかけてガラスドアにぶつかる(自動ドアと勘違いしたり、そもそもドアがあることに気がつかなかったりする)、眼鏡の上に寝てしまう、踏んづける等々。フレームをゆがめてはまた直すが、最後はどうにもならなくなって新しいのを作ることになる。
 応急処置をしてあるものが2つほどあり、普段用のものの予備、及び予備の予備にしている。ところが普段用も予備用にせざるを得ないほどダメージが進んだ。
 というわけで眼鏡屋に新しい眼鏡を造りに行った。散財のつづくときには次から次に金のかかることが起きる。

 視力検査(これも考えると変な言葉だ。目の見え具合は力なのか)によると近視の度合いがかなり弱くなっていた。確かに最近眼鏡なしでもニュースくらいなら苦にせず見ていた。テレビも大きいし。「これだけきついのをかけていたら疲れたでしょう」と云われた。肩がむやみにこるのはそのせいか。もしや肩の痛いのもそのせいだろうか。
 「老眼が進むと近視は弱く」なるそうだ。3段階くらい近視が改善しているが、2段階だけ弱いものにすることにした。試着用のレンズで見るとものすごく楽に見える。
 新しい眼鏡一式を新調し、今かけているものを予備に格下げ、ただしレンズだけは新しくした。だから予備は予備の予備になり、予備の予備は永久引退だ。かわいそうだが仕方がない。ずいぶん無茶に扱って済まなかった。

 新しい眼鏡は来週出来上がるそうだ。今度こそ大事にしよう・・・と思うけれど。 

中国ウオッチ・温泉

 中国人も温泉が大好きだ。北京や西安のような大都市でも温泉が出るところがある。もちろん日本のように豊富にあるわけではない。
 その限られた温泉に業者が温泉井戸をやたらに掘りまくるために地盤沈下を起こしたり、ついには温泉自体が枯渇してしまうと云う事態が頻発しているという。中国はそもそも地下水自体の量が限られているからたまらない。また温泉を暖房にも利用しているところが多いが、廃熱利用もせずにそれを文字通り湯水のように使って捨てているのだそうだ。
 まことに中国は何でも食いつぶす。

中国ウオッチ・三峡ダムの補修

 長江中流域にある世界最大級の三峡ダムは1993年に本格的に着工し、2009年に完工した。建設過程で住民なんと110万人が立ち退きを強いられた。
 予想されていたことだが、ダムの貯水により支流の水質が悪化し、広範囲に藻類の大量発生、汚水や化学肥料や農薬の滞留が起こっており、住民の飲用水に深刻な影響を及ぼしている。
 さらにダム周辺で多くの地滑りと崖崩れが発生しているという。今のところ直接の被害者は出ていないが、当局は355カ所の地滑りと崖崩れの箇所の大規模補修を行うことになった。さらに5286カ所の危険箇所の監視と予防処置を講じるという。
 この処置のためさらに10万人の周辺住民が立ち退きを命じられた。

 長江水系の流域はアマゾンに次いで広大なものである。ここにこのような巨大なダムを造ることの弊害は中国国内のみならず世界中から指摘されていたことであるが中国はこれを強行した。まだダムが完工して数年で上流域、下流域で異常事態が頻発している。ダムで得られたものと中国がこれからも含めて失うものは全く勘定の合わないものだったのではないだろうか。この項の前に報告したスナメリのニュースもそうだが、今後も長江水系の異常については注目していくつもりである。

中国ウオッチ・スナメリ死す

 中国湖南省洞庭湖に生息する淡水産のイルカ・スナメリが相次いで死亡しているというニュースが報道された。現在までに合わせて12頭の死亡が確認されている。同様の現象は江西省北部の鄱陽湖(はようこ)でも報告されているという。
 中国に生息している淡水産のイルカは極めて貴重であるが、その数が急激に減少していることから絶滅危惧種に指定されている。
 死因は特定されていないが、死体を解剖したところ消化器官に食べ物の残留物が見つからないことだけが分かった。現在伝染病、中毒、単なる餓死のいずれかの可能性が想定されているという。
 イルカは家族単位で行動しており、一頭が死ぬとほかの家族も生存があやうくなることが多いと云われ、事態は深刻とみられる。
 
 揚子江に棲息していたやはり淡水産の揚子江イルカは2006年にほぼ絶滅したと報告されており、スナメリも同様の道を辿るおそれが大きい。
 イルカは河や湖の生態系の最上位に位置する生き物である。河や湖が生態系にとって致命的な環境になればまず最上位の種から絶滅していく。洞庭湖も鄱陽湖も長江(揚子江)の水系である。これが直接三峡ダムの影響とは断定できないが、長江水系が極めて危険な環境変化を起こしている兆候といえるのではないだろうか。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・ユダヤ街

 開封で見るべきもののうちに、宋の時代に西方から移住したユダヤ人の子孫が、今なおこの地に住んでいる教経胡同(きょうけいこどう)というところがある。宋朝の頃のことは詳らかではないが、明朝のとき教民にはそれぞれに住宅を賜って安堵させたという。今その地を教経胡同と云う。胡同とは小巷の意味である。小巷の奥には昔はユダヤ教の寺があったが、今はその跡は陥没して直径三十間ほどの池となって、ユダヤ人の子孫がその池の水で洗濯などをしている。池の辺りに二石碑あり、一つは表に明の正徳年間の尊崇道経寺記を刻し、裏には弘治年間の重修清真寺記を刻してある。今ひとつは池の前方にあり文字が摩滅して読むことが出来ない。私たちの側に集まってきたのはユダヤ人の子孫であろうが、しかし、幾度か中国人と雑婚した結果、容貌などは少しも区別が出来ない。服装も全て中国人と同様である。ある西洋人はかつてこの池を探って、ユダヤの経典を容れた箱を見つけたことがあると云うが、今はあの二石碑のほかは何らの遺物もない。

2012年4月18日 (水)

映画「新吾十番勝負 第三部」

 1960年東映時代劇映画。先般第一部第二部の連結篇をみたがその続き。父とも思っていた師の梅井多聞を武田一真に仆された葵新吾は、仇を伐つべく立ち上がるが、師でもかなわなかった武田一真にかなうべくもない。この第三部は葵新吾の迷いの過程を辿る物語だ。
 この映画で原健策が出ている。この時代劇の脇役が昔から好きなのだ。この人の娘が松原千明。原健策はテレビの「忍びの者」での百地三太夫役が特に絶品だった(品川隆二も良かった)。
 閑話休題 やはり大川橋蔵はそもそも女形だ。歳と共に目立たなくなるがこの映画でも仕草はほとんど女形そのもの。だから徳川吉宗の隠し子としての悲劇の若者としての部分はそれなりにはまっているが、女性が絡むとなんだかどちらが男か女か分からなくなって気持ちが悪い。そして剣豪としての部分ではなんだか顔と似合わず嘘くさい。ところがよく見ると肘の部分などをみると結構がっしりしていたりする。刀を振り下ろすときの刃筋などはさすがにぶれがない。テレビで時代劇を見ていると、三流役者やアイドル俳優などは刃筋が波打っていたりして笑わせる。
 見て感じただけだけれど、剣士が二人抜き合わせたとき、それぞれが構えに入るときの剣は金属を使っているようだ(まだ斬り合いがないから安全なのだ)。勝新太郎のように真剣を使って(真剣を使ったために勝新の息子はそれで相手役を突き殺してしまった。事故と云うことになったけど)いないかもしれないが、刃引きの模造剣か、ジュラルミンの剣であろう。だから光り方が違う。立ち回りはもちろん竹光に銀紙と云うところか。それでもリアリテイがある。
 次の完結編がもう少しちゃんとしていれば良いが、この程度のままだと最初だけで続編を作らなかった方が良い映画と云うことになる。明日はそれを見てみよう。

中国ウオッチ・希望小学校の売却

 中国黒竜江省ハルビン市のある村(住人450世帯)にある唯一の小学校は、2002年に日本人男性(すでに故人とのこと)の寄付などで建てられた。総額52万元の経費のうち日本人からの寄付は25万元、残りは村が経費を出したものの20万元の借金が残ってしまった。
 村はこの借金を返すことが困難(たった20万元!260万円くらい)であるとしてこのたびこの小学校の売却を発表した。村は50万元で売却予定であるが、すでに数件の購入申し入れがあるという。

 これに対して、村民は出来て10年も立たない小学校を何故売却するのか、と怒っているという。売却を決めた幹部は「学校が大きすぎて半分空いている。雨漏りもしている。生徒にとって安全とはいえない」と云っている。
 ところがこの小学校の校長は「これほど設備の整った学校はない。広くて保温も効いている。村で決めたことなら仕方がないが、これと同じような学校は手に入らないだろう」と嘆いているという。

 この違いこそ中国そのものだ。村の幹部達はこの売却でどれだけ懐に入れるだろうか(たぶん売却額は50万元どころではないはずだ)。この小学校が売却された後、どんな小学校が建設されるだろうか。たぶん売却前と比べて、村の借金は増えることはあっても無くなることはないであろう。

島崎敏樹著「幻想の現代」(岩波新書)

 著者は有名な精神病理学者。著者の兄は西丸四方(精神病理学者)、弟は西丸震哉(生物学者で冒険家)。三人とも著書多数の高名な学者である。兄弟の母親は島崎藤村の姪。
 この本は1966年初版。著者は1975年に63歳で物故。

 学生時代から心理学や精神病理学に興味があり、ずいぶんその関係の本を読んだので、著者の本も西丸四方の本も何冊か目を通した。兄弟共に島崎藤村の血を引いているからか、文章が達者で読みやすい。

 この本は精神病理学の入門書というわけではない。現代の一点景をもとに自由に文章を綴ったものだ。中に挿入されている写真の多くも著者本人のもののようだ。ただ精神病理学者の視点は常にそこにあるわけで、当たり前に見過ごされる事柄が鋭く見つめ直されている。

 当然この本の現代は1960年代を云う。50年前の現代を改めて21世紀の現代とオーバーラップさせながら読んだとき、著者の見つめる現代がかなり暗いものであることに驚いた。日本が都市化し、自然が失われていくことをずいぶん深刻に受け止めている。私が、乃至私たちが受け止めていた当時というものはもう少し未来を明るく受け止めていたものだが、著者は日本人の精神そのものの未来の荒廃をすでにあきらめと共に予感していたようである。

 世界の実像と虚像を鋭く見透かしていた著者の慧眼に敬意を表する。

新東名

 深夜千葉を出発し、新東名に初乗りして払暁前に名古屋に帰ってきた。

 

 新東名は評判に違わず快適だった。二車線のところと三車線のところとがあるが、二車線のところも一車線のスペースの用意があるようで、たぶん全て三車線にすることが可能のように見える。
 何より路面が荒れていないから走行がスムーズで走行音も静かだ。云われるように高低差をなるべく減らし、急なカーブの部分がない。これはトンネルを多くすることで回避していることがよく分かる。
 トンネルは天井が高く、ライトの位置がユニークでしかも照射方向に工夫が凝らされているので極めて快適に走ることができる。走り慣れていない人はどうしてもトンネルの圧迫感からスピードを落としてしまう傾向があるが、このトンネルならそういうことが防げるだろう。

 深夜の東名はトラックだらけである。トラックの中にはなかなかスピードの出せないものがあり、遅いトラックをやや遅いトラックが追い越すために全体のスピードが落ちてしまうことが多い。トラックがしばらくの間横並びになって車線をふさぐことになり、極めて走りにくい。追い越しの回数も多くなるから危険も増す。
 新東名のおかげでそのトラックが分散し、全体のスピードの低下が起きにくくなった。ただ快適に走れるためにスピードが出やすい。今までの東名と比べてスピード感がまるで違う実感だ。120キロで走っても100キロくらいにしか感じないところがあるので、意識していないと気がつかずにスピードオーバーで走るおそれがある。
 ときどきとんでもないスピードで追い越していく車がある。150キロどころではない、170~180は出ているのではないかというのがサーキットと勘違いして走り抜けていった。ああいうのが大きな事故を起こすかもしれない。細かい違反チェックは不要だが、極端なものだけは取り締まった方が安全だし、新東名の評価を下げずに済むのではないだろうか。

 

 快適だと眠くなる、と心配する向きもあるらしいが、快適なためにいつもの休息回数より少ない回数で疲れも少なく、全く眠くなることもなく、予定より早く名古屋に帰着することができた。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・鉄塔

 龍亭より四里、城の東北隅に鉄塔(テーター)がある。古い寺がすでに廃頽してわずかに半壊の大雄殿がある。門の隙間からみると、銅仏は雨露に晒されて火宅の世のさまを示している。鐘楼の跡に半ば地中に埋もれた古い鐘があって、その款文順国泰民安風調雨の八字がなお鮮やかに読める。鉄塔はこの半壊の大雄殿の後ろにある。全て煉瓦で築かれ、その色は銅のようで、堅いことは鉄のようである。それ故に鉄塔と云うとのことである。煉瓦には全て仏像数体を刻んである。その製作はすこぶる精巧であるが、いつの世のものであるかは詳らかでない。開封の人、傅銅(ふどう)君の話によると、唐朝の尉遅敬徳(うつちけいとく)の建立と云うことである。塔は八面十三重で、もとは上層まで登ることができたが、今はその道を充塞してある。

2012年4月17日 (火)

高橋富雄著「義経伝説」(中公新書)

 著者は執筆当時東北大学の教授。
 この本は昭和41年初版。昭和52年に改版されたものを当時購入して読んだ。今日親元に置いてある古い本を整理していたら出てきたので、拾い読みしたら面白くて一気に読んでしまった。
 源義経については実は裏付けのとれている史実が案外少ない。そして歴史書に書かれたり、当時の日記に残されているものにもそれぞれ偏りがあって学問的に彼の連続した生涯をまとめるのが難しいという。その代わりあとで作られた物語はいくつもある。
 著者はその空白がなぜ存在するのか、そうして残されている記録や物語の違いは何故なのかを一つ一つ比較検証しながら論理的に空白を埋めていき、異なった記述の一番妥当なものを選んでいく。普通の歴史学では事実と物語を峻別してそぎ落としていくのだが、そうすると何もなくなってしまうのであえて物語も材料に取り込んで考えていくというとても面白い方法で源義経の生涯を再構成している。

 そもそもたった二年間であの栄華を極めた平氏を討ち滅ぼしたのに何故兄の頼朝に死へ追い込まれなければならなかったのか、ここがどうしても理解できない人が多いと思う。政治的なものが背景にあるとは云え、理不尽だと感じる人が多いはずだ。それは昔のひとも同じで有り、だから義経伝説が生まれたともいえる。
 その辺の疑問はこの本を読んだからと云って拭えたわけではないが、そのときの日本全体の状況の中で義経がどういう役割を演じさせられていたのかはおぼろげに分かった。これはいま平清盛がNHKのドラマの中で苦闘していくであろう政治の世界そのものでもあるのだ。何故源頼朝が京都から離れて鎌倉に幕府を開いたか、改めて得心した。
 奥州平泉で義経主従が「東の方の奴原に目にもの見せん」と叫んで憤死したとき、東の方の奴原(やつばら)というのは誰を指すのか。そのとき彼らを直接的に攻撃していたのは藤原泰時だが、彼らを指しているのではない。まさに鎌倉の頼朝を頂点にする武士の集団だったのだ。そのとき義経主従の視点は西の方に会った。つまり京都である。このことを理解したとき義経の気持ちと立場が少しだけ分かったような気がする。

意外な薬害

 もなさんのブログにも今中国で大々的にニュースになっていると伝えていたが、薬のカプセルから基準をはるかに超える重金属が検出されたという。カプセルの原料に使うゼラチンを作るのに、皮革工場の廃皮革などを用いてゼラチンを抽出していたらしい。皮革はなめし行程や染色工程で重金属が使われる。当然そこからゼラチンには重金属が含まれることになってしまう。これは薬を選ばないからかなり多岐に亘って流通していたおそれがある。
 日本では(たぶん中国でも当然そうだろうけれど)薬事法により、医薬品は局方に定められた材料と設備と製法で作られることになっており、その監査は過剰なくらい厳しい。もし違反すればその企業に致命的な罰則が科せられる。でも中国はまだまだやりたい放題のところがあるようだ。
 
 大人の男のお薬に詳しい友人によると、今迷惑メールなどで盛んに売り込まれる安価なその関係のお薬はほとんど中国製だと云うことだ。外観や注意書きまで全く本物と変わらないらしい。代行輸入などで安く手に入れようとすると、アメリカやカナダに依頼したつもりが中国語の送り状がついてくるのだそうだ。
 実は何をのまされているか分からないのだ。ただ薬は効くと思って飲むと効くこともある。でも後で怖い副作用があってもいけないからやめておいた方がいいと思う。

芥川龍之介著「上海游記 江南游記」(講談社文芸文庫)

 名文である。同じ人間なのにどうしてこれほど違うのだろう。不勉強による素養の違いは努力するとして、文章力のいくらかだけでもあやかりたいものだと思うが、いかんとも為しがたい。
 今毎日少しずつ口語文に意訳(違訳と変換されてショック)している宇野哲人の「清国文明記」をはじめ紀行文、特に中国関連のものは好きなのでいくつか読んでいるが、この本も以前流し読みした。今回じっくり読んでみて改めてそのすばらしさを実感した。この本は声を出して読んだ方がもっと良く味わえるような気がする。
 以前読んで印象に残っていたのが、(私も好きな)杭州に夜、列車で到着して人力車で夜の杭州の街を走る部分である。ほとんど灯りのない中でちらり、ちらりと垣間見える白壁や街路樹、そして西湖の水面、そこからかすかにかおる水のにおい。暗闇だからこそ五官で感じる杭州がそこにある。
 それこそ全編を全て引用したくなる本だ。そのすばらしさをすばらしいという月並みな言葉でしか伝えられないのが悔しい。読んで絶対失望しない本である。

Photo上海・豫園

Photo_2同豫園

Photo_3上海・外灘

Photo_4蘇州・運河

Photo_5蘇州・寒山寺

Photo_6蘇州・拙政園

Photo_7蘇州・拙政園

Photo_8杭州・西湖・雷和塔

Photo_9杭州・西湖夕景

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・宋朝故宮

 三宅君と一緒に宋朝故宮に遊んだ。俗に龍亭(ルンテン)と云っている。調べると「方輿紀要(ほうよきよう)」に龍徳宮は城内西北隅にあり、宋徽宗の潜亭であったが、即位後これを広むとある。すなわちこの龍亭である。亭の四周には周回四清里の池があって楊湖という。龍亭はあたかも不忍池の中の弁天と云ったような具合で、島も池も今一層規模が大きいのである。真武殿を過ぎ石段を五十段余り上がると亭に到る。亭は黄色の瓦で葺かれている。うちには玉皇を祭ってあるが、御座の下板囲いのうちに灯を点してはいると、約四尺角ほどの大理石の柱があってこれに龍が刻してある。たぶん古宮殿の柱であったのだろう。廟前に立って四方を観望すると、街衢は脚下に見えて四方の城楼のみは高く城壁に聳えている。東南隅に相国寺の塔、東北隅に鉄塔があるほか、四望平坦、一山の目を遮るものもない。北方に黄河を控えてはいるが、真にこれ四通八達の地である。張儀がかつて魏王に説いて、
  魏地四平、諸侯四通、条達輻輳、無有名山大川之限、
  魏之地勢、故戦場也、
と云い、酈生(れきせい)もまたかつて漢王に説いて、
  陳留天下之衝、四通五達之郊、
と云ったのはその通りであった。開封は中国四百余州の中央であるから平時天下に号令するには差し支えないが、いったん兵馬が動けばすぐに戦場となり、その地勢は守るのに困難である。故に宗の太祖は最初にこの地を都にしたが、後さらに長安に遷都のことを議したのはもっともである。遷都はついに果たされず、金が長駆して河北に侵入するに及んではこれを支えることができなかったのは当然である。私は今その故宮に来て宋朝が覆滅した跡をみて思うに感慨がひとしおである。眼下の池水には漂母(ひょうぼ)すなわち洗濯婆多し。彼らの誰が亡国の恨みを知っているだろうか。

2012年4月16日 (月)

江國滋著「滋酔郎俳句館」(朝日文庫)

 滋酔郎は江國滋の俳号。小沢昭一や永六輔達と「やなぎ句会」を結成して長年句作を続けてきた。辞世の俳句「おい癌め 酌みかはさうぜ秋の酒」。1997年にもうすぐ64歳というところで死去。
 内田百閒を敬愛するという文章を目にした縁からこの人のエッセイを読むようになった。大好きなエッセイストのひとりである。この本は1986年に単行本で出版され、1989年に文庫本で再版された。元々は週刊朝日に一年間連載されたもの。私も再読である。
 私は詩が苦手である。詩の好きな人はそのイメージの世界に遊び、そらんじて口ずさむ。私は何遍読んでも貧困なイメージしか湧かず、全く記憶することができない。ただ漢詩だけは時々声に出して読む。何編かはやっと覚えた。俳句は昔から興味がないこともなかった。私の敬愛する森本哲郎先生が、蕪村について本を書いており、丁寧な解釈を受けたのがきっかけである。
 西洋哲学では言葉は論理(ロゴス)であるという。論理は曖昧さを許さない。ところが俳句は世界最短の定型詩だ。言葉を過剰に盛り込む余地がない。だから一つの言葉が、たとえば和紙に薄い墨で書かれた文字のようににじんで広がり、次の言葉と接点があるようなないような、ぎりぎりのところでつながって世界を構成する。そのにじみを楽しむのが俳句のもととなった連歌の精神であり、もちろん俳句もそうであるという。これは森本先生の言葉を自己流に解釈したものだけれど。
 この本にはそのような理屈は全く書かれてはいない。著者の句や他人の句をそのときどきのテーマに即して拾い上げ、俳句流の(にじみをつなげる)手法で並べてある。博識で交友の広いこの人が繰り出す世界は広くて深い。楽しんで読んでいるうちにかなりハイセンスな世界に連れて行ってもらえる。俳句の好きな人はもちろん、詩なんか苦手だ、という人も一度この本でその楽しみを教えてもらうとよろしい。

和田秀樹「まじめの崩壊」(ちくま新書)

 日本人はまじめだと海外から云われてきた。その日本人のまじめだという神話が崩壊しつつある。
 国民の性格は時代と共に変わっていくと著者は分析する。まじめであることを美徳と考えずに嘲笑の対象とするような風潮がある。団塊の世代が狭き門を目指して必死で勉強したときそれを受験戦争と呼び、灰色の青春と云った。何もそれほどのことではなかった。ほとんど嘘である。だがその渦中にいればそこから逃げ出したくなってぼやきもするし自分がサボっているのにまじめなものをこき下ろして言い訳するものも数多くいる。それにマスコミが迎合して大げさに言っていただけだ。まじめなやつはのし上がり、不まじめなやつもそこそこにやっていた。

 時代が変わってちっとも競争が厳しくなくなったのに相変わらず受験戦争だの灰色の青春だのという言葉だけが生き延びたからおかしなことになり、マスコミに迎合してゆとり教育、などというものが出現してしまった。そうして手抜き教育が行われる一方で学校を出てもまともに就職もせず、自分を大事にする生き方などというものが無責任にもてはやされた。それに乗せられてフリーターなどと云う働きたいときだけ働いて後は自由にたのしむという学生時代のしっぽをつけたままの未成年が大量に出現した。何のことはない。自分を大事にするなどと云うのは親のすねをかじって巣から飛び立たない半端者の言い訳ではないか。一番悲劇なのはニートという、精神にまで変調を来してしまった若者達だ。楽なことを美しいなどと言い換えてインチキしても、いつか巣立たなければ親は歳をとりいずれ死んでしまうから誰もえさをくれなくなってしまう。彼らが大量の生活保護予備軍になっているのではないか。

 どうも現職を離れている人間としてえらそうにいえないが、それでも生活費の大半は自分が蓄えた金でまかなっているのである。まじめに働いた金である。

 本の紹介のはずがあらぬところへ走ったが、日本人がまじめを笑いものにする風潮に染まり、嘘がそこら中でまかり通っている現状について、著者の専門である精神科の分類で分析しているのがこの本である。ひとを性格傾向でメランコ人間とシゾフレ人間とに大別し、日本が国としての傾向がメランコ人間からシゾフレ人間の多い国に大転換したという。思い当たることの多い実例を挙げて解析されており勉強になります。私のコメントはこの本のほんの一部に関して考えたことを書いたもので、この本で言及されていることはもっと多岐に亘っています。今や日本はまじめな国ではなくなっていることを心の底から実感します。

 そういえば嘘八百を並べて政権をとった民主党などと云うのもまじめの対極にあるともいえるな。それに乗せたマスコミと、うそとしりつつ乗せられた我々もまじめとはいえないし、といってどこにもまじめな政党がないというのも事実だ。確かに日本はまじめが崩壊している。

生活保護

 年金を納めない若者が増えているという。

 年金を納めていなかったので年金を受けることができず、しかも職もなく、蓄えもない人が生活保護を申請するケースが増えているのだという。その生活保護で生活する方が年金生活より収入が多いこともあるらしい。昔は生活保護を受けることを恥として歯を食いしばって凌いだ人が多かったが、今は恥などという言葉が死語になったかのように平気で何のためらいもなく申請する人が多いという。

 年金を払わない若者とまじめに年金を払っている若者のどちらが貯金をするだろうか。年金を払わない分だけでも貯金しているだろうか。たぶん逆だろう。まじめに年金を払っている人は貯金もしているだろう。年金なんてどうせもらえるかどうか分からない、と嘯いて払わない人は貯金もしていない人が多いのではないか。

 しかしそういう若者達にも老後は来る。今増えつつある生活保護申請の人にもそういう人たちが混じってきているのだろう。本当に手をさしのべなければならない人の分を彼らが奪っているともいえる。だが自分が悪いからと云ってその人達を路頭に迷わせるわけにも行くまい。マスコミも年金の不備ばかりを糾弾するのもいいが、何の考えも無しに蓄えもなく生きてきて年金も納めず、生活保護を申請する人に対して態度を明らかにして欲しい。みのもんたも年金を払ったら馬鹿をみるかのようなことばかり云わずに、みんなでちゃんと年金を払いましょう、その代わり配分には目を光らせましょう、というぐらい云ってもいいのではないか。そもそもみのもんたは年金なんかなくても生活できるひとだろう。人ごとなのだ。自分の予言通り年金が破綻したとき「どうだ、俺の云ったとおりだろう」と胸を張れる日を待ち構えているかのようだ。そう予言することで年金を払わない人を増やして年金を破綻させるのに手を貸しているように見える(もちろんみのもんたは機を見るに敏で、マスコミ全体の論調に迎合しているだけなのだが)。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・開封府

 昔孔子が四方を流浪したとき、儀の封人が孔子に会った後、弟子にむかって、天将に夫子を以て木鐸と為さむとす(天は孔子を口の利けない木の鶏にしようとしている、というほどの意味か)、と云ったところは、今、儀封郷といい、河村集の西三十余里にある。蘭儀を経て二十六日午前九時半開封に到着した。
 開封府はいま河南の省城である。戦国の際、魏がここを都として大梁という。孟子が千里の道を遠しとせずやってきて、梁の恵王にまみえたのはこの地である。もと汴水(べんすい)がこの城中を流れていたのでまた称して汴梁(ベンリャン)とも云う。宗の太祖がまたこの地に都して東京と云う。のち金がこの都を陥れてからは汴京(べんけい)とも南京(なんけい)とも云う。至元年間ことごとく天下の城を毀ったとき、この城もその数に洩れず、宋以来の東京城(とうけいじょう)は毀たれてわずかに土阜のみとなったが、明の洪武九年再びここに築いたのが今現存するものである。宋の旧都は周囲四十余里あったと云うけれど、今の城は周囲二十里である。城門は全てで五つ、東を麗景、西を大梁、南を南薫、北を安遠、東北を仁和と云う。規模の大きさは遠く北京には及ばないが、さすが旧都の地であり、済南などよりもはるかに雄大である。済南では工隊というものが毎朝不潔物を浄めるけれども、ここにはその設備がないものと見えて到る処不浄が横たわっている。済南は天津、芝罘、青島等に近く、外国の影響を多く受けることが大きく、市中到る処に我が国の雑貨を見受ける。また東洋車(トンヤンチョー)すなわち人力車も多く用いられるが、開封は開港地に遠いためか我が国の雑貨はぽつぽつと見受けるものの人力車は一つも見受けなかった。
 開封には二十六日から十月二日まで、約一週間滞在し、その間小栗洋行に寓して、折良く天津から来た加藤信行君、及び当時高等学堂に招聘された当時唯一の日本人三宅喜代太君とを東への道連れに、当地の名勝を探りあるいは中秋の名月を賞した。不幸にも連日の雨で十分調査する暇がなかったのが遺憾である。

2012年4月15日 (日)

凋落

 技術が極まると品質が落ちると云うことが起きることがある。

 繊維の生産工場を得意先として仕事をしていた。昔北関東地区は養蚕が盛んで、絹織物が日本の輸出産業を支えていた時代もあった。シルクは目方で売買される。日本のシルクが人件費の高騰などで中国などのシルクに価格的に太刀打ちできなくなったとき、アメリカが日本の繊維製品に輸入規制をかけたように日本も中国製品に輸入規制をかけた。しかしその規制を破る手立てというものは必ずあるもので、日本の絹織物は危機に瀕した。そのときに何をしたか。絹に増量をかけたのだ。絹に特殊な薬品を処理することで絹の光沢や触感を全く損なわずに目方を二三割増やしたのだ。これによりコストダウンして対抗した。

 綿の紡績でも同様の話がある。綿の品質は綿花の一本一本の繊維(わたのあのごく細い一本)の太さと長さで品質と価格が決まる。もちろん細くて長いものが高価なのだ。いわゆる超長綿と云われる海島綿やエジプト綿などは細くて長い。細くて長い綿花を使えば細くて丈夫な糸を作ることができる。品質の悪い綿花は太くて短い。こういうものは太い糸にしかならない。品質のいいものは光沢があり白くて悪いものは色がついていて光沢もない。日本の綿紡績の技術は世界一だった。糸のムラがほとんどない均一の糸を作る技術に優れているのだ。糸にムラがなければ弱い部分もできにくいので強度が高い。品質の低い綿花で細い糸が作れることになる。もちろん糸は細いものほど高く売買される。そうして技術が進むとさらに低品質のものを混ぜて細い糸を作るようになっていった。時代も細い糸を使った軽い製品を求めていた。

 中国や東南アジアのシルクや綿は、確かに均一性では日本のものより劣っていた。しかし原料は良いものを混ぜ物無しで作ることができる。そして紡績の機会の良いものが使われるようになれば日本と変わらないようなものが作られるようになっていく。そうなったら結果は明らかだ。本物が勝つに決まっている。

 現在日本では絹はほとんど家内工業的にしか生産されていない。綿紡の会社はほとんど海外に移ってしまった。ある産業が凋落していくのをリアルタイムでみた。

映画

 映画の出来不出来というのは一概には言えないところがあるが、それを単純に(乱暴に、というべきか)0点から100点に絶対評価したものがあるとしよう。同じ50点のアメリカ映画と日本映画があったらどちらをみるかと云えば躊躇なく日本映画を見る。
 私にとってはその日本映画は70点に、そしてアメリカ映画は40点に感じられるだろうからだ。この場合アジア映画は60点、ヨーロッパ映画は50点か。これは比較のために感覚的なものを説明するための数値化であってそれ以上のものではないが。
 ではその日本映画がしばしばつまらないのはなぜだろう。これはちょっと考えれば当たり前のことで、日本に入ってくる海外の映画は選別されているが、日本映画は公開されたものを全て見る機会があるからだ。つまり合格点以下のものも見る機会が多いからだろう。

 映画を映画としてみるには映画館しかないと思っていた。まず画面の大きさとその画質、そして何より音響の効果が大きい。テレビではNHK以外ではCMの阻害が大きいし、画面のカットもあった。それが衛星放送になり、デジタル化し、ハイビジョン化して画面のカットもなくなった。大画面のテレビ(52インチ)を購入して5チャンネルのサラウンド(残念ながらウーファーがないので5.1ではない)で鳴らし、遮光カーテンで部屋を暗くして、自宅にいながら映画館と同じ感覚で映画を見ることができるようになった。
 子供の時自宅に映画館を持つのが夢だった。映画のフィルムを購入するか借りてきて自分で映写したいと思っていた。それが今ブルーレイディスクに録画したものをコレクションにして、自由に好きなときに見ることができるようになったことは何よりうれしい。ただ最近は余りにもコレクションが増えすぎて(500本以上ある)どこに何があるか分からなくなってしまった。とりあえずアイウエオ順にはしているが、どんどん増えるので収拾がつかない。

 WOWWOWやNHKの衛星ハイビジョンのいいところはアメリカ映画に偏っていないことだ。アジア映画やヨーロッパ映画も多いのがうれしい。何より日本の映画が選別された形で、しかもシリーズものをまとめて特集で放映してくれることだ。先日は寅さんの48本全てをコレクションした。座頭市も全て録画した。待ち望んでいるのは藤純子の緋牡丹博徒シリーズだ。DVDで買って持っているが、画質が不満なのだ。ついに「御用金」を録画することができたのも感激だった。そして最近では「山猫は眠らない」(これはアメリカ映画)の1~3全てを録画することができた。見直すのが楽しみだ。

 今は旅の最後に実家にいる。原因不明であるが、言葉が不自由になっている老母とコミュニケーションもできずに向かい合ってただ座っている。それでも寄るのを待ちわびていてくれたらしい。ありがたいことだ。でも早く家に帰って映画が見たい。散財を続け、これからトイレ工事や健康保険料やなにやかや立て続けに金がまたかかるから、二三日後に帰ったらしばらく家で映画と読書、そしてフィルムスキャンで不健康だが清貧な日々を送ることにしよう。旅の虫がうずき出すまでのつかの間だけれど。どちらも楽しい。幸せな私。 

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・淤黄河

 単県より曹県、考城を経て、二十四日河村集に到る。地図で見ると、考城の西から南へ亘って淤黄河(おこうが)がある。淤黄河とは黄河の故道である。そもそも黄河は崑崙から出て数十の川の流れを併せ、滔々数千里流れて海に入る。由来中国文明は黄河の流域に胚胎したもので、黄河の一石一波はことごとく幾多の歴史を語らないものはない。これを史上にみてみると禹(う)が洪水を収めてより以来河水はしばしば氾濫し、沿岸の地を一掃して空しくしたことも稀ではない。特に河南省鞏洛(きょうらく)以東は流域がしばしば変じて、ことごとくその古い流れを推察することは容易ではない。現在黄河は山東に出て、いわゆる四瀆(しとく)といわれる江、河、淮、済の一つである、済河に注いでいる。昔はその水が清らかであるためにまた大清河と呼んでいた済河も、今は濁流滔々として済南の北を経て渤海に注いでいる。老黄河は今の黄河よりもさらに北方にある。そして淤黄河は河南の儀封から東南に折れ、帰徳府の北を経て江蘇省に到っている。この日私は淤黄河を過ぎ現状を見極めようと思った。黄河の古い流れはすでに廃れたけれども、なお一本の水流くらいはあるのか、あるいは砂礫が累々ととした痕跡が判然とのこっているのではないか。考城を出てから西に行くこと二十里、一帯の長い堤があり、これをこえていきながらも少しも怪しまなかった。ふと気づくとあるいは柳が生えあるいは開墾したところもあるが、多くは雑草が生い茂り、また蘆荻(ろてき・蘆と荻)が生じている。地質も砂土で雨が降っても泥濘とならない。そこで怪しんで車の上に立ち上がりはるかに前後を望見すると、一帯の長堤が東西に連なり水に洗われた痕跡がありありと見える。知らぬ間に私の車は今黄河の古い流れの中を進んでいたのである。河心はしばしば長堤の外の田圃より高い。私が宿泊した河村集と云うのはこの古の河心にある。昔は狂瀾怒濤澎湃として天を打ったところが今は一変して炊煙柳条を罩める(すいえんりゅうじょうをこめる・柳に囲まれた人家のあるところ、というところか)村里になったのである。

2012年4月14日 (土)

魚津から松本へ

 魚津で水族館と埋没林博物館を見た。前から行きたいと思っていたところだ。水族館はこじんまりしているが充実していて良かった。埋没林博物館は期待以上だった。是非寄ってみて欲しい。その値打ちはある。

120413_8この葉っぱみたいのが魚だと分かりますか。

120413_11ミノカサゴ。

120413_14ピラルクーだったかな?

120413_20埋没林博物館。海中の様子を再現している。気持ち悪いぐらい神秘的。

120413_29埋没林博物館の外観。ハイビジョンシアターの映像などもすばらしい。有名な魚津の蜃気楼の映像が見られる。

120413_47親不知の断崖。

120413_49親不知の道の駅の名物、たら汁定食。ボリューム満点。

120413_50道の駅は北陸道の下にある。左が食堂で右が魚介類などの土産物の売店。

120413_55白馬の辺りで八方尾根方向を撮影。

というわけでそのまま松本へ。友人宅で四時頃から痛飲。飲みまくりしゃべりたおしてそのまま寝た。今ボケボケである。今日は雨。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・節孝坊

 単県は節孝坊の多いこと、曲阜に次ぐ。これは勅旨を以て褒賜して節孝の婦人を門閭(もんりょ・家の門や村の入り口の門)に旌表(せいひょう・立派な行いを褒め称えること、または褒め称えた文章)するのである。城中ばかりでなく、また単県だけではなく、節婦の碑は中国全国到る処に見る。烈士ははなはだ少なくて節婦ははなはだ多いのはなぜだろうか。
 由来中国婦人は悍(かん・気性が荒々しいこと)にして御しがたい。故に孔子も女子と小人は養いがたしと云ったのである。世人往々中国を称して男尊女卑の国という、なるほど古来の風習によって女子の社会上における地位が極めて低いのは事実であるが、家庭における婦人の権利ははなはだ強い。外観は別として実際は案外女尊男卑と云ってもいいくらいである。婦女子にも案外人物が少なくない。しかし、この節孝坊が多いのは裏に幾多の悲惨な事実が潜んでいるのを忘れてはならない。中国人は一門の名誉を得るために、往々にして若くて未だ子供のいない寡婦に、夫に死別れて悲嘆に暮れているのを慰謝するどころか、迫って自刃させたり食を与えずに餓死させることがある。これは貞節を重んじる儒教の流弊(りゅうへい・悪い弊害)で、実に驚くべきことである。

2012年4月13日 (金)

松本にいます

蛸島・珠洲・能登島

 蛸島の廃駅を見に行った。

120412_36旧蛸島駅。中に入ってホームに立ってみたかったが厳重に閉まっていて残念ながら入れない。

 この後除くことを勧められた珠洲の道の駅・すずなりへいく。するとなんと珠洲の駅のホームが綺麗に整備されて目の前にあるではないか。

120412_37珠洲駅のホーム。ゴミだらけでは入れない蛸島駅と違ってゴミ一つなく、ホームに上がれる珠洲駅。

120412_38今にも列車がやってきそうだが、もちろん廃線になっているので、待っても来ない。もとの駅舎が珠洲の道の駅の駅舎と云うことらしい。道の駅で揚浜塩田で作った天然塩と宗玄の大吟醸を買う。友人宅で味わうのだ。

120412_40能登のシンボルの一つ、見附島。通称軍艦島。石が並べてあって歩いて行けないことはない。

120412_46「えんむすびーち」などとふざけただじゃれは大嫌いだ。近頃こんな変なものが多すぎる。などというと歳と云われるか。軍艦島の前の浜にある。すぐ近くに恋路海岸というのもあり、若い人がよく来てこの鐘をならす。やかましい。

120412_47富山を過ぎて魚津に近い辺りで立山連峰を遠望。午後の春霞でわかりにくいが実際に見ると迫力がある。

 晩は魚津のビジネスホテルに宿泊。朝食バイキング付きで4800円。ただ夜外に飲みに出ると宿泊代より金がかかる。

河北義則著「みっともない老い方」(PHP新書)

 みっともない年寄りの例がこれでもかと云うばかりに取り上げられて・・・いるわけではない。
 あの良寛が「病になるときは病になるがよろしく候」「死ぬときは死ぬがよろしく候」といったという。じたばたしなさんな、というわけである。なかなかそこまで悟れるものではないにしても心構えの目標とするには簡単ながら奥深い真実がある。
 短い文章を重ねていろいろな提言が繰り返されていく。全部やる必要なんかないので、心構えを前向きに、前頭葉を刺激するように好奇心を持って人生を楽しもうというわけである。そしてせっせと人と関わりなさい、できれば地域の人と関わりを持つように、と提言している。自分に何かことが起きたときに頼れるのは地域の人であることは今回の震災でよく分かったことだ。その代わり自分も何かできることをしなくてはならない。
 仕事をしていたときの自分を引きずらない方が良いようだ。みっともないのは仕事を離れても役職を引きずることなのだ。確かに学歴や自分の勤めていた会社やその役職がいつまで経ってもはがれない人がいる。そんなものは他人と自分のコミュニケーションの邪魔に成ることの方が多い。ただ縁があって知り合った人と人間同士としてつきあうのはとてもいいことだと思う。私も仕事のつきあいから始まったけれど、今は友人として時々会いに出かけたくなる人が何人かいる。ありがたいことだ。

 最近周りが全く見えない、目を背けたくなるような年寄りを見ることがある。だからこの本ももっとみっともない年寄りをこき下ろしても面白いのに筆者はそんな露骨なことは書かない。日頃見かけるこんな年寄りにだけは成りたくない、というのがあっても面白いが、自分自身にふと思いをいたすとき、ぞっとする気持ちになるかもしれない。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・斉魯の回顧

  二十二日金剛を出発して単県(ぜんけん)に到る。行程七十里。私はかつて北京にいたときに中国人は功利のみで義を知らず、浮薄背信であるのを到る処で見た。思えば北京の人間は外国人に接して過ってこの悪習に染まってしまったのだろう。北京を見て中国を論じたならばおそらくは群盲象を撫でるのたとえのように誤ってしまうだろう。広く内地を見ないで軽々しく論断してはならない。この旅は斉・魯を経て汴梁(ベンリャン)に入る予定である。昔は孔子がかつて魯が一変すれば道に達するといい、斉が一変すれば斉は魯に達すると言ったものだ。魯は聖人墳墓の地であるから、請い願わくば遺風が残っていて純朴であることが昔のようであって欲しいと思っていたが、すこぶる失望せざるを得なかった。ところが斉寧から金剛を経て単(ぜん)に入ってみると、斉や魯もまあまあだったと思わざるを得ないことに驚いた。かつてある対聯を見た。
  洪範五福先言富大学十章半理財(申し訳ありません、意味がよく分かりません) というものだ。いかにもそれに相違はないけれども、これはいわゆる小人は利に覚るものだと言うところか(半可通に云えば鄧小平の言のようなものか)。
 単県に入ると道で中国服を着て弁髪を垂れたドイツ人に会った。ドイツ山東経営の手はかくの如く河南の地にまでも及んでいる。志のあるものは決してうかうかと見過ごしにできないものだ。

2012年4月12日 (木)

ランプの宿

120412_33ランプの宿、というのに行ってみた。昔は一軒宿だったのだろうが今はかなり大きいものになっている。人気があるのだろう。商売繁盛だ。宿の上の岬が聖域の岬、といって日本三大パワースポットなのだそうだ。ほかの二つがどこか知らない。その岬に空中展望台がある。

120412_19この先まで行ってみた。かなり揺れる。高所恐怖症の人は無理だろう。

120412_31パワースポットの中にある椿。満開だった。

120412_32となりの椿はほぼ終わり。多くの花が落ちている。椿は花全体が落ちる。ほとんど同じ形の山茶花は花びらが散る。ところが花びらで散る椿もある。「散り椿」と云うそうだ。











奥能登

 風雨の激しかった昨日とは打って変わって、本日は快晴。昨日雨の中は知ったのと最先端をもう一度回り直すことにした(ただいま魚津のビジネスホテルに到着したところです)。

120412_6とにかく海が綺麗。

120412_8狼煙の近くです。

120412_11どこを写してもこんな景色。とりあえず今日の能登の海の様子をホットなところで見てもらいました。







安岡章太郎著「死との対面」(光文社)

 安岡章太郎は好きな作家である。全集も持っている。全部は読んでいないが初期の短編がいい。淡々とした明るさがあるのにどこか哀しい。

 この本では戦争に従軍し、脊椎カリエスで除隊、その後のたびたびの死とのニアミスの繰り返しについて語り、すでに逝った友の最後の姿を語ることで死とは何かを考え、彼自身の答えを語る。満身創痍の彼が誰よりも生き延びた不思議。彼は大正9年生まれだから今年92歳になるはずだ。
 親友・遠藤周作、吉行淳之介との交友と別れから、彼らそれぞれの性格、その人となりが浮かび上がってくると共に、生死とは何かもおぼろげに見えてくる。
 
 人は必ず死ぬ。避けられないものであることであるなら受け入れるしかないのだ、と自覚する。そこから日々を生きる、ということであるようだ。 

再び金沢城

 兼六園から石川門を入り再び金沢城へいく。菱櫓(ひしやぐら)と五十間長屋(この二つは連続している)の中を見学するためだ。

120410_84石川門から城内へ。

120410_85石川門の裏側にひっそりと立つ碑。荀子の言葉で「学は以て已むべからず」とある。なるほど、肝に銘じます。一生が勉強です。

120410_91菱櫓の石落とし。この隙間から敵をめがけて石を投げ落とした。今はガラス張りなので何も落とせない。

 金沢城は無料で出入り自由だが、この菱櫓と五十間長屋は入場料300円が必要。丁寧に見るとその値打ちはあります。

120410_94菱櫓は名前の通り全体が菱形をしています。階段がゆがんで見えますが、これは全てが長方形でなく、板が平行四辺形だからです。

120410_96菱櫓を回り込むと五十間長屋です。ここは城士達が詰めていたところです。広いです。

120410_99これは建物の木組みの実物大模型です。真に見事なものです。金沢城の瓦は全て鉛で作られていたので再現されたものも鉛です。だから普通の瓦より白っぽく輝いて見えます。鉛を使った理由は諸説ありますが、鉄砲の弾丸用だ、という説が好きです。

120410_104このように写真にすると瓦が白く飛んでしまいます。

120410_108櫓の下の広場の横の池にいた鳥です。サギの一種でしょう。何という鳥か知りません。

 まことに花も樹も鳥も名前を知りません。名前を知らないということはそれだけ世界が狭いということです。昨年死んだ父などは聞くと必ず知っていて教えてくれました。

 これで今回の金沢はおしまい。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・鑣車

 済寧から開封に向かう道は二つある。一つは嘉祥、琿城(こんじょう)、曹州を過ぎるもの、もう一つは金郷から単(ぜん)または修武を過ぎるものである。曹州府は昔の梁山泊の地で、山東、直隷、河南三省が会うところで、その風俗人情が最も壊廃したところで、常に匪賊の巣窟である。特に秋期高粱がまだ収穫されていないときには、賊はしばしば高粱に隠れていて突然出てきて旅客を襲う。故にこの時期には賊難を恐れて行客はほとんど絶えるとのことである。先に私が北京を出発したとき曹州に匪徒が蜂起し、府城を囲んで交戦中との報を聞いた。故にこの道はとらないことにした。しかし、金郷もほとんど曹州府に次いで物騒なところであるといって、従者がしきりに恐れるから私もほとほと進退が窮まった。幸いに鑣車(ピャオチョー)八個が明日早暁午前二時にこの地を出発して金郷に向かうという。鑣車とはすなわち保険付きの車である。貴金属や重要な貨物を甲地から乙地へ転送しようとするものは、賊難を慮ってあらかじめ保険をつけておく。北京、天津、済南その他各省の省都にはそれぞれ保険を引き受ける店がある。聞くところによるとこの保険屋は、仮に済南から開封までの輸送を引き受けるとして、この済南・開封間を縄張りとする豪傑に平素幾分かの貢ぎ物を送っているので、暗々裏にこの豪傑の保護を得ているとのことである。すなわち、もしこの縄張り内を荒らそうというものがこの保険車を略奪しようとすると、これを防御してくれるとのことである。それにこの保険車には容貌たくましい壮士が村田式やモーゼル銃などを持って乗っていて、車の上には赤旗の屋号をしるしとしたものを目印に立ててある。この鑣車に同行することにしたから旅行の危険はほとんどなくなったと言っていい。
 済寧から金郷までは百十余里であるが、道は泥濘はなはだしく、しばしば迂回することもあり、ついには洪水が氾濫した十数里の間は一面湖のような処を渡ったりして二十日午前二時に出発して午後六時ようやく金郷に到着した。およそ旅の慰めは宿の爽快なことである。宿に着けばまず服を着替えてうちくつろぎ、湯に入って終日の労を休め、あるいは一杯の芳醇を汲み、暖かい夜具に寝るのであるが、中国の内地では宿についても食うものもなく、油灯の影が暗い所に不潔な床に自ら携えてきた毛布をまとってうたた寝し、床虫に襲われて安らかに寝ることすらできないことが多い。この日初めて旅愁を覚えた。

2012年4月11日 (水)

民宿・くにまつ

 今晩の宿は民宿・くにまつ、ご主人が釣り好きで天気さえ良ければもっと魚がたくさん出せるのに昨日から風が吹いていて船が出せないで残念ですとのこと。

 刺身はサヨリ、ぶり、ガスエビ、その他。サザエの壺焼き。はち目(メバル)の煮付け。野菜と魚介の蒸し鍋。葉わさびの醤油煮(つまみ用)。別に野菜の煮物。これを肴に地酒の宗玄の冷酒を飲む。十分満足でした。

 女将さんが天気の悪かったのを残念がって、また来るようにしきりに勧めてくれる。明日は雨もあがるようなので付近の見所を教えてもらう。天気が良ければここから立山が見えるという。氷見あたりから見るよりも遠くなるが、かえって美しいという。

 そういえば昔珠洲にはキリコを見に来たことがある。キリコというのは巨大な飾り灯籠で、高さが5m以上あり、車がなくて御輿のようにみんなで担ぐ。大きいものは1t以上ある。元々は七夕の行事だったらしい。中に灯を入れて夜担ぐ。最後は夜の海に入る勇壮なものだ。そのときのフィルムがあるはずだが、今度スキャンしたら改めて紹介する。

金沢・兼六園

120410_25兼六園入り口。入り口はいくつもあるが、ここは石川橋を渡ったところの入り口。

120410_28兼六園横のお店。二階が茶席になっている。桜の時期らは二階から満開の桜を見下ろしながら懐石を食べるのが風情があって最高。夜桜がライトアップされて桜に酔う心地がする。まだ一週間早かった。

120410_32園内の見事な苔の間になんとゼンマイが生えているではないか。採るわけにはいかないけれど・・・

120410_36兼六園のシンボル。琴柱(正しくは徽軫と書いてことじとよむ)灯籠。二本足の珍しい灯籠です。

120410_63園内の水辺に所々咲いていた花ですが、名前が分かりません。かわいい花です。

120410_67園内の桜はまだほころびたくらいで咲いていませんが、遅咲きの梅が満開でいい香りがしていました。これは白梅。

120410_68この紅梅が一番見事に満開で綺麗でした。元々兼六園は園内の桜は余りたいしたことはなく、梅の方が見事です。梅林があります。

120410_71これは遅咲きの紅梅で、小粒のつぼみが鮮やかな色をしていました。

120410_81園内をせっせと手入れをしている人たち。彼女たちは金沢市の公務員だそうです。手前の水草は菖蒲で、時期になると一斉に咲いて綺麗です。五月頃でしょうか。

今回は兼六園を主に花でまとめました。樹木がまたいいのですが、機会があればまた。


























能登

 今、能登半島の珠洲市の民宿に到着した。先日の台風並みの低気圧ほどではないが本日は大雨に大風、写真を撮りたくてもカメラが雨に濡れるので無理だ。それでも予定通り金沢から輪島へ、輪島から能登半島を左回りに先端の禄剛崎を廻って珠洲まできた。雨でも景色はよい。天気が良ければなあ。

 この民宿は蛸島の近く。昔(四〇年前)は蛸島まで国鉄が通じていた。SLが走っていたのだ。学生時代に穴水から蛸島まで乗ったから知っている。蛸島の駅は廃駅になっているがさっき前を通ったら駅舎は残っていた。

金沢城

 近江町市場を通り抜けて、一番近い黒門口から城内に入った。以前工事中だった河北門が完成している。菱櫓、五十間長屋を外から眺めて石川門を出、兼六園へいった。兼六園を散策して余裕があれば戻って菱櫓と五十間長屋の中を見学することにした。

120410_12新丸広場から菱櫓を見上げる。

120410_13_2新しく完成した河北門。

120410_17_2以前はこのまま直進することができた。この閉まっている門の向こうに中庭があり、あずまやで休憩できた。今、中は工事中。

120410_86_2中を覗いたら、池の水を抜いて整備していた。

120410_89_3かなり大がかりな工事をしている。現在ここでは埋まっているものの調査を優先しているということであった。

120410_103_2五十間長屋。後で中に入る。

120410_22_2石川門を出て、お城と兼六園をつなぐ石川橋から兼六園側を望む。残念ながら桜はまだ開いていない。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・運河

 二十日午前五時数を出発して西に行く。秦始皇二十八年石に刻して徳を頌した嶧山(えきざん)は東南に十五里の処にあるけれど、石碑は宋の元嘉年間魏王燾(とう)が仆(たお)したので今は残っていないから、はるかにその山勢の孤峭(こしょう)高く秀でているのを望見していく。再び泗水を渡ってから、潦水(にわたみず・雨の後流れる水)が道を没し畑にあふれて湖のようになった中を渡りなどして、午後二時済寧州に到着した。この済寧州は大運河に臨んでいる。運河の幅はこの辺では約二十間余り、往々百トンばかりの大帆船が河岸に停泊している。昔、隋の煬帝が初めて開いてからのち引き続いてその業を終え、上海から天津に到るまで舳艪(じくろ・へさきととも、船首と船尾)相銜(あいふく)んで往来の船は織るようである(船と船がひしめき合っている様子)。海運がまだ開けていなかった昔はもちろん、今もなお北清一帯の糧食は主としてこの運河によって供給されている。済寧はこの運河の要衝に当たっているから、大賈老舗(たいころうほ・大商店)が軒を並べ、商況極めて活発である。

2012年4月10日 (火)

金沢・近江町市場

 懐かしの金沢に来た。ほんの二三年前まで住んでいたのだ。住んでいたのは近江町市場のすぐ側、マンション(といってもアパートに毛の生えたようなものだが)の部屋から見下ろすと市場の入り口の信号が見える場所だった。

120410_1近江町市場の市姫神社口。この後ろ側に住んでいた。

120410_3市場の中のスーパー・ダイヤモンド。総菜もいろいろ売っている。いつもお世話になった。二階は世界の食料品売り場。イタリアのパスタや東南アジアのスパイスなど、いろいろのものがあって楽しめる。

120410_4鯛の向こう側、真ん中に点のある魚、ここでは車鯛となっていたが、マトウダイだ。点が弓矢の的みたいだからこの名がある。それほどうまくない。

120410_113向こう側の細長いのはメギス。キスに似ている。大好きな魚でよく食べた。湯がいて酢醤油か、生姜醤油で食べる。

120410_114これも大好きでよく食べたハタハタ。これだと一匹10円くらい。店を閉めるときに売れ残っていたらさらに半額になる。

 魚を眺めながら近江町を横切って金沢城に向かう。

小旅行に出かけます

 本日から小旅行に出かけます。本日は金沢(旧友と再会)、明日は能登、そして魚津、長野県の松本(友人宅)、その後千葉の実家へ母の様子を見に行きます。母の米寿、父の一周忌の打ち合わせもします。

 昼前に金沢で用事があるのでこれから出ます。午後金沢を散策して夕方から若い友人達と会食です。今日だけは天気が良さそうですが明日からが心配です。明日と明後日はおいしい魚を食べる予定です。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・鄒県

 すでに孟子墓に謁し、ここから道を西南方向に向かっていくこと十余里にして、再び大きな路に合流し、さらに行くこと四時間にして鄒県(すうけん)についた。城北瞻嶽門(せんがくもん)を入って左に行き、城南崇教門を出ると道の左側に牌楼(パイロウ)があって三遷趾(さんせんし)と題し、またその傍らに石碑が二つあって一つには孟母断機処と題し、もう一つには子思子作中庸処と題してある。孟子がまだ幼かったとき、孟母は三度その寓居を移し、のち孟子が学んでまだ学が成らずに半途にして帰ったとき、織りかけの反物を切って孟子を訓戒したことは、何人も知らないものはないだろう。私はすでに孟母と孟子の墓に詣で、鄒に来て孟母三遷及び断機の故址を見て、懐古の情に堪えない。因利橋を渡って行くこと一町、右に一小祠があって顓孫子(せんそんし)を祀る。また二町あまり行くと左に亜聖廟がある。域内は老樹が枝を交えて昼なお暗いほどである。伶人(れいじん)が音楽を演奏して亜聖を祀っていた。私が入ってきたのを見て大人や子供数十人が群れをなして私を取り囲んだ。廟中には謁孟廟詩文を刻した石碑が無数にある承聖門を入ると、廟庭には天震井(てんしんせい)がある。その側に立っている碑文を見ると、曰く三氏皆井あり、孟氏独りなかりしに、一夜天震雷してたちまちこの井を生ぜり、故に天震井というと。何人(なんびと)かがさかしらに孔廟や顔廟等に井戸があるのでここも真似をしてこの井戸を造り、かかる伝説を言いふらしたものと見える。その後ろには右に鄒国公の像を刻してある。天順元年の作である。左に孟氏家伝祖図を石に刻してある。これはたぶん孔廟の聖蹟図を真似したものである。亜聖殿中には孟子像を安置し、殿の後方には亜聖夫人を祀り、廟の右には啓聖殿があり、考啓聖鄒国公を祀り、左には孟氏大宗祧主祠(ちょうしゅし)がある。私の周囲を取り囲んだ群衆は絶えずついて回ってうるさくてたまらない。廟に謁し、遺像を仰いで瞑想にふけることもできない。ここから来た道を辿り西門外に宿泊した。この日行程六十里。

2012年4月 9日 (月)

名古屋城

120408_91名古屋城天守閣。

120408_102こんな紛争をした若者が案内をしていた。前田家の積んだ石垣の説明をしていたから前田利家だろうか。いや、名古屋城築城に参加した間は前田利光だったはずだ。この右手が場内への入り口。

120408_108天守閣の上に燦然と輝く金の鯱。

120408_109場内中庭から見上げた天守閣。

120408_112石垣に垂れ下がる桜。

120408_115西北隅櫓。特別公開していたので中に入った。階段が急で手すりがない。かなり危ない。年寄りには無理。床が冷たかった。

120408_126お城ばかりで申し訳ない。向かいの小山に上がって再度撮影。

120408_131金の鯱。お年寄りごと撮影。正門のすぐ内側に展示してあった。側で見ると大きいのに驚く。

 桜の写真を撮りまくったが、写真より実物の方がもちろんずっといい。是非皆さんもお出かけを。






















免許更新

 免許更新に行ってきた。違反を三回(スピード違反)もしたので二時間の講習を受けなければならない。でも講師はなかなか話がうまくて居眠りすることなく最後まで聞くことができた。

 いろいろ交通ルールや罰則が細かく変わったようで、特に酒気帯び運転に対する罰則の強化がすごい。今までは酒気帯びの場合違反点は6点だった。だから即刻免停だが、6点なら免停期間が30日なので講習による免除があるから実質は2日ほどで再度運転することができた。だが今度は酒気帯び(0.15~0.25mg/l)で13点、90日の免停である。講習を受けると半分になるらしいがとにかく45日間は運転できない。そして0.25mg/l以上だと、自動的に25点の違反点がつく。こうなると自動的に免許が失効し、二年間は免許を取得することはできない。罰金は30~50万円である。さらに酒の量に関わりなく、警官との質疑応答やその場の歩行に明らかな酩酊が見られた場合は35点の違反点となる。こうなると3年間免許を取得する権利を失ってしまう。改めて酒を飲んで運転しないことを心に誓った。

 このたび普通車と大型の免許の間に「中型」という免許ができた。今まで普通車の免許でかなり大型の車が運転できたが、それを大幅に制限したために中型を設定したという。ただ、すでに普通免許を取得していた人は制限付きで中型免許が交付される。そういうわけで中型のIC付き免許というのをもらって帰宅した。

名城公園②

名城公園の池の縁を歩いていると浴衣を着て一人で踊っているおじさんがいる。春とはいえ浴衣ではまだ寒かろう。やや異様な姿である。聞くと踊っているのは郡上踊りなのだそうだ。足下のラジカセからは低く音楽が流れていた。

120408_54郡上踊りのおじさん。

120408_57名古屋城の内堀まで来た。ユキヤナギが見事に咲き誇っている。お堀の向こうに見えるのは西北隅櫓(すみやぐら)。国宝である。ここは普段公開していないが、本日は特別公開している。後で行く。

120408_61お堀越しに天守閣を望む。

120408_68公園内の木立。樹木に朝の陽が当たっている。樹が好きなのだ。

 本日は免許更新に出かける。スピード違反をこの5年で3回も犯しているので最寄りの警察ではなく免許試験場(遠い)まで行かなければならない。講習を受ける必要があるのだ。これでゴールド免許ではなくなる。

2012年4月 8日 (日)

伊藤貫著「自滅するアメリカ帝国」(文春新書)

 著者はアメリカ在住の国際政治と金融政策のアナリスト。
 巻頭に本書の執筆目的が明記されている。
「冷戦終了後にアメリカ政府が作成した一極覇権戦略(国際構造を一極化して、アメリカだけが世界諸国を支配する軍事覇権と経済覇権を握る)という野心的なグランド・ストラテジー(もっとも基礎的な国家戦略のこと)がなぜ失敗してきたのかを解説する」
「アメリカの世界支配戦略が失敗した理由を論理的に解説し、二十一世紀の日本には自主防衛能力が必要であることを説く」
これが本書の主旨である。
 そもそも前提になっているアメリカのグランド・ストラテジーが一極覇権戦略であるのかどうか、これを検証しなければならない。これが最初の方にこれでもかというほど論理的に例証をあげて説明されている。

 このアメリカの戦略がそもそも間違いであり、すでに破綻していること、そして中国の軍事的台頭を制御できないことが明らかな今、日本は核武装による軍事的独立を果たさなければならない、というのがこの本の結論である。

 極めて論理的に手順を踏んで説明されており、そもそも全くこのような話を受け付ける気持ちのない人以外はうなずくことが多いのではないだろうか。たぶん著者の予想するような世界は2020年以降、いや後数年で現実になるだろう。まず今のアメリカでは中国の台湾接収を止めることができなくなるであろう。それを想定して今日本は何らかの準備が必要だろうが、今の政府やマスコミにはそれを期待することは難しい。そうだとすると早晩日本は中国の覇権のうちに取り込まれるであろう。北朝鮮がなぜ今のような行動をとっているのか、そしてその北朝鮮に対してアメリカが異常に宥和的なのはなぜかがかなりよく分かる。

 とにかくアメリカという国が表向きにいっていることと何を実は考えているのかということだけはよく分かった。

名城公園

 名城公園は名古屋城に隣接している。元々名古屋城の外堀と内堀の間の庭園だったのであろう。丁寧に見るとかなり広い。地下鉄の名城公園駅から公園を横切って名古屋城を目指す。

120408_38青空に桜が映える。満開の桜は美しい。

120408_41公園内の池を挟んで向こう岸とこちらの岸の桜が美を競っている。

120408_44水辺に枝を伸ばしている桜もまた美しい。

120408_45向こうに名古屋城の天守閣が見える。これからあちらに向かう。











鶴舞公園

 今日は快晴、桜を見に出かけた。まず鶴舞公園。これは「つるまこうえん」と読む。駅の名前も地名も「つるまい」なのだが公園だけはそう読むのだ。理由は知らない。地下鉄の駅を公園方向出口から出たらもう公園内の桜の前である。

120408_1地下鉄の出口をでると桜が目の前に。

120408_6_4朝から場所取りの人がたくさん。

120408_17_3青空に映える桜。

120408_21_3ゴミ箱がたくさん用意されている。今日の宴会の準備は万端だ。昼間は少し暖かくなるらしいが、夜桜見物にはかなり寒いかもしれない。雨に当たっていない桜は本当に綺麗だ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・孟子墓

 天馬山の西麓に一村があり傳荘(フチョワン)という。鄒県(すうけん)への大道は傳荘から直ちに南へ通じ、ここから三十里と言うことであったが、私たちはここから東南に向かい、脇道へ入っていくこと十余里で四基山南の亜聖林に到着した。四基山は俗に鳩山(きゅうざん)という。神道には二人がかりでも抱えられないほどの老楊老檜が雲を凌がんばかりの勢いで立っている。石橋の側に石碑があ裏、亜聖林と題してある。神道を辿っていくと道は草に没してわずかに樵夫の踏み分けた小径がある。これに沿っていけば啓聖林と同じく左右に孟氏の墓が多くあるけれども、目指す孟子の墓は見当たらない。尋ねあぐんでいたところ、幸いに向こうから来かかった老父に道を問えば、山の彼方を指さしてあれこそが尋ねられた墓でございますよという。草を踏み分けて東へ上れば丹塗りの門がある。これを入ると形ばかりの享殿があって、殿中には新建孟子廟碑(宋景祐五年)孟子墓碑(元貞二年)思本堂記(元至正二年)重建亜聖林饗堂記(明嘉靖四十一年)重脩亜聖享堂記(万暦十四年)及び康煕、雍正年間の重脩亜聖林享殿記等がある。これらの碑文によってみると、この享殿は宋景祐五年兗州(えんしゅう)太守孔道輔が新建したのが始まりで、後年時と共に寂れ果ててみる影もなく、来て拝観するものを嘆かせたが、明の嘉靖四十一年に再建し、その後しばしば修復して今日に到ったのである。享殿を出ると一基の小碑が立っていて表には亜聖孟子墓碑・亜聖孟子墓と題しその後ろにはまた先師鄒国公墓と題した小碑がある。墳は方二十間ばかりで上には柏が生い茂っている。いま親しく公の墳墓に謁すれば今更の如く偲ばれる公の遺風である。折から吹き下ろす四基山颪がさっと旅袖を払えば、心身共に林とするものを覚え、語るべき友なき我、従ってきた従者を顧みて孟子の遺跡の話をしてわずかに自らの気持ちを慰めた。

2012年4月 7日 (土)

映画「必殺」

 1984年製作。TVのヒット作の映画化。監督・貞永方久、出演・藤田まこと、山田五十鈴、中条きよし、三田村邦彦ほか、ゲストに片岡孝夫(現片岡仁左衛門)。
 テレビの時からあまりできのいい物語だと思っていなかったが、つまらない物語、つまらない脚本を長々と二時間以上見せられてうんざりした。リアリティがないならないで何らかの様式美なり、見せ所があるならいいが、何もない。学芸会以下、最低の映画と言っていい。
 監督はやる気があってこんな映画を作ったのだろうか。もしそうなら二度とメガホンなど持たない方がいい。テレビは消え去っていくが、映画は作品として残る。その作品がこれではそもそも映画にたずさわるだけの才能がないことが明らかだ。三流映画というにも値しないゴミ映画だ。WOWWOWもこんな映画を流さないで欲しい。時間の無駄だ。

中国ウオッチ・糖尿病患者

 ロイター通信が中国の糖尿病患者が増加していると報じていた。
 この30年で中国人の糖尿病患者が全人口の1%から10%に増加したのだそうだ。中国は餓死者を大量にだすような時代が過ぎ、今は贅沢病といわれる糖尿病患者がアメリカ並みになった。
 この大量の糖尿病患者の数が中国の医療費の増大につながり、中国政府の大きな負担になっているのだそうだ。

 中国人よ、せいぜい美食をして糖尿病にかかろう。そして医療費をますます増大させて国家予算を蚕食しよう。そうして軍事費に向ける金を減らして世界平和に貢献しようではないか。糖尿病で治療中の私からの提案である。糖尿病は寿命を縮めるから老齢者の数が減って老齢者の比率を下げる効果もあるのだ。老人が減れば若者の負担も減るかもしれない。

中国ウオッチ・墓参り代参

 4月4日は清明節といって中国の墓参りの日で、この日にはお墓の廻りを綺麗にしてお香をあげお供え物をする。この日は祭日である。「もな」さんのブログに取り上げられていたが、その墓参りの「代参」ビジネスが出現している。
 遠方のため、わざわざ帰省して墓参りのできない人もいるのでさぞかし繁盛しているのかと思うと、話題になっている割には申し込みが少なかったということだ。
 この件についてインターネット上で調査した結果では90%以上の人がこのような商売に反対しているという。中国も案外健全なのだ。掃除してもらうだけでもいいように思うが単にケチなだけかもしれない。

中国ウオッチ・パラオ事件続報

 パラオ領海で違法操業していた中国漁船がパラオ警察に抵抗したため一人が死亡してほかの漁船員が逮捕されたことは報告した。新たに判明したのはサメを密漁していたらしいこと、パラオ警察の警告に対し、漁船が体当たりしてきたため漁船のエンジンを狙って射撃を行ったが、その流れ弾が運悪く当たって一名が死亡したこと、中国政府も「誤射による死亡」と認めている。
 母船と小型船二、三隻で操業していたようで、向かってきた小型船の乗組員五名は則逮捕されたが、母船の乗組員は船に放火して海に飛び込んだ。しかし次々に引き上げられ、合わせて25名が拘束された。放火したのは証拠を隠滅するためだったのは間違いない。
 フカヒレの主産地だった三陸が震災で大幅減産になり、フカヒレの価格が高騰した。それを当て込んでサメの密漁を行ったのだろう。
 現在逮捕された乗組員は複数の罪で起訴され、パラオの法律に基づいて裁かれる。だが今回のパラオの中国に対する態度は毅然としているように見える。右往左往して正しいことと間違ったことの区別すら見失って法律すら無視した日本政府の異常な、そして世界の笑いものの行動が改めて情けなくなる。もちろん中国政府は日本に対して特に過剰反応するところがあるけれど。
 しかし中国も韓国もいつも日本に対して異常ともいえる過剰反応をするというは、あながち相手国ばかりの問題ではないようだ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・孟母墓

 橋の南に天馬山がある。その東麓に一帯の檜の森があるのは啓聖林といい、中に孟母墓がある。車を乗り捨てて畑を横切り林の中に入って人の通ったらしい道を辿ると、所々に孟氏一族の墓碑がいくつとなく並んでいる。その間を通り抜け天馬山麓の小高いところにもっとも大きな墳があるのが見える。これが孟母墓である。その前に石碑三があり、中央のものには大明邾(ちゅ)国公邾国宣献夫人墓と題してあり、右には孟母碑文があり、元貞二年建立、導江張須(どうこうちょうしゅ)撰文、左には邾公墳墓碑文がある。さらに神道の右に大明置地守林記があり、万暦十五年立てるところ民を戒めて啓聖林中に草を刈るべからずなどと記してある。墓より一町ばかりの東に廟があったが、門を閉ざして開かないので中に入って見ることができなかった。

2012年4月 6日 (金)

葉室麟著「無双の花」(文藝春秋)

 直木賞受賞第一作。秀吉に「その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一」と言わしめた九州・柳川の武将・立花宗茂の生涯を綴った小説である。権謀術数渦巻く16世紀末の九州で、義を貫くという志を立てた宗茂は、理想に生きようとして時にあざけりを受け、長い不遇の期間を堪え忍ばなければならないが、ついに報われる。最愛の妻・誾千代(ぎんちよ)を不遇の中で失うが、最後に柳川へ戻ったとき、その誾千代の姿をまざまざと見る。その場面は胸が熱くなる。
 人はしばしば損得で生きる。しかし損得を超えた生き方もある。その生き方はなかなかつらい生き方ではあるが、そこにこそ人間らしい生き方があると著者は訴えているようである。全く同感である。

本を買う

 ドン姫を車でアパートへ送るついでに名古屋へ買い物に行った。フィルムファイル用シート、ブルーレイの生ディスクを購入。本屋を覗いたら今回の直木賞作家「葉室麟」の本が何種類か並んでいる。直木賞を取った「蜩の記」は絶品だった。感動した。今回「散り椿」、「無双の花」、「星火瞬く」、「川あかり」の四冊をまとめ買いした。読むのが楽しみだ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・飯河君と別る

 済南を出発してからすでに六日、共に慰め共に苦しんだ飯河君といよいよ今日で別れ、彼は済南に帰り、私はさらに南に向かう。行く手の寂寞を想い、過ぎ去りし来し方の賑やかであったことを思えば、名残が惜しまれるが、ついには別れ去らねばならない。いつまでもグスグスしていられないから飯河君は馬に跨がり私は馬車に乗って、十九日午前六時半にいよいよ南北に袂を分かつことになった。曲阜城を過ぎて南門を出ると、城外に流氓(流れ者)多し。彼らは河南地方の洪水に家を失い産を破り、食を求めて遠く北へ移ろうとしているのである。老を扶け幼を携えて長途の旅路に餓えと疲れとで見るも哀れのありさまである。いくばくもなく沂水を渡る。沂水は曾皙(そうせき)がかつてその志を述べて、「暮春には春服すでに成るとき、冠者童子数人打ち交じりて面白く、沂に浴し舞雩(ぶう・雨乞い、または雨乞いの壇)に風せん*」と言ったところである。二時間ほどで形ばかりの橋を渡る。これが鄒魯(すうろ・鄒と魯の国)の境である。

*論語の先進篇(第十一)にある言葉 孔子が弟子にその志(したいこと)を尋ねたとき、曾皙が答えた言葉で、春も末の頃、新しい春服を着て、成人が五六人、童子が六七人、うち連れて沂水へ行き、そこで顔や手を清めて、あの雨乞いの壇に登って春風に吹かれつつ遊びたい、というほどの意味。ほかの弟子が出世欲満々の言葉を並べたのに対して、曾皙の言葉はささやかなものだが、孔子はこの曾皙の気持ちに一番同感である、と述べている。

宴の後

 昨晩はドン姫とその友達とで鶏パーティで盛り上がった。だが宴はいつか終わる。もうちょっとと思ったら、彼女たちは今日は仕事なのであった。こちらは毎日が日曜日、申し訳ない。鶏肉の残りをお土産に持たせてまたパーティをしよう、と約して別れた。勢いでその後ももう少し飲んでしまって、やや二日酔い。
 昨日は鶏肉の刺身(送ってくれた友人の絶対のおすすめ)を最初にだしたが、こんなにおいしいと思わなかったとぱくぱく食べてくれて感激であった。ドン姫の友達は何が好きだの嫌いだのとやかく言わないのであった。類は友を呼ぶ、である。楽しかった。料理は食べてくれる人があると本当に楽しい。毎日ではしんどいけど。

2012年4月 5日 (木)

中国ウオッチ・男子過剰

人民日報によると過去30年間アンバランスであった中国の性別人口出生比率が3年連続で改善されてきたそうである。2009年が119.45(女百人に対する男の出生数)、2010年が117.94さらに2011年には117.78と改善されているというのだ。しかし自然の出生比率より10%以上高い値であることに変わりはない。
 そんな中、このたび新中国成立以来で初めて男子校が誕生することになった。上海の第八中学校がそうである。建学の目的は「男子生徒の劣勢挽回」だそうである。中国では一人っ子政策で親が子を溺愛するため、軟弱な男子が増えているので、男子校で男らしい男の子を育成したいという。
 同数であっても女の子の方が強いのが世の中である。それが女性が少ないとなれば男は女にちやほやせざるを得ない(日本の小学校、中学校、高校を見よ)。ますます女の力が強くなるのだ。男子校で鍛えられた男の子が果たして女の子に選ばれるであろうか。中国の女性よ、願わくばやさしい軟弱な男を選んでくれ、けんかの好きな競争に強い男は選ばないでくれ。そうすれば、中国がいくら軍事力を強化しても軍隊が弱ければ世界は平和だ。
 まてよ、中国は女性が普通に社会に出ているからそのときは闘争心の盛んな女性兵士が増えるかもしれない。その方が脅威か・・・

と遊んでいるうちにドン姫達の帰ってくる時刻が近づいた。料理を順番に作り始めよう。まずビールで勢いをつけてと。というわけで今日はこれが最後かもしれない。

中国ウオッチ・海外投資

 中国の海外投資額は、2016年には5600億ドル(約46兆円)に達する見込みだという。今までは大型の国有企業の海外進出が主だったが、現在では地方の国営企業や民間企業の進出も増えている。しかしながら海外企業の買収成功率は低く、失敗するものが70%もあるそうだ。欧米企業の失敗率は約40%といわれているからかなり成功率が低い。
 欧米企業が買収する場合は相手の企業の価値を高めることが目的となることが多く、うまくいくことにつながるが、中国の場合は買収先から技術を吸収したりブランド力を取り込むことだけが目的の場合が多く、現地や相手先から反発を受けてうまくいかなくなるのだそうだ。だが中国はしたたかだ。少しずつ経験を積んで成功率を上げていくだろう。
 問題は中国は自国にだぶついた金を効率よく投資に回す行動に出ているのに、我が日本はだぶついた金がよどんで腐臭を放つばかり、チャレンジ精神が見受けられない。少しずつ投資に金を回し始めているともいうが、あの超円高の時にこそ思い切った投資をすべきだったとは、いうだけ野暮か。

準備

 午後、鶏肉が届くのを待っている。必要なものの買い出しはした。
予定しているメニュー
1.OKCHAN流ボリュームサラダ
2.鶏の刺身(ニンニク醤油で)
3.スープ(骨付き肉、セロリ、人参、タマネギ、ジャガイモ、キノコ)  鶏ガラでだしを取り塩味で。だしは残して鶏御飯にも使う。
4.グラタン(鶏とタマネギとマカロニで)
5.鶏御飯(具は鶏肉と一緒に送ってくれる)

全部おいしいよ。グラタンはドン姫に頼むつもり。 

中国ウオッチ・空軍機墜落の原因

 インド空軍では戦闘機の墜落が多発しているという。過去3年間だけで33機が墜落した。そのうち16機がロシアから購入したミグ-21で最多墜落戦闘機だ。インドは事故の主要原因は操縦士の技術水準の問題と故障の問題であると発表した。
 これに対してインド駐在のロシアの大使は、ロシア製でない部品を使ったための故障が主要原因だ、と決めつけた。ロシア戦闘機に使われる部品を製造しているのはロシアと中国だけであり、価格はもちろん中国製が断然安い。「非正規のサプライヤーからの部品を使うからだ」というのが大使の主張である。インドは正式には中国から部品は購入していない。しかしコストの点から国際市場で中国製の部品を調達しているようだ。
 ロシアの戦闘機そのものの欠陥か、中国製の部品が原因かなかなか判然としないが、ロシアは中国部品を原因として責任を逃れ、中国は敵対国のインドの空軍力を期せずして削ぐことができており、めでたいことだが、インド空軍のパイロットは命がけで気の毒なことだ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・劉氏と語る

 寓居に帰ると知県の劉氏が返礼のために来訪し、談笑数時間に及んだ。氏は慷慨の士である。深く膠州湾の租借を遺憾とし、またかたちを改めて曰く、我が国の曲阜は西洋のエルサレムに相当するものである、しかし孔教と耶蘇教とはもとより同日の談ではない、旧約創世記に記するところ、万能の神は六日にして天地万物を創造し終わり、第七日にいたって憩えりというなどもっとも滑稽な話で笑ってしまうと。我が曲阜の地には未だかつて一人も耶蘇教を奉じるものはいないという。同席した飯河君曰く、でも一週間を指して一個礼拝(イーコリーパイ)というのは耶蘇教に本づくものではないですかと。劉氏曰く、礼拝の語句ではない、あるいは星期(シンチー・週のこと)というのも本来おかしい、「易」に曰く七日来復と、将に来復と言うべきである。談はさらに彼我の風俗に移る。彼曰く、貴国の婦人が腰辺に大なる包袱(つつみ)をまとうのはすこぶる奇観であると(和服の帯のことだろう)。私曰く、これ敝国(へいこく・自分の国を謙遜していう。ここでは日本のこと)の習慣である。何も知らずにこれを見ればあるいはおかしく見えるかもしれない、しかしながらこれで何か害があるというものではない。しかるに貴国の纏足と西洋の蜂腰(ほうよう・コルセットのことであろう)とはかえって大害あるのをどう思うかと。彼曰く、確かにそうだ、また自ら弁髪を指して、これが常に外人に豚尾の譏り(そしり)を受けるゆえんであるという。私曰く、衣服を汚損するその敝一、挙止に不便なるその敝二と。彼これを首肯す。私は改めてこう問いかけた。魯国の地は孔孟の遺風がまだ残っているでしょうか。彼は頞蹙(あっしゅく・鼻柱にしわを寄せる。顔をしかめてというところか)して曰く、いやいや、我が国の人士は口を開けば孔孟を説きますが、ただ嘴裏(しり・口先)だけのことです。やがて彼は帰っていったが、おかげで私たちは面白く一夜を過ごすことができた。

ドン姫来る

 ドン姫が帰ってきた。実は明日はドン姫の友達も来てパーティをするのだ。九州の友達(元上司)から鶏肉が送られてくる。料理のレシピもついている。腕によりをかけて料理を作るのだ。酒も和洋いろいろそろえた。ワインの白(マスカット)、マテウスのロゼ、日本酒・菊水辛口、バーボン・ジャック・ダニエル、ビールはサントリープレミアムモルツ等々。明日は紹興酒と酎ハイ各種をそろえる予定。

 ドン姫は今「サマーウオーズ」を見ている。見たかった映画で、友達からも勧められていたそうだ。

 掃除はだいたい済んだ。あとは台所をクリーンアップすれば完璧。ワオ、明日は若い娘と酒盛りだ。・・・・・のけ者にされないようにがんばろう。

2012年4月 4日 (水)

映画「サマーウオーズ」

 2009年製作の日本のアニメ映画。押田守監督、声・神木隆之介、桜庭みなみ、富司純子ほか。
 何となく録画して、なんとなく見始めたらこれが面白い。話がどんどんエスカレートしていって、田舎の旧家が舞台の世界戦争に発展していく。最後はペンタゴンや自衛隊も出動するのだ。
 このテンポはやはりある程度アニメを見慣れてないとついて行くのがしんどいかもしれない。不肖私は六十を過ぎておりますが、アニメが大好きですからこの世界観は全く違和感なくついて行けるのであります。 世界が一つになって圧倒的な強さの悪と戦う、というスタイルは使い古されているけれどぐっとくるものがある(年をとっても純なのだ)。
 富司純子が(本人じゃないけど)とってもいい。こういうおばあさんに認められるか無視されるか、男として厳しい局面だ。全存在をかけて認めて欲しい!富司純子=藤純子(緋牡丹博徒のお竜姐さん)大好き。花札が勝負のアイテムになるのはもちろん緋牡丹博徒のお竜さんが意識されているはずである。


 とにかく期待していなかった分倍楽しめた。ドン姫に見せてあげよう。

中国ウオッチ・紙製のiPhone

 今日は中国の清明節。全国で先祖へのお墓参りが行われている。お墓参りにはお金(もちろん本物ではない)などを燃やして先祖を供養するが、今年は紙製のiPhoneやiPadが登場して話題になっている。かなりリアルにできていて、サイズは実物大でイヤホンまでついているという。

 これでご先祖様があの世から連絡してきてくれるといいね(ちょっと怖い)。

中国ウオッチ・漁船が衝突

 2日にパラオ共和国が明らかにしたところによると、31日に中国船籍の漁船がパラオの領海で違法操業をしているのをパラオ警察が発見、制止しようとしたところ中国漁船が激しく衝突してきたという。
 この衝突で漁船の乗組員が一人死亡した。そして5人の漁船の乗組員が逮捕された。そのときに漁船を捜索していたパラオの偵察機が墜落して乗員3名が行方不明だというが詳細は不明。
 身の危険を顧みずに体当たりをしてくる漁船の乗組員というのはどういう思い込みのもとにそのような行動をとるのだろうか。少なくとも自分が悪いことをしているという自覚がなさそうだということだけは解る。

 日本で同じように行動した中国漁船があったが、あのときの日本政府の対応、そして中国政府の対応が、彼ら中国漁民をこのような迷妄の世界に追い込んだことは間違いない。

ドン姫

 二、三度娘のドン姫に言及した。ドン姫はもちろんドンという名ではないが、幼いとき私は本当にドンと呼んでいた。「ドン」とよびかけると「う」と返事をする。
 とにかくマイペースの娘で、食事は最低一時間かかる。外食の時などは大変だった。デパートやスーパーに連れて行くとつないでいた手を振り切って好きなところへいってしまう。いつもは追いかけて確保するのだが、一度放っておいた(もちろん心配だからこっそり後をつけたが)。ドン姫はしばらくあたりを散策していたが、突然自分が一人であることに気がついたようだった。しばらく親を探してきょろきょろしていたがそこからが普通の子と違う。ちょっとだけ口をへの字にしたまま再び平然と散策を開始した。たぶんもう親のことは念頭から消し去ったようだった。ずいぶん時間をおいて近づいて抱き上げたが、全く泣くこともせずまた笑いもしないで口をへの字にしただけだった。

Img841左が幼少時のドン姫。右は息子。

Img859同じくドン姫。






「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・周公廟

 孔林の東三里に顔林がある。一帯の檜の森の中に顔子の後裔の墳墓が累々としてあるが、顔子の墓はここにない。ここから周公廟に詣でる。廟は城北廓外にある。規模はそれほど大きくない。東に経天緯地坊があり、西に制礼制楽坊があり、老柏の間を過ぎて、成徳、達孝の二門を入ると廟があり、中には周公像を安置している。廟の左右には昭穆の序(前述・葬儀などの序列のこと)によって魯の列公の神位を祀ってある。魯の盛時、廟庭に八佾(はちいつ・*)を舞わせた壮観は夢と消えて、秋風は空しく古柏の梢にむせんでいる。

*周代の舞いの一列を佾といい、天子の舞いは八列とされた。縦横同数なので天子の舞は六十四人で舞う。諸侯は六佾三十六人、大夫は四佾十六人と定められていた。ただ一列は必ず八人だったという主張をしている学者もいる。その場合は六十四人、四十八人、三十二人となる。

2012年4月 3日 (火)

仁木英之著「千里伝」(講談社文庫)

 中国が舞台のファンタジー伝奇小説。これが第一巻で続編が第三巻まで出ている。今年第四巻が出るはずである。
 仁木英之は「僕僕先生」のシリーズでおなじみだが、こちらは第五巻まで出ている。読んでいないなら是非探して読むことをおすすめする。こんな面白い物語を知らないのはもったいない。
 「千里伝」は結構映像的なので、下手な配役で実写ものなどで作らずアニメにしたら絶対大受けするはずだ。

 主人公の千里は唐の時代の英雄・高崇文の息子・高承簡と異界の女性・紅葉との間に生まれた男の子である。十八歳になっても外観は五歳の子供という、不思議な少年だ。
 千年前、漢の武帝の時代にあった不思議な出来事が、人の世界と異界とを大きく隔てていた。この千年間異界は不遇の中にいたが、千年ののち再び異界がこの世の中心になるチャンスが訪れようとしている。
 その契機となるのが「五嶽真形図」という宝玉である。物語はこの「五嶽真形図」を廻って千里とその補佐をする武僧・絶海、狩人・バソン、そして不思議な道人・趙帰真が、敵の異界の玄冥、蔑収、句芒達と戦うというものである。そしてその力は異界の者達の方が上回る。だから物語は千里達の成長の物語でもあるのだ。ほとんど絶望的な状況の中でめげることなく元気に切り抜けていく彼らにだんだん魅力が感じられていく。三人がてんでんばらばらだったのがいつの間にか心が通じ合っていく。
 果たして世界はどうなってしまうのか。せいぜい楽しんでください。

眠り男

 目を瞑ると二十分くらい過ぎている、さっきからずっとそうだ。時間が縮んでいるみたいだ。今日はこのままその流れに身を任せよう。そういう日もある。
 これでは映画を見るわけにも行かない。本でも読もうか。どれだけ読めるだろうか。かなり猫背になっている。

税務署員のお年玉

 中国では昔はあり得ないことだったが、国家公務員や国営企業への批判が今は公然と行われている。中国共産党は腐敗撲滅を唱っているが残念なことに全く功を奏していないようだ。
 腐敗の暴露記事によると、中国の企業担当の税務署員は一人当たり百社ほどを受け持つが、春節の時には各社から「紅包(ホンパオ)」というお年玉をもらうのだそうだ。そのお年玉の総額は少ない人でも月給の数倍という。税務署員は子弟を海外留学させ、億ションを持ち、外車を乗り回すのが珍しくないそうだ。企業は無意味な金など渡したりしない。魚心あれば水心ありでその見返りが大きいことは当然だろう。税務署員の採用試験の倍率はなんと1500倍だそうだ(実際はほとんどコネで決まるともいう)。
 中国は目の粗いざるで税金を集めているようなものだ。それでも毎年対前年10数%増の軍事費をつぎ込んでもびくともしないというのはうらやましいことだ。

眠い

 眠い!異常に眠い。朝食を食べた後、座り込んだまままた眠ってしまった。何らかの睡眠障害でも起こしているのかもしれない。こんな状態では車の運転は危険だ。

 以前医者に相談したら「運動による減量をしてからもう一度相談するように」といわれた。その通りにしたらかなり改善した。たぶん同じことを言われるだろう。

 北朝鮮の衛星打ち上げ見物の招待がJAXAにもあったという。文科省の意向は「招待に応じると衛星打ち上げを認めることになるから応じない」ということだそうだ。馬鹿じゃないか。打ち上げを認めるかどうかは自分で決めればいいのだ。打ち上げは認めないけれど見物に出かければいいではないか。北朝鮮が「招待に応じたのだから認めた」、と言い張ったら、「見物には出かけたが認めない」と平然と言ってのければいいだけのことだ。たぶんアメリカでもどこでも招待されればそうするだろう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・至誠林

 午後至誠林まで足をのばした。北門を出て二里、神道には古い柏の木が枝を茂らせている。神道碑を撫で、万古長春坊を過ぎ至誠林門に到る。その側には茅屋が数軒相連なっている。古の孔里の跡である。楼門を入ると輦路(れんろ・天子の車が通る道筋)が北に通じている。そこを西に曲がって洙水橋(しゅすいばし)を渡る。洙水はもと県の東北から至誠林を経て西方の泗水に流入していたが、今は泗水に入らずに西南に流れて沂水(きすい)に合流しているという。至誠林の処ではわずかな溝に流れる水のようで、この橋がなければおそらく漫然として見過ごしてしまうだろう。道を挟んで石人が二、石獣が四ある。享殿(きょうでん・祭殿)には雍正帝の上諭(天子の言葉)及び乾隆帝の謁孔林酹酒(孔林に謁して酒すすむ)の詩を刻してある。その後ろには楷亭がある。子貢の手植えの楷木(かいぼく・楷はウルシ科の高木)は今は朽ち果ててわずかにその幹が残っている。また康煕帝及び宋の真宗の駐駅亭を過ぎて、その左に沂国述聖公墓があり、神道には二石人が立っている。その来たには大成至誠文宣王墓があり、右に泗水公墓、左に子貢廬墓処がある。墓は一山の土饅頭で雑草の茂るままになっている。アア大成至誠の孔夫子は咫尺の間、この醜草の下に眠り給えども、その神霊は宇宙に遍満し、天地と共に悠久であって赫々として世道人心を照らしている。今は夫子、伯魚の墓は相並び、子思の墓は夫子の墓の前にあるが、たぶんその昔は夫子の墓を中央に伯魚、子思は昭穆(しょうぼく・墓の序列)の序を以て左右に葬ったのではないかと思う。至誠林の周囲およそ十余里、樵や猟師すらいくことがなく、故に域中到る処古柏鬱蒼として、ひとたび聖域に足を入れると敬虔の情が油然(ゆうぜん・雲のようにむらむらとわきたつさま)と湧いてくる。

2012年4月 2日 (月)

床屋へ行く

 床屋には申し訳ないが、床屋は嫌いである。時間が無駄だし、金はかかるし、刃物の危険を我慢し続けなければならない。歳と共に髪の絶対量が大幅に減少して整髪にかかる時間が少なくなったのはありがたい。しかもあまり形にこだわる必要がなくなったから、格安の床屋で十分である。金がかなりかからなくなった上に時間もさらに短縮になった。
 ただ、新人などはこういう格安の床屋で修行していくのだろうか。時々馬鹿にぎこちないのが頭をさわる。時はまさに四月である。今日もそういうのが襟足を剃った。おっかなびっくりで慎重なのはいいが、ほとんど肌に触らない。触っただけでほとんど剃れなかったのではないか。後で仕上げを見た年かさのがあれっとつぶやいて剃り直してくれた。

 おねえちゃん、あんた床屋に向いてないよ。

中国ウオッチ・お墓の値上がり

 「もな」さんのブログにもあったように、4日は清明節で、日本のお盆みたいに皆お墓参りに行く。それが、代わりに墓参りに行くという商売があるというのが「もな」さんのブログの話題だった。
 こちらの話題はお墓が投機の対象になって騰貴しているという話だ。山東省の煙台市や済南市、青島市では墓地を投機売買する行為が活発となり、値上がりが続いて10年で6倍になっている。お金がなくては死ぬに死ねないということだ。

 打って変わって遼寧省では墓地が足りない事態になっており、海洋への無料散骨が当局で許可されることになったという。こちらは金を出しても墓地が手に入らないということのようだ。いっそのことこだわりさえ捨てれば無料で散骨してもらえるのなら残された方も死ぬ方も気楽かもしれない。

 山東省の方もそもそも墓地そのものが足りないから買い占められて値上がりするのかもしれない。そこら中に土地があれば買い占めようがないはずだ。中国は確かに国土はとてつもなく広いが、案外住んだり暮らしたりするのに適切な土地は限られている。中国人は今、その限られた土地を損なったり奪い合っている。そのツケがまず人生の終点の墓地の問題となるというのもずいぶん皮肉なものだ。

映画「丹下左膳」

 1958年東映・大友柳太朗の丹下左膳を見た。林不忘の新聞連載小説が原作だが、その特異のキャラクターから何遍となく映画化、テレビ化され、丹下左膳役の俳優もたくさんいる。
 小学生の時、映画館の予告編だけ見て強烈に印象が残り、みたいと思いながら見ることができなかった映画がまさにこの大友柳太朗の丹下左膳だ。今回五十数年ぶりに望みを果たした。私にとっての丹下左膳は大友柳太郎以外には存在しない。
 丹下左膳の話は映画ごとにストーリーがかなり違う。いわゆる「こけ猿の壺」をめぐる物語なのだが、結局こけざるの壺などどうでも良くなっていくところが良い。この映画の話のまとめ方は良くできていると思う。難を言えば(当時の時代劇映画はみなそうだが)殺陣が木刀を振るときと真剣を使うときとが同じでいかにも嘘くさい。また美空ひばりが大川橋蔵の相手役として、道場の美しい跡取り娘役で出てくるのが何だかなあ、と思う。しかも劇中で歌を唱うのである。そしてその歌には伴奏がつくのである(!)。映画のリアリティを損なっても美空ひばりを立てていた当時の美空ひばりを取り巻く世界がそこにある。
 この映画では山形勲が悪役である。まあこの人は新吾十番勝負の梅井多聞の時以外はたいてい悪役だけど。そして新吾十番勝負では大友柳太朗が徳川吉宗だったが、こちらの吉宗は東千代之介だ。月形龍之介も長谷川裕見子も大川橋蔵も両方に出ている。そんなところも面白い。

 大友柳太朗は「北の国から」での演技が忘れられない。一人暮らしの、人と相容れない頑固な老人役があまりに似合いすぎていた。物語の中でも自殺に近い不慮の事故死をするが、現実の最期もそうであったと記憶している。

中国ウオッチ・領海侵入は正常行動

 三月中旬に、中国の巡視船が日本の領海に侵入して訓練を行った。これに抗議した日本側に対して東京の中国大使館の参事官が「正常な巡航パトロールであって非難されることではない」と述べたという。
 さらに「関連海域に中国の漁船が入ったとしても、みだりに拿捕などの措置を執るのを避け、不測の事態を回避することを希望する」と言ってのけたそうだ。

 日本は、不測の事態があって(台風とかエンジンや舵の故障など)漁船が領海侵犯したとしたら、確かにロシアのようにみだりに拿捕したりしないだろう。拿捕するのは領海や排他的経済水域で、行ってはいけない漁をしていた場合である。ましてや巡視船であれば自分の位置は明快に解っての意図的な領海侵犯以外のなにものでもない。
 それを正常な行動であって非難するな、というのはどういうことであろうか。

 中国は日本を独立国として認めていないよ、ということの表明を大使館の参事官が公言したということなのだ。本当にそう思っているかどうかは別にして、そういうスタンスで日本と関わる方針であることを明らかにした(いつも明らかにしているが)のだ。中国の長期的な展望としては日本をアメリカの属国の立場から解放し、中国の恩恵の及ぶ国(というより一地方)として取り込むつもりなのだろう。本音ではそもそも日本は中国領なのだ。
 アメリカも元々日本を独立国として認めてなどいない。なぜ安保条約などと言う偏務条約が結ばれているのか。実際のコストを考えればアメリカの負担の方がはるかに大きいのに不思議だと思っていたが、アメリカが日本を属国ないし一地方と見なしているのであれば少しも不思議ではない。自分の領土を防衛するのであれば兵隊の血も流すだろう。

 脳天気に独立国と信じて夢の中にいるのは日本人だけかもしれない。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・復聖廟

 師範学堂を出て鼓楼を過ぎ、陋巷を経てまた聖廟に拝謁する。門を入れば中の石碑に陋巷故趾とあり、井戸があって陋巷井という。これが顔子の飲んだ井戸である。また門を入ると楽亭があり東の階段を上ればこれが復聖廟で、雍正帝の御筆で徳冠四科の扁額を掲げてある。殿中には復聖顔子の像がある。思うに顔子は、その志が生きているときには行われなかったが、能く世を仁に帰せしめ、生活は豊かではなかったが、能く道を顕して身を終わり、不義であったら富貴もこれを視ること浮き雲の如く(いくら金持ちでも義がなければただの浮き雲のように視て)、一箪の食一瓢の飲(いったんのし いっぴょうのいん)陋巷にありてその楽を改めざるが如き(顔子はわずかな食事とわびしい住まいにいてもそれを楽しんでいた)、真に及びがたきところである。司馬遷がかつて曰く、驥尾(きび)に付して名すなわち現れると(優れた人物に付き従って修行をして名をなす)。私は顔子の廟に拝謁して切にこの感がある。思うに驥は何処にかある。もし求めるべくもなければむしろ文王を待たずして興らんことを期せねばならぬ(昔、文王の息子、武王が商(殷)を倒して周を興したことを言っているのか?文王という人望のある優れた先王があり、それに従ったから武王が覇を唱えられたという意味だろうか)。復聖殿の後ろには夫人を祭り、左には顔子の父杞国公及び夫人、右には顔氏の家廟を祀ってある。

2012年4月 1日 (日)

映画「新吾十番勝負 第一部・第二部 総集編」

 映画館では第一部、第二部別に上映された。そして後で総集編として再度上映された。さらに第三部と完結編とがある。人気があったので続けて新吾二十番勝負や新吾番外勝負も作られた。第一部が作られたのが1959年、なんと小生は当時小学校三年生、もちろん第一部も第二部も映画館でリアルタイムで見た。それ以来だから50年数年ぶりだ。
 当時は朝一番(八時頃)に映画館に入り、昼飯も食わず、腹が減って死にそうになって、仕方なく三時頃家へ帰るまで三回くらい見る。何せ当時の時代劇は一本80~90分、二本立てで二三回見ることができるのだ。
 だから多くのシーンが頭に焼き付いている。赤ん坊が盗まれるシーンや、山形勲の梅井多聞が月形龍之介の武田一真と決闘するシーン、大川橋蔵の葵新吾が鹿島神社の祭礼に横やりを入れるやくざの親分ののどを木刀で突き破るシーンなどは鮮明に記憶している。ただのどを突き破られる親分が上田吉二郎だと思っていたが、違う俳優だった。上田吉二郎の独特の笑い声が耳に残っているので次のシリーズだったかもしれない。
 大川橋蔵が中性的だという文章を読んだことがある。確かにこの映画を見ていると、動作もものの言い方もなよなよしてほとんど女である。
 葵新吾の実の父親は徳川吉宗であり、母親は正妻のお鯉の方である。だが新吾は、父は師である梅井多聞であり、母は真崎庄三郎である、という。武家の世界によくある、女を入れない男だけの世界、同性愛と言ってもいい世界である。だからこそ梅井多聞も真崎庄三郎も極めて男らしいのに葵新吾はなよなよしているのである。だから自分が本来は次期将軍の血筋なのに、自分を本来の親から奪って孤児のようにした真崎庄三郎を恨むどころか母親のように慕うのだ。
 だから葵新吾は大川橋蔵でなくてはならず、テレビで松方弘樹や田村正和、真田広之が演じても葵新吾のけなげさが出せるはずがない。
 総集編としてWOWWOWで放送されたのだが、画面が昔のままで劣化しておらず、うれしかった。やはりチャンバラはいいなあ。

名古屋港シーサイドスポット

120329_87名古屋港シーサイドのシンボル、名古屋港ポートビル。最上階の六階は展望台。

120329_80名古屋港水族館の南館側からこのポーブリッジを渡るとポートビルの前へ出る。橋から名古屋港が一望できる。

120329_85名古屋港のもう一つのシンボル、南極観測船ふじ。艦内を見学できる。

120329_90ポートビルのレストランで昼食。かきフライ定食に生ビール。車ではないからビールを飲めるのがなによりうれしい。左手の大きな窓から名古屋港が一望できる。ツインブリッジも遠望できる。すぐ目の前が名古屋港遊覧船の発着所になっている。

120329_91ポートビルの展望台からポートブリッジと名古屋港水族館、そしてふじを見下ろす。

120329_96臨港公園を見下ろす。右手の岸壁には大型船が接岸していることがある。

120329_97_5北の方角、名古屋の中心部方向。

120329_104_2たまたま飛行船が上空を通過した。

120329_107公園の桜のつぼみは開く寸前であった(この日は29日)。今日はたぶん咲きだしているだろう。

名古屋港はすべ丁寧に見て回るとたっぷり一日遊べる。水族館だけだと2000円、それがポートビルの展望台と海洋博物館、南極観測船ふじ、水族館の共通券が2400円なので時間と元気さえあれば共通券がお得だ。

二百を超える

 昨日一日のブログのアクセス数が二百を超えていた。昨年一月から本格的にブログを始めてたぶん初めてだと思う。これはエイプリルフールではない。一日のアクセス数が何千、何万というひとがいくらもいる中でささやかな話であるがうれしいものだ。昨日は月末だったのでアクセス数の流れをチェックしてみたが、読んでくれている人の枠が少し広がった感じがする。次は年内に五万アクセス、来年は十万を目指そうか。ははは 夢は大きい方が張り合いがある。
 内容が伴わなければそれもあっという間に雲散霧消することは承知しているのでせいぜい楽しみながらせっせと更新を続けよう。
 ブログには突っ込みを入れる場所があるのをご存じない方もいるようだ。反論でも同感でも何でもいいのでコメントという処をクリックしてコメントを入れてくれたら、必ずそちらのブログへもアクセスします。いつも「いいね」をクリックしていただいている方々、ありがとうございます。

 ところで以前にも紹介したことがあるが、とても面白いブログがあるのでおすすめする。
「アラフィフの海外で節約生活」というブログだ。「もな」さんというアラフィフの女性が、ご主人の定年退職を機に中国の南部の小(?)都市に移住しての現地での生活の模様を、毎日ほとんど欠かさず記したものだ。たまたま彼女がこちらのブログにコメントをくれたので、拝見したらこれがとても面白い。文章に軽みがあってべたべたしていない。家計簿のような部分もあり、中国の諸物価も詳細に分かる。
 この頃は毎日拝見するようにしている。拝察するに永住をするつもりではないようだが、ご主人はご主人で中国での生活を楽しみ、もなさんももなさんで現地での生活を楽しんでいるようだ。
 始めたのが今年の初め頃のようで、まだアクセス数も少ないのがもったいない。読んだら必ず毎日読みたくなるだけの内容のあるブログであることを保証します。

「清末見聞録(清国文明記より)」・山東紀行・衍聖公

 山東巡撫・楊士驤(ようしじょう)氏の紹介によって衍聖公にお目にかかった。衍聖公の公府は聖廟の東隣にある。聖人之門と題してある大門を入り、さらに三門を過ぎると公廷である。ここには勅賜の文字を大理石に刻して所狭しと並べてある。これを過ぎ、客室に入って待つこと数分で衍聖公が、聖廟ではるかに見受けたときと同じ大礼服のままに出てこられた。席が定まって後、来意を告げて二、三言葉を交わした。うち見たところ年齢はまさに四十くらいで福々しく肥満し、眼光炯々として人を射て、風采堂々たるものである。公は今、曲阜師範学堂の総弁(事務総長)である。夫子(孔子のこと)は生前三千の子弟を教え死後万世の師表(世の中の手本となる人)である。衍聖公を師範学堂の総弁としたのは、まさにそのところを得たものであろう。辞し去ってのち、その学堂を一見した。教師は全部で四名、学生はわずかに八十余名とのことであった。

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