「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・新函谷
午後は秋の日差しが強くて燃えるようであり、加えるに馬の蹴立てる砂塵が耳目をおそう。峠を3つほど越えて、午後四時西方の丘陵に大きな城郭を望む。新安県である。澗水(かんすい)を渡ると路の左に半ば折れた石碑があり谷関の二文字のみ残っている。道に城楼があり、東面には紫気東来、西面には漢函谷関と題してある。これが漢の武帝元鼎(げんてい)三年楼船将軍楊僕(ようぼく)の要請によって東遷した新函谷であって、秦の時代の旧函谷は西の方、霊宝県に在る。この地は両側から山が迫り、前に澗水があって形勝(地勢に優れている場所)の地である。さらに二里行き東関に入る。旌表節孝坊(せいひょうせつこうぼう)、邑侯彰徳(ゆうこうしょうとく)碑が路の左右に相望んでいる。秦の武安君白起が趙の降卒数十万を生き埋めにしたのはこの付近の地と云うが、実際にそんなところがあるようでもない。そのまま衙門に寄り、車馬を託して西関外の王盛店に宿を取る。時に五時半、行程七十里。
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