「清末見聞録(清国文明記より)」・長沙紀行・嶽麓山③
先ず関口君を訪ね、その案内で学堂のほとんどを参観することが出来た。現在学堂の堂宇は多くは改築したもので、書院の旧観は礼堂、文昌閣、御書楼、六君子堂、崇堂祠及び濂渓祠(れんけいし)に残っている。礼堂には康煕御筆の学達性天及び乾隆御筆の道南正脈の扁額、朱子書の忠孝廉節の四大字がある。関口君の語ることにはこの四大字のうちの節の一字については一つの伝説があるのだそうだ。節の字はかつて火事で焼失したので字の名人によってこれを補おうとした。彼は斎戒沐浴して礼堂に座して筆を執り、下書きを何十回もしたのにうまくかけない。その時乞食が一人堂前に跪いてこれを見ていた。そして何をそんなに苦しんでいるのか、と云う。私が書いたようにしてみなさいといわれ、その通りにしたところ、たちまち納得する字を書くことが出来た。その字は筆力雄渾、朱子の旧の字と変わらない。驚いてその乞食を見るとすでにその姿は見えなくなっていた。そこで朱子の神霊であったのだろうと言い伝えられることになった。その書を持ってこれを補った。今残っているのもその乞食の書いたものであるのだという。
崇道祠は朱、張両夫子を祀る。中に朱子が張南軒に答えた詩が刻されている。山中にもと岳麓寺及び道林寺の二つがある。岳麓寺は晋の太始元年に建てられたもので、唐の開元十八年、李邕(りゆう)の文と書の麗山寺碑がある。寺は明の時代になって万寿寺と名を改められた。今なお山上にあるけれども、李北海の碑は書院の西南隅にある。道林寺は明の正徳年間呉世忠寺を壊して書院の修理をして以来そのあとは明らかではない。乾隆時代に三閭大夫が祠を建てて土をあばいて古磚(こせん・古い煉瓦)を見つけている。その後土地の人間が祠の前の阡陌(せんぱく・田圃の中の道)から石砌(せっかい・石畳)数層を掘り出した。あるいはこれが道林寺のあとではないかという。寺の中には欧陽詢書の碑があったと云われるが今は滅びて存在しない。
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