「清末見聞録(清国文明記より)」・長沙紀行・嶽麓山②
江から三里のところに自卑亭がある。書院はその西にあり、地勢はやや高く、後ろに嶽麓山を背負い、前に湘江を隔てて長沙に対する。この地は特に僻地と言うほどではないが、遠く塵寰(じんかん・塵の世、つまり人間世界)を離れて、教育上には最好適地である。書院は宋の開宝中、潭州(たんしゅう)守朱洞(しゅどう)がこれを創建し、四方の学者を集めた。後に朱子がこの書院に滞在し、手ずから忠孝廉節の四大字を堂に書した。時に張南軒は湘江を隔てて長沙の城南書院にいて、相共に学を講じ、一字天下を風靡した。書院はその後しばしば修理再建され、光緒二十八年以後は湖南高等学堂と改称し、学生三百名が就学している。理学士の関口壮吉氏及び東京高等師範出身の園田愛之助氏らが招聘されて教鞭を執っている。
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