「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・殽山苦雨②
もとの三頭の馬もこれに力を得て、行くこと数里にして十里舗に到る。すでに日はとっぷりと暮れてしまった。ここに留まろうとしたが空室がないという。さらに進む。また驢に騎乗する人に出会ったので無理矢理これも馬車につないだ。都合五匹に車を引かせて、五里ほどで廟宮に到る。客桟は三つあるという。ところがその三つとも一杯だといい、皆その庭にはすでに馬がたくさんつながれている。驢に乗っていた人はこの地の人だといい馬車から驢を引き離そうとするのを強いて引き留め、さらに先に行くといくばくもなく十余輛の荷車が泥の中で立ち往生していて通れない。待つこと一時間、何とか脱出したようで通り過ぎることが出来た。当日は十一日の月、暗雲を透かして微光があり、わずかに道がたどれる。馬が一頭よろけて倒れてしまった。御者と馬と驢を貸してくれている二人とが力を合わせてようやくこれを引き起こして、また進んだ。ようやく峡石に着いたのは夜十時を過ぎている。前回私たちが泊まった唯一の客桟で、すでに寝ていたのをたたき起こして聞けば空室はないと云って門を開かない。これを強引に開けさせて車を乗り入れた。磁鐘鎮で兵勇を一人先発させ、宿舎の用意をしておくよう命じていたので無理をしてここまで来たのである。それなのになんたることか、あの兵勇は何処に消えたかここには来ていないという。どうせ空室がないのであれば十里舗か廟宮に無理矢理宿泊したのであるが、今更仕方の無いことである。そこで宿の主人を土間に移らせ、その居室の坑(カン)の上に二人枕を並べて寝た。狭くて粗末な部屋だが、生き返る思いである。峡石から観音堂に到る二十五里は、殽山の中で最も路が険悪なところなので、翌日十八日は初めから馬を二頭増やして馬車を引かせた。途上十数輛の荷車を放置している者がある。昨夜行きくれたので途上で夜明かしをしたのであろう。泥濘は昨日と同じだが、雨は少し小やみになったのと観音堂よりも東は下り坂が多くなったのとさらに馬が五頭になったことで幸い無事に夕方には澠池(めんち)に到着することが出来た。
*同行した桑原博士の「考史游記」によれば「峡石の宿は・・・不潔筆舌に絶し・・・、この日の行路尤も艱み、この日の客舎尤も陋なり。」と書かれている。よほどつらかったようだ。
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