「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・虎牢関②
行宮の下に官店がある。そこに光緒十七年に立てられた碑があり、それによるとこの地は古の成皐(せいこう)、虎牢の地で、今は鞏県に属し、老健という。雨雪の夜など行者がその頂にいたって投宿の場所がないことに困り、銀四百両を投じてこの官店を設けたという。ここからは下り坂となる。山中の所々に卞洛鉄道に使用する石を切り出し、多くの人を使役して一輪車で石を運んでいる。およそひとり一回に二つの石塊を運び、一日に二往復、その工銭は一塊につきおよそ百文、都合四百文を得るのである。ちなみに彼らは一日百文あれば生活できると云うことである。
汜水(しすい)が左右の山々を隔てている処を二里余り行くと景色が急に開けてやや平坦な場所に出た。その口を扼して関の故址がある。道の左側に碑があり、雍正九年に立てられたもので、題して虎牢関と云う。あるいは成皐関と云い、また古崤関(ここうかん)と称するものである。かつて袁紹、曹操達が義を山東に唱え、兵を起こして董卓を討ったとき、董卓は義子の呂布に虎牢関を守らせた。呂布は大いに劉備、関羽、張飛の三傑と戦い、英名が一時天下に鳴り響いたのはすなわちこの地である。今、関の左に三義廟があり、中央に漢の昭烈皇帝(劉備)、右に勅封関聖帝君(関羽)、左に勅封剛毅大帝(張飛)の神位を設けている。また左右に趙周王関四将軍を配祀する。また道の南に虎牢関記の碑がある。ここから汜水を渡り、東関外同義老店に宿泊する。時刻は午後五時。汜水は古の虢国鄭(かくこくてい)の制邑(地名)である。汜水より鞏に到る六十里の間は一帯の高原で丘陵が相連なり、壁立峭抜、その険しさはほとんど崤函(こうかん)に劣らない。鄭の荘公曰く、制は巌邑なりと、実にその言の通りである。
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