侍浜・きのこ屋
これが29日に掲載されているなら、盛岡市内のどこかでつないだものだ。昨日の分は八戸でつないだ。EMOBILEは都市部でしかつながらない。ほとんどの地方ではつながらないようだ。旅は地方に行く。旅先でネットを使うつもりで契約したのに、その意味では役立たずだ。このことは前にも書いたが、本当に腹が立つので再び三たび書く。腹が立つのはよく確認せずに二年契約してしまった自分に対してだ。
28日の宿は岩手県北部、陸中海岸の久慈、侍浜のきのこ屋という温泉ホテルだった。日帰り温泉施設が宿泊も出来るようにしている、と云う体裁の宿である。高台にあり、窓から海が見下ろせる。ただ部屋が最悪だった。十畳もある立派な部屋なのだが、大浴場の真上なのだ。そのためだろう、夜になっても部屋の温度が下がらない。冬なら最高に居心地がいいかもしれないがこの猛暑ではたまらない。そう、ここもクーラーがないのだ。扇風機をかけっぱなしで、熱気の中でもだえながら夜を過ごした。
28日は薬研温泉からむつ市へ出て下北半島の東側を南下、六ヶ所村を経由して八戸へ、そこから久慈は遠くないのだが、行きたいところがあった。宮古の北、田老町だ。一昨年ここの民宿へ泊まって美味しい魚を食べた。そこがどうなっているのかこの目で確かめたかったのだ。田老町が甚大な被害を受けたことは承知している。
久慈から宮古まで90キロ以上ある。往復180キロも走らなければならないが、どうしても見たかった。
有名な防潮堤防が見えているからこの辺が田老町のはずだ、と思いながら行きすぎて次の峠道を上っていた。おかしい、行きすぎた、と気が付いて引き返した。田老町は国道45号線の両側に商店街のある町並みだ。そして民宿などはその防潮堤防の外側の、海との間に並んでいる。
町が消失していた。45号線の両側はただの草原になっていた。商店街も郵便局も人家も全てなくなっていた。商店街を目当てに走っていたので、ここがまさか田老町の跡だとは思えなかったのだ。
呆然とした。まさかここまでとは。そこから工事の車の行き交う堤防をくぐった。堤防は大きく破損している。そしてもちろん、民宿などどこにもない。工事用の宿舎とクレーン車だけがそこにあった。民宿のあったのはもう少し先の方だがそちらは入れない。はるかに遠望するがどこがどうだったかもう分からなくなっていた。
なんだか頭のなかが熱いようなひんやりするような収まりのつかない状態で、夕暮れの45号線をちょっとスピードをオーバー目にして久慈へ引き返した。
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