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2012年10月

2012年10月31日 (水)

池波正太郎著「白い鬼」(新潮社)

 剣客商売シリーズ第五巻。巻頭が表題の「白い鬼」。女性の陰部をえぐり取るという、イギリスの切り裂きジャックのような異常性格者で、人並み外れた剣技の持ち主である金子伊太郎という男を町方と協力して追い詰め、最後は秋山小兵衛自ら、打ち倒す。闘いのシーンは迫力満点である。
 「西村屋お小夜」はあるきっかけで、佐々木三冬が春に目覚める。にわかに女らしくなっていく三冬がとてもかわいい。お小夜は本来ある理由があって拐かされた娘なのだが、それから身を持ち崩し、自ら悪に染まっていく。自らが招いたものとは云え、その哀れさは沁みる。

 「手裏剣お秀」。女武芸者のお秀に打ちのめされた旗本の馬鹿息子たちが、腕の立つ浪人を金で集めて襲おうとする。それを知った小兵衛たちが助力してその企てを粉砕する。この事件が縁で今後秋山親子とお秀は親交を深めるのだが、此処では初登場。おはるが、三冬よりお秀の方が好ましい、と云うラストがほほえましい。

 「暗殺」。大治郎が危難に遭っている若侍を賊から助け出すのだが、残念ながら傷が重く、ダイイングメッセージを残して事切れてしまう。大治郎たちは真相を求めて走り回り、ついに大身の旗本自らが、身から出たさびをその若侍に暴かれるのを恐れて暗殺した事が明らかになる。それだけならまだしも、関係した人間を次々に闇に葬ろうとするのを知るに及んで、ついに大治郎が立つ。ところがこの旗本の殿様は槍の達人であり、大治郎は危うく命を起こす所であったが手傷を負っただけで何とか倒す事が出来る。天下の旗本を切り倒したのだが、悪いのは相手であり、大治郎のバックには三冬の父親である田沼意次がいるから大丈夫なのだ。

 「三冬の縁談」三冬に縁談が持ち上がる。田沼意次もおお乗り気だ。三冬には大治郎という存在が大きくなっていた。しかし三冬は自分をめとるものは自分を打ち負かさなければならない、と公言していた。どんな相手でも打ち倒す自信があったのだ。所が小兵衛がひそかにその相手を調べると、三冬が勝てそうもないほど強い相手である事がわかる。そして大治郎も三冬の縁談を機に、自分の心を三冬が大きく占めている事を知る。その大治郎の気持ちを知った小兵衛だが、如何ともしがたい。どうしてやる事も出来ない中、その相手というのが立派な風采にもかかわらず、問題のある人間で、三冬にはふさわしくない事が明らかになってくる。ますます苦悶する大治郎と小兵衛なのだが、意外な所でこの男、ぼろを出し、三冬との立ち会いが出来なくなる。都合が良すぎる、と云えばその通りだが、世の中というのはこうしたものだと信じたい。

 何時の間にか三冬と大治郎は互いを強く意識し合い、だんだんいいムードになってきた。次の巻で大発展するのだ。楽しみである。何せ次は「新妻」という巻なのだ。

椎名誠著「ガス灯酒場によろしく」(文藝春秋)

 2012年刊行。シリーズ最新作だ。

 椎名誠はSF好きだ。SF小説をいくつも書いている。シュールなものが多く、その不思議な世界と、造形された奇妙な言葉は時に筒井康隆を超える。また、沢山読んでいるし、この本でも時々気に入ったSF小説が紹介されている。ハイペリオンシリーズ、それに続くエンディミオンシリーズを絶賛しているが、私もこのシリーズはSFの最高峰だと思う。現在私が持っている早川文庫だけで、7巻出ているが、さらに続編があるかも知れない。何しろ凄まじいページ数で、読むのに集中力と体力が必要なシリーズだ。しかもその中身の濃さは想像を絶する。普通ならこの一冊から10や20の物語が書けてしまうほど盛りだくさんなのだ。実は歯ごたえがありすぎで全部読み終えていない。

 ダン・シモンズは、昔「カーリーの歌」と云う、インドが舞台の奇怪な小説を読んで打ちのめされた事がある。文章を読んだだけなのにあのグチャグチャネチャネチャした感じがいまだに皮膚感覚で思い出されるほどの凄まじい小説だった。一応ホラー小説と云う事になっているが、そんな枠を突き破った皮膚感覚不気味小説だった。気持ち悪いものが好きな人(結構いると思う)は是非捜して読む事をおすすめする。一生記憶に残るほど楽しめる。早川文庫に収録されているはずである。

 終末小説というジャンルがSFにはある。地球がついに滅びてしまう、と云うもので、殆ど人類が絶滅して、僅かに残った人々がどう生きたか、と云うのも同じジャンルになる。映画にもいくつかそのようなものがあってたいてい面白い。極限状況というのは小説にしても映画にしてもテーマにするのに面白いものなのだろう。

 椎名誠はたき火が大好きで、全国でたき火キャンプをして歩いている。ところが今はどう見ても問題ないような状況でも、たき火をしていると中止させられる事が多くなっているようだ。炎症の可能性が全くない海辺で、しかもまわりに人家のないような所でも規則だから、の一点張りで、止めさせられるという。そういうことがこの頃多くなってがんじがらめになっている。融通が全く利かない。そのくせどう見てもおかしい事が放置されたりしていて腹が立つ事が多い。この事なかれ主義こそ無責任だらけの日本の表れなのだろう。

 この本ではラストの方に東日本大震災の時の冬季用の自宅での様子が描かれている。本がばらばらと棚から落ちてきた様子が目に見えるようだ。実は私もその時千葉県の九十九里に近い所にいたので、同じように本棚から本やCDが落ちてくる中にいたのでよく分かる。

映画「菊豆(チュイトウ)」1990年、中国・日本合作

 チャン・イーモウ監督、コン・リー主演。

 チャン・イーモウは映像美の監督だから、この映画も、原作の舞台をわざわざ染物屋に変更して、その原色の鮮やかさが印象に残る映画となっている。時代は1920年代。山が迫るある田舎の村での物語。

 染物屋の楊金山は吝嗇な男だが、大金で若い嫁・菊豆(コン・リー)をめとる。これで三人目だが、前の二人はせめ殺されて死んだらしい。この染物屋を甥の天青が手伝っている。天青はもう四十近いのに独り者だ。甥と云っても血はつながっておらず、身寄りがないので金山に引き取られてこき使われている。

 金山は殆ど不能で、嫁を苛んでようやく思いを遂げるという変質者だ。天青はそれをじっと黙って見ているのだが、菊豆はその天青が自分に気がある事を察知すると、金山の留守に天青に迫り、いつしか二人は忍び会う仲になる。結果、菊豆は妊娠し、やがて息子の天白が生まれる。

 金山は自分の息子が出来た事を単純に喜んでいるが、ある日脳出血で倒れ、下半身不随となってしまう。今はおおっぴらに睦み合う菊豆と天青なのだが、やがて天白が育っていくと共に、恐ろしい事態が迫ってくる。天白の異常性格は何故なのか、不倫が悪かったのか、その寓意は何なのか、実の父親が天青である事を知りながら、激しく憎む天白の恐ろしさ。ラストの破滅的事態は、実は天青と菊豆にとっての救済だったのかも知れない。

莫言氏の受難

 今年のノーベル文学賞を執った莫言氏の著作が好評に売れているのだが、無数の海賊版や権利侵害が起こっていて、本来著作権料としてはいるものが大きく損なわれている。一説にはその損失は1000万元を超えているだろうという。ネットや市場で出回っているものだけで数十種類あるが、莫言氏が正式に契約しているのはある一社の出版社だけなので、殆どが違法なものらしい。

 中国は莫言氏のノーベル文学賞受賞で中国の文化度を誇りたいらしいが、このありさまを見るととても誇る事は出来ない事がわかる。そのことに何の違和感を感じていないのが中国人である。まだまだ中国は暗黒時代のようだ。

 ところでこの莫言氏の旧宅が山東省の高密市にあるのだが、莫言氏が公開を許しているので、今沢山の観光客が押し寄せて大賑わいだそうだ。ところが、中庭の植木や苗木、農作物が次々に持ち去られている。莫言氏の兄が臨時のガイドとして観光客の応対に当たっているが、このような観光客の振る舞いになすすべがないという。お持ち帰りを行う観光客の多くは子供ずれだそうだ。子供にしっかりと教育しているらしい。中国の未来はとても明るい。こうやって尖閣も奪おうとしているのだろう。

江南游記・蘇州城内(下)

 孔子廟に来たのは日暮れ方だった。疲れた驢馬に跨がりながら、敷石の間に草の生えた、廟前の路へさしかかると、寂しい路ばたの桑畑の上に、薄白い瑞光寺の廃塔が見える。塔の一層一層に、蔦葛や草の茂ったのも見える。その空に点々と飛び違う、この辺に多い鵲(かささぎ)も見える。私は実際この瞬間、蒼茫万古の意とでも形容したい、哀れにも嬉しい心もちになった。
 この蒼茫万古の意は、幸いにずっと裏切られなかった。門外に驢馬を乗り捨てた後、路も覚束ない草の中を行けば、暗い柏や杉の間に、南京藻の浮かんだ池がある。と思うと池の縁には、赤い筋の帽子の兵卒が一人、蘆や蒲を押し分けながら、叉手網(さであみ)に魚を掬っている。此処は明治七年に再建されたとは云うものの、宋の名臣范仲淹が創めた、江南第一の文廟である。それを思えばこの荒廃は、直に支那の荒廃ではないか?しかし少なくとも遠来の私には、この荒廃があればこそ、懐古の詩興も生ずるのである。私は一体歎けばいいのか、それとも喜べばいいのか?--そういう矛盾を感じながら、苔蒸した石橋を渡った時、私の口には何時の間にか、こんな句がかすかに謳われていた。「休言竟是人家国(いうをやめよついにこれひとのかこく)。我亦書生好感時(われまたしょせいよきときにかんず)。」--但しこの句の作者は私ではない。北京にいる今関天彭氏である。
 黒い礼門を通り過ぎてから、石獅の間を少し歩むと、何とか云う小さい通用門がある。その門を開けて貰う為には、青服の門番の上さんに、二十銭銀貨をやらなければならない。が、その貧しそうな上さんが、痘痕のある十ばかりの女の子と一しょに、案内に立つ所は哀れである。我々は彼等の後から、毒だみの花だけ仄白い、夕湿りの敷石を踏んで行った。敷石の尽きる所には、戟門というのだろう、大きい門が聳えている。名高い天文図や支那全図の石に刻まれたものも此処にあるが、あたりに漂った薄明かりでは、碑面もはっきりとは見る事が出来ない。唯その門をはいった所に、太鼓や鐘が並んでいる。甚だしいかな、礼楽の衰えたるや。--今考えると滑稽だが、私はこの埃だらけの、古風な楽器を眺めた時、何だかそんな感慨があった。
 戟門の中の石畳にも、勿論茫々と草が伸びている。石畳の両側には、昔の文官試験場だったという、廊下同様の屋根続きの前に、何本も太い銀杏がある。我々は門番の親子と一しょに、その石畳のつきあたりにある、大成殿の石段を登った。大成殿は廟の成殿だから、規模も中々雄大である。石段の龍、黄色の壁、群青に白く殿名を書いた、御筆らしい正面の額--私は殿外を眺め回した後、薄暗い殿内を覗いてみた。すると高い天井に、雨でも降るのかと思う位、颯々たる音が渡っている。同時に何か異様の臭いが、ぷんと私の鼻を打った。
「何です、あれは?」
 私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返った。
「蝙蝠ですよ。この天井に巣を食っている。--」
 島津氏はにやにや笑っていた。見れば成る程敷き瓦の上にも、一面に黒い糞が落ちている。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に沢山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでいるか、想うだに余り好い気味はしない。私は懐古の詩興からゴヤの画境へ突き落とされた。こうなっては蒼茫どころじゃない。索莫たる怪談の世界である。
「孔子も蝙蝠には閉口でしょう。」
「何、蝠も福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」
 驢背の客となった後、我々はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合った。蝙蝠は日本でも江戸時代には、気味が悪いと云うよりも、意気な物だと思われたらしい。蝙蝠安の刺青(ほりもの)の如きは、確かにその証拠である。しかし西洋の影響は、何時の間にか塩酸のように、地金の江戸を腐らせてしまった。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て来て浜の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家がでるかも知れない。--驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂いの漂った、人気のない路を急いでいる。

池波正太郎著「天魔」(新潮社)

 剣客商売シリーズ第四巻。私にとっては何回目(多分五回以上は間違いなく読んでいる)かになるので、登場人物が全て現実に生き生きと生きて生活している現実世界を著者のように神の眼で見ている心もちがする。登場人物が陥る危難を我が事のように感じ、解決すれば心から喜ぶ。主人公の親しい人が不慮の事で命を失えば身内を喪ったように悲しむ。現実の身内の不幸より胸が熱くなり、涙が出る。池波正太郎の会話の部分のがとても好きだ。実際に俳優が喋ったらぶちこわしだけれど、私の中の登場人物はそれでいいのだ。

 巻頭の「雷神」。秋山小兵衛が鍛えた弟子であっても、研鑽を続けなければ実力は失われていく。愛弟子が絶体絶命の状況に追い込まれるが、尋常な勝負とあっては秋山小兵衛も手助けする訳には行かない。その時何が起こったか。

 「箱根細工」。父の剣友であり、自分も親交のある人を訪ねて箱根へ向かった大治郎は、塔ノ沢の湯で不気味な浪人とすれ違う。その浪人は金で雇われて宿に逗留する人物を殺しに来ていた。大治郎はそれを察知してその浪人を倒すのだが、その浪人の素性は・・・。最後に秋山小兵衛の目に涙が光る。

 「天魔」。小兵衛よりも矮躯でありながら役者のような美形の白面の異様な剣士、笹目千代太郎。異常な性格ながら、人並み外れた跳躍力と、その剣の腕は天才的であり、彼の行くところ人が次々に死んでいく。世の為に彼を倒さなければならないが、秋山小兵衛も手こずる相手であった。その相手に大治郎があえて挑む。超人的な能力を持つ相手に対して大治郎はどう闘ったか。その工夫とは・・・。

 「老僧狂乱」。人並み強い色欲を持つが故にあえて仏門に入る人もいるという。あふれるばかりのそれを、たまの憂さ晴らしで宥めていたうちは好いが、それがあるきっかけで奔流となってしまうともう人にはなすすべがない。それによる老僧の危難は自らが招いたものとは云え、人生の華も其処にあったのかも知れない。

 他にいわゆる衆道の話(池波正太郎の小説にはしばしば出てくる。当時は結構ありふれた話でもあった)、そして宗哲先生に言われた、なぞの言葉「毛饅頭」について大治郎と三冬が首をかしげ、何だろうと小兵衛に問いかける話など。

池波正太郎著「天魔」(新潮社)

 剣客商売シリーズ第四巻。私にとっては何回目(多分五回以上は間違いなく読んでいる)かになるので、登場人物が全て現実に生き生きと生きて生活している現実世界を著者のように神の眼で見ている心もちがする。登場人物が陥る危難を我が事のように感じ、解決すれば心から喜ぶ。主人公の親しい人が不慮の事で命を失えば身内を喪ったように悲しむ。現実の身内の不幸より胸が熱くなり、涙が出る。池波正太郎の会話の部分のがとても好きだ。実際に俳優が喋ったらぶちこわしだけれど、私の中の登場人物はそれでいいのだ。

 巻頭の「雷神」。秋山小兵衛が鍛えた弟子であっても、研鑽を続けなければ実力は失われていく。愛弟子が絶体絶命の状況に追い込まれるが、尋常な勝負とあっては秋山小兵衛も手助けする訳には行かない。その時何が起こったか。

 「箱根細工」。父の剣友であり、自分も親交のある人を訪ねて箱根へ向かった大治郎は、塔ノ沢の湯で不気味な浪人とすれ違う。その浪人は金で雇われて宿に逗留する人物を殺しに来ていた。大治郎はそれを察知してその浪人を倒すのだが、その浪人の素性は・・・。最後に秋山小兵衛の目に涙が光る。

 「天魔」。小兵衛よりも矮躯でありながら役者のような美形の白面の異様な剣士、笹目千代太郎。異常な性格ながら、人並み外れた跳躍力と、その剣の腕は天才的であり、彼の行くところ人が次々に死んでいく。世の為に彼を倒さなければならないが、秋山小兵衛も手こずる相手であった。その相手に大治郎があえて挑む。超人的な能力を持つ相手に対して大治郎はどう闘ったか。その工夫とは・・・。

 「老僧狂乱」。人並み強い色欲を持つが故にあえて仏門に入る人もいるという。あふれるばかりのそれを、たまの憂さ晴らしで宥めていたうちは好いが、それがあるきっかけで奔流となってしまうともう人にはなすすべがない。それによる老僧の危難は自らが招いたものとは云え、人生の華も其処にあったのかも知れない。

 他にいわゆる衆道の話(池波正太郎の小説にはしばしば出てくる。当時は結構ありふれた話でもあった)、そして宗哲先生に言われた、なぞの言葉「毛饅頭」について大治郎と三冬が首をかしげ、何だろうと小兵衛に問いかける話など。

2012年10月30日 (火)

椎名誠著「トンカチからの伝言」(文藝春秋)

 2007年刊行。

 いろいろな話題が取り上げられているがその中から私の意見を交えていくつか。

 交通安全週間の、あの沿道でのビラや小物を配る風景に意味があるのだろうか、と云うのは多くの人が感じている事だろう。おじさんやおばさんが車を停めて無理矢理窓を開けさせ、手渡されるものに貰って嬉しいようなたいしたものはない。時には子供たちまで動員して何かを手渡している。そしてスペースのある交差点などに白いテントが組み立てられて腕章を巻いたおじさんやおばさんがお茶を飲んだり、時には旗をふったりしている。あれはボランティアなのだろうか。それにしても予算をかけてやっている行事なのだろう。ところであのようなところに出くわしたドライバーが、よし、これからは一層交通安全に気をつけよう、と強く決心するのだろうか。自分を基準にしたら決してそうは思わないような気がする。参加するおじさんおばさんたちのレクリエーションなのかも知れないが、ちょっとうっとうしい。

 ブラックバスが繁殖して在来種の魚が絶滅の危機にある湖が多いという話はずいぶん前から聞いている。しかしキャッチアンドリリースというのがマナーだというのは変わらないようだ。著者同様、私もブラックバスを食べた事がある。鱒は鱒であるから白身で美味しい。何故どんどんブラックバスを釣って食べないのだろう。これだけ繁殖してしまえばスポーツフィッシングの分位はいつでも棲息しているはずだ。もし食べるのが嫌ならしかるべく料理するとこをつくったらよろしい。安く手に入るのなら購入する人もいるはずだ。マスコミも外来種の害を歎く暇があったらブラックバスが美味しい事をもっと皆に知らしめたらいい。キャッチアンドリリースなどとさかしらな事を云っているのは、魚類の再生産の難しい地域の話であって、日本はそんな事をしなくても大丈夫だろう。ブラックバスの天敵は人間、として生態系のバランスを取り直す必要があるのではないか。大体釣り番組で、ルアーなどのスポーツフィッシングをしている人に余り友だちになりたいような見かけの人はいない。

 中島義道氏(哲学者)に椎名誠も大分シンパシーを感じているようだ。全く私も同感なので嬉しくなった。中島義道先生はいつも腹を立てている。お近づきになりたくないお年寄りの代表みたいな人で、何より騒音が嫌いで、おためごかしの善人も大嫌い、まじめな人、優しい人、親切な人、みんな嫌いだ。勿論ずるいやつや悪いやつはもっと嫌いだけど、そうしたら誰が好きかと云えば、多分自分も含めてみんな嫌いなのだ。全ての友人知人親類縁者とのつきあいをある日から全て断ってしまい、家族とも必要最小限のやりとりしかしていないという徹底ぶりだ。ある意味で理想の生き方だけど普通の人に出来る事ではない。しかしその著作は明快で痛快、ほんとうに嬉しくなるほど面白い。

 一つ一つ書いていくとキリがないのでこれでおしまい。

首里城祭り

 今沖縄で「首里城祭り」が開かれているそうである。

 この祭りのイベントの一つとして、「琉球王国絵巻行列」の仮装パレードが那覇市の国際通りで行われた。公募で選出された男女が、琉球王国伝統の衣装をまとい「琉球国や烏」や「琉球の皇后」に扮し、中国皇帝の使者の「冊封使」を歓迎した。

 このイベントを報じた中国メディアは、琉球王国は昔、中国の冊封国であったが、明治維新の末期に日本に併合された、と報じた。

 これは事実であるが、それを言うならチベットや周辺諸国を清の時代やそれ以後に武力で侵略して自国に組み込んだ事も云わなければおかしいだろう。中国国民は殆どそのことを知らされていないのだからわざわざ日本の事をさかしらげに言うのは無用である。如何にももともと琉球国は中国のものだった、と云う事を主張したいのが見え透いている。そんな事を云っていたら日本も東南アジアの国々も皆ある時は中国に朝貢していた時代がある。それらの国もみなもともと中国領である、と云いかねない、と云うか本音ではそう思っているようだからまことに度しがたい中華思想である。

 中国の軍の幹部がアメリカの軍の幹部に、ハワイを境目に、太平洋を二分してアメリカと中国で棲み分けしようと持ちかけたという話がある。どうも本当の話らしいが、中国は太平洋の東半分は自分の国にするつもりかも知れない。

ノーベル文学賞に買収疑惑?

 ノーベル文学賞に莫言氏を推薦されたと言われるスウェーデンの中国研究家が、記者会見で中国当局から書画や古書を贈られていた事を洩らしてしまった。その研究家は莫言氏の著書の翻訳もしているので当然ノーベル賞で莫言氏の著書が売れれば翻訳料も懐に入る事になる。

 さらにスウェーデン国営放送は、「中国からの投資を受け取る代わりに、スウェーデンは文学賞を与えた」という報道をした。

 今年四月に温家宝首相がスウェーデンを訪問した際に、環境問題に研究費として約1000億円の拠出を発表している。

 ノーベル平和賞を反体制活動家の劉暁波氏に贈った為にぎくしゃくしていたものを中国政府もスウェーデン政府もこれを機会に修復の手立てにしたのだというのがもっぱらの噂である。

 ノーベルさんもノーベル賞を設立した時にこんな利用のされ方をするとは思っていなかっただろう。折角築かれたノーベル賞の権威をこのような政治的な思惑で左右しているのでは今までの受賞者に申し訳ない事である。

 そもそも文学賞や平和賞はこのような政治的な思惑がはいりやすい。大江健三郎が受賞したのもそのような思惑を強く感じる(彼の小説のレベルを否定するものではないが、どうも彼の政治的行動の方が評価されたように見えるからだ)。

 ノーベル賞も積立金の金利で賞金を出していたはずだが(当初はそうだったはずで、今もそうかどうか知らない)、今のように金利が低いと運営も苦しいだろう。だから賞金も相対的に値打ちが下がっているようだ。いっそのこと文学賞も平和賞も当分の間無しにして、ほかの賞に賞金を振り分けたらどうだろうか。
  
 それを決めるのはスウェーデン政府とノルウエー政府だから如何ともしがたいが、この二つの賞は他とは値打ちが違う、と世界中が思うようになった事は間違いがない話だ。

読書量

 中国のメディアが、中国人の年間読書の冊数が、世界最低レベルであるという統計を発表した。それによると、中国人の平均読書量は年間4.35冊で、韓国の11冊、フランスの20冊、日本の40冊と比べて極めて少ないとしている。

 専門家は今回の莫言氏のノーベル賞受賞で、読書促進になる事を期待しているそうである。莫言氏の小説は現在増刷されて書店に並べられているが、新たに全集が100万部売り出されるという。但しそれが全て売れたとしても読書量は国民一人あたり、0.01冊増加する事になるだけなのだそうだ。

 確かに読書は大事だが、今まで中国の書店で販売されている本は、国家の管理の下に許されたものばかりで面白い物が少ない。そうなれば当然買う人が少ないし、売れなければ出版数も伸びない、と云う悪循環だった。今の体制のままでは本質的な状況は変わらないだろう。

 それにしても日本人が年間40冊も読んでいるとは知らなかった。それこそ中国以下の数字だと思っていたが、それは大学生の話で、一般の人はもっと読んでいるようである。ただし、この数字は雑誌や漫画を含めているような気がするが。いろいろ普段聞き及ぶ話では、多分世界で一番本を読んでいない大学生を統計したら、断然日本がトップだろう。中国の国民の問題よりも、こちらの方が余程ゆゆしき問題だ。

釣行中止

 昨日の定期検診での血液検査の結果は、治療中の糖尿病と高血圧、痛風についての検査結果は、不思議な事に(と云うのも変だが、ちょっと不摂生が続いたので)全て正常値であった。「そのことは好いのですが、」と医者は言った。「尿に異常があります」。いま服用中の薬に、泌尿器系の発がん性が疑われる成分が含まれるので、どうしますか、と前回問われたところであった。「背中や腰がいたいということはありませんか」と尋ねられた。「特にないです」と答えたのだが、「その薬をすぐ他のに換えます」という。そして泌尿器系の検査を受けるように指示された。「そんなに心配する事はありませんし、たまたまこのような結果が出る事も多いのです」と言うのだが、慌てているのは医師の方だ。

 早速泌尿器科の検診予約をする。医者の予定と合わせると、旅行から帰ってからと云う事になった。

 ところが夕方になったら腰が痛くなって来た。少し重い荷物を持ったせいでいつもの腰痛が久しぶりに出たような感じである。程度は軽い。だが坐っているとじわじわと痛い。だからブログを打ち込むのがつらいので、昨日は早めに横になって本を読んでいた。

 と云う訳で本日予定した釣行は中止とした。腰はやはり痛い。この程度なら四五日で治まると思うが、旅行に差し支えないかどうか心配だ。今日は読書と映画でごろごろしていよう(いつもの事だが)。

江南游記・蘇州城内(中)

 我々は北寺の塔を見てから、玄妙観を見物に行った。玄妙観はさっき通った、宝石屋の多い往来から、ちょいと横丁をはいった所にある。観前の広場に露店の多い事は、上海の城隍廟と違いはない。うどん、饅頭、甘藷の茎、地栗(デリイ)--そういう食物店の間には、玩具店や雑貨屋も店を出している。人出も勿論非常に多い。が、上海と違う事は、これ程ぞろぞろ練っている中に、殆ど洋服の見えない事である。のみならず場所も広いせいか、何だか上海のように陽気でない。華やかな靴下が並べてあっても、韮臭い湯気が立っていても、いや漆のように髪が光った、若い女が二三人、鶸色や薄紫の着物の尻をわざと振るように歩いていても、何処か鄙びた寂しさがある。私は昔ピエル・ロティが、浅草の観音に詣でた時も、こんな気がしたのに違いないと思った。
 その群衆の中を歩いて行ったら、突き当たりに大きい御堂があった。これも大きい事は大きいが、柱の赤塗りも剥げていれば、白壁も埃にまみれている。その上参詣人もこの堂へは、たまに上がって来るばかりだから、一層荒廃した感じが強い。中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いずれも安物の掛け軸が、あくどい色彩を連ねている。と云っても書画の奉納じゃない。皆新しい売り物である。店番は何処にいるのかと思ったら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐っていた。しかしこの掛け物の他には、香花は勿論尊像も見えない。
 堂を後ろへ通り抜けると、今度は其処の人だかりの中に、両肌脱ぎの男が二人、両刀と槍との試合をしていた。まさか刃はついてもいるまいが、赤い房のついた槍や、鈎なりに先の曲がった刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗る見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落とされると、隙間もない太刀先を躱し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴り上げた。相手は両刀を握った儘、仰向けざまにひっくり返る、--と、まわりの見物は、嬉しそうにどっと笑い声を上げた。何でも病大忠薛永とか、打虎将李忠とか云う豪傑は、こんな連中だったのに違いない。私は堂の石高の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸伝らしい心もちになった。
 水滸伝らしい--と云っただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一体水滸伝という小説は、日本にも馬琴の八犬伝を始め、神稻水滸伝とか本朝水滸伝とか、いろいろ類作が現れている。が、水滸伝らしい心もちは、そのいずれにも写されていない。じゃ「水滸伝らしい」とは何かと云えば、或支那思想の閃きである。天罡地煞一百八人の豪傑は、馬琴なぞの考えていたように、忠臣義士の一団じゃない。寧ろ数の上から云えば、無頼漢の結社である。しかし彼等を糾合した力は、悪を愛する心じゃない。確か武松の言葉だったと思うが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だというのがある。が、これは厳密に云えば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云うのである。いや、もう一艘丁寧に云えば、既に豪傑の士たる以上、区々たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云うのである。つまり彼等の間には、善悪を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れている、模範的軍人たる林忠も、専門的博徒たる白勝も
この心を持っている限り、正に兄弟だったと云ってもいい。この心--いわば一首の超道徳思想は、独り彼等の心ばかりじゃない。古往今来支那人の胸には、少なくとも日本人に比べると、遥かに深い根を張った、等閑に出来ない心である。天下は一人の天下にあらずと云うが、そう云う事を云う連中は、唯昏君一人の天下にあらずというのに過ぎない。実は皆肚の中では、昏君一人の天下の代わりに彼等即ち豪傑一人の天下にしようと云うのである。もう一つその証拠を挙げれば、英雄頭をめぐらせば、即ち神仙と云う言葉がある。神仙は勿論悪人でもなければ、同時に又善人でもない。善悪の彼岸に棚引いた、霞ばかり食う人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確かにこの点では一回頭すると、神仙の仲間にはいってしまう。もし嘘だと思う人は、試みにニイチェを開いて見るが好い。毒薬を用いるツァラトストラは、即ちシイザア・ボルジア(16世紀のイタリアの権謀術数の政治家)である。水滸伝は武松が虎を殺したり、李逵が鉞を振り回したり、燕青が相撲を執ったりするから、万人に愛読されるんじゃない。あの中に磅礴(ほうはく)した、図太い豪傑の心もちが、直に読むものを酔わしめるのである。
 私は又武器の音に目を見張った。あの二人の豪傑は、私が水滸伝を考えている内に、いつか一人は青竜刀を、一人は幅の広い刀をふり上げながら、二度目の切り合いを始めている。--

*中国人の反日暴動の精神の根底にあるものを鋭く突いているではないか。だから中国政府は彼等をたきつけながら、同時に恐れるのである。

2012年10月29日 (月)

映画「キング・ラインズ」2007年アメリカ映画

 プロのフリークライマー、クリス・シャーマの数々の挑戦を描いた中編映画。

 ボルダリングというスポーツをご存知だと思う。壁面につくられた僅かな突起や手がかりを使って登るスポーツである。高度な物になると壁がオーバーハングしていたりして、これを登る様子を見ていると人間業とは思われない。

 このクリス・シャーマという人はボルタリングのプロでもあるのだが、自然の岩山など、壁面があれば登ってしまうと云うフリークライマーなのだ。時には片手の指先だけでぶら下がったり、次の手がかりまで飛びついたりするのだ。これは実際に見ないと決して信じられない。

 映画はドキュメンタリーだから次々にチャレンジの様子をテンポ良く見せていく。時には落下を繰り返して諦める場合もある。勿論最低限の安全確保の装備はしているので、怪我はする事があっても死ぬ事はないようにしてある。

 まあとにかくあり得ない所、殆どオーバーハングだけのアーチ状の岩場の下にとりついて登って行くシーンなどもある。62分という時間があれよあれよという間におわってしまった。

 所でオーバーハングの岩場にとりついている時に、長髪が後ろに靡いている様子で、突然パトリック・スウェイジを思い出した。パトリック・スウェイジは「ゴースト・ニューヨークの幻」で、デミ・ムーアの相手役であり、最初に殺されてしまって幽霊になるあの男性であると云えばわかるだろう。

 でも私はキアヌ・リーブスと共演した、「ハートブルー」という映画でのパトリック・スウェイジに魅了された。男が男優に魅了されるというのも何だが、一目惚れしてしまったのだ。「ハートブルー」は大好きな映画だ。そしてその後に見た「シティ・オブ・ジョイ」でのパトリック・スウェイジも良かった。一生忘れられない映画で、傑作だと思う。

 そのパトリック・スウェイジも57歳の若さで死んでしまった。

 何で長々とこのような話を書いているかというと、どういう訳か、彼の名前を思い出せなくなっていたのだ。そして出演していた映画の名前も同時に出てこなくなってしまったのだ。今までそんな事なかったのに自分が信じられない思いでいた所に、今日、この「キング・ラインズ」で、クリス・シャーマの長髪を見て突然全ての記憶が復活したからである。

 「ハートブルー」と「シティ・オブ・ジョイ」が無性に見たくなったのだが、残念ながらコレクションにない。今に必ずWOWOWで放映される事を信じて待つ事にしよう。この映画の事になると止まらなくなるおそれがありそうだ。

 ところで同じタイプのカート・ラッセルも大好きだ。これも話し出すと止まらないので止めておく。

内田樹著「僕の住まい論」(新潮社)

 200頁足らずの本でしかも半分近くの頁に写真がある。丁寧に読んでもあまり時間がかからないで読了出来るのだが、中身はものすごく濃い。内田樹先生の人生観、世界観が凝縮されて詰まっている。

 先生の建てた凱風館と云う合気道の道場が近くにあったのなら、子供の時から通いたかった(同い年だから実際にはあり得ないのだけれど)。多くの人との関わりが出来て、多分人生の濃度がもっと高く、今以上に楽しく生きる事が出来たかも知れない。

 でも、今それほど不幸せだと思っている訳ではない。健康かどうかと云えば、普通に一人旅が出来る程度には健康だし、旅に行く金も贅沢をしなければ持っている。寂しくなったら尋ねる友だちも何人かいる。

 今何が幸せかと云えば、内田樹先生のおかげで、考える事の楽しみを改めて知った事である。思えはずっとインプットばかりの人生だった。ざるに水を溜めようとするような仕方で本やいろいろな物を手当たり次第に読んだり見たりしてきた。

 幸い定年で即リタイアすることに踏み切ったおかげで、時間だけはふんだんに出来た。そしてブログという物を始める事になった。そうして考える時間と、考えた事を恥ずかしながら人に見て貰うという機会を得る事が出来た。アウトプットをメインにした日々が始まった。毎日のように何らかのアクションを入れてくれる人がいる。今は幸せだと思っている(本当にいつも読んでくださってありがとうございます)。

 本の事が殆ど書いてなくてすみません。自分で買って読んでください。人生観が変わるかも知れませんよ。

気を取り直そう

 本日は内科の定期検診日。今回も節制不足だから心配だ。結果が悪くない事が続いたので、だんだんたかをくくるようになってきた。自分のための節制なのにこれは良くない事だ。覚悟を決めて検査を受けよう。

 所でちょっと嫌な事、悲しい事があった。可成り落ち込むような事だが、書きたくない。

 気晴らしに明日は釣りにでも行ってみようと思う。そろそろ寒くなってくるので釣りに行くのも今年はこれで最後かも知れない。普通なら検診のおわった晩は祝杯を挙げるのだが(ほんとうに検診の意味がない)今日は控えて、明日の晩、釣った魚で祝杯を挙げる事にする。ドン姫にもそのつもりを伝えているので、来てくれると嬉しいのだがどうだろうか。魚が大好きだから、釣れさえすれば多分・・・。

江南游記・蘇州城内(上)

 驢馬は私を乗せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狭い往来の両側には、例の通り招牌が下がっている。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子も通る、人通りも勿論少なくない、--と云う次第だったから、私は手綱を引っ張ったなり、一時は思わず眼をつぶった。これは臆病でも何でもない。あの驢馬に跨がった儘、支那の敷石道を駆けていくのは、容易ならない冒険である。その危なさを経験したい読者は、罰金を取られるのを覚悟の上、東京ならば浅草の仲店、大阪なら心斎橋通りへ、全速力の自転車を駆って見るが好い。
 私は島津四十起氏と、今し方蘇州へ来たばかりである。本来ならば午前中に、上海を立つつもりだったが、つい朝寝坊をしたものだから、予定の汽車に間に合わなかった。--それも一汽車乗り遅れたのじゃない。都合三列車乗り遅れたのである。其処へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場へ来られたというのだから、今思い出しても恥じ入らざるを得ない。しかも私を送る為に七絶を一首頂いた事は、愈恐縮すべき思い出である。・・・
 私の前には意気揚々と、島津氏が驢馬を走らせている。尤も島津氏は私のように、初めて驢馬に乗ったのじゃない。だから腰の据わり方が違う。私は島津氏をお手本に、内心は何度もひやひやしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私じゃない、お師匠番の島津氏自身である。
 狭い往来の左右には、--実は最初の何分かは、何があるのか見えなかった。が、その何分かが過ぎた後には、経師屋と宝石屋が何軒もあった。経師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の画が並べてある。宝石屋の店には、翡翠や玉が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起こさせた。実際一度なぞは縫箔屋の店に、牡丹だの麒麟だのを縫い取った、赤い布が壁に吊してある、--それを見ようと思ったら、もう少しで目くらの胡弓弾きと、衝突してしまう所だった。
 しかし驢馬を走らせるのも、平らな敷石の上ならば、まだしも我慢出来ない事はない。それが橋を渡るとなると、いずれも例の反り橋だから、上りは尻餅をつきそうになるし、下りも運が悪ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんとうでないにもせよ、満更嘘ばかりではなさそうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控える代わりに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細々と蒼い運河の水が、光っているのだけ眼にはいった。
 そんな道中を続けた後、やっと我々の辿りついたのは、北寺の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出来るのは、僅かにこの塔ばかりだと云う。塔の前の草原には、籃を携えた婆さんたちが、二三人摘み草に耽っている。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云う事だから、草も人血に肥えているのかも知れない。しかし白壁に日の光を浴びた、急送の塔の聳える前に、青服の婆さんが三々五々、静かに草を摘んでいるのは、頗る悠々とした眺めである。
 我々は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口へ行った。其処には支那の寺男が一人、格子戸の中に控えている。それが二十銭の銀貨を貰ったら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云う手真似をした。塔の二階へ上がる所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともっている。が、梯子を上りかけると、もうその光はさして来ない。その上手すりへつかまったら、この塔へ詣でた善男善女何万人かの手垢の名残が、べとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ上ってしまえば、四方に口もついているし、もう暗いのに困る事なぞない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の仏が安置してある。桃色と金と--こう云う色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南国らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありそうな心もちがした。
 十分の後、我々は塔の頂上から、蘇州の市街を見下ろしていた。市街は黒い瓦屋根の間に、鮮やかな白壁を組み込んだなり、思ったより広々と拡がっている。その向こうに霞を帯びた、高い塔があると思ったら、それは孫権が建てたとか云う、名高い瑞光寺の古塔だった。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光と緑との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食っている、小さい二頭の驢馬を見下ろした。驢馬の前には驢馬引きの子供も、二人ながら腰かけている。
「おおうい。」
 私は大きい声を出した。が、彼等はふり向きもしない。--高い塔上に立っている事は、何だか寂しいものである。

2012年10月28日 (日)

佐伯泰英著「春霞之乱」(双葉文庫)

 居眠り磐音 江戸双紙40。何とシリーズは40巻にもなってしまった。いつまで続くのだろう。多分田沼意次が失脚するまでであろうか。田沼意次も、こちらでは極悪人であり、池波正太郎の「剣客商売」シリーズでは立派な人物である。なるほど池波正太郎が云う「人というものは悪い人間でも善い事をする事もあるし、良い人間でも魔が差す事があるもの」なのだ。

 今回は突然坂崎磐音の生まれ故郷の九州関前藩から、父の正睦と母の照埜(てるの)がお忍びで江戸へやってくる。父の正睦は関前藩の国家老であるが、よんどころない事情で藩の船に隠れ忍んでやってきたのだが、磐音に会う直前に拐かされてしまう。

 関前藩の物産交易を利用して不正な利益を企む陰謀を磐音が暴くとともに、多くの人の助けを借りて、父を助け出すまでの話である。

 折しも磐音には二番目(一番目は男の子で空也)の子供、睦月(女の子)が生まれたところである。助け出された正睦が、初めて出会う、その孫の睦月の紅葉のような手をそっとさわる所で物語は幕を閉じる。

 これで磐音もおこんもわざわざ孫を見せに、関前には行かなくて良くなったのだろうか。いや関前藩に渦巻く陰謀の解決はこれからである。多分乗り込む事になるのではないだろうか。その前に江戸藩邸の掃除があるだろうけれど。

 シリーズを読んでいない人には何の事やら分からなくてすまない。

ついに出た

 中国・温家宝首相の親族が、首相就任後に巨額の蓄財をしていた、と云うニューヨークタイムズのスクープ記事が出た。

 ニューヨークタイムズの中国向けの版にもこの記事は掲載されたが、中国政府により、現在ニューヨークタイムズは閲覧を停止されている。当局は閲覧を禁止している事を認めており、理由は記事がデマであるから、と説明している。

 政権交代時に前任を引きずり下ろす手法はこのような国ではしばしばとられることだ。それだけ温家宝の力が低下していると云う事だろう。そんな事をつついていったら政府高官で身内も含めて潔白な人間など一人もいるはずがないのだ。これではどうも韓国並みになったみたいだ。

 しかしこのスクープには裏があるのではないだろうか。何故ニューヨークタイムズの記者がこんなスクープが出来るのだ。普通はこのような情報は国家が厳しく管理しているから海外の記者に洩れるはずがない。意図的なリーグがない限りあり得ないのではないか。どうも今度の習近平という人は可成りえげつない事をやる人みたいだ。こわいこわい。

落合信彦氏の警告

 イスラエルがイラン攻撃に踏み切るかも知れないという。「アラブの春」以降、中東や北アフリカのイスラム諸国で反米デモや暴動が続いている。もともとアラブの春で倒された独裁政権は皆親米路線だったから当然の流れであり、新しい政権も国内の不満のはけ口として反米を煽る所もあるだろう。先日もイスラム教の予言者であるマホメットを侮辱した映画が問題になって反米感情がさらに高まった。

 今までアメリカのバックアップを受けてイスラム圏の中で孤立しながらも独立を保ってきたイスラエルは、この状況に非常な危機感を抱いている。しかも尤もイスラエルを敵視するイランが再三のアメリカの警告を無視して核兵器の製造を進めていると言われる。通常兵器の戦いであれば、イスラエルは周囲の国に勝利すると見られるが、核兵器を撃ち込まれたらその戦力の差などひとたまりもない。実際に使用されるかどうかは別にして、それだけでイスラエルの危うく保っている現在の国の存続が危機に瀕する。既に過去、イスラエルはイランの核兵器生産施設を攻撃して破壊した事がある。イスラエルがイランの各生産施設を特定出来ているとすれば、いつ攻撃があってもおかしくない状況なのだという。

 多分前回の攻撃ではイスラエルとアメリカでは内密に打ち合わせが行われていただろう。万一の時はアメリカが介入する体制はとられていたと思われる。

 だが、アメリカ大統領選挙が後十日ほどに迫ったいま、アメリカとの根回しは困難だからそのような密約をすることが出来ているとは思えない。では単独でもイスラエルは動くだろうか。

 アラブの春で、アメリカの利権が次々に失われていく中、オバマ大統領はなすすべもなく傍観した。そしてアメリカは自国の経済的難局にとらわれて、次の大統領が誰になろうとイスラエルを強く支援する見込みはあまりない。それなら手をこまねいていて手遅れになるよりは、強行手段に出る方が良い、とイスラエルがいつかは決断する可能性があると云う訳だ。

 アラブの春以降、いち早くそれらの国のアメリカの持っていた利権を引き継いでいるのは中国だ。アメリカと張り合うだけの大国になる為に着々と手を打ちつつあり、アフリカへの投資は巨額に上る。同時に日本が過去数十年かけてODAで築いてきたアフリカとの絆を裁ち切り、次々に中国がそれを肩代わりし始めている。それを放置したのは日本の外務省でもある。

 あえて陰謀説を唱えれば、反米を煽っているのは中国かも知れない。そして今回のマホメット侮辱映画を作らせたのも実は裏で中国が金を出していたかも知れない。

 それでいろいろ学習していたから今回の反日デモや暴動も短期間にあっという間に中国全土に展開する事が出来た、と云うのは私の妄想である・・・と思いたい。

「江南游記」・霊隠寺

Dsc_0037霊隠寺・飛来峰の仏像

 私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの画はがきを認(したた)めている。村田君はもう寝てしまった。暗い窓硝子の一角には、不思議な位鮮やかに、一匹の守宮(やもり)がひっ附いている。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん万年筆を走らせ続ける。・・・
 豊島与志雄に。
 今日霊隠寺に出かける途中、清漣寺という寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、真鯉、緋鯉が沢山いた。此処は玉泉魚躍とか号して、五色の鯉に名高い寺だという。もっとも五色と云った所が、実際は精々三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子が並べてある。其処に腰をかけていると、坊主が茶や菓子を持って来てくれる。くれると云っても唯じゃない。つまり坊主は鯉を養っているようだが、実は鯉に養われているのだろう。君は染井の釣り堀に、夜通し糸を垂れる豪傑だから、この寺の鯉も見さえすれば、釣りたくなるのに違いない。
 小穴隆一に。
 霊隠寺に詣る。途中小石橋あり。橋下の水佩環を鳴らすが如し。両岸皆幽竹。雨を帯ぶるの翠色。殆ど人に媚ぶるに似たり。石谷の画境に近きもの乎。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢「円機活法」なし。畢に一詩なき所以。ない方が仕合わせかも知れない。
 香取秀真(ほづま)氏に。
 霊隠寺は中々大きい寺です。総門をはいって少し行った所に、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)が飛んで来たという、飛来峰と号する山があります。(実は山と云うよりも、大岩という方が好いのですが。)其処の石窟にある仏は、宋元の仏だと云う事です。が、僕にはどの仏も、好いのだか悪いのだかわかりません。有難いと思ったのはたった一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出ていましたから、中へはいらずにしまいました。今日も時々雨が来ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋、--まあ、この寺の大体の感じは、支那の高野山と思えばよろしい。
 小杉未醒氏に
 霊隠寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駆け上がる所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂な物です。雨天だったせいか、赭塗(そほぬ)りの大雄宝殿なぞも、甚だ落ち着いた気がします。此処の空気には何となく、駱賓王じみた所がある。--あなたはそう思いませんか?もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だった事と思いますが、少なくとも二百位は、殆どあなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、実際あなたにそっくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるそうですが、まさかあなたの遠つ祖(とおつおや)はマルコ・ポオロだった次第でもないでしょう。が、僕は万里の異域に、あなたと相見することが出来たような、愉快な心もちになりました。
 佐々木茂索氏に。
 霊隠寺に詣りし帰途、鳳林寺一名黄鵲寺(きじゃくじ)を訪う。烏窼禅師(うそうぜんじ)の いた寺なり。寺は殆ど見るに足らず。唯葬いか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も経を読みながら、寺の廊下を歩みいたり。白楽天、烏窼に問う。如何か是仏法の大意。烏窼答えて曰く、諸悪莫作(まくさ)、衆善奉行、楽天又云う。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑って曰く、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行い難し。楽天即ち服すと。こう手軽く服された日には、烏窼禅師も気味が悪かったろう。寺門の前に支那の子供大勢あり。剪綵(せんさい)の花を持って遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。
 手紙を書いてしまったら、幸い守宮も見えなくなっていた。明日は杭州を去る予定である。湧金門、回回堂、--そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シャツ一枚になった後、ベッドの毛布(けっと)へもぐりこもうとした。が、思わず飛びのきながら、「こん畜生」と大きな声を出した。白いベッドの枕の上には、碁石ほどの蜘蛛がじっとしている!これだけでも西湖は碌な所じゃない。

渡り鳥の受難

 中国では渡り鳥が大量に密漁されているという動画が放映された。

 雲南省には渡り鳥が大量に通過する鳥道がある。シーズンになると専門の密漁家が集まり、それを手当たり次第に狩猟している。最近は趣味のハンターまで集まってきて、一日に1トン以上の収穫があると云う。 
 中国でもかすみ網での猟は禁止されているが、かすみ網は簡単に手に入れる事が出来るので、この場所ではなくても中国国内では大量に野鳥が違法に捕獲されている。

 中国では雀の食害を減らす為として、1958年に撲滅運動を開始、20億羽以上の雀などの小鳥を殺し尽くしたことがある。翌年から虫害が大発生して甚大な被害が続いた。

 中国は国土が大きく、渡り鳥や小鳥の数も膨大であるからいくら捕獲しても影響は小さいと考えられているようだが、その数は無限ではない。生態系に対するこのような無制限の殺戮を放置して好い訳がない。

 このことを取り上げたブログでは、反日運動に血道を上げる時ではない、このような事態に対してもっと関心を持っていくべきだ、と訴えている。

 中国の旅行客1500人ほどがフェリーで九州観光に訪れた。久々の旅行客に対して、訪問先で歓迎を受けたと報道されたのだが、それに対して「売国奴」などと非難する声が中国では飛び交っているという。

 中国の国民は自分の意志や考えで意見を言っているつもりでいるが、実はその考えは誘導されたものであるように見える。裸の王様を見る大人たちそのもののようだ。そして王様は裸だ!と云えない多くの人と、本当に王様がすばらしい着物を着ていると見えてしまう人とにあふれている。では日本は?

2012年10月27日 (土)

苦手な所と好きな所

 床屋が苦手だ。髪の絶対量が激減しても、若い時と同じように髪は伸びる。本数が減るのを加減して、伸びるのが遅くなってくれれば有難いのだがそういうことはない。だからいつかは床屋へ行かねばならない。
 
 と云う訳で本日、床屋へ出かけた(そんな大袈裟なものではないが)。料金の格別安い床屋だから三十分位であっという間におわる。これはありがたい。有難いのだが、今日の人は余りにぞんざいで、もう少し丁寧にやっても好いのではないか、と思う。勝手なものだ。どんな風にするか、と尋ねられるのが嫌いだ。任せるから勝手にやってくれ、その代わり、余程の事がなければ文句は言わない、と云いたい。

 出かけたついででもあるし、頭もさっぱりしたのでそのまま名古屋へ出かけた。ダビングの為のブルーレイのディスクを買うのと本屋を覗く事にする。電気屋と本屋が大好きだ。眺めていると時間の経つのを忘れてしまう。新しいパソコン(Windows 8対応)をいじってみる。出来れば10インチ位の特安のものが欲しい。旅先に持って歩く為なのでブログがキーボードから打ち込める事と、写真のストレージに使えるだけで好いのだ。しかし年金暮らしの身ではそうそう欲しいからすぐ購入という訳にも行かない。

 本屋で眺めていると欲しい本が沢山ある。不思議な事にその日の調子で、一つも欲しいものがない日と、やたらにあれもこれも欲しい日とがある。本日購入した本、内田樹「僕の住まい論」(道場兼住居を新築した顛末を写真たっぷりに紹介している)、おなじく内田樹「街場の文体論」(街場シリーズの最新刊だが、前に購入して未読の「街場の文章論」だと思って見逃す所であった)、佐伯泰英「春霞之乱」(居眠り磐音シリーズの第40巻、是が欲しくて本屋に寄ったのだ)、湯浅誠&茂木健一郎「「貧困についてとことん考えて見よう」(貧困と貧乏の違いについて書いてあるらしい)、池上彰「池上彰の政治の学校」(ポピュリズムとは何か、政治の基本について教えて貰おう)、椎名誠「ガス灯酒場によろしく」(今連続して読んでいるシリーズの最新刊が出ていた)、葉室麟「この君なくば」(新刊が出ていたので購入。この人の本で外れはなかった)、大沢在昌「獣眼」(ニューヒーロー誕生とある。エンターテイメントとしてこの人の本はピカイチだ。チョー面白そう)。
 もう10冊位買いたい本があったが、今日は車ではないので、このくらいにしておいた。珍しく中国関連の本がない。そちらを覗かなくて好かった。

合意をする為に話し合う

 石原氏が新党を立ち上げ、第三局を糾合しようと呼びかけている。意外な事に小異を捨てて大同につこう、と云う。場合によっては中異を捨ててでも、とまで云う。意見が異なるままの野合で政権を獲った民主党が、いつまでも小異にこだわって小田原評定を繰り返し、何も決められないまま自壊している時に、再び野合の集団をつくろうというのだろうか。

 しかし話を聞いていると、小異を「捨てる」のではなく、小異なら互いに話し合えば合意に至る道があるはずだ、と云っているのだ。今の日本の官僚主導の統治機構に問題がある事は、今はそれなりの意識のある人には(限定を付けざるを得ないのが残念だが)明らかである。それを是正していかなければ日本の国が大変だ、と云う問題意識を共有するのであれば、その目的を大前提に妥協が出来るはずだ、と云っている。そして力を結集しなければ、国を変える事は決して出来ない事も明らかなのだ。

 目的があれば、合意する事を目指しての話し合いが出来るし、その話し合いをしようと呼びかけている。石原慎太郎個人の好き嫌いは別にして、頷く事の出来る呼びかけだ。今の政治討論会を聞いていると、殆どが自分の意見は正しいからそれと違う相手の意見は間違っている、と云う物言いの応酬ばかりで、相手の意見を聞く耳を持たない。石破氏があの風貌でも(失礼)人気があるのは、相手の言い分は必ず最後まで聞く態度であり、聞いた事を元にそれに対する自分の意見を言う、と云う、当たり前の事をしているからだ。それが珍しいと云う事にこそ大きな問題がある。人の話を最後まで聞かない、自分が話す側に立ったら際限なく話し続けて相手に物を言うスキを与えない、これがディベートだ、とでも習ったのだろうか。そう言えばディベートというのは、討論の事だが、語源的には言葉で相手を打ち負かす、と云う意味を含んでいるという。そもそもどちらだけが絶対に正しい事なんかで討論になどなる事はない。互いが理を持ち、互いが打ち負かされないでいる間は永遠にディベートが続く事になり、そもそも何の為の討論なのかわからない。

 繰り返すが、目的があり、合意が形成出来る可能性があるから話し合おう、と云う呼びかけには答えるべきであろう。

 日本がこのままではいけない、と云う認識については多くの国民も共感するだろう。後は、ではどのような国にしていくのか、と云うビジョンの違いの問題だ。その違いを見て選ぶ選挙をしたいが、其処まで至るには道遠しのようである。

池波正太郎著「陽炎の男」(新潮社)

 剣客商売シリーズ第三巻。

 「東海道・見付宿」。大治郎は修行中に親しくした友人の難儀を知り、東海道見付宿(現在の磐田市)に急行する。このたびは友を救う為に、性格の穏やかな大治郎にしては荒っぽいやり方をする。状況に応じて臨機応変、果断な行動が必要な事もあるのだ。

 表題の「陽炎の男」は、三冬が陽炎の中に見る男の姿が、初めて実態を持つ話だ。こう云う進展に何となく単純に嬉しくなってしまう。

 「嘘の皮」がいい。嘘から出たまこと、そしてそれを貫き通す為に身を捨てる本物の男の潔さが心に残る。そして自らに目覚めた男もそのことで本当の仕合わせを得る事になる。ものにとらわれず、捨てる事で浮かばれる事があるのだ。

 「婚礼の夜」。こう云う暖かい話がこの巻では多い。真摯に生きる人を裏で支える人がいるからこの世は正しく廻る。支えられている人はそのことを何も知らない。しかしその真摯さを見るだけで支える人は報われているのだ。支える為の強さと美意識を持つ人が必要なのだが、現代は如何。

 「深川十万坪」は落語の人情話のような話だ。怪力の婆さんの侠気によって受けた危難を秋山小兵衛が救う。

 今回はついに三冬がほんのりと恋を意識するが、当の相手の大治郎はまだ春風の中である。

「江南游記」・西湖(六)

Dsc_0204雷峰塔

 その案内記Hangchow Inineraries(杭州旅行案内)によると、今をさる三百七十年余りの昔、この西湖のほとりには、しばしば倭寇が攻め込んで来た。所が彼等海賊には、雷峰塔が邪魔になって仕方がない。何故かと云うと支那の官憲は、塔上に物見を立たせてある。だから倭寇の一進一退は、杭州城へ近づかないうちに、ちゃんと支那側に知られてしまう。そこで或時日本の海賊は、雷峰塔のまわりに火を放って、三日三晩焼き打ちを続けた。かかるが故に雷峰塔は、赤煉瓦の製造が始まらない以前、早くも赤煉瓦の塔に変わったのである。--ざっとこう云う次第だが、真偽は勿論保証しない。
 雷峰塔を少時仰いだ後、我々は新新旅館のほうへ、--今日は昨日よりも熱が低い。喉も焼いたのが利いたようである。この分なら二三日中に、机の前へ坐れるかも知れない。しかし紀行を続ける事は、依然として厄介な心もちがする。その心もちを押して書くのだから、どうせ碌な物は出来そうもない。まあ一日に一回だけ、纏まりがつけば本望である。そこでもう一度繰り返すが、--雷峰塔を少時仰いだ後、我々は新新旅館の方に、徐(おもむろ)に画舫をめぐらせた。
 西湖は今我々の前に、東岸一帯を開いている。向こうに、--新新旅館の上に、緑をなす石山は、葛洪(かっこう・「抱朴子」を著した道士)煉丹の地だとか云う、評判の高い葛嶺であろう。葛嶺の頂には廟が一つ、丁度飛び立とうとする小鳥のように、軒先の甍を反らせている。その右に続いた山、--西湖全図によると宝石山には、華奢な保叔塔の姿も見える。この塔が細々と突き立った容子は、老衲(ろうのう)の如き雷峰塔に比すると、正に古人の云った通り、美人の如きものがあるかも知れない。しかも葛嶺は曇っているが、宝石山の山頂の草には、鮮やかに日の光が流れている。これらの山々の裾あたりには、我々の泊まったホテルを始め、赤煉瓦の建物もないではない。が、いずれも遠いせいか、格別目に立たないのは幸福である。唯山々のなだれた所に、白い一線の連なっているのは、今朝通った白堤に違いない。白堤が左に尽きた所には、楼外楼の旗こそ見えないにせよ、新緑の孤山が横たわっている。こう云う景色は何と云っても、美しい事だけは否み難い。事に今は点々と菱の葉を浮かべた水の面も、底の浅いのを瞞着すべく、鈍い銀色に輝いている。
「今度は何処へ行くのです?」
「放鶴亭に行って見ましょう。林和靖のいた所だから。」
「放鶴亭というと?」
「孤山ですよ。新新旅館のすぐ前の所--」
 その方鶴亭に上陸したのは、二十分余り後の事だった。画舫は今度も其処へ来るのには、錦帯橋をくぐった上、ずっと白堤に囲われた、所謂裡湖を横ぎったのである。我々は梅の青葉の中に、放鶴亭を見物したり、もう一つ上に側立った、これも林逋(りんぽ)の巣居閣へ云ったり、その又後ろに立てられた、やはり大きい土饅頭の、「宋林処子墓」なるものを見たり、いろいろその辺をうろつき廻った。林逋は高人だったのに違いない。が、同時に又日本の小説家ほど、貧乏もしていなかったのに違いない。林逋七世の孫、洪の著した「山家清事」によると、洪の隠遁生活は「舎三寝一読書一治薬一(しゃさんしんいちどくしょいちじやくいち)。後舎二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖庿称是(こうしゃにいつはしゅこくをたくわえのうぐさんをれつしいつはぼくえきをやすんじほうしこれにかなう)。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角(どういちひいちえんていにいぬじゅうにそくろしていうししかく)」だったと云う。和靖先生も似たようなものだとすれば、月五十円の借家にいるより、余程豊かだったと云わなければならぬ。私にしても箱根あたりへ、母屋が一軒に物置が一軒--書斎、寝室、女中部屋等、すっかり揃ったのを建てて貰った上、書生一人、女中一人、下男二人使って好ければ、林処四の真似などはむずかしくもない。水辺の梅花に鶴を舞わせるのも、鶴さえ承知すれば訳なしである。しかし私はそうなっても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使い途がない。是はそっくり君にあげるから、どうとも勝手にしてくれ給え。--私は放鶴亭一見をすませた後、岸の画舫へ帰りながら、こんな理窟を発表した。岸には柳絮の飛び交う間に白の着物へ黒いスカアトをはいた、支那の女学生が二三十人、ぞろぞろ西冷橋の方へ歩いている。

2012年10月26日 (金)

椎名誠著「ただのナマズと思うなよ」(文藝春秋)

 この本は2004年刊行。このシリーズはほぼそろえて持っているはずなのだが、だんだん前後したり飛び飛びになってきた。これは誰かに貸したままだったり、実家に置いてあったりするからだ。実家のぶんは先日何冊か見つけて持って帰ったが、全てではない。

 道路標識について何回目かの苦言。確かに道路標識には外から来た人には不親切なものが多い。地元の人にしかわからない地名が書かれていたりする。しかし地元の人にしたらそんな標識がなくても方向はわかっているから不必要だ。標識が必要なのは不案内な人であって、それがその町を通過してどちらの方向に行ったら好いかわからない交差点に、地元の人しかわからない地名が書かれていたりするから、何の意味もなかったりする。あれはカーナビを普及させる陰謀ではないか、などと思ってしまう。カーナビを意地で付けない私にとってこの道路標識に対する不満はとてもよく分かる。また、標語の類いも不必要に運転の注意を散らせるものがしばしばある。ぼんやり標語の前に立ってなるほど、と思ったり出来れば好いが、こちらはその前を一気に通り過ぎるだけだから、よくできたしゃれた標語ほど危険である。

 虫を食う話。これは食べつけないとなかなか食べられないが、でも少なくとも人が普通に食べているものなら大抵食べられるはずだ。子供の時に父が蜂の巣を獲ってきて、蜂の幼虫を油で炒めて、醤油を垂らして食べさせてくれた。とても香ばしくて美味しかった。だから蜂の子だろうとザザ虫だろうとイナゴだろうと普通に食べる事が出来る。中国でサソリの唐揚げが出たが、私と子供たちだけで全部美味しく戴いた。十人掛け位の丸テーブルで、他の日本人は誰も手を出さなかった。エビの唐揚げと同じだ。
 変わった食べ物を食べる機会があれば、ちゃんと料理してさえあれば食べてみる。でも話に聞いているだけで機会がないから食べていないものの方が多い。残念だ。初めて食べるものには手が出ないという人がいる。人が普通に食べているものを初めてだからと云って拒否するのは、臆病すぎて好きになれない。

 選挙カーの騒音についての怒りは全く同感である。とにかく騒音は嫌いだ。本を読んでいてもブログの文章を考えている時も、気が散ってかなわない。増して選挙カーの喚いている言葉には余り意味があるものがない。ただ候補者の名前を大声で繰り返し、これが最後のお願いでございます、と云われても、そりゃそちらの都合だろ、と云いたくなる。あの騒音は迷惑以外の何ものでもないし、選挙の方法として禁止した方がいいと思う。それよりインターネットで主張や履歴を簡単に検索出来るようする方が、ずっと投票するこちらにとって役に立つ。下手をすると又騒音の選挙が始まるかも知れない。

 私はしばしば女の論理、と云って顰蹙を買うが、少しでも危険な所には危険だから侵入禁止、と云う立て看板がある。子供が木に登れば危ないから登るなと云うし、川で遊べば危ないからはいるな、と云う。そして今は川で子供が溺れれば、柵がなかったからと云って行政の責任を問い、訴えて金を取ろうとする。必ず云う言葉が「他の子供が二度と同じ悲しい目に遭わないように」であり、子供の命の値段を皮算用する。だから行政はそこら中に「立ち入り禁止」の札を立て、柵を設けて責任を回避する。子供は小さい時に全く危ない目を見ずにすむが、おかげで学習が全く出来ずに危険を察知する能力のない大人になる。だから今の若い人は海外へ出て行く能力を持たないものが多い。良くしたものでその覇気もないものが多い。危険と紙一重の感動など経験すべくもない。薄っぺらな人生しかなくても、優しく仕合わせなら好いのだろう。

習近平の陰謀

 今回の反日暴動は習近平が裏で糸を引いていたらしいという話は先般紹介した。このような陰謀説はよくできている事が多いので面白い。

 話は遡るが、8月に香港の活動家たちが、尖閣の島に上陸した事件があった。この活動家を資金面で支援している人物に取材した話が伝えられている。1990年代から、尖閣諸島への上陸を画策し、当局に出港の許可申請をしてきた。そして1996年と1998年には領海侵犯をするよう指示があり、実行に移す事が出来た。しかしその後、日中関係が好転した為、何度申請しても許可が下りる事はなかったという。

 そして今年の8月には指示はなく、独自に香港を出港したのだが、やはり香港警察が阻止しようとした。この人物は船から連絡を受けると、すぐ香港行政長官や共産党幹部に連絡を取った。そして香港警察に、ある文面の文章を伝えるように回答を貰った。それを実行船に伝え、その通りにした所、香港警察は一斉に引き上げたという。

 これは明らかに中国政府が我々の行動を認めた、と判断して上陸を強行した。そして中国政府は我々の行動を反日行動に利用した。そして日本政府は国有化の口実にした。しかしもう尖閣への行動への資金提供は止める、とこの人物は語ったそうだ。

 実は習近平は香港・マカオ問題担当の最高責任者であった。中国政府で、最終的に香港政府を管轄しているのは習近平だった。彼が許可を出した事が香港警察に伝わったから、警察は引き上げたのだ。何故香港だったのか、と云う謎もこれで解ける。

 前中国駐在の丹羽日本大使の車が襲撃され、日本国旗を奪った事件は、軍の情報部の行ったものだという。一般市民が公道上で大使の車を特定して尾行し、国旗を奪い去るなどと云うのはプロの仕業であり、素人には技術的に無理だというのだ。その後の処罰にしても信じられないようなものであった。一般市民に、反日行動を政府が容認する、というメッセージを伝えるものとなった事は間違いない。中国政府が関与していたに違いない、と云うのは多くの人が感じていた事でもあり、説得力がある。

 さらに中国全土で一斉に行われた反日デモについても習近平が深く関わった、と云う。9月2日から14日というもっとも反日デモが盛り上がり始めた時、習近平は姿を隠していた。そしてそのデモがもっとも激しい15日に姿を現した。その間にいろいろ工作していたというのだ。全国125の都市に拡大した反日デモは胡錦濤が容認した事で此処まで広がった事は間違いないが、その裏に習近平が関与していた事は間違いがない、と云うのが陰謀説である。

 所で胡錦濤と習近平は連動していたのだろうか。それとも習近平は事態を利用したのだろうか。これはどちらか、ではなく、両方だったと見るのがそれらしい見方かも知れない。ね、面白いでしょう。

科挙復活?

 来月8日に第18回中国共産党大会が開かれる。此処では最重要議題として「政治改革」が取り上げられると云う。共産党への過度の権力集中が特権階級を生み、特定層の富裕化が中国民衆の不満が高まる理由となっている。反日運動などでそのはけ口を工作しても、不満のエネルギーは高まるばかりで、反ってその工作がきっかけになって大きな火の手が上がりかねない状況になっている。そうなると共産党の一党独裁という体制そのものが揺らいでしまう。

 しかしそのような体制こそ不自然なものだから、どう弥縫しても本質が変わらなければ、いつかは崩壊する事になるだろう。しかし今はどのような弥縫策を打ち出すのか、それが体制延命にどれだけ効果があるのか注目するだけだ。

 そのような中、中国は、2013年の国家公務員採用試験の受験者を募集した。応募者の総数は何と101万3469人に達した。特に社会的イメージが良い部署に応募が殺到、ある部署では6847倍の倍率、又、3人の募集枠に9054人が応募したものもあった。その代わり応募ゼロの部署もあったという。多分うまみがないのだろう。

 こうなると官尊民卑の時代の、科挙の復活さながらである。特権階級になろうと狭き門にひしめき合って群がっているようだ。でも合格者が出世して、特権を行使して豊かな暮らしを享受しようとする頃に、体制が大きく変わって当てが外れ、石で追われる事もありうる訳だ。
 まあがんばってくれ給え。

「江南游記」・西湖(五)

 桟橋を上がると門がある。門の中には水の澄んだ池に、支那の八つ橋がかかっている。兪楼の廊が曲曲廊なら、これは曲曲橋だと評しても好い。その橋の処々に、気の利いた亭が出来ている。それを向こうへわたり切ると、眩い西湖の水の上に、三つの石等のあるのが見えた。梵字を刻んだ丸石に、笠を着せた石塔だから、石灯籠とタイシタ違いはない。我々は其処の亭の中に、この石塔を眺めながら、支那の巻煙草を二本吸った。それから、--ロシアのソヴィエット政府の話はしたが、蘇東坡の話はしなかったようである。
 八つ橋をもとへ渡って来ると、若い四五人の支那人に遇った。彼等は皆めかした上に、胡弓や笛を携えている。何でも長安の公子とか号したのは、こう云う連中だったのに違いない。水色や緑の大掛児(タアクワル)、指環にきらめいたいろいろの宝石、--私は彼等とすれ違いながら、一々その様子を物色した。すると最後に通りすがった男は、殆ど小宮山豊隆氏と、寸分も違わない顔をしていた。その後京漢鉄道の列車ボオイにも、宇野浩二にそっくりの男がいたし、北京の芝居の出方にも、南部修太郎に似た男がいた所を見ると、一体日本の文学者には、支那人に似たのが多いのかも知れない。しかしこの時はまだ始めだったから、他人の空似とは云うものの、きっと小宮氏の先祖の一人は--なぞと、失礼な事も想像した。
 --こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出している。頭も勿論ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。医者は安西に寝ていろと云う。友だちは壮んだなぞと冷やかしもする。しかし前後の行きがかり上、愈高熱にでもならない限り、とにかく紀行を続けなければならぬ。以下何回かの江南游記は、こう云う事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云いさえすれば、閑人のように思っている読者は、速やかに謬見を改めるが好い。
 我々は退省庵を一見した後、さっきの桟橋へ帰って来た。桟橋には支那人の爺さんが一人、魚籃(びく)を前に坐りながら、画舫の船頭と話している。その魚籃を覗いてみたら、蛇がいっぱいはいっていた。聞けば日本の放し亀同様、この爺さんは銭を貰うと、一匹ずつ蛇を放すのだと云う。如何に功徳になると云っても、わざわざ蛇を逃がす為に、金を出す日本人は一人もいまい。
 画舫は又我々を乗せると、島の岸に沿いながら、雷峰塔の方へ進んで行った。岸には蘆の茂った中に、河柳が何本も戦(そよ)いでいる。その水面へ這った枝に、何か蠢いていると思ったら、それは皆大きい泥亀だった。いや、亀ばかりなら驚きはしない。ちょいと上の枝の股には、代赭色に脂ぎった蛇が一匹、半身は柳に巻きついたなり、半身は空中にのたくっている。私は背中が痒いような気がした。勿論そういう心もちは、愉快なものでも何でもない。
 その内に島の角を繞ると、水を隔てた新緑の岸には、突兀と雷峰塔の姿が見えた。まず目前に仰いだ感じは、花屋敷の近処に佇んだ儘、十二回に対したのと選ぶ所はない。ただこの塔は赤煉瓦の壁へ、一面に蔦葛をからませたばかりか、雑木なぞも頂には靡かせている。それが日の光に煙りながら、幻のように聳え立った所は何と云っても雄大である。赤煉瓦もこうなれば不足はない。赤煉瓦と云えば案内記には、何故に雷峰塔は赤煉瓦であるか、--その理由を説明した、尤もらしい話が載せてある。但しこの案内記は、池田氏の著した本ではない。新新旅館に売っていた、英文の西湖案内記である。私はそれを書いた後、ペンを捨てるつもりだったが、こう頭がふらついては、到底もう一枚と書く勇気はない。跡は又明日でも、--いや、そういう断りを書くのも面倒である。肺炎にでもなられた日には、助からない。

2012年10月25日 (木)

もなさんへ追伸

 この前の文章は、今朝、もなさんのコメントを拝見してすぐに書いたのですが、多分晩になってからしか読まないと思って間を置きました。

 日々いろいろな事が起こります。そしてそのことの本当の意味を私は知りません。ただ、何となく知らされている事よりも、知っている事のほうを元に考えるようにしてきました。

 世界は変わるかも知れませんし、そして中国が変わるかも知れませんが、しばらく何もないかも知れません。そんなとてつもない中国を一つの基準にして、これからも、ものを考え、知ったかぶりを続けながら恥ずかしい人生を送りたいと思っています。

ありがとうございます

 もなさん、拙稿・「カモメ食堂」の呼びかけに早速コメントを戴き、ありがとうございます。中国で騒ぎを起こしている人は、地方から都会へ出てきていろいろ貧しい暮らしを強いられ、社会に不満を抱えている人たちのようです。もなさんの行かれる場所がそういう人たちが徘徊する場所でなければ良いのですが。ただお友達も数多くおられるようなので、心配ないのだろうと拝察します。ご主人もそのことは良く承知されている事で、私などが要らぬ心配をする必要はないのでしょう。

 ところであちらへ行かれたらブログを再開されるのでしょうか。ブログ名が変わらないようであれば頃合いを見て拝見したいと思います。是非再開して欲しいと願っています。ではお気をつけて。

肌を触れあう

 こんな表題だからと云って、そんなになまめかし話にはなりませんぜ、お客さん。

 東洋の挨拶は互いを見て、離れて挨拶するか、上下関係をはっきりさせる為に、どちらかが低い位置に自分を置いて、地に頭を付けんばかりにはっきりと上下関係を明らかにするものが多い。西洋も同様だったはずなのだが、いまはそれなりに様式化している。

 東洋には西洋のようにスキンシップに近い挨拶をするものが少ない。椎名誠の本で教えられたことだが、数少ない例として、モンゴルの、互いに抱擁する挨拶を挙げていた。ロシアのあのたがいに口づけしあわんばかりの頬摺りを真似ているのかと思ったら、彼等は互いの匂いを嗅いでいるのだという。

 多分家畜もまとめて囲いに入れられたら互いにその匂いを嗅いで、相手との関係を測り、自分のポジションを納得しているのだろう。そのために家畜は互いに匂いを嗅ぐ。そして、モンゴルのスキンシップは、互いに相手の匂いを嗅ぐ事なのだという。

 分かりやすいではないか。匂いが嫌いなら、嫌いなのだ。これは今、日本の若い女性の感性の基本でもあるらしく、動物の本能としてのイエスノウについて何も言う事はない。ただ、匂いとして好き嫌いを判断する女の性としての感性は生物としてもっとも正しいものだと私は深く信じている。

 今、女は感性を鋭くして唾棄するべき男を振り捨てて、自分の子孫を残す為に最善の努力をして欲しい。男には決してわからない女性の感性に全てをゆだねる事に私は何の逡巡もない。

 肌を触れあうというのは、私にとって互いの匂いを嗅ぐ事である事、全てを受け入れる事と思ってきた。相手の汗のにおい、唾の味、全てである。でも当たり前の事ではないのか。デオドラントとは違う世界ですよ、若いお客さん。

葱を炒める

 敬愛する兄貴分の人が9月末に倒れて、今月13日に手術をした。旅行中でもあり、飛んで見舞いにいかなかったし、タイミングを失したので、共通の友人に連絡するだけだった。そうしたら旅先に本人から連絡を貰った。声にいつもの張りがなかった。そのあと見舞いに行ってくれたやはり敬愛するおねえさんから、元気だったけど首に凄い傷だったよ、と連絡を貰っていた。

 先ほどその兄貴分の人から退院した、と電話を貰った。頭と身体を繋ぐ血管の一番太い所が詰まったのだという。多分凄い手術だったに違いない。でも先週、手術の後に聞いた時より元気な声で、ものすごく嬉しかった。敬愛する兄貴分の人は、頻りに私に気をつけるように云い、たいした額ではないのだから検査をするように勧める。わかった、そうする、と答えたけれど・・・。
 
 とにかく元気な声が聞けてじっとしていられなくなるほど嬉しかったので、お酒を飲み始めた。先日ドン姫が来ていた時に鶏皮とシメジを炒めて、酒にちょっと塩(能登で買った塩田でつくった塩)をして、醤油を垂らし、ガーリック、一味、山椒を振りかけたものを一品として出して合格を貰ったので、その残り油(鳥の油とスパイスのきいたもの)でシメジを炒めたもの、さらに残りの香り油で葱を炒めた。

 葱はうまい。しかも斜めに切った鮮度のいい葱を強火で炒めたものは、香りと云い甘みと云い、最高である。鳥の脂とも予想通りベストマッチであった。それを摘まみながら芋焼酎のお湯わりを飲んで陶然としている所である。

 それにしても、兄貴分の人が無事で本当に良かった。神様にこころからありがとう。

石原慎太郎、起つ

 石原慎太郎が都知事の職を辞し、新党を起こし、国政に起つと発表した。記者会見での今の日本の問題点についてのコメントは、悉く強く頷けるものであった。
 特に国を担うべき中央官僚の責任をとろうとしない姿勢を強く批判していた。

 マスコミは、息子の石原伸晃の総裁選との関わりなどをこれからああだこうだ云うだろう。確かに大きく関係している事だろうが、それよりも、日本という国が今本当に閉塞して危機的状況にある事を多くの国民が感じている時、期待するものが多いだろう。

 街頭でのインタビューでは懐疑的なものばかり取り上げているように感じた。それが多分メディアのとらえ方なのだろう。情けない事だ。

 中国の洪磊報道官はこの件について問われると「コメントしない」と答えていた。どう答えて好いかわからなかったのだろう。

 核のなかった第三局に核が出来た事の意味が大きいと私は思うのだが。

池波正太郎著「辻斬り」(新潮社)

 剣客商売シリーズ第二巻。第一話の「鬼熊酒屋」が特に秀逸。鬼熊酒屋の偏屈親父の、死の床の描写に胸が熱くなった。彼の最期が安らぎに満ちたものであったと思いたい。これを読んで、「慶次郎縁側日記2」での慶次郎の娘の仇・常蔵の最期を思い出した。常蔵は最後の最後まで自分の罪を罪として認めようとしなかった。しかし慶次郎に憎まれ口をききながらついに涙を浮かべる。強烈な印象を残すシーンであった。

 また「妖怪・小雨坊」の、残忍非道の居合い切りの達人も異様なキャラクターとして記憶に残る。彼のおかげで小兵衛は隠宅を燃やされてしまうが、おはるに危難が及ばなくて幸いであった。これで、第一巻の嶋岡礼蔵の仇、追求を逃れていた伊藤三弥もついに最期を遂げる事になる。

 佐々木三冬がだんだん大人になっていく。そして巷間賄賂で有名で悪役で描かれる事の多い田沼意次が、ひとかどの人物として描かれ、秋山親子との縁が深くなって行く。

逮捕の許可

 中国・南方日報は広東省広州市の検察院が、先般の反日デモで破壊行為を行った男二人の逮捕を許可したという。

 男二人は日本領事館へ向かうつもりが所在がわからなかったので、付近にあった日本料理店に侵入し、店の硝子や椅子、多くの器物を損壊したとされる。

 検察院は二人が暴動を扇動し、故意に他人の財産を破壊し、社会秩序を乱したので逮捕を許可したのだという。

 しかしなぜ今頃になっての逮捕の「許可」なのだろうか。犯行は報道され、映像で犯人も明らかになっていたようだ。暴動を扇動したか、社会秩序を故意に乱そうとしたのどうかは確認するのに手間取るかも知れないが、彼等の行った破壊行為は明らかに違法行為だろう。

 それとも中国では明らかな違法行為でも逮捕の「許可」が降りたり降りなかったりするのだろうか。司法に独立性のない国にはしばしばそのように疑問のあるような事態があるようだ。中国では全くおかしいと思われないだろうけれど。何せ司法が独立していた時代を経験した事のない国だ。

 誰かが中国の共産党独裁体制の崩壊は近いのではないか、東ヨーロッパのように一気に体制が崩れるのではないか、と問うたのに対して、東ヨーロッパのようなことは起こらない、と反論した意見に、なるほど、と思った。
 東ヨーロッパは第二次世界大戦後、ソビエトの支配下にはいる前に既に近代化を遂げ、民主化の時代を一定期間経験している国が多かった。だから民主化がどんなものか理解して国民が行動した結果である。
 だが中国は辛亥革命以後、孫文の夢は叶わず、一度も民主化を経験していない。国民のほとんどは民主主義とは何かを知らないし、知る機会もなかった。
 彼等が唱える民主化は、単に支配者の交代でしかない可能性が大きい。だとすると現在の体制を崩壊させた後、中国国民は何を求めるのか、何が求心力になるのか、ただ自分の利益追求のみに走るであろう。その時に起こる事態は想像を絶するものとなるだろう。

 今の独裁体制は弊害の多い体制である事は間違いないが、13億人という途方もない人数を一括してまとめ上げるのはあの体制でないと無理ではないかとよく言われる。私もそう思う。アメリカは三億の人口(遠くない将来4億になる)をまとめるために合衆国という体制をとっている。印度は・・・だから中国同様まだまだ乗り越えないといけないことの多い国だろう。中国はアメリカのような合衆国制になるか、いくつかの国に分裂するか、そこまで行かないと治まらないのではないか、と見る人も多い。21世紀も平穏に過ぎていくという訳にはいかないようだ。

 こちらは観客席から途中退場するけれど。

文革時代に戻った人権

 昔を懐かしむ事もあるけれど、昔に戻って好い事と悪い事とある。人権はどうだろう。日本では「人権、人権」と安売りしていて、錦の御旗や水戸黄門の印籠みたいに使われる。人権もこちらを立てればあちらが立たずで、難しい。スポットライトの当たった人ばかりの人権を尊重しすぎると、誰かの人権が損なわれたりする。平等の人権と云ったって誰がどれくらいの人権の持ち主で、どうしたら平等なんだか訳がわからない。そもそも現代は、声高に人権を叫ぶ人の方が人権を沢山持って得をしているように見えて、人権て何だろうと思ったりする。

 先般アメリカに無事渡米して、軟禁状態から解放された中国の人権活動家の陳氏がインタビューに答えて「現代の中国の人権状況は、文化大革命時代に戻ったような状態だ」と述べたそうだ。そして次期習近平国家主席には「民主改革」をするよう求めたそうだ。

 これは文化大革命時代は、多くの国民が弾圧されて正しい意見を云うことができなかったひどい時代だった、という前提に立った言葉のようだ。そして人権は、まさに損なわれようとする時に初めて主張すべきもののようなのだが。
 私の記憶では文化大革命時代は、毛沢東の、万人平等の美名のもとに、知識階層の人が迫害を受け、難しい本を読んでいる、と云うだけで袋だたきに遭った。誰もが平等であるべきであり、知識能力に差がある事も不平等だ、として弾劾されていた。今に身長差や体重差も問題だとして足の骨を切って身長をそろえ出すのではないかと心配した位だ(これは嘘だけど)。でもそのために学校のテストの時は成績のよい子が悪い子に答を教えて皆が同じ点を取る事が美談として取り上げられていた。

 日本では、日教組もそれに感激して、その指導の下に全ての生徒にオール5を与える先生や、みんな普通だからとオール3をつける先生が続出した。そして運動会でも差をつけたらいけない、として着順をつけなくなった。その上お弁当の中身が違ったり親が運動会に来られない子が可哀想だからと云って、土日に運動会をやらないようになり、しかも昼飯は親と離れて教室で給食を食べるような事までやった。

 さすがに中国ではそれは余りにひどい、と云う事で、経済活動は競争自由の資本主義体制を導入し、学校も普通に成績評価主義となった。
 その時代についての知識のある中国人は、文化大革命時代に戻りたいと思う人はいない。しかしその時代を懐かしむ人もいない訳ではない。人権は著しく抑圧されていたけれど、少なくともみんなが平等に貧しかった。だから自分が貧しくても我慢が出来た。今は自分だけ貧しくて、豊かな人は飽食していると思っている人はあの時代を懐かしむ。

 そのような人は日本に来たら良い。毛沢東に迎合した日教組の人たちのおかげで文化革命当時のまま、少なくとも競争の少ない平等な教育が受けられる。そして貧富の差は・・・中国よりはひどくない。

当てはめてみる

 精神病の徴候として
1.変化のない表情。
2.平板な発声法。
3.自説に対する異常な固執。
4.他人の意見に「もうわかった」と作り笑いをする。
と云うのが挙げられている。

 もちろんこれだけで精神病と判断されてはたまらないが、たまたま藤村官房長官が記者の質問などに対するちょっと嫌な感じの笑い方が気になっていて、上の項目に当てはめてみたら、余りにぴたりと当てはまってしまうので驚いた。

 幼児期に情緒未発達に育つと、他人に対して鈍感で無神経になりやすいのだそうだ。そのような人が子供を育てると、上記のような項目に当てはまる人が出来るのだという。最近の事件を見ていると異常なものが目につく。実は凶悪事件は戦後と云われた時代から見ればむしろ激減しているし、マスコミは取りたてて異常なものを取り上げるという事はあるが、件数はとにかく、社会に何か異常なものの匂いを感じる人が多いのではないか。何かそのような他人とのコミュニケーション不能の人がじわじわ増えつつあるように思う。

 藤村官房長官にはまことに申し訳ないことで引き合いに出したが、あの何事にも熱が感じられない態度に、冷静さ、と云うより感情の通っていない不気味さを感じてしまうのは、多分こちらに原因があるのだろう。すまない事であった。

 そう言えばこの頃野田首相も、理解しがたい冷たい笑い方をするのを時々見受ける。

「江南游記」・西湖(四)

Dsc_0197三潭印月

 岳王廟に詣でた後、我々は又画舫を浮かべながら、孤山の東岸へ返って来た。其処には槐や梧桐の蔭に、楼外楼の旗を出した飯店がある。「読売新聞」に出た紀行によると、竹林夢想庵氏の新夫婦は、この楼外楼で食事をしたらしい。我々も船頭の勧め通り、この店の前の槐の下に、支那の昼食を食う事にした。が、私の前に坐っているのは、押川春浪の冒険小説を愛読した結果、中学時代に家を抜け出して、何とかと云う軍艦の給仕になって、八月十日の旅順の海戦に、砲火の下をくぐって来たとか云う、蛮骨稜々とした村田君である。私は料理を待ちながら、村田君には内証だったが、ひそかに夢想庵氏を羨望した。
 我々の卓子は前にも云った通り、枝をさし交わした槐の下にある。前にはじき足もとに、西湖の水が光っている。その水が絶えずゆらめいては、岸を塞いだ石の間に、音を立てているのも物優しい。水際には青服の支那人が三人、一人は毛を抜いた鶏を洗い、一人は古布子の洗濯をし、一人はやや離れた柳の根がたに、悠々と釣り竿をかまえている。と思うとこの男は、急に釣り竿を高くあげた。糸の先には鮒が一匹、ぴんぴん空中に跳ね返っている。--こう云う光景は春光の中に、頗る長閑な感じを与えた。しかも彼等の向こうには、縹渺と西湖が開いている。私は確かに一瞬間、赤煉瓦を忘れ、ヤンキイを忘れ、この平和な眼前の景色に、小説めいた気持ちを起こすことが出来た。--石碣村(水滸伝の舞台)の柳の梢には、晩春の日影が当たっている。阮小二はその根がたに坐った儘、さっきから魚釣りに余念がない。阮小五は鶏を洗ってしまうと、包丁を取りに家の中へはいった。「鬢には石榴の花を挿し、胸には青き豹を刺(いれずみ)し」た、あの愛すべき阮小七は、未だに古布子を洗っている。其処へのそのそ歩み寄ったのは、-- 
 智多星呉用でも何でもない。大きい籃(かご)を腕にかけた、甚だ散文的な駄菓子売りである。彼は我々の側へ来ると、キャラメルか何か買ってくれろと云う。こうなってはもうおしまいである。私は水滸伝の世界から、蚤のように躍り出した。天罡地煞(てんこうちさつ)百八人の中にも、キャラメルを売る豪傑は一人もいない。のみならず今は湖水の上にも、まっ白に塗ったボオトが一艘、四五人の女学生に漕がれながら、湖心亭の方へ進んでいる。
 十分の後、我々は老酒を啜ったり、生姜煮の鯉を突ついたりしていた。すると其処へ又画舫が一艘槐の蔭に横付けになった。岸へ登った客を見れば、男が一人、女が三人、男女いずれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人である。女の一人は身なりを見ると、乳母か下女の類いらしい。男は金縁の眼鏡をかけた、(如何にも不思議な因縁だが)夢想庵氏に似た大男である。跡に残った二人の女は、きっと姉妹に違いない。それが二人共同じように、桃色と藍と縞になった、セル地の衣装(イイシャン)を一着している。器量は昨夜見た少女よりは、少なくとも二割方美しい。私は箸を動かしながら、時々彼等へ眼をやった。彼等は隣の卓子に、料理の来るのを待っている。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我々へ流眄(りゅうべん)を送ったりした。尤もこれは厳密に云うと、食事中の私を映すとか云って、村田君がカメラをいじっている--其処が御目にとまったのだから余り自慢にもならないかも知れない。
「君、あの姉さんの方は細君だろうか?」
「細君さ。」
「僕にはどうもわからない。支那の女は三十を越さない限り、どれも皆御嬢さんに見える。」
 そんな話をしている内に、彼等も食事にとりかかった。青々と枝垂れた槐の下に、このハイカラな支那人の家族が、文字通り嬉々と飯を食う所は、見ているだけでも面白い。私は葉巻へ火をつけながら、飽かずに彼等を眺めていた。断橋、孤山、雷峰塔、--それ等の美を談ずる事は、蘇峰先生に一任しても好い。私には明媚な山水よりも、やはり人間を見ている方が、どの位愉快だか知れないのである。
 しかし何時までも彼等の食事に、敬意を払っている訳にも行かない。我々は勘定を払った後、三潭の印月へ出かける為に、早速画舫の客になった。三潭の印月は孤山から見ると、丁度向こう岸に近い島のほとりにある。島の名は何と云うのだか、これは西湖全図にも池田氏の案内記にも記してない。ただこの島の近所には、東坡が杭州の守だった時、みおつくしの為に建てたと云う、石塔が三つ残っている。その石塔が月明のよるには、水面に三つの影を落とす、--と云う事だけは確かである。船は可成り長い間、静かな湖水を漕ぎ続けてから、やっと柳と蘆の深い、退省庵前の桟橋に着いた。

2012年10月24日 (水)

戦略資源

 中国はレアアースを戦略資源と位置づけて、日本への輸出量をコントロールし、外交カードの一つに使ってきた。数量の確保は困難になるし、価格も急騰した。日本の産業界はこのために大きな被害を被った。WTOの加盟国のすることではない、と世界から非難されたが、中国は無視した。

 そもそも原料は中国だけに偏在するものではないが、中国産が安いから結果的に中国が寡占体制をとることになったものだ。価格が上がれば他の国で生産しても採算が合う。

 日本は中国以外に調達先を換えるべく手を尽くしてきた。同時にレアアースを減らしても同様の性能を出せるものの開発にも全力を尽くしてきた。それぞれ努力の結果、中国以外でのレアアースの入手が少しずつ軌道に乗り、さらに使用量を減らす方も成果が上がり、その上レアアースを使用した製品の廃棄物からの回収効率も上がってきた。

 中国の報道では、今年のレアアースの輸出量は過去十年間で最低の量になる見込みだという。もちろんレアアースの最大の輸出先である日本向けが減少しているからである。これは上記のようなことの成果がまだ僅かな時点での推計であり、日本の努力の結果は、これからさらにはっきりと現れれることになる。中国の資源戦略に大きな打撃を与えることになるだろう。

 中国がレアアースを安価で生産出来ていた理由は、本来有害廃棄物処理にかけなければならないコストを無視したからである。だから日本の努力は中国の環境のためにも大きく貢献することになるのだ。

 こう云う話はいろいろな意味で嬉しくなる話だ。

WOWWOWじゃなかった

 人間は勘違いして思い込んでしまうとなかなか間違いに気が付かない。

 ずっとWOWWOWだと思い込んでいたから、このブログでもそう言い続けていた。そして今日初めてWOWOWだと云うことに気が付いた。

 恥ずかしい。でも同じように間違えたまま気が付いていないことが、沢山あるのだろうなあ。気が付いていないから恥ずかしくないけど。

池波正太郎著「剣客商売」(新潮社)

 椎名誠ばかり読んでいると飽きるので、並行して池波正太郎を読み始めた。どれから読み始めるか迷ったが、まず「剣客商売」のシリーズから。これは記念すべき第一巻。秋山小兵衛と大治郎の親子、おはる、そして田沼意次の娘で女剣客の佐々木三冬、の登場である。このシリーズは五回以上読んでいるが、今回は7~8年ぶりで、新鮮だ。何時も物語に引っ張られて早く読み過ぎるので、今回は細部を味わいながら読んでいる。いやあ池波正太郎の会話は何時も思うが絶品だ。そして新国劇などのシナリオを書いていただけに、鮮明に映像が浮かび上がる描写である。原作が、テレビや映画になることが多いのも当然だと改めて感じた。

 秋山小兵衛の鐘ヶ淵の隠宅の周りの様子などを細かく思い浮かべたりして楽しんでいる。隠宅や大治郎の小さな道場の間取りを具体的にイメージするのも楽しい。

 私の秋山小兵衛についてのイメージは、この第一巻の最初のほうで描かれている通りのものなので、絶対に藤田まことが秋山小兵衛の役をやるなどと云うことは考えられないのだ。少なくとも大治郎よりも顔一つ分は小柄でなければならない。六十前後の時の大滝秀治(ちょっと無理か)あたりならいいかもしれない。普段は細い眼で穏やかに微笑んでいて、いざというときに背筋がすっと伸びて、カッと目を剥いたら迫力がある、と云う人でないといけない。
 
 第一巻で、やはり一番の見所は小兵衛の兄弟弟子の嶋岡礼蔵の非業の死である。この物語の中に武芸者の業、そして人間の業が、強く表現されている。人は鍛え抜いてもあっけなく死ぬし、悪が必ず自滅するとは限らない。それがめぐりめぐって、また新しい物語へ展開していくのだ。

 私の佐々木三冬のイメージは若き日の土田早苗だ。これから巻を追うごとに三冬が女らしく、魅力的になっていくのを知っているので、それを追うのもとても楽しみだ。

椎名誠著「くじらの朝がえり」(文藝春秋)

 2000年に刊行された本。

 椎名誠は旅をする。北へ南へ、そして山へ海へ。私も旅が好きで、金さえあればずっと旅をして、そしてたまに帰ってくる生活がしたい(かなりそうしてはいるが)。旅をしたままだとそれはもう旅ではなくて放浪になってしまう。帰ってくるから旅なのだ。

 私は北へ行く旅が好きだ。だから小林旭の「北へ」という歌も好きで昔は持ち歌にしていた。「~なもーない、みなあとに、もものはあなーはさーけど~」というやつだ。

 この本で下北半島、大間への旅も書かれている。鮪で有名なところだ。私も釣り宿の民宿に泊まって大間の鮪を食べたから懐かしい。目の前の海の向こうに北海道が見えていた。竜飛岬より北海道に近いのだ。

 今は海鞘(ほや)を知っている人は増えたが、私は成人してから初めて食べた。外観から海のパイナップル、と云われるが、味はもちろんパイナップルとは全く違う。この味はまさに凝縮された海を食べている、と云う感じだ。初めて食べた時は、鮮度がいまいちだったのか、渋みと匂いがやや強く、美味しいと思えずに殆ど残してしまった。北海道で再度食べた時、その美味しさに、おお、これが海鞘か、と感激して大好きになった。夏になると三陸や北海道で食べた海鞘の味を思い出す。名古屋では普通食べることは出来ないし、もし食べることが出来てもうまくないだろう。あれは産地で食べるものだ。

 カーナビをつけた話が載っている。椎名誠は、最初は面倒がっていたが、使い慣れてその便利さを認めている。私は未だにカーナビを取り付けていない。だから初めて行くところではうろうろして無駄な走り方をしている。多分カーナビがあれば一割以上が走らなくですんでいる。でもそのうろうろと迷っていること、地図の細部を推測で補って走ることに何となく快感を感じている。強弁ではないが、カーナビは何だか指示されて走っているような気がする。無駄に走った道こそ、迷わなければ出会うことのなかった道なのだ。そうして記憶の道が筆太に記憶されるようになる。

映画「カモメ食堂」2006年日本

 原作・群ようこ、監督・荻上直子、出演・小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ。

 舞台はフィンランドのヘルシンキ。このすてきな三人の日本人以外は、出演者は全てフィンランド人である。サチエ(小林聡美)が開店させたカモメ食堂を中心に物語は展開する。最初のうちは全く客がはいらないが、ラストではついに満席になる。見ているこちらも素直に嬉しくなり、優しい気持ちになる。この三人の女性、普通の日本の女性なのだけれど、普通だからとてもすてきなのだ。今このような普通にすてきな女性があまり普通にいなくなったのがとても悲しい。

 あまり出演作品を見ていないのに、昔からこの小林聡美が大好き。雰囲気がいいのだ。こんな女性の友だちがいたら仕合わせだろうなあ、と思うが、残念ながらそんな人はいない。ほかにも何本か出演作品を録画しているのでこれから見るのが楽しみだ。そう言えば彼女が主演の、つい先日見た「プール」という、タイのチェンマイが舞台の映画もすばらしかった。肩肘張らずに自由に生きる女性の魅力が光っている。独りで海外で生きていれば当然不安がないはずがないのに、それをため込まない強さがとてもいとおしい。

 ハリウッドの金のかかった映画も好いけれど、このような淡々とした日本映画はもっといい。ハリウッド映画で一度見てまた見たくなるのは少ないが、このような映画は何度でも見たくなる。

 ところで、もなさん、突然あなたのことを思い出しました。日中関係がこんな風に残念なことになってしまいましたが、秋に中国に戻るかどうするか、と云っていましたが、どうされましたか。もしこれを読んでくれていたらコメントでもいただけると有難いのですが。

「江南游記」・西湖(三)

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 岳飛の墓前には鉄柵の中に、秦檜張俊等の鉄像がある。像の格好を按ずると、面縛された所に違いない。何でも此処に詣でるものは、彼等の姦を憎む為に、一々これらの鉄像へ、小便をひっかけて行くそうである。しかし今は仕合わせと、どの鉄像も濡れていない。唯そのまわりの土の上に、青蠅が何匹も止まっている。それが僅かに遠来の私に、不潔な暗示を与えるだけだった。
 古来悪人多しと雖も、秦檜程憎まれたものは滅多にない。上海あたりの往来では確か字では油炸塊(ユツアコイ)とか云う、暴のような油揚げを売っている。あれも宗方小太郎氏の説によると、秦檜の油揚げと言ったつもりだから、油炸檜(ユツアコイ)と云うのが本名だそうである。一体民衆と云うものは、単純なものしか理解しない。支那でも関羽とか岳飛とか、衆望を集めている英雄は、皆単純な人間である。或いは単純でないにしても、単純化されやすい人間である。この特色を具えていない限り、如何に不世出の英雄でも、容易に大向こうには持て囃されない。たとえば井伊直弼の銅像が立つには、死後何十年かを要したが、乃木大将が神様になるには、殆ど一週間も要さなかったようなものである。それだけに又敵になると、こう云う英雄の敵は憎まれ易い。秦檜は如何なる悪因縁か、見事にこの貧乏籤を引いた。その結果はご覧の通り、中華民国の十年にさえも、散々な取り扱いを受けている。私もこの新年の「改造」に、「将軍」と云う小説を書いた。しかし日本に生まれた有り難さには、油揚げの憂き目にも遭わなければ、勿論小便もひっかけられない。唯一部分伏せ字になった上、二度ばかり雑誌の編輯者が、当局に小言を云われただけである。
 次手にどの位秦檜と云えば、憎悪の的になっていたか、--その間の消息を語るべきヒントを一つ紹介しよう。これは清人景星杓(けいせいしゃく)の「山斎客譚」の中の話である。

   × × × ×

「何年前になりますか?私が江上の或寺に、読書かたがた住んでいた時です。突然隣家の婆さんに、何か鬼物が乗り移りました。」
 厳尭蒼(げんぎょうそう)は話し出した。
「婆さんは白眼を吊り上げたなり、一家の男女を睨み廻しては、頻りにこう罵るのです。--我が輩は冥道押使だぞ。今秦檜の魂を押しながら、閻王の府へ赴いた還りだが、途中此処を通りかかると、この死に損ないの婆のために、汚れ水を着物にかけられた。何とか扱いをつければよし、さもなくばこの婆は、閻王の御前へ引きずって行くぞ。・・・
「一家の男女は仰天しました。が、婆さんについたのは、実際冥土の使いかどうか、それをまず確かめる為に、いろいろ問答をして見たそうです。すると婆さんは不相変、傲然と正面にかまえながら、何でもはきはき返答をしました。して見れば鬼使いに相違ない。--こう云う事になりましたから、一家の男女はとりあえず、紙銭に火をつけるやら、地に酒を注ぐやら、百方祈願を凝らしました。ご承知の通り冥土の下役も、人界の下役と同じに、賄賂を使いさえすれば無事なのです。
「婆さんは少時たった後、ばったりと其処へ倒れました。が、じきに起き上がった時には、もう鬼使いも去ったのでしよう。唯きょろきょろするばかりだったのです。鬼に憑かれる、--それは珍しい事でもありますまい。が、婆さんに乗り移った鬼は、一家の男女の問を受けると、こんな幽冥の事も話したそうです。
「問。--秦檜は一体どうなりましたか?お差し支えなければ御教え下さい。
「答。--秦檜も今は輪廻の果てに、金華の女に生まれている。それが今度大胆にも、謀夫の罪を犯したから、磔の刑に処せられたのだ。
「問。--しかし秦檜は宋の人ではありませんか?金元明の三朝を閲した後、やっと罪を正されるというのは、遅過ぎるように思いますが。
「答。--檜族は、恣(ほしいまま)に和議を唱え、妄りに忠良を屠戮(とりく)した。凶悪も又甚だしい。天曹はその罪を憎む余り、磔刑三十六度、斬刑三十二度の判決を与えた。合計六十八度の刑は、そう手軽にすむものではない。
「まあ、こう云う調子なのです。秦檜の罪は憎むべしとはいえ、気の毒なものではありませんか?」
 厳尭蒼は厳灝庭(げんこうてい)先生の曾孫である。決して嘘をつくような人ではない。

2012年10月23日 (火)

舞台「サロメ」

 原作・オスカー・ワイルド、翻訳・平野啓一郎、演出・宮本亜門、出演・多部未華子、成河、奥田瑛二、麻実れい、他。

 WOWWOWで放映したものを録画していたのでドン姫と見た。舞台ものを見るのは久しぶりだったが、もちろん大好きな多部未華子が主演するから見たのである。

 大変すばらしい舞台であった。ローマ時代の話の設定なのに、舞台の装置などが時代とそぐわなかったり、警備の兵隊が銃を持っていたり、あえて意識的に観客に違和感を持たせてあるのだが、劇が進展すると共にそれが全くなじんできて、物語にのめり込んでしまう。

 息詰まるような台詞の応酬にどんどん興奮させられる。最後は殆どサロメ役の多部未華子の独演となるのだが、もう多部未華子はそこにいない。血の海の中で、血を吐くようなサロメの言葉が胸を激しく打つ。

 サロメはなぜ生まれて初めて愛した預言者ヨカナーンの首をヘロデ王に望んだのか。生死よりも、信仰よりも愛が上回るものだと云うことをただ表したのだろうか。宮本亜門はなぜサロメを美少女として設定したのか。この不条理の物語が、舞台を見ていると自然に受け入れられてしまうと云うのが凄いことだ。

 最後に宮本亜門自身が、ヨカナーンの預言の言葉の中に、ヨカナーン自身の死の予言が含まれていることをサロメは聴き取っている、と解説していた。サロメの狂気のような行動は、つまりある意味の無理心中なのかも知れない。

 オスカー・ワイルドの戯曲の初演舞台の為の、オーブリー・ビアズリーが描いた有名な挿絵がある。見たことのある人もあるだろう(見ればわかるはずだ)。その絵でビアズリーが好きになって、ビアズリーの画集(アメリカで発行されたもの)を捜していたら、なんと神田の古本市で発見し、即購入した。40年近く前のことである。その宝物にしている画集を引っ張り出して、ドン姫に自慢した。

椎名誠著「とんがらしの誘惑」(文藝春秋)

 これは1999年刊行。

 テレビがけたたましいと感じるのは私だけではないようで、椎名誠もそれが嫌さに、ついには殆どテレビを見なくなったという。そのやかましさの象徴が、あのサッカーのゴールの時のあのアナウンサーの「ゴーーーーオオオオオルーーーー」という絶叫だと指摘している。まことにそう言えばその通りだ。この気違いじみた絶叫は、そもそも日本ではなく、海外の放送でやっていたものだと記憶している。要は物まねの絶叫なのだ。昔だってオリンピックなどでアナウンサーが感極まって思わず叫ぶことはあった。しかし、それは思わず出たものなので違和感はなかったし、のべつ幕なしにやるようなものでもなかった。今のスポーツアナウンサーは何かというとけたたましい声で絶叫していてその真実味のないこと夥しい。

 椎名誠は北海道の余市にセカンドハウスを持っている。忙しくて時々しか滞在出来ないようだが、久しぶりに訪れた時にまずすることが、キャタピラー虫の掃除だというのに笑った。現地でキャタピラー虫と呼ばれているのはカメムシの一種である。昨年私も友人と余市の近くの温泉に泊まった時、その猛攻を経験した。宿では徹底的に駆除したけれど、又出てきたときのためと云って秘密兵器を手渡たされた。案の定どこからともなくぞろぞろと潜り込んでくる。そこでその秘密兵器で目につく度に一匹ずつ処理した。その秘密兵器とはなんとガムテープである。カメムシは知っている人は知っているだろうがつぶすとまことに嫌な匂いがする。だからティッシュペーパーなどでつぶしたらえらいことになる。ガムテープの粘着面を表側にくるくると巻いて、その中に指を入れて、その粘着面に虫を貼り付けていくのだ。そしてそっとつぶさずにビニールの袋に捨てる。友人はかなりこれがつらかったようで、その後は宿に着く度にカメムシはいないか、と尋ねていた。このカメムシは北海道ばかりでなく、突然異常発生する。何カ所かで見たことがある。

お金が欲しい

 北朝鮮関連のニュース二つが目を引いた。

 韓国当局が明らかにしたところによれば、北朝鮮政府は、全く協議なしに北朝鮮の開城(ケソン)工業団地に進出している韓国企業に対し、所得を過少申告して納税をごまかした場合の罰則を強化すると通告した。それによると「過少申告」と認定された企業は過少分の200倍の罰金が科される事になり、しかも8年前の操業開始時まで遡って適用されるという。もしこの規定を受け入れない場合は現地生産した製品の工業団地からの出荷を禁止する、と云う。

 韓国側は、この措置は一方的に過ぎ、北朝鮮の「露骨な外貨稼ぎ」だと非難している。正しく納税すれば問題ないのだろうが、正しいかどうか認定するのは北朝鮮だ。彼等にすれば、お金が欲しい国がお金のあるところから徴収するのは理にかなっていると云うところだろう。

 北朝鮮は地下資源が豊富だと云われている。その総額は約80兆円とも云われている。北京では「北朝鮮投資専門基金」が設立され、まず30億元(約400億円)が投資される見通しとなった。しかしその地下資源の本当の量はまだ未調査で、北朝鮮の調査技術も発掘技術も未熟のため、この投資が空振りにおわるリスクもあると云う。北朝鮮は最近外資の導入に積極的に動いており、その一環であることは間違いない。とにかくお金が欲しいのだろう。だが実際に資源が見つかったとしてそのまま中国側に資源が渡されるかどうかはわからない、と記事は報じている。

 北朝鮮の資源獲得の権利はすでに中国に小分けして次々に売り払われている。このことは韓国も非常に気にしている。もし朝鮮半島統一となった時、韓国経済の唯一のメリットは北朝鮮の地下資源なのだが、それが中国に奪われてしまえば唯のお荷物を抱え込むだけだからである。

 しかし、その資源の権利を中国に渡さなければ、中国は保全を理由に強権を発動するだろう。北朝鮮はそれを承知で危ない橋を渡りながら中国と韓国を手玉にとっている。とにかくお金が欲しいのだろう。

「江南游記」・西湖(二)

 その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は銭塘の名妓である。何しろ芸者という代わりに、その後は蘇小と称える位だから、墓も古来評判が高い。処が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた、漆喰か何か塗ったらしい、詩的でも何でもない土饅頭だった。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋不信の為に、荒らされ放題荒らされていたから、愈索莫を極めている。少時愛読した孫子瀟の詩に、「段家橋外易斜曛(だんかきょうがいしゃくんなりやすし)。芳草凄迷緑似裙(ほうそうせいめいみどりくんににたり)。弔罷岳王来弔汝(がくおうをちょうしやんできたりなんじをちょうす)。勝也多少達官墳(まさるかたしょうのたっかんのはかに)。」と云うのがある。が、現在は何処を見ても裙に似た草色どころの騒ぎじゃない。掘り返された土の上に、痛々しい日の光が流れている。おまけに西冷橋畔の路には、支那の中学生が二三人、排日の歌か何かうたっている。私は匆々村田君と、秋瑾女史の墓を一見した後、水際の画舫へ引き返した。
 画舫は岳飛の廟へ向かう為に、もう一度西湖へ漕ぎ出された。
「岳飛の廟は好いですよ。古色に富んでいるですからね。」
 村田君は私を慰めるように、曽遊の記憶を話してくれた。が、私は何時の間にか、西湖に反感を持ち出していた。西湖は思った程美しくはない。少なくとも現在の西湖は去るに忍びざる底のものじゃない。水の浅い事は前にも云った。が、その上に西湖の自然は、嘉慶道光の諸詩人のように、繊細な感じに富み過ぎている。大まかな自然に飽き飽きした、支那の文人墨客には、或いは其処が好いのかも知れない。しかし我々日本人は、繊細な自然に慣れているだけ、一応は美しいと考えても、再応は不満になってしまう。が、もしこれだけに止まるとすれば、西湖は兎に角春寒を怯れる、支那美人の感だけはある筈である。処がその支那美人は、湖岸至る所に建てられた、赤と鼠と二色の俗悪恐るべき煉瓦建ての為に、垂死の病根を与えられた。いや、独り西湖ばかりじゃない。この二色の煉瓦建ては、殆ど大きい南京虫のように、古蹟と云わず名勝と云わず江南一帯に蔓延った結果、悉く風景を破壊している。私はさっき秋瑾女史の墓前に、やはりこの煉瓦の門を見た時、西湖の為に不平だったばかりか、女史の為にも不平だった。「秋風秋雨秋殺人」の詩と共に、革命に殉じた鑑湖秋女俠の墓前にしては、如何にも気の毒に思われたのである。しかもこう云う西湖の族化は、益(ますます)盛んになる傾向もないではない。どうも今後十年もたてば、湖岸に並び立った西洋館の中に、一軒ずつヤンキイ酔っ払っていて、その又西洋館の門の前は、一人ずつヤンキイが立ち小便をしている。、--と云うような事にもなりそうである。何時か蘇峰先生の「支那漫遊記」を読んでいたら、氏は杭州の領事にでもなって、悠々と余生を送ることが出来れば、大幸だとか何とか云う事だった。しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでいたい。・・・
 私が西湖を攻撃している内に、画舫は跨虹橋をくぐりながら、やはり西湖十景の中の、曲院の風荷あたりへさしかかった。この辺は煉瓦建ても見えなければ、白壁を囲んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き残っている。左に見える趙堤の木陰に、青々と苔むした玉帯橋が、ぼんやり水に映っているのも、南田(なんでん)の画境に近いかも知れない。私は此処へ船が来た時、村田君の誤解を招かないように、私の西湖論へ増補を施した。
「但し西湖はつまらんと云っても、全部つまらん次第じゃないがね。」 画舫は曲院の風荷を過ぎると、岳王廟の前へ止まった。我々は早速船を跡に、「西湖佳話」以来お馴染みの、岳将軍の霊を拝みに出かけた。すると廟は八分ばかり、新しい壁を光らせた儘、泥や砂利の山の中に、改修中の醜さを曝している。勿論村田君を喜ばせた、古めかしい景色なぞは何処にもない。唯焼け跡のような境内には、土方や左官ばかりがうろついている。村田君はカメラを出しかけたなり、落胆したように足を止めた。
「これはいかん。こうなっては形なしだ。--じゃ墓へ行って見よう。」
 墓は蘇小小の墓のように、漆喰を塗った土饅頭である。尤もこれは名勝だけに、蘇家の麗人のより余程大きい。墓の前には筆太に、宋岳鄂王之墓と書いた、苔痕(たいこん)班班(はんぱん)たる碑が立っている。後ろの竹木の荒れたのも、岳飛の子孫でない我々には、詩趣こそ感ずるが、悲しい気はしない。私は墓のまわりを歩きながら、聊か懐古めいた心持ちになった。岳王墳上草萋萋(がくおうふんじょうくさせいせい)--誰かにそんな句もあったような気がする。が、これは孫引きではないから、誰の詩だったか判然しない。

*趙孟頫(ちょうもうふ)の岳鄂王墓と云う詩の第一首に岳王墳上草離離(がくおうふんじょうくさつらなり)と云う句があるが草萋萋というのは見ない。芥川龍之介の記憶違いか、外に詩があるのかも知れない。

2012年10月22日 (月)

肩医者とネットオフとドン姫

 三題噺みたいだが、互いは直接関係ない。私を通しての関係だけだ。

 今日、予約していたので(それも予約を忘れていたので慌てて予定を変更したのが今日である)整形外科へ行った。万歳をさせられたりして、肩の可動範囲をチェック。前よりは動くようになってきた。しかし相変わらず痛くて夜中に目も覚める、と云ったが、痛み止めを欠かさず飲むように、と素っ気ない。そりゃあんたは痛くないから平気だろう。温泉に行っている間に少し痛いのを我慢して肩を動かすと、動かなかった方向へほんの少し動くようになるのだが、翌日痛みがひどくなる。そのことを伝えると、余り無理をしない範囲で我慢してでも動かす方がいいでしょう、と云う。余り動かさないでいると固まってしまって一生直りません、と嚇かすようなことを云う。もう少しすっきり直すことが出来ないものだろうか。何だかアナログな治療だ(意味不明だがそんな感じ)。

 玄関先に本が山積みになっている。二週間程前にネットオフで処分したものの残りだ。ネットオフに連絡すると、宅急便が引き取り用の箱を持って来てくれて、それに詰めて買い取りして貰うことが出来るのだが、なんとネットオフが不正アクセスされて個人情報が流出し、そのメンテナンス中でアクセス出来ない。9月までの情報が流失したと云うが私の情報はどうだろう、10月だったから今回はぎりぎりセーフだったような気がするのだが、前回のが残っているかもしれないから心配だ。何せ買い取りだから個人情報や、カードの番号など全部連絡してあるからやばいのだ。おまけに処分するつもりの本が数百冊、今更片付けようがない状態で積み上げられている。どうしてくれるのだ。

 今晩(と云っても夜中になるだろうが)ドン姫が帰ってくる。さっき食べ物と飲み物を買い込んだ。余り早く始めていると、ドン姫が来る頃には出来上がってしまうので(いつもそうなる)、風呂に入ってから、本でも読んで時間をつぶし、お待ちすることにする。親バカだから、娘が帰ってくるととても嬉しいのだ。最近はちょっとは会話も成立するし、それも嬉しい。つくづく馬鹿なのだ。

椎名誠著「ギョーザのような月がでた」(文藝春秋)

 順番をそろえているような、手当たり次第のような読み方をしているので、前後してしまった。前回読んだ「突撃 三角ベース団」は1998年発行の本で、こちらは1997年発行である。

 もともと「週刊文春」連載のエッセイを本にしたものだから、内容的にはいろいろなことが書かれている。旅に出れば当然旅先でのことが主体になる。

 この本の中で、携帯電話についての記述が度々出てくるのが印象に残った。著者は、現在はどうか知らないが(何せもう15年も経っているから)、その頃は携帯電話を持つ気もないし、日本人が誰も彼も携帯を持って、人前で独り言みたいに電話で会話しているのを、どちらかと云えば白い目で見ている。

 携帯で話していると、成り行きでどうしても声が大きくなることがある。著者はそれでなくとも不要な騒音を毛嫌いしているし、不必要に声の大きい他人の会話を聞かされることに怒りを覚えるから、マナーに反する傍若無人なケータイ野郎(もちろん女性も)には堪えられないのだろう。

 そう言えば携帯電話が今程普及していない時代に、突然独りで歩きながらはっきりとわかるような言葉で喋っている人を見て、可哀想な人が歩いている、と思ったものだ。一見身なりは尋常だが、少々病んでいるのだろうとしか思えなかった。携帯を持っているのに気が付いても中々得心しにくかったものだ。

 見るからに普通でない薄汚れたおじさんが大声で何かを訴えかけているのを見ることがあるが、そうではなくて、普通の若い男が、とても独り言とは思えないはっきりした声で、ぶつぶつ意味不明なことを話していたりすると、どきりとする。よく見ていると歩き方などにややあれっと云う気配があることに、後で気が付いたりする。それが女性だったりするととても痛ましい。

 携帯を使って人前で似たようなことをやっているのに、平気になったのは何時頃からだろう。皆がやっているから何もおかしなことではなくなったのだけれど、心の底の方では椎名誠と同様に違和感がある。物心ついた時から携帯があった若い人には理解出来ないだろうなあ。でも若い人は電話よりメールのほうが多いみたいだけれど。あれも四六時中やっている人を見ると大丈夫だろうか、と心配になる。

 文章を書く言葉と、会話する言葉とに加えて、携帯の言葉という第三の言葉が出来つつあるような気がする。それはだんだんほかの言葉を侵蝕していくことになるのかも知れない。ボキャブラリーは貧弱に、文章は短くなって、幼児化していくような怖さを感じる。テレビを見ていても、もうその気配は濃厚に現れている。

瀕死の産業

 中国の太陽電池産業が深刻な危機に陥っている、と云う報道があった。

 現在太陽電池は中国が最大の生産国である。ところが世界的な需要停滞により、生産過剰になっている。現在の世界の生産能力は、100万ギガワットであるが、需要は40~50万ギガワットに落ち込んでいるという。そしてこの一年で価格は30%以上下落した。中国では同じものをあちこちの省などの地方政府が投資によるバックアップを行い、メーカーが乱立して生産競争を行う事が多い。右肩上がりの時は笑いが止まらないが、いったんそれが停滞すると収拾がつかなくなる。

 専門家の予測では、このままだと半分のメーカーが破綻すると見ている。現在中国ではこの太陽電池生産メーカーを地方政府が救済する動きがあるが、余程大規模な合併による統合を行う外は存続が危ういという。

 中国の地方政府は、国民からの土地の収奪、そして過剰な投資のツケを払わなければならなくなっており、太陽電池産業に止まらず、一部の地方政府も瀕死の状況にある。

江沢民復活

 江沢民全国家主席の活動が活発になっている。

 江沢民は昨年末からその消息も途絶えがちになり、病気や死亡説まで飛び交っていた。ところが胡錦濤の努力にもかかわらず、李克強を差し置いて自分の息のかかった習近平を次期国家主席にする算段をつけるなど、相変わらずその実力のある所を見せている。それに対し胡錦濤は軍部への影響力を高め、共産党トップの時期委員の人員勢力も確保するなど、巻き返しを着々と進めていた。その矢先に尖閣で日本に面子をつぶされて、一気に共産党内での評価を下げる事になった。

 江沢民は私から見れば異常とも云える程反日に凝り固まった人物である。今回の反日運動の盛り上がりは、彼にとって震える程嬉しい出来事に違いない。一説に寄れば、九月に二週間、習近平が姿をくらましていたのは、胡錦濤の反撃を恐れての事であると同時に、反日のシナリオを書き、裏で画策する為だったとも云われている。勿論江沢民の使嗾もあるのは間違いないだろう。
 
 その江沢民は最近上海海洋大学を訪問し、海洋事業を発展させ、資源を確保するよう督励している(その意味する所は想像される通りであろう)。又、母校の揚州中学の110周年の記念行事に参加し、題字を記したそうだ(毛沢東に習って、この人もそこらじゅうに題字を残しているが、毛沢東はヘタウマの、味のある字なのに対して、この人のは面白くも何ともないつまらない字である。残された方の気持ちを察すると哀悼に堪えない)。又観劇に出かける様子も報道されている。明らかにこれは11月8日の共産党大会に対して健在をアピールする行動に他ならない。

 この人がバックにいて習近平と連動するようだと、中国は日本と宥和する動きに出る事は考えにくい。予想通り、日中関係は最悪の時代を迎え、しかも長期的にその状態が続くと覚悟しなければならないようだ。

夜の闘い

 夜の闘いなどと言うと何を想像されるだろうか。夜な夜な巷に出没する悪を退治する正義のヒーローか。それとも男女の淫靡な争いか。

 そのようなものでは全くなくて、実は肩痛との闘いなのだ。

 左肘や肩が痛くて可動範囲が著しく狭くなり不自由になってもう二年以上である。現在総合病院の整形外科で治療中であり、可動範囲はやや回復してきているが、もともと左利きなので不便である。

 なぜ夜の闘いなのか。夜、寝返りと共にその痛い左肩を下に寝てしまう。すると激痛で目覚めてしまうのだ。もちろん寝ている時は無意識だから、左肩を下にしないように言い聞かせても聞いてもらえない。

 体重が自分でも信じられない程過剰なので(実はデブは嫌いなので、自分がそうなっていることが信じられないのだが)、睡眠時無呼吸症候群と長いつきあいをしている。上を向いて寝ていると呼吸が苦しくなって目が醒めてしまう、と云う生活が続いている。睡眠の質がとても悪い。だから基本的に横を向いて寝る。当然左肩が下になる事態が必ず生ずる。痛い左肩にその過剰な重量がのしかかるのであるから、痛みで目覚めてしまう。

 今は処方された痛み止めの薬を服用し、肩には貼り薬を張って寝ているので、痛みは緩和して激痛で飛び起きることはなくなったが、痛いことは痛い。かくして夜は闘いの場となるのだ。

 睡眠時無呼吸症候群で脳に行く酸素が不足した状態が続き、睡眠の質は肩痛でさらに悪くなって、それでなくとも質の悪い脳が、夜ごと睡眠不足で破壊されつつあるのを実感している。ぼけへ今一直線だ。

 そしてまた夜が来る。

夜の闘い

 夜の闘いなどと言うと何を想像されるだろうか。夜な夜な巷に出没する悪を退治する正義のヒーローか。それとも男女の淫靡な争いか。

 そのようなものでは全くなくて、実は肩痛との闘いなのだ。

 左肘や肩が痛くて可動範囲が著しく狭くなり不自由になってもう二年以上である。現在総合病院の整形外科で治療中であり、可動範囲はやや回復してきているが、もともと左利きなので不便である。

 なぜ夜の闘いなのか。夜、寝返りと共にその痛い左肩を下に寝てしまう。すると激痛で目覚めてしまうのだ。もちろん寝ている時は無意識だから、左肩を下にしないように言い聞かせても聞いてもらえない。

 体重が自分でも信じられない程過剰なので(実はデブは嫌いなので、自分がそうなっていることが信じられないのだが)、睡眠時無呼吸症候群と長いつきあいをしている。上を向いて寝ていると呼吸が苦しくなって目が醒めてしまう、と云う生活が続いている。睡眠の質がとても悪い。だから基本的に横を向いて寝る。当然左肩が下になる事態が必ず生ずる。痛い左肩にその過剰な重量がのしかかるのであるから、痛みで目覚めてしまう。

 今は処方された痛み止めの薬を服用し、肩には貼り薬を張って寝ているので、痛みは緩和して激痛で飛び起きることはなくなったが、痛いことは痛い。かくして夜は闘いの場となるのだ。

 睡眠時無呼吸症候群で脳に行く酸素が不足した状態が続き、睡眠の質は肩痛でさらに悪くなって、それでなくとも質の悪い脳が、夜ごと睡眠不足で破壊されつつあるのを実感している。ぼけへ今一直線だ。

 そしてまた夜が来る。

「江南游記」・西湖(一)

 ホテルの前の桟橋には、朝日の光に照らされた、槐の葉の影が動いている。其処に我々を乗せる為に、画舫が一艘繋いである。画舫というと風流らしいが、何処が一体画舫の画の字だか、それは未だに判然しない。唯白木綿の日除けを張ったり、真鍮の手すりをつけたりした、平凡極まる小舟である。その画舫--兎に角画舫と教えられたから、今後もやはりそう呼ぶつもりだが、--その画舫は我々を乗せると、好人物らしい船頭の手に、悠々と湖水へ漕ぎ出された。
 水は思ったより深くはない。萍(うきくさ)の漂った水面から、蓮の芽を出した水底が見える。これは岸に近いせいかと思ったが、何処まで行っても同じ事らしい。まあ、大体の感じを云うと、湖水なぞと称えるよりも、大水の田圃に近い位である。聞けばこの西湖なるものは、自然の儘任せたが最後、忽ち干上がってしまうから、水を外に出さないように、無理な工面がしてあるのだと云う。私は舟縁に凭りかかりながら、その浅い水底の土に、村田君の杖を突っこんでは、時々藻の間に泳いで来る、鯊のような魚を嚇かしたりした。
 我々の画舫の向こうには、日本領事館のあたりから、湖の中に浮かんだ孤山へ、長い堤が連なっている。西湖全体を按ずると、これは昔白楽天の築いた、白堤なるものに相違ない。尤も石版画の画図を見ると、柳や何かが描いてあるが、重修した時に伐られたのか、今は唯寂しい沙堤である。その堤に橋が二つあって、孤山に近いのを錦帯橋と云い、日本領事館に近いのを断橋と云う。断橋は西湖十景の中、残雪の名所になっているから、前人の詩も少なくない。現に橋畔の残雪堤には、清の聖祖の詩碑が建っている。その他楊鉄崖が「段家恭頭猩色酒(だんかのきょうとうせいしょくのさけ)」と云ったのも、張承吉(ちょうしょうきつ)が「断橋荒蘚渋(だんきょうこうせんしぶる)」と云ったのも、悉くこの橋のことである。--と云うと博学に聞こえるが、これは池田桃川氏の「江南の名勝史蹟」に出ているのだから、格別自慢にも何にもならない。第一その断橋は、ははあ、あれが断橋かと遥かに敬意を表したぎり、とうとう舟を寄せずにしまった。が、萍の疎らな湖中に、白々と堤の続いているのは、--ことに其処へ近づいた時、弁髪を垂れた老人が一人、柳の枝を鞭にしながら、悠々と馬を歩ませていたのは、詩中の景だったのに違いない。私は楽天の西湖の詩に「半酔閑行湖岸東(はんすいかんこうすこがんのひがし)。馬鞭敲鐙轡玲瓏(ばべんあぶみをたたきくつわれいろう)。万株松樹青山上(ばんしゅのしょうじゅせいざんのほとり)。十里沙隄明月中(じゅうりのさていめいげつのうち)。」云々とあるのは、たとい昼夜を異にするにしても、髣髴出来るような心持ちがしたる勿論この詩も断橋同様、池田氏の本の孫引きである。
 画舫は錦帯橋をくぐり抜けると、すぐに進路を右に取った。右は即ち孤山である。これも西湖十景の中の、平湖の秋月と称するのは、この辺の景色だと教えられたが、晩春の午前では致し方がない。孤山には金持ちの屋敷らしい、大きいだけに俗悪な、門や白壁が続いている。其処を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品のいい三層楼があった。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅も美しい。これは何者の住居かと思ったら、乾隆帝の行宮の址だと云う、評判の高い文瀾閣だった。此処には金山寺の文字閣(鎮江)や、大観堂の文匯閣(揚州)と共に、四庫全書が一部ずつ納めてある。おまけに庭も立派だと云うから、一見の為岸に登ったが、どちらも凡人には見せてくれない。我々はやむを得ず岸伝いに昔の孤山寺、今の広化寺を瞥見してから、その先にある兪楼へ行った。
 兪楼は兪曲園の別荘である。規模は如何にもこせついているが、まんざら悪い住居でもない。東坡の故址にちなんだとか云う、伴坡亭の後ろなぞも、竹や龍の髭の茂った中に、藻の多い古池が一つあるのは、甚だ閑静な心持ちがした。その池の側を登ってみると、所謂曲曲廊の尽きる所に、壁へ嵌めこんだ石刻がある。それが曲園の為に描いた、彭玉麟の梅花の図--と云うよりも本郷曙町の、谷崎潤一郎氏の二階に懸かっていた、凄まじい梅花の図の現物だった。曲曲廊の上の小軒、--扁額に寄れば碧霞西舎を見た後、我々はもう一度山の下の、半坡亭へ下って来た。亭の壁にはべた一面に、曲園だの朱晦庵だの何紹基だの岳飛だの、いろいろの石刷りがぶら下がっている。石刷りもこう沢山あると、格別どれも欲しい気がしない。その正面には額に入れた、髯の長い曲園の写真が、有難そうに飾ってある。私はこの家の主人が持って来た、一椀の茶を啜りながら、つらつら曲園の人相を眺めた。章炳麟氏の兪先生伝によると、(これは孫引きするのではない)「雅生不好声色既喪母妻終身不肴食(がせいせいしょくをこのまずすでにぼさいをうしないしゅうしんこうしょくせず)。」云々とある。成る程そんな所も見えないではない。「雑流亦時時至門下此其所短也(ざつりゅうまたじじもんかにいたるこれそのたんとするところなり)。」--そう云えば多少の俗気もある。事によると兪曲園はこの俗気があったおかげに、こう云う別荘を拵えてくれる、立派な御弟子たちが出来たのかも知れない。現に一点の俗気も帯びない、玲瓏玉の如き我々なぞは、未だに別荘を持つどころか、売文に露命を繋いでいる。--私は玫瑰(メイクイ)のはいった茶碗を前に、ぼんやり頬杖をついた儘、ちょいと蔭甫(いんぽ)先生を軽蔑した。

2012年10月21日 (日)

椎名誠著「突撃 三角ベース団」(文藝春秋)

 この本の中では椎名誠は一時的に精神のバランスを狂わせていて痛々しい程だ。勿論精神病と云うほどのことではないが、本人はかなりつらかったのではないだろうか。それでも見るだけのものは見て、それなりの文章に仕上げるのだからプロである。

 彼が特に嫌う不当に介入してくる騒音は、私も大嫌いなのでその怒りとストレスはよく分かる。ヨーロッパなどの大人の国ではそんな騒音は少ないらしいが、日本では騒音に鈍感な人間が多すぎる。特にテレビの突然音量が上がるCMや、お笑いタレントの楽屋ネタを自分で笑いながら喋るやかましさにはだんだん堪えられなくなってきている。だから特に見たい番組以外は民放を見なくなってきた。あのけたたましさが普通だと思い込まされている人はあれを真似して鈍感になっていくのだろう。可哀想なことだ。

 それと中国人も一般的にやかましい。殆どまわりへの斟酌などしないようだ。これは幼稚園生や、小学校の低学年の子供の集団のやかましさと同じだ。つまり傍若無人にやかましい人間というのはガキだと云う事なのだろう。そのガキに堪えられなくなってきた。これは大人になったのか、パワーの低下か。

 この本の後半に入ると椎名誠も回復して、いつもの調子に戻っている。良かった、良かった。

冷遇を喜ぶ

 玄葉外務大臣が、フランス、イギリス、ドイツを歴訪したが、尖閣問題に同情を求めたのに対して、各国の政府やメディアから冷淡な反応しか得ることが出来なかった、と中国メディアが嬉しそうに報じていた。

 多分中国としては、玄葉大臣の歴訪によって日本に同情が集まり、国際世論が日本に傾くことを心配していたのだろう。

 そういう意味では玄葉大臣の今回のヨーロッパ歴訪は失敗だったかも知れない。そもそもそれらの国では野田政権自体がもう末期的であることを知らないはずがないのであって、その政権の外務大臣が来て親密になっても無駄だと思っていただろうから、当然と云えば当然のことだろう。玄葉さんも仕事とは云えつらいことであったろう。しかし、対中国の失敗のかなりの部分の責任は野田首相の次に外務省にあるので、当然なのだ。増して玄葉大臣の初動の鈍さは信じられないほどであった。

 それにEUの経済危機について、助けを求める相手の第一候補は中国であるから、これらの国が、中国が反発するようなことを表明することなど今の時点ではあり得ない。日本が胡錦濤主席の面子をつぶして日中友好40年をふいにするような大失敗したのを見ているから、なおさらのことだ。

 中国もない袖は振れない状況の中で、如何にも援助しそうな顔を見せながら、EUをうまく引きつけていると云っていい。お粗末なのは日本だけだ。本当に民主党政権の認識不足による国益の損失は大きい。これは東日本大震災を上回る災厄を日本にもたらしたと言っても過言ではないだろう。しかもその自覚がないのが恐ろしい。

 日中友好40年が無に帰した、と云うのはあの日本国旗を奪われた元中国大使の丹羽さんが語った言葉で、この人はその前の尖閣問題の時に問題発言をして腹が立ったが、この認識についてはほぼ同感である。ことここに至ると修復などと云うことは期待する方が無理と諦めて、一から出直す覚悟で日中関係を構築し直すしかないと思う。中国の闇は深く、これから中国に進出している日系企業の不遇はますますひどくなるばかりであろうと思うと同情に堪えない。

帰還する

 昨日名古屋に帰還した。一昨日は弟と飲み過ぎた。温泉にいった時に土産に買った「谷川岳」の冷酒を飲み、さらに弟が買ってあった冷酒を空けて、酔った勢いでほらを吹きまくったが、何を話したか記憶が定かではない。翌朝5時起床。東京を混雑しないうちに通過したいと思って五時半前に出発した。処が葛西ジャンクションの分岐あたりで事故があり、それで渋滞。ようやくそれを通り抜けて東名にはいったら又、大井松田あたりで事故渋滞。自然渋滞ならまだ何とか動き続けるが事故となると停まったままで動かなくなる。ようやく新東名にはいったら強烈な睡魔に襲われたので急遽サービスエリアで爆睡。殆ど二日酔い、と云うより前日の酒が残っている状態だったので、もしチェックされたら酔っ払い運転と判定されかねなかったが、これでようやく普通の二日酔いまで回復した。つごう7時間位かかって無事名古屋の自宅に帰還した。

 簡単に部屋を片付けて、風呂に入る。最後のアルコールを抜き取りたかったのだ。三時過ぎ、胃のむかつきがやや残る程度に復活した状態で名古屋へ。4時から友だちと飲む約束だ。おおよそ5、6ヶ月ぶりの再会を祝し、飲む。二人で飲んだ大甚という店は、先日テレビの「吉田類の酒場放浪記」で紹介されたばかりなので、4時開店にもかかわらず満員。普段は客を座らせないスペースまで使って客を入れても4時5分過ぎには客を断る状態であった。少し早めに行って並んで座れて好かった。

 この店は度々マスコミに取り上げられて、その後しばらくは常連もはいりきれなくなったりするほど混雑する。ここは本来の正しい居酒屋で、皆こうすれば好いのに何故出来ないのだろう。ただここの賀茂鶴は特別に旨い。特注のコモ樽だ。しかもおおむね燗の温度も丁度いい。大体が馬鹿の一つ覚えみたいに熱燗、と云うのが日本酒の飲み方だと思っている人が多いが、あれはまずい不純物の多い酒を熱燗でごまかす飲み方で、手で持てないような燗の仕方は酒の燗ではない。人肌よりやや高い、風呂の温度位が燗酒の美味しい飲み方だと私は信じている。この大甚は10年位前は生ビールなんてやっていなかった。瓶ビールしかなかった。それも正しい居酒屋の姿勢だったが、最近は生が飲める。でも生ビール好きの私としてはその節の曲げ方は大いに許せる所だ。

 友人との四方山話は尽きなかったが、当方は二日酔いの後遺症が残る身であり、彼のほうも明日は知多半島でカワハギ釣りに行くというので、イサキと鰺の塩焼きをそれぞれ食べた所でお開きとした(両方とも本来は夏の魚だ、夏が長かったから未だに夏の魚がある)。おばさんが珍しいこともあるもんだ、と言った。いつもは看板まで粘り、誰も客がいなくなっても居座ることが多いからだ。

 そういうわけで少し早いが、何処にも寄らずに正しく自宅に帰還した。

椎名誠著「ぶっかけめしの午後」(文藝春秋)

 椎名誠は心身共に健全、頑健のように見えるが、実は結構繊細な神経の持ち主のようである。世の中には幸せすぎて鈍感を画に描いたような人も多々あるが、そのようなひとは多分このような文章を書く事はもちろん出来ないし、読んでも面白いと思わないのではないか。

 人は幸せであるにこしたことはないけれど、お金もあり、家族も皆健康で、全く不安のない生涯をおくっているひとは、しばしば他人の不幸が見えないし、共感も出来ない鈍感人間になってしまうことを、今まで沢山見てきた。

 椎名誠が不幸である、と云う訳ではない。ただ一見図太そうに見えるその裏に大きな不安を沢山抱えていること、だから彼が見る世界は醜く、そして腹立たしいことに満ちているのだが、同時に本当に美しいものもくっきりと際だって見える。私が当たり前に見ているものが、彼のその繊細な眼を通して見直すと、その意味がより深く現れて来る。世界がより立体的に見えてくる。彼の体験を文章を通して追体験するすることが、楽しいと感じられる。

 彼の本はスイスイ読めてしまって、軽いものに感じられてしまうのに中々捨てがたく、今回のように再読してみたくなってしまうのは、自分にシンクロする何かが彼の本を読む度に励起されるからのようだとようやく気が付いた。

「江南游記」・杭州の一夜(下)

 新新旅館へ辿り着いたのはその後十分とたたない内だった。此処は新新と号するだけに、兎に角西洋風のホテルである。が、支那人の給仕と一しょに、狭い裏梯子を登りながら、我々の部屋へ行って見ると、東洋人(トンヤンレン)と見くびったのか、余り居心地のいい二階じゃない。第一狭い部屋の中に、寝台を二台並べた所は、正に支那の宿屋である。おまけに肝腎の部屋の位置も、丁度ホテルの後ろの隅だから、坐った儘西湖を眺めるなぞと云う、贅沢な真似は到底出来ない。しかし車と空腹とロマンティシズムとにくたびれた私はこの部屋の椅子へ腰を下ろすと、やっと人間らしい心持ちになった。
 村田君は早速我々の給仕に、食事の支度を註文した。が、食事はもう締まったから、西洋料理は出来ないと云う。では支那料理と云う事になったが、給仕が持って来た皿を見ると、どうも食い残りか何からしい。でも偕楽園主人の説によると、全家宝と称する支那料理は、どうも食い残りの集成だと云う事である。私は不気味になったから、この幾皿の支那料理の中、全家宝はないかと尋ねて見た。すると忽ち村田君に、全家宝はこんな物じゃないですよと、水牛以来の軽蔑をされた。
 給仕はこの間も珍しそうに、我々の顔を覗きながら、絶えず小うるさい御饒舌(おしゃべり)をしている。しかも村田君に翻訳して貰うと、穴の明いた銀貨を持っていたら、一枚くれろと云うのだった。ではその銀貨を何にするかと聞けば、チョッキの釦にすると云うのだから、非凡な思いつきには違いない。成る程そう云われて見ると、この給仕のチョッキの釦はことごとく穴の明いた銀貨である。村田君はビイルを引っ掛けながら、日本へそのチョッキを持って行けば、きっと五十銭には売れるぜなぞと、つまらない保証を与えていた。
 我々は食事をすませた後、下のサロンへ降りて云った。が、其処には写真の額や、安物の家具が並んでいる外は、一人も客の姿が見えない。唯玄関へ出てみると、石段の上の卓子のまわりには、ヤンキイの男女が五六人、ぐいぐい酒を煽りながら、大声に唄をうたっている。殊に禿げ頭の先生なぞは、女の腰を抱いた儘、唄の音頭をとる拍子に、何度も椅子ごと倒れそうになった。
 玄関の外には門の左に、玫瑰(メイクイ)の柵が出来ている。我々はその下に佇みながら、細かい葉の間に簇(むら)がった、赤い花を、仰いで見た。花は遠い電燈の光に、かすかな匂いを放っている。それが何だかつやつやと、濡れていると思ったら、何時の間にか暗い空は、糠雨に変わっているのだった。玫瑰、微雨、孤客の心、--此処までは詩になるかも知れない。が、鼻の先の玄関には、酔っ払いのヤンキイが騒いでいる。私はとてもこの分では、「天鵞絨の夢」の作者のように、ロマンティックになれないと思った。
 其処へ静かに門の外から、雨に濡れた轎子(きょうす)が二つ、四人の駕籠かきに担がれて来た。それが玄関に横付けになると、まっさきに轎(かご)をくぐり出たのは、品のいい支那服の老人である。その次に玄関へ下り立ったのは、--私は正直に白状すると、せめては十人並みの器量だと云いたい。が、実際はどちらかと云えば、寧ろ醜い少女である。しかし青磁色の緞子の衣装に、耳環の水晶のきらめいているのは、確かに風流な心もちがした。少女は老人の指図通り、出迎えた宿の番頭と一しょに、ホテルの中に入ってしまう。老人は後に残った儘、丁度来合わせた我々の給仕に、轎夫の賃金を払わせている。この光景を眺めている内に、もう一度私は変節した。これならば谷崎潤一郎氏のように、ロマンティックになり了せる事も、どうやら出来そうな気がしたのである。
 しかし結局運命は、私のロマンティシズムに残酷だった。このとき突然玄関から、ひょろひょろ石段を降りてきたのは、あの禿頭の亜米利加人である。彼は同類に声をかけられると、妙な手つきをして見せながら、ブラッディ何とか返答をした。上海の異人はヴェリイの代わりに屡(しばしば)恐る可きブラッディを使う。これだけでも既に愉快じゃない。その上彼は危なそうに、我々の側へ立ち止まるが早いか、玄関へ後ろを向けたなり、傍若無人にも立ち小便をした。
 ロマンティシズムよ、さようならである。私は陶然たる村田君と、人気のないサロンへ引き返した。水戸の浪士にも十倍した、攘夷的精神に燃え立ちながら。

2012年10月20日 (土)

「江南游記」・杭州の一夜(中)

 この往来の両側には、明るい店々が並んでいる。が、人通りは疎らだから、少しも陽気な心持ちがしない。寧ろ町幅が広いだけに、如何にも支那の新開地らしい、妙な寂しさを与えるだけである。
「これが城外の町、--この突き当たりが西湖ですよ。」
 後ろの車に乗った村田君は、こう私に声をかけた。西湖!私は往来の外れを眺めた。しかしいくら西湖でも、闇夜に鎖されていては仕方が無い。唯車上の私の顔には、その遙かな闇の中から、涼しい風が流れて来る。私は何だか月島あたりへ、十三夜を見にでも来たような気がした。
 車は少時走った後、とうとう西湖のほとりへ出た。底には電燈をつけ並べた、大きい旅館が二三軒ある。が、それもさっきの店々のよう、明るい寂しさを加えるに過ぎない。西湖は薄暗い往来の左に、暗い水面を広げたなり、ひっそりと静まり返っている。そのだだっ広い往来にも、我々二人の車の外は、犬の子一つ歩いていない。私は昼のような旅館の二階に去来する人影を眺めながら、晩飯だのベッドだの新聞だの、--要するに「文明」が恋しくなり出した。しかし車屋は不相変、黙々と走り続けている。路も行人を断った儘、何処まで行っても尽きそうじゃない。旅館も、--旅館はもうずっと後ろになった。今では唯湖の縁に、柳らしい樹ばかり並んでいる。
「おい、君、新新旅館はまだ遠いのかね?」
 私は村田君を振り返った。すると村田君の車屋が、咄嗟にその意味を想像したのか、君よりも先に返事をした。
「十里、十里!」
 私は急に悲しい気がし出した。この上まだ十里も先だとすると、新新旅館に着かない内に、夜が明けてしまうのに相違ない。して見れば今夜は断食である。私はもう一度村田君へ、我ながら情けない声をかけた。
「十里とは驚いたな。僕は腹が減ってきたがね。」
「わしも減った。」
 村田君は車上に腕組みをした儘、恬然と支那煙草を咥えていた。
「十里位何でもないですよ。支那里数の十里だから、--」
 私はやっと安心した。が、忽ち又がっかりした。如何に六丁一里だと云っても、十里となれば六十町ある。この空腹を抱えながら、まだ日本の一里以上、闇夜の車に揺られるのは、何人にも嬉しい行程じゃない。私は失望を紛らせるために、昔習った独逸文法の規則を、一々口の中に繰り返し始めた。
 それが名詞から始まって、強変化動詞に辿り着いた時、ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狭くなった上に、樹木なぞも左右に茂っている。殊に不思議に思われたのは、その樹の間に飛んでいる、大きい蛍の光だった。蛍と云えば俳諧でも、夏の季題と決まっている。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思われない。おまけにその光の輪は、ぽっと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほおずき)歩度もありそうな気がする。私はこの青い光に、燐火を見たような不気味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンティックな気持ちにひたるようになった。しかし肝心の西湖の夜色は、家の蔭か何かに隠れたらしい。路の左の樹木の向こうは、ずっと土塀に変わっている。
「此処が日本領事館ですよ。」
 村田君の声が聞こえた時、車は急に樹々の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我々の前へ、薄明るい水面が現れて来た。西湖!私は実際この瞬間、如何にも西湖らしい心持ちになった。茫々と煙った水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狭い月光が流れている。その水を斜めに横切ったのは、蘇堤か白堤に違いない。堤の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上がっている。この美しい銀と黒とは、到底日本では見る事が出来ない。私は車の揺れる上に、思わず体を真っ直ぐにした儘、何時までも西湖に見入っていた。

2012年10月19日 (金)

椎名誠著「時にはうどんのように」(文藝春秋)

 時にはうどんのように、と云う題名だが、特にはうどんについて、詳しく語っている訳ではない。

 いつものように、その時々の出来事や、思いつきを過剰な言葉で書き連ねているだけなのだが、それがとても面白い。だからこうやってたちまち読み終わってしまう。

 別の本にも書かれていたし、この本でも書かれていたが、日本人がくるま(自動車)を偏愛しているのが異常だ、と云うのに強く賛同する。くるまなんてただの道具であり、問題なく快適に走ればそれで好いのだ。バンパーにちょっと触れた位で発狂したようになって交換だ、弁償だ、と若いお兄さんに、私も喚き倒された事がある。たまたま料金所で小銭を取ろうとして踏んでいたブレーキが甘くなり、ただくるまとくるまが触れた程度なのに・・・。どちらのくるまのバンパーを見てももちろんかすり傷すらなかった。結局警察を呼んで一時間位そのお兄ちゃんのわめき声を聞かされる事になったが、しまいに警察が怒り出して、勝手にしろ、と云って帰ってしまった。

 最近は若い人も車に興味がなくなったのか、其処まで偏執的なのはいなくなったらしい。その代わり若い人に車が売れなくなってきたとも言うが。

 それと、妄想女につきまとわれる話は、有名人の有名税とはいえ、その恐怖と不快感に深く同情する。見た目は全く正常なのに、確信的に妄想を抱いている人間は、すぐ身近にいる人にはまともに思われている事も多い。そうなるとどちらが正しいか訳が分からなくなる。

 これについても著者以上に体験がいろいろあるのだが、このことは触れたくないので書かない。

 明日友人が名古屋に来るというので、今晩は弟と土産に買ってきた地酒を飲んで明日早朝に名古屋に帰る。そして明日の晩は名古屋の行きつけの居酒屋、大甚で馬鹿酒を飲むのだ。

 

「江南游記」・杭州の一夜(上)

 杭州の停車場へ着いたのは、彼是午後の七時だった。停車場の柵の外には、薄暗い電灯のともった下に、税関の役人が控えている。私はその役人の前へ、赤皮の鞄を持って云った。鞄の中には手当たり次第に、書物だのシャツだのボンボンの袋だの、いろいろな物が詰めこんである。役人はさも悲しそうに、一々シャツを畳み直したり、ボンボンのこぼれたのを拾ったり、鞄の中の整理に着手してくれた。いや、少なくともそう見えた程、一通り検査をすませた後は、ちゃんと鞄の中が片付いたのである。私は彼が鞄の上へ、白墨(チョオク)の円を描いてくれた時、「多謝(トオシエ)」と支那語の御礼を云った。が、彼はやはり悲しそうに、又外の鞄を整理しながら、私には眼さえ注がなかった。
 其処にはまだ役人の外にも、宿引きが大勢集まっている。彼等は我々の姿を見ると、口々に何か喚きながら、小さい旗を振り廻したり、色紙の引き札を突きつけたりした。が、我々が泊まる筈の、新新旅館の旗なるものは、何処を捜しても見当たらない。すると図々しい宿引きどもは、滔々と何か饒舌り立てては、我々の鞄へ手をかけようとする。如何に村田君に怒鳴られた所が、少しも辟易する様子がない。私は勿論この場合も、雀が丘(モスクワの地名)のナポレオンのように、悠然と彼等を睥睨していた。しかし何分か待たされた後、怪しげな背広を一着した新新旅館の宿引きが、やっと我々の前に現れた時には、やはり正直な所は嬉しかった。
 我々は宿引きの命令通り、停車場前の人力車に乗った。車は梶棒を上げたと思うと、いきなり狭い路へ飛び込んだ。路は殆どまっ暗である。敷石は凸凹を極めているから、車の揺れるのも一通りではない。その中に一度芝居小屋があるのか、騒々しい銅鑼の音を聞いた事がある。が、其処を通り過ぎた後は、人声一つ聞こえて来ない。唯生暖かい夜の町に、我々の車の音ばかりがする。私は葉巻を咥えながら、何時かアラビヤ夜話じみた、ロマンティックな気持ちを弄び始めた。
 その内に路が広くなると、時々戸口に電燈をともした、大きい白壁の邸宅が見える。その次にそれが星の無い夜空に、はっきり聳え立った白壁になる。それから壁を切り抜いた、細長い戸口が現れて来る。戸口には赤い表札の上に、電燈の光が当たっている。--と思うと戸口の奥にも、電燈のともった部屋部屋が見える。このちらりと眼に入る、明るい邸宅の内部ほど、不思議に美しい物は見た事がない。其処には何か私の知らない、秘密な幸福があるような気がする。スマトラの忘れな草、鴉片の夢に見る白孔雀--何かそんな物があるような気がする。古来支那の小説には、深夜路に迷った孤客が堂々たる邸宅に泊めて貰う。処が翌朝になって見ると、大厦高楼と思ったのは、草の茂った古塚だったり、山陰の狐の穴だったりする、--そういう種類の話が多い。私は日本にいる間、この種類の鬼狐の潭も、机上の空想だと思っていた。ところが今になってみると、それはたとい空想にしても、支那の都市や田園の夜景に、然るべき根ざしを持っている。夜の底から現れて来る、燈火に満ちた白壁の邸宅、--その夢のような美しさには、古今の小説家も私と同様、超自然を感じたのに相違ない。そう言えば今見た邸宅の戸口には、隴西の李庽(りぐう)と云う表札があった。事によるとあの家の中には、昔の儘の李太白が、幻の牡丹を眺めながら、玉盞を傾けているかも知れない。私はもし彼に会ったら、話してみたい事が沢山ある。彼は一体太白集中、どの刊本を正しいとするか?ジュディト・ゴオティエが翻訳した、仏蘭西語の彼の采蓮の曲には、吹き出してしまうか腹を立てるか?胡適氏だとか康白情氏だとか、現代の白話詩には、どう云う見解を持っているか?--そんな出たらめを考えている内に、車は忽ち横町を曲がると、無暗に幅の広い往来へ出た。

*この項とこの次の項が「江南游記」の中で特に印象に残っている文章で、その時代の杭州の夜の暗がりが目の前に浮かんでくる。これが私の杭州に対する印象のベースになっている位だ。今はさすがにそんなに暗くはないが、夜、西湖の湖畔の繁華街でない辺りの暗がりを湖面を横手に窺いながら、車で走っている時にこの文章を思い出して感激したものだ。

2012年10月18日 (木)

椎名誠著「猫の亡命」(文藝春秋)

 題名は猫の亡命だが、猫の亡命の話は本全体の内二行位しかない。

 著者はいつも旅をしている。でも純粋に自分のためだけの旅ばかりではない。と云うより仕事で行く旅が多い。これではサラリーマンの出張と変わらない。

 でも旅という定常とは違う状況に自分を追い込むと、世界が一皮むけて、少し本当の何かが見えたりする。寅さんが夜汽車の車窓から眺めるぽつんと灯りのついた家のようなものだ。其処には自分を含まない世界がある。自分が世界の外部である実感こそが旅だ。だからオアシスのように自分を迎えてくれる友人達がいて、そして最後には帰る家があるのだ。それは外部からの帰還でもある。

 椎名誠のエッセイには食べ物、それも酒の肴や、男が一手間で作れる食べ物がふんだんに出てくる。時々それを真似てみたりする。料理と云うほどのものではないけれどうまいもの、ちょっと嬉しい。

 母との旅も今晩が最後。明日には帰る。この辺は林檎が旨いらしい。土産に買って帰る事にしよう。

母の気圧

 母は二年ほど前から殆ど口が利けない。人の言っている事はわかるし、メモ帳を出せば云いたい事が的確に書けるので、言語障害ではない。本を読み囓っただけなので、医学的に正しいかどうか知らないが、構話障害と云うらしい。要するにろれつが回らないのがひどい状態と思えばいい。

 発音練習の、あいうえお、かきくけこ、を発声しているのを聞いていると余程聞き取れる。処が不思議な事に、何かを人に伝えようとして発声すると殆ど意味のある言葉にならない。これは普段一緒に暮らしている弟の嫁さんでも聞き取れない。

 だから母と温泉に来ていても、何処かに出かけている時は景色を見ながらこちらが勝手に喋り散らしているので、間が持てるのだが、今日のように天気が悪くて部屋でごろごろしていると、顔をつきあわせているだけで会話が成り立たない。こちらは本を読んだり、パソコンで遊んだりする事になる。

 母はそれをじっと見つめている。何か言いたいのかも知れないが、無言である。
 気圧というのはそういうことで、母の気は、
こちらにひしひしと迫ってくる。気の圧力がいつもつきまとっているのだ。

 本にもパソコンにも集中出来ない。そう言えば母は昔から気が強かった。ちょっとくたびれる。

椎名誠著「南国かつおまぐろ旅」(文藝春秋)

 いつものことだが、この本でもシーナさんはやたらに怒っている。その怒りの理由には共感することばかりなのだが、最近そう言えば怒ることが少なくなった。

 どうしてか考えて見たら、仕事をしていないので、人に会ったり、人混みに出かけることが激減しているからだと気が付いた。精々テレビのアホ・コメンテーターに画面を見ながら「阿呆!」とつぶやく位である。

 それと、大好きで、そして大嫌いな中国が、余りにも情けない状態で、怒りを通り越して悲しい気持ちばかりで、怒る気にもならなくなったのが大きい。中国の笑えるような馬鹿な話をニュースの中から取り上げてブログを書いてきたけれど、それも今は何か空しくて、やる気にならない。それに今、中国のニュースを見ていても余り面白い物は少ない。

 車でなく、電車で出かけて、若い連中やおばさん達や、自分だけが正しい、と云うようなおじさん達に出会うと、いろいろ腹が立つこともあった。道一つ歩くのでも歩き方の下手な人の増えたことに腹が立った。人前でいちゃいちゃしている露出狂のカップルにも腹が立った。

 何だか世の中が幼児化している、と云うのが実感だったが、今はそのような連中に出会う所に出かけないし、車で移動することが多いのでそういう出会いもない。おかしな運転をする車はいるけれど、極力深夜など、空いている時間に走るようにしている。

 そういうわけで、シーナさんの怒りを自分の怒りにしながら、その自分を笑っていると、何だか精神的なこりがちょっとほぐれたような気がしてくる。温泉に入って体をほぐし、そして椎名誠を読んで精神のこりをほぐす、ベストマッチな旅なのだ。

椎名誠著「モンパの木の下で」(文藝春秋)

 本を整理していたら、椎名誠の本が数十冊出てきた。少し奥の方へしまおうと思ったが拾い読みし始めたらとまらない。とてつもなく面白いのだ。そこで何冊か今回の旅に持って来た。そしてまず読了したのがこの本。改めて椎名誠の昭和軽薄体の文章のパワーに敬服。この人の物まねは沢山あるけれど、さすがにオリジナルは段違いに面白い。もともと抱えている懐の深さが違うのだ。物まねの薄っぺらな文章とは似て非なるものがある。この本は1993年に出版された。

 椎名誠が腹立たしく感じるものは私も腹立たしいと思うもので、本当に怒っている時は柔らかく書き、些細な事を大声でなじるというレトリックを使っていることがわかったりするとこちらも思わずにやりとしてくる。当分の間、この人の本を読む事になりそうだ。そうでないと片付かない。それと池波正太郎の本を今月末位から、片っ端から読もうと思っている。そんな気分なのだ。とても楽しみだ。

「江南游記」・車中(承前)

 その中(うち)に汽車は嘉興を過ぎた。ふと窓の外を覗いてみると、水に臨んだ家々の間に、高々と反った石橋がある。水には両岸の白壁も、はっきり映っているらしい。その上南画に出てくる船も、二三艘水際に繋いである、私は芽を吹いた柳の向こうに、こんな景色を眺めた時、急に支那らしい心持ちになった。
「君、橋がある。」
 私は大威張りにこう云った。橋ならばまさか水牛のように、軽蔑されまいと思ったからである。
「うん、橋がある。ああ云う橋は好かもんなあ。」
 村田君もすぐに賛成した。
 しかしその橋が隠れたと思うと、今度は一面の桑畑の彼方に、広告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生々しいペンキの広告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、双嬰孩香烟(そうえいがいこうえん)、--そう云う歯磨きや煙草の広告は、沿線到る処の停車場に、殆ど見えなかったと云う事はない。支那は抑(そもそも)如何なる国から、こう云う広告術を学んで来たのか?その答を与えるものは、此処にも諸方に並び立った、ライオン歯磨だの仁丹だのの、俗悪を極めた広告である。日本は実にこの点でも、隣邦の厚誼を尽くしたものらしい。
 汽車の外は不相変、菜畑かげんげ野である。どうかすると松柏の間に、古塚のあるのが見える事もある。
「君、墓があるぜ。」
 村田君は今度は橋の時程、私の興味に応じなかった。
「我々は同文書院にいた自分、ああいう墓の崩れたやつから、度々頭蓋骨を盗んで来たですよ。」
「盗んで来て何にするのですか?」
「おもちゃにし居ったですよ。」
 我々は茶を啜りながら、脳味噌の焦げたのは肺病の薬だとか、人肉の味は羊肉のようだとか、野蛮な事を話し合った。汽車の外には何時の間にか、莢になった油菜の上に、赤々と西日が流れている。

2012年10月17日 (水)

日光へ行く

Dsc_0056金精山。老神温泉からひたすら東へ走ると丸沼、菅沼の横を過ぎ(両方山の湖で神秘的)、金精峠を越えて金精トンネルを抜けると奥日光だ。

金精山、金精とはつまり男性のシンボルの事だ。男体山があって金精山があるのだ。その名のようにそそり立っている。

Dsc_0060金精峠から正面に男体山を見る。足もとの湖は湯の湖。湯元温泉がある。湯の湖の湖岸の駐車場は何時も満杯。特に紅葉シーズンとあって中じゃ上には入れない車があふれていた。写真を撮りたかったが断念。湯滝に向かう。

Dsc_0074錦繍の湯滝。

Dsc_0080_2紅葉が美しい。

Dsc_0082半月山の展望台からの眺め。正面は男体山。湖はもちろん中禅寺湖。この展望台は一度来たいと思っていた所。期待以上にすばらしい眺望であり、余り行く人も少ない穴場である。この展望台に上る手前に中禅寺という寺があった。中禅寺湖に中禅寺があるのを始めて知った。ちっとも不思議な事ではないけれど。

Dsc_0101中禅寺湖畔の小さな店で昼食を摂った。母の希望だ。母はホットサンドを頼んでいた。中々しゃれている。窓辺からワカサギ釣りのボートと遊覧船が見えた。

Dsc_0102おまけ。湖面が逆行にきらきらと燦めいていた。少し風が出てきた。今日は天気が崩れるという。このあと宿へ引き返した。二時前に宿に着く頃には小雨がぱらつきだしていた。今晩から明日は雨になりそうだ。持って来た本でも読んでごろごろする事にしよう。




















部屋を移る

 昨日から一階の部屋に移った。八畳の部屋に十畳の部屋がつながった大部屋だ。大きすぎで二人では少し寒い。北関東のこの宿は、昼間はそこそこ暖かいが、朝晩はかなり冷える。10度前後になっているのではないだろうか。

 食事が多すぎたので、量より質に換えて貰った。丁度いいよりやや多い程度に収まり、満足である。谷川岳、と云う地酒の冷酒も大変旨かった。

 風呂場も部屋のすぐ隣で、階段の上り下りもないから母はご機嫌だ。ただ「ただいま入浴中」、の札が少し高い所に懸かっており、腰が曲がり気味の母には手が届かないから必ずいっしょに行かないといけない。温めの湯も母は気に入っているようだ。

 兄貴分の友人が入院している、と云う連絡が入った。脳の血管が詰まって倒れたらしい。幸い先週手術をして予後も好いという。共通の友人に連絡した。知らなかったという。連絡してくれた人はたまたまいっしょに旅行に行く予定だったので知った訳で、その人が連絡をくれないと知らないままであった。ありがたい事である。友人が様子を見計らって見舞いに行き、様子を知らせてくれるだろう。

 そういえば広島にいる会社の先輩も糖尿病で入院している、としばらく前に連絡を受けた。どうしているだろうか。糖尿病なのに甘い物や脂っこい物をかまわず食べていた。あの調子だと心配な事だったが現実になった。同病者として人ごとではない。ただ私はこの二年近く、何よりも大好きな焼き肉(特にホルモン)は全く食べていない。これはかなりつらいが、我慢している。歯も大分ガタが来ているからホルモンを食うのも昔のように行かないだろうが、思い出すとあれを五人前、十人前食べていた時代が懐かしい。

風呂

 宿の風呂は温めである。多分40~41℃くらいだろう。露天風呂のほうは入っているあいだは好いが、下手に湯冷ましをすると体が冷えてしまうが、ただ浸かっているだけだといくらでもはいっていられる。冬だと少しぬるすぎるかも知れない。

 内湯の正面の壁は漆喰の壁で、下半分近くに鉄平石が貼り付けられている。そして上の白い部分に縦長で頂上が尖った鉄平石が数枚埋め込まれている。下の鉄平石が山々であり、その中空に屹立する仙山が見えるという風情だ。その仙山の横には松柏が描かれ、鳥が枝にとまっていたり、空に舞ったりしている。ぼんやりと絵を見ているとささやかながら仙境にある心持ちがする。稚拙な物だが中々好い。

 本日は日光方面に行くつもりだが、午後、天気が崩れるかも知れない。早めに切り上げる事にしよう。処で母の動作がますます緩慢になってきた。歩くのもすり足で僅かずつしか進まない。手助けすると全面的に頼ってくるので、黙って待って、見ている(手助けする方がいいだろうか)。私は冷たいから自分で出来る限りは自分でやって欲しいと思っている。それすら出来なくなったら旅に出るのは無理だ。がんばれお母ちゃん。

「江南游記」・車中

 杭州行きの汽車へ乗っていたら、車掌が切符を検べに来た。この車掌はオリヴ色の洋服に、金筋入りの大黒帽をかぶっている。日本の車掌に比べると、何だが敏活な感じがしない。が、勿論そう考えるのは、我々の僻見の祟りである。我々は車掌の風采にさえ、、我々の定木を振り廻しやすい。ジョン・ブルは乙にすまさなければ、紳士でないと思っている。アンクル・サムは金がなければ、紳士でないと思っている。ジャップは、--少なくとも紀行文を草する以上、旅愁の涙を落としたり、風景の美に見惚れたり、游子のポオズをつくらなければ、紳士でないと思っている。我々は如何なる場合でも、こういう僻見に捉らわれてはならん。--私はこの悠々とした車掌が、切符を検べている間に、こう云う僻見論を発表した。尤も支那人の車掌を相手に、気焔を揚げた訳ではない。案内役に同行した、村田烏江君に吹きかけたのである。
 汽車の外は何時まで行っても、菜畑かげんげ野ばかりである。その中に時々羊がいたり、臼挽き小屋があったりする。と思うと大きい水牛も、のそのそ田の畔(くろ)を歩いていた。五六日前やはり村田君と、上海の郊外を歩いていたら、突然一頭の水牛に路を塞がれた事がある。私は動物園の柵内は知らず、目の当たりにこんな怪物に遭遇した事は始めてだから、つい感心した拍子に、ほんの半歩ばかり退却した。すると忽ち村田君に、「臆病だなあ。」と軽蔑された。今日は勿論驚嘆はしない。が、ちょいと珍しかったから、「君、水牛がいるぜ。」と云おうとしたが、まあ泰然と黙っている事にした。村田君もきっとあの瞬間は、私も中々支那通になったと、敬服していたに相違ない。
 汽車は一室八人の、小さい部屋に別れている。尤もこの車室には、我々二人の外誰もいない。室のまん中の卓子の上には、土瓶や茶碗が並べてある。其処へ時々青服の給仕が熱いタオルを持って来てくれる。乗り心地は余り悪い方じゃない。但し我々が乗っていても、この客車は正に一等である。一等と云えば何時か鎌倉から、ちょいと一等へ乗った所が、勿体なくも或宮様と、たった二人ぎりになったのには、恐懼の到りに堪えなかったっけ。しかもあのとき持っていたのは、白切符だったか赤切符だったか、其の辺も実は確かじゃない。・・・

2012年10月16日 (火)

照葉峡(てりはきょう)

 関越自動車道の沼田インターを下りて東に向かえば、日光へ到る。その手前を左に折れて北上すれば尾瀬に到る。

その尾瀬に到る少し手前、尾瀬戸倉温泉を左に(西に向かう)折れると谷川岳、水上方面に峠を越える道がある。此処が照葉峡だ。宿で、今紅葉が見頃にはいったようだ、と云う話を聞いたので行って見た。駐車する場所が少なく、本当に好い所で写真が撮れなかったのは残念であった。そして撮った写真も腕が未熟で今ひとつの物ばかりになったのも残念であった。その写真の一部をご笑覧ください。

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秋の青空とさわやかな空気を堪能した。


続・老神温泉

Dsc_0006老神温泉・見晴荘。

Dsc_0007近所の猫。

Dsc_0008温泉宿定番の場所。夜七時開演。昼間見ると如何にもみすぼらしい。夜はどうなのだろう。

Dsc_0011大楊橋(おおようばし)から片品川を見下ろす。上方は片品渓谷。

Dsc_0021食事中の猫。声をかけても目を合わせない。さも外に興味があるそぶりをする。

Dsc_0023玄関の看板には置屋寮、とあった。おねえさん達が寝泊まりしている所らしい。昨夜も遅かっただろうから、まだ朝寝の最中だろう。お顔を拝見する事は出来なかった。

宿泊している見晴荘は、食事が多い。人より沢山食べる私でも食べきれない。だから母は半分近く残した。残りを食え、と云うのだが、さすがに無理だ。宿の人に、少なめにして貰うようにお願いした。

 昨日、老母と二人で群馬県の老神温泉にはいった。事前に足もとのおぼつかない年寄りといっしょなので配慮を願いたい、と連絡しておいたのに、急な階段を上り下りする階上の部屋になっていた。一階の部屋(一階は一部屋しかないと云う)は他の人が先に入ったから申し訳ない、と云う。まさかその人に無理矢理部屋を交換して貰う訳にはいかないので、仕方が無い。だが、幸いその人は一泊だけなので、今日からはそちらに移れることになった。

 老神温泉は片品川の両側に多くの湯宿が点在する温泉だ。沼田インターを下りると標識に日光・老神方面と標識が出ている。ぐるりと域内を走ってみたが、この温泉も廃業したと覚しき建物があちこちに見える。何時も温泉場に行くと、日本が好景気だった時代があって、今は風船がしぼんだようになっているのだなあ、と実感する。

 宿泊している宿は見晴荘と云って、五部屋しかないこじんまりした宿だ。その割に風呂は立派なのが二箇所あるのだが、貸し切りではいるのでタイミングが悪いと「貸し切り中」の札が下がっている。風呂に入りたい時は重なるので五部屋に二つなのに中々空かないような気がしてしまう。特に老母が階段を上り下りする事が難事業なので、大変だ。

 これから周辺を散策してこようと思っている。

「江南游記」・前置き

 私はつい昨日の朝、本郷台から藍染め橋へ、ぶらぶら坂を下って行った。すると二人の青年紳士が、反対にその坂を登って来た、私も男の浅間しさに、すれ違う相手が女性でないと、滅多に行人には注意しない。が、このときはどう云う訳か、まだ五六間距離のある内から、相手の風采に気をつけていた。殊にその一人が薄青い背広に、雨外套を引っかけたのには、血色のいい瓜実顔や、細い銀の柄の杖と共に、瀟洒たる趣を感じていた。二人は何か話しながら、ゆっくり足を運んでくる。--それが愈すれ違った時、私の耳は意外にも卒然曖喲(アイヨオ)と云う間投詞を捉えた。曖喲!私は心躍るのを感じた。それは何も彼等二人が、支那人だったのに驚いたのではない。この偶然耳にした曖喲と云う言葉の為に、色々な記憶がよみがえったのである。
 私は北京の紫禁城を思った。洞庭湖に浮かんだ君山を思った。南国の美人の耳を思った。雲崗や龍門の石仏を思った。京漢鉄道の南京虫を思った。廬山の避暑地、金山寺の塔、蘇小小の墓、秦淮の料理屋、胡適氏、黄鶴楼、前門牌(チェンメンはい)の煙草、梅蘭芳(メイランファン)の常娥を思った。同時に又腸胃の病のために、三月ばかり中絶していた、私の紀行の事をも思った。
 私は彼等を振り返った。彼等は勿論悠々と不相変何か話しながら、霜晴れの坂を登って行った。若かし私の耳の中には、未だに曖喲の声が残っている。彼等は何処の下宿から、何処へ出かける途中であろう?事によると彼等の一人は、「留東外史」の張全のように、戸山ヶ原の雑木林へ、女学生を連れ出す所かも知れない。そう云えばもう一人の留学生も、同じ小説の王甫察のように、馴染みの芸者位はありそうである。私はこんな彼等にとっては失礼な想像を逞しくしながら、藍染め橋の停車場へ出ると、田端の家へ帰るために、動坂行きの電車に乗った。
 処が家へ帰って見ると、大阪の社から電話が来ていた。文句は「ゲンコウヲタノミマス」である。私は度々薄田氏に、迷惑をかけるのに恐縮した。しかし正直に白状すれば、重々恐れ入りながらも、腹の具合が悪かったり、寝不足が何日も続いたり、感興がなかったりする所から、ペンを執らない事もないではない。それがこの電報を見た時は、あすにもさっそく「上海游記」の続編を書き出そうと云う気になった、曖喲!そう云う声が私の耳に、忘れない響きを残したのは、薄田氏の為にも私の為にも、意外な仕合わせになった訳である。
 私の知っている支那語の数は、やっと二十六しかない。その中の一つが偶然にも、私の耳に止まったばかりか、兎に角何かを目覚めさせた事は、大袈裟に云えば天恵である。尤も私の悪文のために悩まされる読者の身になれば、天恵より寧ろ天災かも知れない。しかし天災と考えれば、読者も諦め易そうである。かたがた曖喲の声を耳にしたのは、お互いに感謝して然るべきであろう。これが本文へ取りかかる前に、こう云う前置きを加える所以である。

2012年10月15日 (月)

内田樹・名越康文・西靖対談「辺境ラジオ」(140B)

 MBS(毎日放送)ラジオで不定期に放送している対談番組を本にしたものである。内田樹は神戸女学院大学名誉教授・武道家、名越康文は京都精華大学客員教授で精神科医、西靖は毎日放送アナウンサー。

 内田樹がサンデル教授の究極の選択についての質問をこき下ろす。人間は究極の選択を迫られる状況にならないための生き方をこそ選んで生きなければならない。究極の選択を選ばなければならない状況に到ったこと、そのことが既にその前に選択の失敗を繰り返した結果である、と云うのだ。そしてアメリカ、と云う国はそのサンデル教授の質問のような選択を常に繰り返してきた国だと言ってのける。そしてサンデル教授をもてはやすマスコミに踊らされて、究極の選択を仕切れない自分に不安を持つ必要など無い、と喝破する。

 小泉首相の郵政民営化、是か非か、原発は是か非か、と云う質問は究極の質問に似ている。是と非のあいだに無数の回答があり得る事を許さない。そんな質問には平然と、回答を留保すれば好い、と云う。アンケートにしてもそうだ。イエスかノーかで応えられない質問をするからどちらでもない、と云う回答が一番多くなってしまう。それはある意味で日本人が健全である証拠かも知れない。
 韓国や中国ならイエスかノーかが鮮明に出る事だろう。

 全体の中のたまたまほんの一部分を取り上げても左様に面白い。
 階層社会について、政権交代について、東日本大震災について、原発事故について、結婚について、祈りの力についてなど、談論風発、しかもえっ、それで好いの、と心を軽く、明るくさせてくれる言葉が連ねられている。

 とても読みやすい上に気持ちが楽になり、生きる希望が湧いてきます。出版されたばかりなので本屋に必ずあるはずです。

調停役

 香港のメディアが、「何故アメリカは日中の調停役を拒否したのか」という記事を掲載した。
 
 アメリカは尖閣問題に関して日本にも中国にもどちらかに肩入れするつもりはない、と云う態度を表明している。そして今に中国と日本の仲介をするであろうとみられたのに、それも行う意向はないという。

 このことは、アメリカは中国と日本が宥和する事を望んでいない事の表れである事は明らかである。だから今回の尖閣問題を裏でたきつけたのはアメリカかも知れない、と云うのが記事の主張である。アメリカは中国と日本の間に緊張関係がある事を望んでおり、それがアメリカの東アジア戦略であると云う。同時にアメリカの戦後処理が欺瞞的であった事を隠蔽する意図もあるとしている。

 沖縄返還の時に、尖閣も日本に返還した事についてはアメリカも事実として認めている。中国としてはそれがそもそも誤りだったと主張したいのだろう。

 それはともかくとして、アメリカは日中が宥和する事を望んでいない事は明らかで、確かに日中に緊張状態がある事を歓迎しているように見える。フィリピンの米軍基地は全廃し、韓国の駐留兵士も大幅に削減したのに、日本、特に沖縄については僅かしか縮小していない。日本からの思いやり予算、と云うのはアメリカにとっては何物にも代えがたいありがたい措置であり、また米軍兵士は世界の中のもっとも安全な沖縄や日本の基地への駐留を居心地の好い物に感じていると云う。

 その状況を維持するには日中が緊張上状態にある事が好都合なのかも知れない。存在意味が高まるからだ。

 こうなると中国が経済的に失速し、または新疆ウイグル自治区で独立運動が盛んになるなどして内政が忙しくなり、尖閣問題などに拘泥していられなくなるのを待つしか今の状態は変わらないかも知れない。これは確かに記事の言う通り、アメリカの思うつぼかも知れない。経済第二位と第三位の国が争って勢力を損ない、相対的にアメリカのポジションが上がる事になる。懸念したEUも今のところアメリカに張り合うどころではない。まことに世界は自国に都合が良い事だけを目指しているようだ。それに対して日本は?・・・。

「上海游記」・最後の一瞥

 村田君や波多君が去った後、私は巻煙草を咥えた儘、鳳陽丸の甲板へ出て見た。電燈の明るい波止場には、もう殆ど人影も見えない。その向こうの往来には、三階か四階の煉瓦建てが、ずっと夜空に聳えている。と思うと苦力(クーリー)が一人、鮮やかな影を落としながら、目の下の波止場を歩いて行った。あの苦力といっしょに行けば、何時か護照を貰いに行った日本領事館の門の前へ、自然と出てしまうのに違いない。
 私は静かな甲板を、船尾の方へ歩いて行った。此処から川下を眺めると、バンドに沿うた往来に、転々と灯りが燦めいている。蘇州河の口に渡された、昼は馬車の絶えた事のないガアドン・ブリッジは見えないかしら。その橋の袂の公園は、若葉の色こそ見えないが、あすこに群がった木立らしい。この間あすこに行った時には、白々と噴水が上がった芝生に、S.M.Cの赤半被を着た、背むしのような支那人が一人、巻煙草の殻を拾っていた。あの公園の花壇には、今でも鬱金香(チュウリップ)や黄水仙が、電燈の光に咲いているであろうか?向こうへあすこを通り抜けると、庭の広い英吉利領事館や、正金銀行が見える筈である。その横を川伝いにまっ直ぐ行けば、左へ曲がる横町に、ライシアム・シアタアも見えるであろう。あの入り口の石段の上には、コミック・オペラの画看板はあっても、もう人出入りは途絶えたかも知れない。そこへ一台の自動車が、まっ直ぐに川岸を走って来る。薔薇の花、絹、首飾りの琥珀、--それらがちらりと見えたと思うと、すぐに目の前から消えてしまう。あれはきっとカルトン・カッフェへ、舞踏に行っていたのに違いない。その跡は森とした往来に、誰か小唄を唄いながら、靴音をさせて行くものがある。Chin chin Chinaman--私は暗い黄蒲江の水に、煙草の吸いさしを抛りこむと、ゆっくりサロンへ引き返した。
 サロンにもやはり人影はない。唯氈を敷いた床に鉢物の蘭の葉が光っている。私は長椅子によりかかりながら、漫然と回想に耽り出した。--呉景濂氏に会った時、氏は大きな一分刈りの頭に、紫の膏薬を貼り付けていた。そうして其処を気にしながら、「腫物(できもの)が出来ましてね。」とこぼしていた。あの腫物は直ったかしら?--酔歩蹣跚たる四十起氏と、暗い往来を歩いていたら、丁度我々の頭の上に、真四角の小窓が一つあった。窓は雨雲の垂れた空へ、斜めに光を射上げていた。そうして其処から小鳥のように、若い支那の女が一人、目の下の我々を見下ろしている。四十起氏はそれを指さしながら、「あれです。広東ピーは。」と教えてくれた。あすこには今夜も不相変、あの女が顔を出しているかも知れない。--樹木の多い仏蘭西租界に、軽快な馬車を走らせていると、ずっと前方に支那の馬丁が、白馬に塔を引っ張って行く。その馬の一頭がどういう訳か、突然地面へころがってしまった。すると同乗の村田君が、「あれは背中が痒いんだよ。」と、私の疑念を晴らしてくれた。--そんな事を思い続けながら、私は煙草の箱を出しに、間着のポケットへ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其処に入れ忘れた、支那の戯単(シイタン・プログラム)である。と同時に戯単の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、--一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花(パレエホオ)を拾い上げていた。白蘭花はちょいと嗅いで見たが、もう匂いさえ残っていない。花びらも褐色に変わっている。「白蘭花、白蘭花」--そう云う花売りの声を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなった。この花が南国の美人の胸に、匂っているのを眺めたのも、今では夢と同様である。私は手軽な感傷癖に、堕し兼ねない危険を感じながら、素枯れた白蘭花を床へ投げた。そうして巻煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈ってくれた、メリイ・ストオプスの本を読み始めた。

*これで「上海游記」は終わりです。やはり芥川龍之介は好いですねえ。細部への目配りの繊細さは他の追随を許しません。そして最後の一瞥、今日の文章は切々として胸に響きます。

 続いて「江南游記」です。

2012年10月14日 (日)

池上彰著「大衝突」(集英社)

 副題--巨大国家群・対決の行方--

 2008年の9月に出版された本なので、アメリカの大統領はまだブッシュであり、ロシアはメドベージェフである。また、もちろん日本では、民主党は政権を獲っておらず、東日本大震災も起きていない。

 買った時に飛ばし読みだけしていた本だが、再読した。

 池上彰や長谷川慶太郎の本を数年後に読み直すと、とても面白い。その時の世界の将来についての予測と、現在とを比較する事で、起こった事と、そして起こらなかった事(こちらの方が大事な事も多い)を考えると、この先の五年後、十年後について想像する助けになる。

 彼等の情報を知りつつ、こちらは既に将来起こる事を知っているという、神の目で過去から現在を見直すという楽しみ方も出来る。

 どんな事を考えたのかは今は語らない(語るほどのものも実はなかったりして)。

 この本の大衝突とは、

1.中国 vs.アメリカ

2.EU vs.アメリカ

3.ロシア vs.アメリカ・EU

4.サウジアラビア vs.アメリカ

5.中国 vs.日本

以上をテーマに現状と将来を予測している。

 この中で特に前回見過ごしていた事(読んだけど忘れていただけかも知れない)のが、ロシアの男性の平均寿命が60歳に満たないと云う事。そしてロシアの人口が1億4000万人しかいない上に毎年100万人ずつ減っている国だと云う事であった。そして極東は特に人口の減少が大きく、移民を盛んに投入しているのだが、そのために中国人が急激に増えていると云う事だ。

 それに比べてアメリカは三億以上の人口を要し、先進国の中では人口が比較的に増加している国である。ただし、人口が増えているのは白人ではなくヒスパニックであり、それに次いで黒人だ。大統領選挙でも黒人以上にヒスパニックの票が、結果に大きな影響を及ぼすようになってきた。今までのようにユダヤの資本と論理だけでは動いていかないのだろうが、国力としてはまだまだ衰える事はなさそうだ。

 この本でも尖閣を発端とした日中そして台湾の関係悪化が想定されている。鋭い予測だった訳であるが、特に注目したのは江沢民による中国の愛国教育の弊害が、日中関係を損なう、と云う予測である。その中で、胡錦濤が江沢民の路線を修正する意味で、日本との「戦略的互恵関係」という方策を打ち出し、日中関係悪化に歯止めをかけようとしてそれが奏功しだしていたという事実がある。

 胡錦濤から習近平(江沢民派)への政権交代を間近に控え、実権を維持しようとする胡錦濤と排除しようとする江沢民派との熾烈な権力争いを読み取れず、尖閣国有化でその胡錦濤の面子をつぶした事で胡錦濤の顔に泥を塗った野田政権の罪は重いと改めて感じた。これで胡錦濤の対日政策は全て否定される事になった。そして習近平もすぐに対日融和策を打ち出す事は難しいだろう。日中関係の修復は当分の間困難だろう。

 中東でのアメリカの影響力がどんどん低下しつつある。そして最後の砦のサウジアラビアが、親米から反米に舵を取ると、一気にアメリカは窮地に追い込まれる。エネルギーについてはオイルシェールで一息つくとしても、イスラエルが窮地に追い込まれる事は間違いない。しばらくサウジアラビアには注目する必要がありそうだ。

 この本を再読したおかげで海外ニュースがさらに興味深くなった。勉強になりました。

 

帰省

 帰省するために名古屋から千葉へ向かっている。

 この歳で帰省というのも変だが、親元へ行くからそれで好いのだろう。7月に老母を連れて湯宿温泉(群馬県)に行ったが、その時に、秋になったらまた行こう、と約束していた。約束を果たしに行くのだ。

 母の希望で群馬県の老神温泉に予約を入れた。老神温泉は、其処から東へ峠を越えればすぐ奥日光である。母は親友と昔来て、とても気に入ったようである。その親友も大分前に死んでしまった。

 学生時代に、その母の親友のおばさんと母と三人で東北の温泉に泊まった事がある。混浴の温泉に三人ではいった。母は平気だったが、おばさんは妙に照れていた。

 よく考えたら、私が二十歳位だったのだから、母もおばさんもまだ四十代半ばだった。おばあさんではないから恥ずかしがっても不思議ではない訳だ。

 母とこうして遠出することが何回出来るだろうか。母は元気だが足もとがおぼつかないので観光地に行っても手を取りながら数分位しか歩けない。景色のいい所は大抵歩かないといけないから、車窓から景色を見せるのが精々となった。宿には事前に話しておくときちんと対応してくれるので助かる。

 今回は四泊五日の予定で、いつもよりは少し好い宿を手配した。母とは割り勘の約束で、宿代に少し上乗せしてくれるので、ありがたい。もうお金は使い切ったら好いのだから、精々楽しんで貰いたいと思う。

 と云う訳で、明日からのブログは旨く流せるかどうかは運次第です。

「上海游記」・徐家匯

 明の万暦年間。墻(しょう)外。処々に柳の立木あり。墻の彼方に天主堂の屋根見ゆ。その頂の黄金の十字架。落日の光に輝けり。雲水の僧一人、村の童と共に出で来る。
 雲水。徐公のお屋敷はあそこかい?
 童。あすこだよ。あすこだけれど--おじさんはあすこへ行ったって、御斎(おとき)の御馳走にはなれないぜ。殿様は坊さんが大嫌いだから。--
 雲水。よし。よし。そんな事はわかっている。
 童。わかっているのなら、行かなければ好いのに。
 雲水。(苦笑)お前は中々口が悪いな。私は掛錫を願いに行くのじゃない。天主教の坊さんと問答しにやって来たのだ。
 童。そうかい。じゃ勝手におし。御家来達に打たれても知らないから。--
 童走り去る。
 雲水。(独白)あすこに堂の屋根が見えるようだが、門は何処にあるのかしら。
 紅毛の宣教師一人、驢馬に跨がりつつ通りかかる。後ろに一人従いたり。
 宣教師驢馬を止む。
 雲水。(勇猛に)什麼(いずれ)の処より来たる?
 宣教師。(不審そうに)信者の家に行ったのです。
 雲水。黄巣過ぎて後、還って剣を収得するや否や?
 宣教師呆然たり。
 雲水。還って剣を収得するやいなや?道え。道わなければ、--
 雲水如意を揮い、将に宣教師を打たんとす。僕雲水を突き倒す。
 僕。気違いです。かまわずに御出でなさいまし。
 宣教師。可哀そうに。どうも目の色が妙だと思った。
 宣教師等去る。雲水起き上がる。
 雲水。忌々しい外道だな。如意まで折ってしまい居った。鉢は何処へ行ったかしら。
 墻内よりかすかに讃頌の声起こる。
    × × × ×
 清の雍正年間。草原。処々に柳の立木あり。その間に荒廃せる礼拝堂見ゆ。村の娘三人、いずれも籃(かご)を腕にかけつつ、蓬などを摘みつつあり。
 甲。雲雀の声がうるさい位だわね。
 乙。ええ。--あら、いやな蜥蜴だ事。
 甲。姉さんの御嫁入りはまだ?
 乙。多分来月になりそうだわ。
 丙。あら、何でしょう、これは?(土にまみれたる十字架を拾う。丙は三人中、最も年少なり。)人の形が彫ってあるわ。
 乙。どれ?ちょいと見せて頂戴。これは十字架と云うものだわ。
 丙。十字架って何の事?
 乙。天主教の人の持つものだわ。これは金じゃないかしら?
 甲。およしなさいよ。そんなものを持っていたり何かすると、又張さんのように首を斬られるわ。
 丙。じゃ元の通り捨て置きましょうか?
 甲。ねえ、その方が好くはなくって?
 乙。そうねえ。その方が間違いなさそうだわね。
 娘等去る。数時間の後、暮色次第に草原に迫る。丙、盲目の老人と共に出で来る。
 丙。この辺だったわ。お祖父さん。
 老人。じゃ、早く捜しておくれ。邪魔がはいるといけないから。
 丙。ほら、此所にあったわ、これでしょう?
新月の光。老人は十字架を手にせる儘、徐(おもむろ)に黙祷の頭を垂る。
    × × × ×
 中華民国十年。麦畑の中に花崗岩の十字架あり。柳の立木の上に、天主堂の尖塔。屹然と雲端を摩せるを見る。日本人五人、麦畑を縫いつつ出で来る。その一人は同文書院の学生なり。
 甲。あの天主堂は何時頃出来たものでしょう?
 乙。道光の末だそうですよ。(案内記を開きつつ)奥行き二百五十呎(フイイト)、幅百二十七呎、あの塔の高さは百六十九呎だそうです。
 学生。あれが墓です。あの十字架が、--
 甲。成る程、石柱や石獣が残っているのを見ると、以前はもっと立派だったのでしょうね。
 丁。そうでしょう。何しろ大臣の墓ですから。
 学生。この煉瓦の台座に、石が嵌めこんであるでしょう。これが徐氏の墓誌銘です。
 丁。明故少加贈大保礼部尚書兼文淵閣大学士徐文定公墓前十字記(みんのしょうほかぞうたいほれいぶしょうしょけんぶんえんかくだいがくしじょぶんていこうぼぜんじゅうじき)とありますね。
 甲。墓は別にあったのでしょうか?
 乙。さあ、そうかと思いますが、--
 甲。十字架にも銘がありますね。十字聖架万世瞻依(じゅうじのせいかばんせいせんいす)か。
 丙。(遠方より声をかける。)ちょいと動かずにいてくれ給え。写真を一枚とらせて貰うから。
 四人十字架の前に立つ。不自然なる数秒の沈黙。

2012年10月13日 (土)

映画「プール」2009年日本

 監督・大森美香、出演・小林聡美、加瀬亮、伽奈、もたいまさこ、シッティチャイ・コンピラ

 舞台はタイのチェンマイ。チェンマイがこんなにいい所だとは知らなかった。

 卒業旅行でタイにやってきた、さよ(伽奈)が訪ねたのはプールのあるゲストハウス。このゲストハウスには母親の京子(小林聡美)が住んでいる。しかもビー(シッティチャイ・コンピラ)という男の子の世話をしている。

 さよは自分を祖母の元に残したまま、一人でタイに暮らしている母親に複雑な気持ちを持っている。母娘のぎこちない再開を、京子を取り巻く人々が見つめている。市尾(加瀬亮)という青年と、菊子(もたいまさこ)、そしてビー達だ。

 そのさよと京子が、特にどちらかがすり寄る事もなく、ひとりでに自分の気持ちを伝え合っていく。それがチェンマイの朝の空気や、木陰のさわやかな風と共にこちらにしんみりと伝わってきて、切ない気持ちになってくる。

 全編を通して鳥の声や動物の声が常に聞こえている。草木や土、そして果物や料理の匂いが画面から伝わってくるようだ。

 小林聡美がギターの弾き語りを披露するのだが、絶品である。この映画は保存しておいて、また見てみたい。心が洗われる美しい映画だ。

予言外れる

 中国では意外な事に、莫言のノーベル賞受賞はまず無いであろうという論調が多かった。有名な評論家も十年は無理と言っていた。
 受賞したので驚いているというのが本音だろう。

 受賞したらしたで、体制派作家だという批判やら何やらで、騒がしい。もう少し素直に祝福したら好いではないか。莫言は世界に誇れる作家である事は間違いないのだから。

 莫言の莫は、なし、とか、なかれと云う意味だから、言う無かれ、と云う意味が込められている。中国の言論封殺に対する皮肉を込めている事は言うまでも無い。

 この人の本は「赤い高粱」(映画「紅いコーリャン」の原作)と「白檀の刑」を読んだ。中国の現代作家の本はそれほど読んでいないけれど、兎に角エネルギッシュで、読むにはこちらも格闘するつもりで読まないと歯が立たない。日本の作家とは粘着力が違う気がする。中国の人々が、近代と云う時代をどのように生き抜いてきたか、これを機会に中国の若者も知る事になる(多分莫言の本など読んだ事のない若者が殆どだろう)。中国人が自分たちの原点を振り返るきっかけになればこのノーベル賞にも大きな意味が加わるだろう。

 莫言は度々来日している知日派でもあり、今の反日の風潮の中でも平然と日本の好い物は好い、と云う所があるので、知識人に勇気(反日に迎合しない勇気)を与えるかも知れないと期待している。

「上海游記」・日本人

 上海紡績の小島氏のところへ、晩飯に呼ばれて行った時、氏の社宅の前の庭に、小さな桜が植わっていた。すると同行の四十起氏が、「御覧なさい。桜が咲いています。」と云った。その言い方には不思議な程、嬉しそうな調子がこもっていた。玄関に出ていた小島氏も、もし大袈裟に形容すれば、亜米利加帰りのコロンブスが、土産でも見せるような顔色だった。そのくせ桜は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけていなかった。私はこのとき両先生が、何故こんなに大喜びするのか、内心妙に思っていた。しかし上海に一月程いると、これは両氏ばかりじゃない、誰でもそうだと云う事を知った。日本人はどういう人種か、それは私の知る所じゃ無い。が、兎に角、海外に出ると、その八重たると一重たるとを問わず、桜の花さえ見る事が出来れば、忽ち幸福になる人種である。
    ×
 同文書院を見に行った時、寄宿舎の二階を歩いていると、廊下のつき当たりの窓の外に、蒼い穂麦の海が見えた。その麦畑の処々に、平凡な菜の花の群がったのが見えた。最後にそれ等のずっと向こうに、--低い屋根が続いた植えに、大きな鯉幟のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮やかに空へ翻っていた。この一本の鯉幟は、忽ち風景を変化させた。私は支那にいるのじゃない。日本にいるのだという気になった。しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に、支那の百姓が働いていた。それが何だか私には、怪しからんような気を起こさせた。私も遠い上海の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だったのである。桜の事なぞは笑えないかも知れない。
    ×
 上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だった。白い布をかけた円卓子(まるテエブル)。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウィッチと。--卓子(テエブル)を囲んだ奥さん達は、私が予想したよりも、皆温良貞淑そうだった。私はそう云う奥さん達と、小説や戯曲の話をした。すると或奥さんが、こう私に話しかけた。
「今月中央公論に御出しになった『鴉』と云う小説は、大変面白うございました。」
「いえ、あれは悪作です。」
 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思った。
    ×
 南陽丸の船長竹内氏の話に、漢口(ハンカオ)のバンド(海岸通り)を歩いていたら、篠懸の並木の下のベンチに、英吉利だか亜米利加だかの船乗りが、日本の女と坐っていた。その女は一目見ても、職業がすぐにわかるものだった。竹内氏はそれを見た時に、不快な気持ちがしたそうである。私はその話を聞いた後、北四川路を歩いていると、向こうへ来かかった自動車の中に、三人か四人の日本の芸者が、一人の西洋人を擁しながら、頻りにはしゃいでいるのを見た。が、別段竹内氏のように、不快な気持ちにはならなかった。゛、不快な気持ちになるのも、まんざら理解に苦しむ訳じゃない。いや、寧ろそう云う心理に、興味を持たずにはいられないのである。この場合は不快な気持ちだけだが、もしこれを大にすれば、愛国的義憤に違いないじゃないか?
    ×
 何でもXと云う日本人があった。Xは上海に二十年住んでいた。結婚したのも上海である。子が出来たのも上海である。金がたまったのも上海である。その為か、Xは上海に熱烈な愛着を持っていた。たまに日本から客が来ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯楽、--いずれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪しているより、一日も早く上海に来給え。--そう客を促しさえした。そのXが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあった。--「骨は如何なる事情ありとも、必ず日本に埋むべし。・・・」
 私はある日ホテルの窓に、火の付いたハヴァナを咥えながら、こんな話を想像した。Xの矛盾は笑うべきものじゃない。我々はこう云う点になると、大抵Xの仲間なのである。

2012年10月12日 (金)

映画「キャリー」1976年アメリカ映画

 監督ブライアン・デ・パルマ、出演シシー・スペイセク、ウィリアム・カット、エイミー・アーヴィング、ジョン・トラボルタ

 この映画を見るのは何回目だろう。でも久しぶりだ。このラストのショッキングな事は何回見ても変わらない。スティーヴン・キングの原作を読んでいるので、原作と映画が錯綜していて、記憶していたシーンがないのに驚くが、原作のイメージが映像的に記憶されているせいのようだ。

 狂信者の恐怖が強烈に記憶に残っている。そしてイエス・キリストの像の目が、妙に光っているのも気持ち悪い。

 この映画の脇役のエイミー・アーヴィングが、次の「フューリー」で超能力者になる。久しぶりに「フューリー」も見てみたくなった。

 「キャリー」はホラー映画と云うことになっているが、余り怖い映画ではないので、見た事のない人は是非見てみて欲しい。意外に面白い事を知るはずである。だからストーリーは書かない。

強制収用の脅し

 尖閣諸島を国に売却したもと地権者が、国に、「売却しないと強制収用する」、と脅されたので仕方なく言い値で売却したという話が伝わっているが、本当だろうか。

 東京都と売却の交渉をしていたが、国に迫られて仕方なく東京都への売却を拒否したというのだが、つじつまが合いすぎて、まさかという気もする。

 もし本当に国がこのような裏工作をして無理矢理購入したとしたら、今回の事態の責任はさらに重いと云わなければならない。

 日中が失った経済利益はとんでもない金額になるだろう。勿論異常な反応をしているのは中国なのだが、火をつけたのは日本政府だからだ。

 今回の事態が短時間に解決するとは思えない。今回面子がつぶされた、として感情的になっている胡錦濤は政権交代するが、少なくとも五年から十年は中国政府に隠然たる勢力を残す事は間違いない。と云う事はそのくらいの間は中国との関係は尖閣問題発生以前には戻らないと覚悟する必要がある。

 中国の血の気の多い向きは、日本と戦争をすべし、と云っているが、現在の事態は血が流れていないだけで、戦争をしているのとほとんど同じ位経済損失が生じている。これが下手をすると十年続くのだ。

 だが、これを無理矢理何とかしようとするのは待った方がいい。妥協しても日本としては、何も得るものがない。妥協は敗戦だと認識すべきだろう。喧嘩を売ったのだから、仕方がないのだ。今の状態がずっと続く事を前提に、どうしていくかを考える方が得策であろう。

 少なくとも喧嘩を売った当事者はすみやかに退場した方が好いだろう。その自覚はないようだが。

平和博物館

 韓国済州島には、日本の本土防衛の為の日本軍の前線基地があった。五千人とも云われる日本軍が、済州島に地下壕を掘り、立てこもっていた。昨年済州島に行った時にここを見学した。地下壕は迷路状になって狭い。平和博物館として日本軍の遺品が陳列されているが、それ以外の朝鮮戦争の武器などもあった。庭には日本軍の飛行機も置かれていた。ただ地下壕以外はそれほど見るべきものはなかった。博物館の雰囲気に反日的な所は感じられなかった。

 この平和博物館が経営難と云う事で、日本の有志が購入の話を進めていた所、韓国政府が購入するという話になったのだそうだ。「公益事業の為の土地取得並びに保証に関する法律」に従って土地建物の鑑定を行い、日本円で約1800万円と査定した。博物館側はその価値は19億円弱と主張しているので100倍以上の開きがあり、協議中なのだという。

 文化遺産としての価値はいろいろ意見がある所だろうが、韓国政府が買い上げた後には、今と大きく違って反日の為の展示館になるのではないかと心配だ。普通まともな国家なら偏向からまともなものになる所だが、韓国に限って(中国や北朝鮮もそうだが)はそれは期待出来ないような気がする。戦地で苦労した日本軍の人たちが必要以上におとしめられるかもしれないと思うと残念だ。

輿石氏

 輿石氏というのは異常な人である。「共通認識、共通理解がなければ会談(党首会談)を開く事に意味は無いでしょう。」とおっしゃっていた。共通認識、共通理解があったら会談する必要なんか無いではないか。それを得る為に会談するのではないか。云っている事がむちゃくちゃだ。

 この人は民主党の癌だ。もう民主党は全身に転移しているから今更だが、この人が源巣である事は明らかだ。

 ところで復興予算の審議会に、民主党が欠席し、あろうことか、政府にも主席しないように指示した為に流会となった。

 NHKでも取り上げられて再三指摘されている事だが、復興予算のうち2兆円以上が明らかに復興とは無関係な案件に使用されているという。これを検証する為に開かれる審議会を確信的に拒否すると云う事は、どういういいわけをしようと、役人の復興予算の横流しに荷担した事を認めるものだろう。

 そのような事を平然と行う開き直りは許される事ではなく、しかもそれに対しておかしい、と批判して訂正させる動きが民主党内に殆ど無い事も異常である。癌の転移は末期的だ。

 民主党議員は、もう自分の党は死に体だと開き直り、次があり得ないのなら、一秒でも長く現状にしがみつこうという醜い姿をさらしている。それを代表して象徴しているのが輿石幹事長という訳だ。もともと日教組上がりと云うだけでも腹が立つのに・・・。

「上海游記」・李人傑氏

「村田君と共に李人傑氏を訪う。李氏は年未だ二十八歳、信条よりすれば社会主義者。上海に於ける『若き支那』を代表すべき一人なり。途上電車の窓より、青々たる街路の樹、既に夏を迎えたるを見る。天陰、稀に日色あり。風吹けども塵を揚げず。」
 これは李氏を訪ねた後、書き留めておいた手控えである。今手帳をあけてみると、走り書きにした鉛筆の字が、消えかかったのも少なくない。文章は勿論蕪雑である。が、当時の心持ちは、或いはその蕪雑な所に、反ってはっきり出ているかも知れない。
「僮あり、直(ただち)に予等を引いて応接室に到る。長方形の卓一、洋風の椅子二三、卓上に盤あり。陶製の果物を盛る。この梨、この葡萄、この林檎、--この拙き自然の模倣以外に、一も目を慰むべき装飾なし。然れども室に塵埃を見ず。簡素の気に満てるは愉快なり。」
「数分の後、李人傑氏来る。氏は小づくりの青年なり。やや長き髪。細面。血色は余り宜しからず。才気ある眼。小さき手。態度は頗る真摯なり。その真摯は同時に又、鋭敏なる神経を想察せしむ。刹那の印象は悪しからず。恰も細且つ強靱なる時計の弾機(ぜんまい)に触れしが如し。卓を隔てて予と相対す。氏は鼠色の大掛児(タアクワル)を着たり。」
 李氏は東京の大学にいたから、日本語は流暢を極めている。殊に面倒な理窟なども、はっきり相手に会得させる事は、私の日本語より上かも知れない。それから手控えには書いていないが、我々の通った応接室は、二階の梯子が部屋の隅へ、じかに根を下ろした構造だった。その為に梯子を下って来ると、まずお客には足が見える。李人傑氏の姿にしても、まっさきに見たのは支那靴だった。私はまだ李氏以外に、如何なる天下の名士と雖も、足から先に相見した事はない。
「李氏云う。現代の支那を如何にすべきか?この問題を解決するものは、共和にあらず復辟にあらず。這般の政治革命が、支那の改造に無力なるは、過去既に之を証し、現在亦之を証す。しからば吾人の努力すべきは、社会革命の一途あるのみと。こは文化運動を宣伝する『若き支那』の思想家が、いずれも呼号する主張なり。李氏又云う。社会革命をもたらさんとせば、プロパガンダに依らざるべからず。この故に吾人は著述するなり。且つ覚醒せる支那の人士は、新しき智識に冷淡ならず。否、智識に飢えつつあり。然れどもこの飢えを充たすべき書籍雑誌に乏しきを如何。予は君に断言す。刻下の急務は著述にありと。或いは李氏の言の如くならん。現代の支那には民意なし。民意なくんば革命生ぜず。況やその成功をや。李氏又云う。種子は手にあり。唯万里の荒蕪、或いは力の及ばざらんを惧る。吾人の肉体、この労に堪うるや否や、憂いなきを得ざる所以なりと。言い畢って眉を顰む。予は李氏に同情したり。李氏又云う。近時注目すべきものは、支那銀行団の勢力なり。その背後の勢力は問わず。」北京政府が支那銀行団に、左右せられんとする傾向あるは、打ち消しがたき事実なるべし。こは必ずしも悲しむべきにあらず。何となれば吾人の敵は、--吾人の砲火を集中すべき的は、一銀行団に定まればなりと。予云う。予は支那の芸術に失望したり。予が眼に入れる小説絵画、共に未だ談ずるに足らず。然れども支那の現状を見れば、この土(ど)に芸術の興隆を期する、期するの寧ろ誤れるに似たり。君に問う、プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕ありやと。李氏云う。無きに近しと。」
 私の手控えはこれだけである。が、李氏の話しぶりは、如何にもきびきびしたものだった。いっしょに行った村田君が、「あの男は頭が好かもんなあ。」と感嘆したのも不思議じゃない。のみならず李氏は留学中、一二私の小説を読んだとか何とか云う事だった。之も確かに李氏に対する好意を増したのに相違ない。私のような君子人でも、小説家などと云うものは、この位虚栄を求める心が、旺盛に出来上がっているものである。

2012年10月11日 (木)

長良川に沿って

 ドライブがしたくなって、出かけることにした。長良川沿いに走り、写真を撮って日帰り温泉に行こう。

まず美濃の先、洲原神社に寄る。ここのたたずまいが大好き。今日は長良川の色が緑色をしている。いつもはもう少し蒼く美しい。どうしてこんなに色が変化するのだろう、不思議だ。

Dsc_0001洲原神社入り口。右手は長良川。

Dsc_0003神様の渡る太鼓橋。

Dsc_0007皮へ下りる土手に曼珠沙華が咲いていた。

郡上八幡、郡上白鳥を過ぎると、白山長滝神社がある。ここも好きな所だ。

Dsc_0044白山長滝神社の本殿前の大きな絵馬堂(?)。天井が高い。この天井からぶら下がった花を奪い合う祭りは全国的に有名。絶対に人間は届かないので人垣を作り、人が人の上によじ登って奪い合う。

Dsc_0045これが白山長滝神社の本殿。普段は扉は閉じている。

白山長滝神社からしばらく走り、左手の白鳥高原方面に曲がる。峠を登っていくと日本百名滝の一つ、阿弥陀ヶ滝がある。

Dsc_0072阿弥陀ヶ滝。秋のせいか、水量が少ない。春だともっと見事である。

Dsc_0088滝をぐるっと回ってくだってきた所。橋の右手に流しそうめんをやっている茶店がある。

阿弥陀ヶ滝は一回りしても20分、滝のすぐ後ろ近くまでいける。但ししぶきに濡れる。規模のわりに行きやすい滝だ。

このあと湯ノ平温泉に行ったのだが木曜日は休みだった。そこで再び白鳥高原に登り直し、満天の湯、と云う日帰り温泉に行った。

Dsc_0090サウナもないのに800円というのは高いが、アルカリ性の泉質はすばらしい。露天風呂からの景色もいい。温めの湯に浸かり、のぼせたら秋風に体をさらす。極楽であった。濃い牛乳を飲んで、帰路に就いた。

雑事

 一人暮らしをしていると、つくづく日常は雑事で出来ていると思う。

 毎日数十の雑事が待っている。処理しきれないでやり残すものが残ることが多く、抛っておくとひとりでに解決するものもあるが、後でまとめてやることになって苦労するものもある。

 人生も雑事の連続であり、社会も雑事でなり立っているようである。社会の雑事は皆で手分けしてかたづけなければならないものなのだが、こちらがサボっているのに片付いている所を見ると、誰かが黙って引き受けて片付けてくれているようである。ありがたいことである。

 度々云うし、また云うと思うが、大好きな言葉で、真理だと思うものに、「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを捨てる人はゴミを拾わない」というのがある。ゴミを拾う人は他人のゴミを黙って拾っている。

 生活の雑事は多分、万を超えているのだと思う。それに日々やり残したものが加わっている。今、その万を超えるものに手をつけようと内心固く決心した。日々の雑事はやり残すだろう。しかしやり残すものよりも片付けるものが多ければ何時か身軽になる。目に見えてたまっているものが減っていることを実感してみたいと切実に思うようになった。

 お迎えが近いのかも知れない。

内田樹・高橋源一郎対談「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」(ロッキング・オン)

 前作「沈む日本を愛せますか」の続編である。2010年10月から2011年3月11日の大震災後までの政治状況を中心としたテーマの対談である。「沈む」というのはもちろん右肩下がりの日本の経済状況のことである。

 まえがきでこの本の編集者であり、インタヴュアーでもあった渋谷陽一が語っているように、前作も今回のこの本も、読んだ人にとって納得しにくいもの、苦くて喉越しの悪いものである。それは世情の言説がことごとく喉越しがよく、口当たりの良いものだからである。それだけ、二人の視点は今一般に流通しているものとは違う。どちらが正しいという話ではない。もしこのようなものを否定してしまうようでは日本の言論も中国と同じ金太郎飴だ。

 私も日本の右肩下がりは不景気のせいだとは考えていない。そして景気浮揚策などで画期的に改善する、と云う話はあまり信じていない。今の右肩下がりの状況に、どのように日本人は収まりのいい生き方を見つけるのか、と問われているのだという二人の指摘に賛同する。

 二人が言っていることで、特にその通りだと思ったことは、震災の後、何故日本の政治家は期間限定の共同の対策行動がとれなかったのか、と云うことだ。復興対策の為の法律や予算について迅速に決定することでどれほど被災地の人たちに寄与したかわからない。それが出来なかったことが、国民の失望を招き、復興の犯罪的な遅れをもたらした。

 この本ではあまり深く追求していないが、菅直人という人の責任はとても重い。

 橋下徹氏についても鋭い批評をしている。おおむね私も同意見だ。民主党で懲りていなければ、日本維新の会は今頃凄い勢力になっていたかも知れない。そうでないことは日本にとって仕合わせだったかも知れない。次の選挙で浮動票をどれだけ獲得するだろうか。期待外れのような気がする。

 少子化については前作で取り上げられていて、この本には触れられていないが、右肩下がりの大きな要因でもあるので補足する。結婚した女性が子供を産もうと思わないので出生率が落ちている、と云うのはどうも違うようである。結婚した女性だけに限ればそれほど出生率は落ちているわけではない。結婚しない、または出来ない女性が増えているから出生率が落ちているのだ。だからいまの少子化対策はポイントがずれていると思う。

 右肩下がりを受け入れる共通認識を日本で確立していくこと、そのためには団塊の世代より上の人間が退場する必要があるのかも知れない。今の若者は案外すんなりと、当たり前に受け入れるかも知れない。なぜなら彼等は物心ついた時から右肩下がりだからだ。

 人間はいったん豊かになったら生活レベルを下げることは出来ない、と真理のように云われている。そんな事はない。そんな思い込みこそが右肩下がりを不幸としか捕らえられない脆弱な心を生む。今までが過剰に豊かだったのである。収入が減ったらそれに合わせて生活すればいいだけのことだ。

 人は右肩上がりの時には格差に寛容だ。今に自分もさらに上昇するという期待があるからだ。しかし右肩下がりになると、格差に敏感になり、犯人捜しを始める。マスコミはそれに迎合する。皆が被害者として社会を糾弾する。今の中国を見たらよく分かるではないか。右肩上がりにブレーキがかかりそうになったとたん、社会の不満が噴出し、それを逸らす為に異常な日本たたきを始めた。

 日本人はもっと賢いはずだ。右肩下がりの日本を受け入れて、それでも日本を愛そうではないか。

「上海游記」・南国の美人(下)

 「どうです、林黛玉は?」
 彼女が席を去った後、余氏は私にこう尋ねた。
 「女傑ですね。第一若いのに驚きました。」
 「あの人は何でも若い時分に真珠の粉末を呑んでいたそうです。真珠は不老の薬ですからね。あの人は鴉片を呑まないと、もっと若くも見える人ですよ。」
 その時はもう林黛玉の跡に、新たに来た芸者が坐っていた。これは色の白い、小造りな、御嬢様じみた美人である。宝尽くしの模様を織った、薄紫の緞子の衣装(イイシャン)に、水晶の耳環を下げているのも、一層この妓の品の好さを助けているのに違いない。早速名前を尋ねて見たら、花宝玉(ホアポオイユ)と云う返事があった。花宝玉、--この美人がこの名を発音するのは宛然たる鳩の啼き声である。私は巻煙草をとってやりながら、「布穀催春種(ふこくしゅんしゅをうながす)」と云う杜少陵の史を思い出した。
「芥川さん」
 余洵氏は老酒(ラオチュ)を勧めながら、言い難そうに私の名を呼んだ。
「どうです、支那の女は?好きですか?」
「何処の女も好きですが、--支那の女も綺麗ですね。」
「何処が好いと思いますか?」
「そうですね。一番美しいのは耳かと思います。」
 実際私は支那人の耳に、少なからず敬意を払っていた。日本の女は其処に来ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳は平らすぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のようなのも少なくない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目になったのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗った鬢の後ろに、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来たばかりか、御丁寧にも宝石を嵌めた耳環なぞさえぶら下げている。そのために日本の女の耳は、今日のように堕落したが、支那のは自然と手入れの届いた、美しい耳になったらしい。現にこの花宝玉を見ても、丁度小さい貝殻のような、世にも愛すべき耳をしている。西廂記
(せいそうき)のなかの鶯鶯(おうおう)が、「他釵軃玉斜横(ほかのさはかくれてぎょくななめによこたわり)。髻偏雲乱挽(もとどりかたよりてくもみだれひく)。日高猶自不明眸(ひたこうしてなおおのずからめいぼうならず)。暢好是懶懶(ちょうこうこれらんらん)。半晌擡身(はんしょうみをもたげ)。幾回搔耳(いくかいみみをかき)。一声長嘆(いっせいちょうたんす)。」と云うのも、きっとこういう耳だったのに相違ない。笠翁(りゅうおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集巻之三、声容部)未だ嘗てこの耳には、一言も述べる所がなかった。この点では偉大な十種曲の作者も、当に芥川龍之介に、発見の功を譲るべきである。
 耳の説を弁じた後、私は他の三君と一しょに、砂糖の入った粥を食った。其れから妓館を見物しに、賑やかな三馬路の往来へ出た。
 妓館は大抵横へ切れた、石畳の露路の両側にある。余氏は我々を案内しながら、軒燈の名前を読んで行ったが、やがて或家の前へ来ると、さっさと中へはいって行った。はいった所には不景気な土間に、身なりの悪そうな支那人どもが、飯を食ったり何かしている。是が芸者のいる家とは、前以て聞いていない限り、誰でも嘘としか思われまい。しかしすぐに階段を上がると、小ぢんまりした支那のサロンに、明るい電燈が輝いている。紫檀の椅子を並べたり、大きな鏡を立てたりした所は、さすがに一流の妓館らしい。青い紙を貼った壁にも、硝子を入れた南画の額が、何枚もずらりと懸かっている。
「支那の芸者の檀那になるのも、容易なことじゃありませんね。何しろこんな家具類さえ、みんな買ってやるのですから。」
 余氏は我々と茶を飲みながら、いろいろ嫖界(ひょうかい)の説明をした。
「まあ今夜来た芸者なぞだと、どうしても檀那になるまでに、五百円位は要るでしょう。」
 その間にさっきの花宝玉が、支那の芸者は座敷へ出ても、五分ばかりすると帰ってしまう。小有天にいた花宝玉が、もう此処にいるのも不思議はない。のみならず支那では檀那なるものが、--後は井上紅梅氏著「支那風俗巻之上、花柳語彙」を参照するが好い。
 我々は二三人の芸者と一しょに、西瓜の種を撮んだり、御先煙草をふかしたりしながら、少時(しばらく)の間無駄話をした。尤も無駄話をしたと云っても、私は啞に変わりはない。波多君が私を指さしながら、悪戯そうな子供の芸者に、「あれは東洋人(トンヤンレン)じゃないぜ。広東人だぜ。」とか何とか云う。芸者が村田君に、本当かと云う。村田君も、「そうだ。そうだ。」と云う。そんな話を聞きながら、私は独り漫然とくだらない事を考えていた。--日本にトコトンヤレナと云う唄がある。あのトンヤレナは事によると、東洋人(トンヤンレン)の変化かも知れない。・・・・
 二十分の後、やや退屈を覚えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そっと次の間を覗いてみた。すると其処の電灯の下には、あの優しい花宝玉が、でっぷり肥った阿姨(アイ)と一しょに、晩餐の食卓を囲んでいた。食卓には皿が二枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花宝玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使っているらしい。私は思わず微笑した。小有天に来ていた花宝玉は、成る程南洋の美人かも知れない。しかしこの花宝玉は、--菜根を噛んでいる花宝玉は、蕩児の玩弄に任すべき美人以上の何者かである。私はこのとき支那の女に、始めて女らしい親しみを感じた。

2012年10月10日 (水)

ゴキブリの大食いで死亡

 アメリカ・フロリダ州で、ゴキブリ大食い大会が開催され、優賞した男性が、しばらくしてから気分が悪いと云って突然倒れ、病院に運ばれたが死亡した。現在死亡原因を調査中だそうだ。男性はゴキブリ数十匹とその他の虫を食べたのだという。

 ゴキブリを生で食べたのだろうか。中国や東南アジアでもゴキブリを食べるが、それは食用に養殖されたもので餌も衛生的なものを与えている。普通生では食べず、炒めたり揚げたりする。

 もし生で、しかもその辺で捕まえたゴキブリを食べたらそれはちょっとやばいだろう。それとも他に食べた虫に毒のあるものでもあったのだろうか。

 ところでこの男性は優賞の快感を十分味わっただろうか。死に価するほど。

川畑信也著「知っておきたい認知症の基本」(集英社新書)

 物覚えはもともと悪かったので、もうこの歳で改めて悩むことはないのだが、物忘れがひどくなってきたという実感は日を追う程に強くなっている。そういうわけでこの本を読んで自分が認知症であるのか、知りたいと思った。

 認知症には病識がないのだという。と云うことは、自分が認知症かも知れない、と考える人は認知症ではない、と云うことで、私は認知症ではないようだ。でも自分では認知出来ないわけだし、確実にそうではないという保証はない。

 物忘れは加齢と共にだんだんひどくなるものらしい。但し、ヒントを与えたりして思い出すことが出来ればまだ認知症ではない。但し、加齢による物忘れは極めてゆっくりと進行するのが特徴だそうだ。

 えーっ、最近急にひどくなってるけど大丈夫だろうか?

 認知症になったら早めに診療を受けると進行を遅らせることが出来る。それに効く薬が一種類認可されているが、それ一つしかないそうだ。そして残念ながら認知症を改善する薬というのは今のところない。

 認知症は介護の状況によっても進行が著しく異なる。介護する人が認知症に正しい知識を持ち、愛情を持って接すると進行がゆっくりになることが多く、まわりが認知症になっていることに気が付かず、放置して進行してしまった場合は、慌てて薬を処方しても殆ど効果がないのだそうだ。

 心配していたように、糖尿病や高血圧の既往症のある人は認知症になる率が、そうでない人より何倍も高い。いまさらなかったことには出来ないから、これから気をつけるしかない。

 それと、これは大抵のひとが今はわかっていると思うが、アルツハイマー病というのは、認知症の原因の一つであって同じものではない。他にもいくつが原因があり、それはこの本に列記されている。

 私も今となっては認知症の介護をする側と云うより、自分が介護される側になる可能性を考えた将来を見据えなければならない。

 考えると恐ろしいことだが、認知症になると、自分が認知症であることがわからなくなるそうなので、いっそ気楽に考えた方がいいか、と開き直ろうか。

孔雀の羽

 中国の北京野生動物園には、訓練でいつでも羽を広げられる孔雀がいる。普通、孔雀を見に行ってもなかなか見事に羽を広げているのを見ることができないで、ずいぶん長いこと待ってやっと見ることができたりする。この動物園ではこの孔雀を大々的に宣伝し、有料での記念撮影サービスを行っている。

 ところがめざとい観客が羽の開き方が不自然だと気が付き、新聞社に通報があった。新聞社が早速取材に訪れると、動物園は、電動で開く偽物の羽を装着していることを認めた。但し、装置は体に突き刺してあるわけではなく、虐待はしていない、と弁明したそうだ。今後は訓練の成果、と云う宣伝は行わないという。

 サービス精神から始めたことだろう。しかし動物園の存在意味を勘違いしていないだろうか。とはいえちょっと笑わせてくれる。

ダウンロードを刑罰化

 改正著作権法が制定(日本)された。目に余る現状に対して、一部不都合は生ずるものの、当然と見る向きも多い。特定が難しくて取り締まりが困難な事であるが、刑罰化されたことにより、自粛する人が多くなることは間違いないだろう。

 意外というか、成る程というか、このことが中国で話題になっている。中国で違法流通しているアニメコンテンツなどは、商売でやっているものは別にして、日本で違法にアップロードされているものをダウンロードしたものが多い。これが自動的に規制されることになるからだ。

 さらに中国でもこのような規制を導入し、正規の流通を目指そうとする動きがある。ただ、中国のオタク系のブログでは、違法である現状が前提となった立場から、このような規制にどう反撃するか、と云う文言が飛び交っているという。海賊版が公然と販売されている国だ。そもそも彼等は違法という意味を知らない。そして理由があれば違法は正しいという教育を受けているから、是正は難しいだろう。

発禁

 中国当局は現在日本人作家や日本関連の書籍の出版を禁止している。

 これに対して台湾の作家が批判する文章を発表した。台湾でも、第二次世界大戦の後、国民党軍が中国本土の作家の本の出版や販売を禁止したが、カバーだけ別の本にして当局の検査をすりぬけて販売するなどして普通に手に入れることが出来た。1972年に日本と国交断絶した後も、日本の本を手に入れることは可能だった。
 どんな理由でと本棚から本を消すなどと云う行為は、相手に何の痛痒が無いだけではなく、社会に対する窓口を閉じることにつながり、自らを傷つける行為である、としている。

 思い出すのは戦時中、鬼畜米英を叫び、日本で英語を敵性語を禁止したことである。このような施策が如何に愚かしく無意味であるのか、日本人なら知らないものはない。

 「敵を知り、おのれを知らば、百戦危うからず」、の孫子の国とは思えない愚かな施策である。これは日本のものなら全て排斥する、と云う声の大きい一部の人々への迎合でもあるし、日本の正しい姿を知られると都合の悪い中国政府の意向でもある。つまり中国国民は愚民である、と判断しての中国政府の施策である。

 国家は、このような時に沈黙しているが、正しいことを正しく認識し、現状を憂え、まじめに働いている人々こそ大事にしなければならない。右を向け、と云われれば右を向くような人々を足場にした政府など何時かは自壊する。国民を愚民と愚弄する国家こそ愚かである。

 ならば今の日本国民は?そして自分は如何。

「上海游記」・南国の美人(中)

 私は大いに敬服したから、長い象牙箸を使う間も、つらつらこの美人を眺めていた。しかし料理がそれからそれへと、食卓の上へ運ばれるように、美人も続々とはいって来る。とうてい一愛春ばかりに、感嘆しているべき場合じゃない。私はその次にはいって来た、時鴻と云う芸者を眺めだした。
 この時鴻という芸者は、愛春より美人じゃない。が、全体に調子の強い、何処か田園の匂いを帯びた、特色のある顔をしている。髪を御下げに括った紐が、これは桃色をしている外に、全然愛春と変わりはない。着物には濃い紫緞子に銀と藍と織りまぜた、五部程の縁(へり)がついている。余君穀民の説明によると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追わず、古風を存しているのだと云う。そう云えば紅や白粉も、素顔自慢の愛春よりも、遥かに濃艶を極めている。私はその腕時計だの、(左の胸の)金剛石の蝶だの、大粒の真珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた宝石入りの指輪だのを見ながら、いくら新橋の芸者でも、これ程燦然と着飾ったのは、一人もあるまいと感心した。
 時鴻の次にはいって来たのは、--そう一々書き立てていては、如何に私でもくたびれるから、後は唯その中の二人だけをちょいと紹介しよう。その一人の洛娥と云うのは、貴州の省長王文華と結婚するばかりになっていた所、王が暗殺された為に、今でも芸者をしていると云う、甚だ薄命な美人だった。これは黒い紋緞子に、匂いの好い白蘭花を挿んだきり、全然何も着飾っていない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを与えた。もう一人はまだ十二三のおとなしそうな少女である。金の腕環や真珠の首飾りも、この芸者がしているのを見ると、玩具のようにしか思われない。しかも何とかからかわれると、世間一般の処子のように、恥ずかしそうな表情を見せる。それがまた不思議な事には、日本人だと失笑に堪えない、天竺という名の主人公だった。
 これらの美人は順々に、局票へ書いた客の名通り、我々の間に席を占める。が、私が呼んだ筈の、嬌名一代を圧した林黛玉は、容易に姿を現さない。その内に秦楼と云う芸者が、のみかけた紙巻きを持ったなり、西皮調の汾河湾とか云う、宛転たる唄をうたい出した。芸者が唄をうたう時には、胡弓に合わせるのが普通らしい。胡弓弾きの男はどう云う訳か、大抵胡弓を弾きながらも、殺風景を極めた鳥打ち帽や中折れ帽をかぶっている。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮を張ったのが多かった。秦楼が一曲うたいやむと、今度は時鴻の番である。これは胡弓を使わずに自ら琵琶を弾じながら、何だか寂しい唄をうたった。江西と云えば彼女の産地は、潯陽江上(じんようこうじょう)の平野である。中学生じみた感慨に耽れば、楓葉荻花瑟瑟の秋に、江州の司馬白楽天が、青袗(せいさん)を沾(うるお)した琵琶の曲は、斯くの如きものがあったかも知れない。時鴻がすむと萍郷(ひょうきょう)がうたう。萍郷がすむと、--村田君が突然立ち上がりながら「八月十五日、月光明」と、西皮調の武家坡(ぶかは)の唄をうたい始めたのには一驚した。尤もこの位器用でなければ、君程複雑な支那生活の表裏に通暁する事は出来ないかも知れない。
 林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶の鰭の湯(タン)が、荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、余程少婦の型(タイプ)に近い、まるまると肥った女である。顔も今では格段に、美しい器量とは思われない。頬紅や黛を粧っていても、往年の麗色を思わせるのは、細い眼の中に漂った、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齢を思うと、--これが行年五十八歳とは、どう考えても嘘のような気がする。まず一見した所は、精々四十としか思われない。殊に手なぞは子供のように、指の付け根の関節が、ふっくらした甲にくぼんでいる。なりは銀の縁をとった、蘭花の黒緞子の衣装(イイシャン)に同じ鞘形の褲子(クウズ)だった。それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌(メダル)にも、べた一面に金銀の台へ、翡翠と金剛石とを嵌めこんでいる。中でも指環の金剛石なぞは、雀の卵程の大きさがあった。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢が入り交じった、例えば「天鵞絨(びろうど)の夢」のような、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。
 しかしいくら年はとっても、林黛玉は畢に林黛玉である。彼女が如何に才気があるか、それは彼女の話し振りでも、すぐに想像が出来そうだった。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛と似合わせながら、秦腔の唄をうたいだした時には、その声と共に迸る力も、確かに群妓を圧していた。

2012年10月 9日 (火)

使えるけれど要らないもの

 本の一部を処分した。まだ半分も済んでいない。押し入れやタンスの上の段ボールをあけてみると、使えるけれど、多分死ぬまで使わないと思われるものがぞろぞろ出てきた。何年も使うことも捜すこともなかったのだから、つまり私には不要のものだ。バッグだけでも十いくつも出てきた。使いそうなもの、大事なものだけ残して捨てる。

 そうやって手をつけだしたら収拾がつかなくなった。でも何時かやらなければならなかったことだ。自分自身のスリムアップの為に二三日がんばってみよう。でも、今日のぶんはもう十分やったので、おしまい。
 中には、あるはずなのに見当たらないものもある。全部ひっくり返さないと出てこないかも知れない。

 明日の為に、さあ、ちょっと飲もう。その前に手を洗ってから買い出しだ。

 ところで今晩は「つるかめ助産院」がある。来週が最終回だ。このドラマ、とても良い。仲里依紗ってこんなにかわいい女優とは知らなかった。やはり女性はかわいくないとね。

CM

 民放の番組を見ていれば、CMを見るのを避けることは出来ない。番組の前後が何秒か重なるのが人を馬鹿にして腹が立つが、気にしない人もいるのだろう。たかが二分足らずで番組の尻尾を忘れる程こちらはボケていないつもりだ。それほど視聴者を馬鹿にしているのか、と腹が立つのだが、考えすぎでただの時間稼ぎなのかも知れない。テレビ局もそこまで優しいわけではなさそうだ。

 ここからは個人的な好みなので、あまり目くじらは立てないで欲しい(その代わり酷評するのは我慢する)。ちょっと思いついたもので云う。
 嫌いなコマーシャル、パチンコ屋のコマーシャル全て。パチンコ屋に特に他の人と比べて偏見を持っているわけではない。コマーシャルにろくなのがないからだ。特に店員が一生懸命な姿を見せたりするのは、何を訴えたいのか理解に苦しむ。ついでにKん田うのが嫌い。
 鬘や育毛のコマーシャルも嫌い。全て鼻濁音で喋る社長が出るコマーシャルは特に嫌い。
 Aラシが嫌いだから彼等の誰かが出ているコマーシャルは全て嫌い。多分私のひがみだけれど、彼等は時々人を小馬鹿にしているように見える。
  Z印の電気釜のM井かおりのコマーシャルが嫌い。この人、二十代に通用した甘ったれた口調を六十過ぎまで続けて、醜いと誰かに云って貰わないと気が付かないのか。あれは可愛さとは全然別の寒気を催すものだ(オッといけない、つい自制を失った)。
 
 番組を視聴するのに邪魔だからCMはたいてい嫌いだが、許せるものもある。剛力彩芽や多部未華子、新垣結衣が出ていると、つまらない番組よりもいい。幾つになってもかわいい娘を見るのは好いものだ。
 いっそのこと全てCMは彼女たちがやったらいい。そうしたらもう少し民放の番組を見るようになるかも知れない。

お上りさん

 フランスのハイファッションブランドの会社がパリにオープンさせるホテルを「中国人観光客はお断りにする」と発表して話題になった。これには内外から批判が出て、オーナーが平謝りし、お客は選ばない、と訂正された。お金が欲しいヨーロッパは中国人観光客の落とす金が無視出来ないと云うことだ。

 この報道に対して中国のブログで、中国人観光客のヨーロッパでの容子を伝え、金があっても中国人は見下されている、そして見下されていても仕方がない面もある、と云う文章が掲載された。

 芸術的な価値の高い彫刻像によじ登って記念写真を撮る。高級レストランで高いワインを注文し、辺り構わず大声で乾杯を繰り返す。ホテルの朝のバイキングで静かに食事をしている人がいる所に、中国人の集団が来ると忽ち喧噪の世界に一変、朝の静寂が破られる。そしてバイキングの食べ物をこっそりと持ち帰る。

 このような光景がそこら中で見られると、同じ中国人としてとても恥ずかしい、と云う。あるホテルでは中国人専用コーナーを設けている所もあった。このような姿を見れば、外国人が中国人を見下すのは当然であり、同じ中国人でも彼等を見下してしまうこともある、と結んでいる。

 日本でも中国人観光客が集団で居る時には当たり前に見る光景で、今年の秋は中国人が少なければ京都あたりも静かでいいかもしれない。
  これは中国国内でも同様で、心ある中国人はお上りさんの集団の傍若無人ぶりに眉をひそめている。

 昔、日本人も「ノーキョーサン」が海外のホテルの廊下をステテコ姿で闊歩して顰蹙を買っていたのを恥ずかしく思ったのと同じだ。これでは目くそ鼻くそを笑う、みたいだが、でも日本人は中国人と違ってたいていの人(そうでない人も若干・・・いやそれ以上いることが情けないが)には「恥を知る」という文化がある。だから今はだいぶましになった。

 中国人もましになるだろうか。中国人のお上りさんは国家が指導、扇動しないと良くならないだろうが、それでも無理かも知れない。何しろ少し位ましになった人が増えても、後から後から無尽蔵に田舎から出てくるのだから。これが中国のパワーの源なのだが指導するのも大変だ。

「上海游記」・南国の美人(上)

 上海では美人を大勢見た。見たのは如何なる因縁か、何時も小有天と云う酒楼だった。此処は近年物故した清道人李瑞清が、贔屓にしていた家だそうである。「道々非常道、天天小有天(みちのみちつねのみちにあらず、てんのてんしょうゆうてん)」--そう云う洒落さえあると云う事だから、その贔屓も一方ならず、御念が入っているのに違いない。尤もこの有名な文人は、一度に蟹を七十匹、ぺろりと平らげてしまう位、非凡な胃袋を持っていたそうである。
 一体上海の料理屋は、あまり居心の好いものじゃない。部屋毎の境は小有天でも無風流を極めた板壁である。その上卓子(テエブル)に並ぶ器物は、綺麗事が看板の一品香(イイピンシャン)でも、日本の洋食屋と選ぶ所はない。その外雅叙園でも、杏花楼でも、乃至興華川菜館でも、味覚以外の感覚は、まあ満足させられるよりも、ショックを受けるような処ばかりである。事に一度波多君が、雅叙園を御馳走してくれた時には、給仕に便所は何処だと訊いたら、料理場の流しへしろと云う。実際また其処には私より先に、油じみた包丁(コック)が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少なからず辟易した。
 その代わり料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顔をすれば、私の行った上海の御茶屋は、例えば瑞記とか厚徳福とか云う、北京の御茶屋より劣っている。が、それにも関わらず、東京の支那料理に比べれば、小有天なぞでも確かに旨い。しかも値段の安い事は、ざっと日本の五分の一である。
 だいぶ話が横道に外れたが、私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長余洵氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云った通り、小有天の楼上にいた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は事に賑やかな三馬路の往来に面しているから、欄干の外の車馬の響きは、殆ど一分も休む事はない。楼上では勿論談笑の声や、詩に合わせる胡弓の音が、しっきりなしに湧き返っている。私はそういう騒ぎの中に、玫瑰(まいかい)の茶を啜りながら、余君穀民が局票の上へ健筆を振るうのを眺めた時は、何だか御茶屋に来ていると云うより、郵便局の腰掛けの上にでも、待たされているような忙しさを感じた。
 局票は洋紙にうねうねと、「叫--速至三馬路大舞台東首小有天閩菜館--(--をしてすみやかにさんまろだいぶたいとうしゅのしょうゆうてんびんさいかんの--)座侍酒勿延(ざにいたりしゅにじせえんするなからしめん)」と赤刷りの文字をうねらせている。確か雅叙園の局票には、隅に毌忘国恥(こくちをわすれるな)と排日の気焔を挙げていたが、此処のには幸いそんな句は見えない。(局票とは大阪の逢い状のように、校書を呼びにやる用箋である。)余氏はその一枚の上に、私の姓を書いてから、梅逢春という三字を加えた。
「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年の政局の秘密を知っているのは、大総統の徐世昌を除けば、この人一人だとか云う事です。あなたが呼ぶ事にして置きますから、参考のために御覧なさい」
 余氏はにやにや笑いながら、次の局票を書き始めた。氏の日本語の達者な事は、かつて日支両国語の卓上演説か何かやって、お客の徳富蘇峰氏を感服させたとか云う位である。
 その内に我々--余氏と波多君と村田君と私とが食卓のまわりへ坐ると、まっさきに愛春という美人が来た。これは如何にも利巧そうな、多少日本の女学生めいた、品のいい丸顔の芸者である。なりは白い織り紋のある、薄紫の衣装(イイシャン)に、やはり何か模様の出た、青磁色の褲子(クウズ)だった。髪は日本の御下げのように、根元を青い紐に括ったきり、長々と後ろに垂らしている。額に劉海(リュウハイ・前髪)が下がっている所も、日本の少女と違わないらしい。その外胸には翡翠の蝶、耳には金と真珠の耳環、手頸には金の腕時計が、いずれもきらきら光っている。

2012年10月 8日 (月)

ノーベル賞

 今年のノーベル医学賞に京都大学の山中教授が選ばれた。大変喜ばしいことで、この沈滞した日本にとっても明るい話で、おめでたいことである。

 それにつけても一昨年のノーベル平和賞を受賞した中国の劉暁波氏は服役中で授賞式に出ることも出来ず、国民も祝福することが出来なかった。悲しい国だ。代わりに勝手に偽ノーベル平和賞をでっち上げ、ロシアのプーチンを選んだ団体まで現れて世界の失笑を買っていた。勿論プーチンは無視していたけれど。

 劉暁波氏のノーベル賞も、中国が人権を侵害している国家だからこそそれに抵抗することで受賞することが出来た訳で、日本人には不可能なことであるが。

梁石日著「未来への記憶」(アートン)

 昔、著者・梁石日(ヤンソギル)の「夜を賭けて」を読んで衝撃を受けた。終戦後の大阪造幣局跡の鉄くずを盗み出すアパッチ族については、開高健の「日本三文オペラ」で強烈なイメージを持っている(小松左京の「日本アパッチ族」も同じ舞台とイメージであるがこちらはSF仕立て)が、リアリティでは負けていなかった。私の現代日本文学の開眼は「日本三文オペラ」によるから、たちまちこの梁石日という作家が好きになった。そして「血と骨」という、すさまじい小説でさらに強烈なアッパーカットを食らった。この小説はビートたけし主演で映画になったので見た人もいるだろう。主人公は作者の父親がモデルである。この本でも父親について繰り返し言及されている。

 著者は大阪生まれの在日朝鮮人である。そしてこの本は彼の自伝的エッセイだ。彼の父親は韓国の済州島の出身である。大阪には朝鮮半島出身者が数多く住んでいるが、済州島出身者はとりわけ多い。済州島は火山島で農作物があまりとれない。戦前や戦時中に大阪に移ってきた人が沢山いるのだ。そして済州島には4.3事件という血塗られた歴史がある。朝鮮戦争前、当時の島民30万人足らずの内、はっきりわかっているだけで3万人、一説には8万人が殺されたと言われている。今でも空港増設で土を掘り起こしたら何百体も死体が出てきた、などというニュースがある位だ。

 このことは「血と骨」で少し言及されているが、昨年秋、済州島に行く為に、4.3事件について書かれた本を読んでその事実を詳しく知ることになった。同行の友人には申し訳なかったが、ガイドに頼んで4.3事件の記念館に行って貰った。

 そのような背景を知る気になったのは著者の本に出会ったからで、今度のこの本にも関連する人々の話が書かれている。特にここに取り上げられた済州島を舞台にした大長編小説、金石範の「火山島」は、以前から読みたいと思っていた。ただ恐ろしく長い(ハードカバーで七巻)ので読み切れるかどうか。

 在日朝鮮人というものについて改めていろいろ考えさせられた。そして済州島出身者は韓国内でもいわれのない差別を受けている。その背景には4.3事件があり、この事件が島民自身の口から語られるようになったのは、ようやく21世紀になってからなのだ。

 著者の父親は小説に成るほどすさまじい人生だった。そして著者の人生も小説以上に波乱に満ちている。この本で在日朝鮮人(この言い方は半島出身者をまとめて言うため)の屈折した思いのほんの少しだけは私に伝わったと思う。

(本の中で、野村進の「コリアン世界の旅」がとりあげられている。この本も忘れられない本だ。この本で歌手の新井英一を知った。)

チベットの焼身自殺

 チベットで27歳の男性が焼身自殺した。これでチベットでの焼身自殺は2009年からだけで54人になった。この男性は二人の子供の父親だった。

 中国政府は、これらの自殺は全てダライ・ラマの陰謀だと主張している。勿論これらの自殺は全て中国政府のチベット統治に抗議してのものである。中国政府は何百人焼身自殺しようとも、チベットの不法支配を止めるつもりなどない。

 だが、思うに世界各国はこのようなチベットの状況を知らないはずはないのに、殆ど黙殺している。中東などでの人権問題を声高に叫び、報道するがそれ以上のチベットでの弾圧を見て見ぬふりをする。

 中国にとってこのような焼身自殺が世界で話題にされ、チベットの実情が明らかにされることが尤も都合が悪いが、何の盛り上がりもないことに胸を撫でているに違いない。世界のマスコミは正義の味方を旗印にしているが、何のことはない、チベットは金にならないとでも思っているのだろう、または中国を刺激して自国の不利益になることを恐れているのかも知れない。そんな正義の旗なら掲げるな。

 チベットは人口600万人の独立国だった。中国の支配と弾圧により、少なくとも120万人が虐殺された。なんと人口の五分の一が殺されているのだ。この辺りはブラッド・ピットの主演した「セブンイヤーズ・イン・チベット」に一部描かれている。

 今の胡錦濤主席はチベットの支配を確立した功績を鄧小平に買われて主席になった人物である。あの紳士的に見える顔の下には鬼が隠されている。

 チベット人はがんじがらめに管理されていて、単独で焼身自殺する位しか抗議の手段がないのでこのような多数の焼身自殺者が続くのだ。

 尖閣諸島、そして沖縄を支配下に置こうという中国の野望は絵空事ではない。チベットで何があったのか、日本人はよく知った上で尖閣問題を考えた方がいい。

内田樹・高橋源一郎対談「沈む日本を愛せますか」(ロッキングオン)

 2010年末に出版された本。2009年3月から2010年9月までの、自民党が自壊し出したあたりから、民主党に政権が移る前後まで、その民主党の化けの皮がはがれ出すあたりまでの政治状況について、この二人と、編集者・渋谷陽一の三人が、定期的に対談したものである。もともとは雑誌「SIGHT」に連載された対談集である。

 軽いノリで政治や政治家を揶揄しながら対談は進んでいくが、人一倍ユニークな視点を持った二人なので、話は迷走しながらも、今までマスコミでは見聞きしなかったような切り口で政治が見えてくる。

 この本の続編「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」も出版されたので購入して読む予定である。こちらは2010年9月から2012年3月まで。

 普天間問題での鳩山首相の迷走は、実は沖縄に核があるからで、それを知らされた鳩山氏が、「抑止力」について教えられました、と云う言葉を吐いたのだと推察する。これは私も全く考えていなかったことで、確かにそうだとすると、沖縄に米軍がこだわることについての意味も、鳩山氏の言動も全て納得出来る。「抑止力」を教えたのはアメリカの誰かだろうという推察は鋭い。核はあるのにないことになっていて衆知のことだと言うが、すっかり失念していた。マスコミはわかってとぼけているのか、それとも私同様気が付いていないのか。ないことになっているからない、の儘である。

 小沢一郎の性格と政治手法の分析は大変鋭く、このあとの小沢一郎の行動は殆ど正確にこの本で予言されている。

 本を読んでいるだけでこれだけ楽しいのだから、こういう人たちと酒を飲んだらもっと楽しいだろうなあ。こちらもどんどん思ってもいないことが頭に湧いて来るような気がする。

黄金週間

 中国の八連休の大混雑について、海外メディアも取り上げているようだ。

 敦煌・鳴沙山のラクダが、かわいそうに過労死したというニュースは昨日報告したが、私も大好きな景勝地、杭州の西湖には4日間で100万人が押しかけたという。ここは中国人のあこがれの地としても有名だが、こんな人数、何処に宿泊したのだろう。上海から百キロあまりと地の利は好いが、高速道路も大渋滞の筈である。

 また、秘境として有名な九寨溝にも一日あたり数万人が押し寄せたそうだ。人が押し寄せれば生活排水が大量に流されるであろう。その処理施設が完備されているとは思えないので、今に九寨溝はゴミだらけとなり、あの澄んだ水も濁ってくるのではないだろうか。

 中国の人口は日本の十倍以上である。いくら日本の観光地より広いと言っても十倍の人が押し寄せたらその混雑はすさまじいだろうと想像する。何せ中国人は並ばないから食事時のレストランが混んだりしたら大騒ぎだろう。商店でも人を押しのけて買おうとするから収拾がつかないに違いない。そのやかましさもすさまじいだろう。

 と云う訳で、出かけるのをあきらめて、ごろ寝を決め込む賢い人もいるという記事もあった。でもこの書き方からするとやはり普通は皆出かけると云うことのようだ。尖閣問題もあるし、中国は思い出の地になってしまった。

中原英臣、二木昇平著「人類が滅びる20の兆候」(河出夢新書)

 精子の数の減少、環境ホルモン、ダイオキシン、DDTとPCB汚染、遺伝子組み換え作物、トリハロメタン、放射性廃棄物、DPE(排気ガス粒子)、O-157、エイズウイルス、MRSA、エボラ出血熱他、狂牛病、電磁波、バイオウイルス、クローン、原発事故、温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、以上で20。

 著者は二人とも医学博士で、書いていることは事実であると思う。
しかしその危険度や、切迫度については著しく違うものが同列に並べられている為に、知識のない人はどれもが同レベルの危険と受け取ってしまう。不安を煽るだけの面も否めない。

 確かに人類はかなり危ない橋を渡っていて、取り上げられた項目の中には突然人類が絶滅してしまう原因になるかも知れないような恐ろしいものがある。しかし、もう引き返すことが出来る一線を越えてしまったようだ。小さな過ちを繰り返しながら学習してきたが、大きな過ちは学習では済まない結果をもたらすことになるのだろう。

 不安になろうがどうしようが、人は生きていくしかない。そして運悪くその滅びる場面に直面したら、潔くあきらめるしかないようだ。
知恵のある後の世代の人が間に合うのかどうか、見届ける時間は私にはない。

「上海游記」・罪悪

 拝啓。上海は支那第一の「悪の都会」だとか云う事です。何しろ各国の人間が、寄り集まっている所ですから、自然そうもなり易いのでしょう。私が見聞しただけでも、風儀は確かに悪いようです。例えば支那の人力車夫が、追い剥ぎに早変わりをする事なぞは、始終新聞に載っています。又人の話によれば、人力車を走らせている間に、後ろから帽子を盗まれる事も、此処では家常茶飯事だそうです。その最もひどいのになると、女の耳輪を盗む為に、耳を切るのさえあると云います。これは或いは泥棒と云うより、Psychopathian sexualis(変態性欲)の一種が手伝うのかも知れません。そういう罪悪では数ヶ月前から、蓮英殺しと云う事件が、芝居にも小説にも仕組まれています。これは此処では析白党と云う、つまり無頼の少年団の一人が、金剛石(ダイヤモンド)の指輪を奪うために、蓮英という芸者を殺したのです。その又殺し方が、自動車へ乗せて、徐家匯近傍へ連れだした挙げ句、縊り殺したと云うのですから、支那では兎に角前例のない、新機軸を出した犯罪なのでしょう。何でも世間の評判では、日本でも度々耳にする通り、探偵ものなぞの活動写真が、悪影響を与えたのだと云う事でした。最も蓮英という芸者は、私の見た写真によると、義理にも美人とは評されません。
 勿論売婬も盛んです。青蓮閣なぞという茶館に行けば、彼是薄暮に近い頃から、無数の売笑婦が集まっています。これを野雉(イエチイ)と号しますが、ざっとどれも見た所は、二十歳以上とは思われません。それが日本人なぞの姿を見ると、「アナタ、アナタ」と云いながら、一度に周囲へ集まってきます。「アナタ」の外にもこういう連中は、「サイゴ」「サイゴ」と云う事を云います。「サイゴ」とは何の意味かと思うと、これは日本の軍人たちが、日露戦争に出征中、支那の女を捕まえては、近所の高粱の畑か何かへ、「さあ行こう」問ってのが、濫觴だろうと云う事です。語源を聴けば落語のようですが、何にせよ我々日本人には、あまり名誉のある話ではなさそうです。それから夜は四馬路あたりに、人力車へ乗った野雉たちが、必ず何人もうろついています。この連中は客があると、その客は自分の車に乗せ、自分は歩いて彼等の家へ連れ込むと云うのが習慣だそうです。彼等はどういう料簡か、大抵眼鏡をかけています。事によると今の支那では、女が眼鏡をかける事は、新流行の一つかも知れません。
 鴉片も半ばは公然と、何処でも吸っているようです。私の見に行った鴉片靴なぞでは、かすかな豆ランプを中にしながら、売笑婦も一人、客と一しょに、柄の長い煙管(きせる)を咥えていました。その外人の話では、魔鏡党とか男堂子とか云う、大変な物もあるようです。男堂子とは女のために、男が媚びを売るのであり、魔鏡党とは客のために、女が婬戯を見せるのだそうです。そんな事を聞かされると、往来を通る支那人の中にも、Marquis Sade(サド侯爵)なぞは何人もいそうな気がして来ます。また実際いるのでしょう。或丁抹人(デンマアク人)が話したのでは、四川や広東には六年いても、屍姦の噂は聞かなかったのが、上海では近々三週間の内に、二つも実例が見当たったそうです。
 その上この頃ではシベリア辺から、男女とも怪しい西洋人が、大勢此処へ来ているようです。私も一度友だちと一しょに、パブリック・ガアデンを歩いていた時、身なりの悪い露西亜人に、しつっこく金をねだられました。あれなぞはただの乞食でしょうが、あまり気味の好い物じゃありません。尤も工部局がやかましい為、上海もまず大体としては、おいおい風紀が改まるようです。現に西洋人の方面でも、エル・ドラドオとかパレルモとか云う、如何わしいカッフェはなくなりました。しかしずっと郊外に近い、デル・モンテと云う所には、まだ商売人が大勢来ます。
"Green satin ,and a dance,white wine and gleaming laughter,with two nodding ear-rings--these are Lotes"
 これはユニイス・ティチェンズが、上海の妓ロオタスを歌った詩の一節です。「白葡萄酒と輝かしい笑いと」--それは一ロオタスばかりじゃない、デル・モンテの卓に倚りながら、印度人を交えたオオケストラの音に、耳を貸している女たちは、畢竟この外に出ないのです。以上

2012年10月 7日 (日)

映画「ポー川のひかり」2009年イタリア映画

 監督エルマンノ・オルミ、出演ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ。

 傑作だと思う。ストーリーはあるようなないようなもので、哲学的、神学的な台詞があると思うと、知恵遅れの男の、心の底から絞り出すような、詩のような言葉がある。そしてポー川の岸辺の景色があり、岸辺に不法に住居している人々がいて、彼等の奏でる音楽がある。

 若い哲学教授(ラズ・デガン)が、突然大学の貴重な古書に太い釘を打ち込んで失踪する。その数は図書館の床を覆い尽くす程の膨大なもので、この教授が師と仰ぐ司教の、命より大事な本だった。警察と検事がやってきて失踪前に何があったのかを調べていく。

 教授は僅かな金と持ち物を残して全てを捨て、たまたま通りかかったポー川の岸辺に棲みつく事になる。色々な人との交流があり、川辺での生活が描かれる。

 そんなとき、川辺の再開発が決定され、不法に棲みついている人々に退去命令が下される。彼等に頼まれて、教授は居住継続の嘆願書を提出するのだが、意に反して役所からは不法滞在に対して高額の罰金支払い命令が下される。教授は唯一残していた銀行のカードを使い彼等の罰金の肩代わりをするのだが、そのために教授の居所が明らかになってしまう。教授は警察に連行され、人々にとっては思い出の人となる。

 しばらくして、教授が川辺に戻ってくるのを見たという知らせが入る。人々は教授を迎える為にできる限りの準備をして教授を待つ、教授が歩いてくるであろう道に沢山の灯りを点して。

 暮れなずむポー川の夕景が美しい。そして月日がたち、冬が来る。美しい音楽と共にエンドクレジット。うーん凄い、しびれる程感動した。
こんな映画もありなのだ。

冷凍イチゴ

 9月末、ドイツ東部の学校および幼稚園500箇所で、1万2000人の子供が食中毒にかかる事件があった。その原因を調査した結果、被害はノロウイルスによるものである事が判明。そして問題が起きた学校や幼稚園は全てフランスのフードサービス会社を利用していた。
 そしてその会社が持ち込んだイチゴの砂糖煮が原因である可能性が高いとみられているという。この食材として使用されたのは中国産の冷凍イチゴであり、同社は問題のイチゴの使用を中止したという。

 幸い重病の子供はいないという。
 日本で同じ中国産の冷凍イチゴを使用している所はないであろうか。
 日本で同じ問題が起きても責任は日本にある、と云われてしまうから注意して欲しい。

興奮しすぎ

 阿倍仲麻呂の墓が汚された事にあまりに腹が立って感情的な文章を書いてしまった。しかし本当の気持ちなのでとりあえず記念に残して、削除については少し考えてからにしたい。

 文化大革命の時に知識人が公衆の面前でつるし上げを食って連日自己批判を強制され、ついには精神に異常を来したり、自殺に追い込まれた事件が何十万件とあった事を思い出すと、人間が片寄った教育と無知のもとに置かれると、如何に狂気の行動をとるのか既に誰もが知っている。日本だってえらそうに云えない時代があった。

 今のネット時代は少なくとも無知から解放される道具を万人が手にすることができる時代だが、同時に扇動に曝される危険も増大した。情報を正しく選別する為の知識を自ら獲得しなければ、あの文化大革命から一歩も進化できないことになる。情報があれば好いという訳ではない。過去に戦争を煽り、大本営の手先になり、あの文化大革命を絶賛し、北朝鮮を地上の楽園と賛美した大新聞は未だにそのことには口を拭っている。

 阿倍仲麻呂の墓が汚された事実についてどう報道するのか新聞の態度に興味がある。

 いかん、また興奮してきた。

阿倍仲麻呂

 遣唐使として中国に赴き、唐朝に登用されて終生を中国に捧げた日本人、阿倍仲麻呂については、日本人なら誰でも知っている。日本の観光客が中国の西安を訪ねたとき、時間があれば彼の墓に寄るという人も多い。

 その彼の墓がペンキで汚されていたという。誰が何の目的で行ったのか不明と伝えているが、反日行動の一環なのだろうと誰でも考える。まさか日本人がわざと中国を悪者にする為にやったなどと言い出す事はないだろうと思う(言いかねないが)。

 ここまでひどい事をする中国人が居る事を、中国は恥ずかしいと思わないのだろうか。誰がやった事にせよ、中国は国として恥ずべきである。

 さすがに中国が好きな私も、この事件には腹が煮える思いがする。どこの世界にも馬鹿は居る。だが馬鹿も含めて中国人だ。起こった事態については中国として間違った事をした、と公式に表明するべきだろう。そうでなければこのような冒涜は中国の意志と見なすしかない。

  阿倍仲麻呂は、田中角栄どころではない程の貢献を中国にした人間であり、歴史上の人物である。
 中国は自らの顔に泥どころか糞尿を塗りたくったに等しい。それほどの暴挙である。

 ここまで日本人を怒らせる事が出来た事に、犯人は快哉を叫んでいる事だろうが、実はどれほど自分の国を辱めたのか、中国政府は思い知らせるつもりがないのだろうか。そんな品格も法もない国など国ではない。

誠意を示せ

 「誠意を示せ」という要求は、具体的でない分だけ、無限責任を求める事につながりかねず、安易に使うべきではない。よく、やくざまがいの人間が使う事が多いのは、言いがかりをつけて果てしない要求につなげるためである。

 中国メディアの報道によると、日中友好協会会長の加藤紘一氏が談話を発表、「日本の主張する、尖閣諸島には領土問題は存在しない、と云う主張は説得力に欠け、日中関係の改善にはつながらない。現状改善のためには、日本側が中国に誠意を示す事で対話の実現をして欲しい」と述べた。

 また加藤紘一か、と云う気持ちは置いておいて、この言葉をうれしそうに報道する中国メディアと中国政府のほくそ笑みが見えるような気がする。今中国にとっての第一目標は、日本政府に、「尖閣諸島に領土問題が存在する」と云わせる事である。現実に問題が起きているのだから問題がある、と認めても好いではないか、とつい考える人もいるだろう。
 だが「領土問題は存在しない」という立場を取っていた事には明確な理由があった。その立場を変更すると云う事は明らかに譲歩である。そして中国に対して譲歩すると云う事は、以前の立場は間違いであった、と認める事である。間違いを認め出すと全ての前提が覆されて、一からの領土交渉に立つ事を覚悟しなければならないのは明らかである。勿論中国政府の狙いはそこにあるのだが、「誠意」などと云う言葉がどのような結果につながるのかの想像力もない事に腹立ちを感じる。

 そもそも領土問題は存在しない、と云う立場を表明した以上、それを変更する事は許されないのだ。そして今、日中関係がどんどん悪化している事について、犯人は誰か、何が悪かったのかの検証は勿論必要だが、だからといって起きてしまった事をなしにする事は不可能なのである。
 関係悪化を改善するために譲歩する、と云う事は今、日本が取るべき道ではない。繰り返すが歴史にはリセットはない。そして今回の日本政府の行動はお粗末であり、相手の面子をつぶして感情的にさせた責任は大きい。だがその後の中国の行動はそれを差し引いても理不尽の極みである。日本の進出企業やスーパーを暴徒が襲い、破壊と掠奪を行い、あろうことか日本人を襲撃し、さらに日本商品の不買運動をする、などと云う事を黙認しておいて、全ての責任は日本側にある、などと国家が平然とうそぶくなどと云うのは北朝鮮以下の無法国家である。

 もし百歩譲って日本が何らかの譲歩をする可能性があるとするならば、それは中国が今回の中国の国内で起こった不法行為について国家として謝罪するのが大前提であろう。こんな当たり前の事を相手に主張もせず、何が「誠意を示せ」だ。こういう人間がいるから相手は反って勘違いしてしまう。不法は不法としてまずそれを非難してから自分の国に提言するべきであろう。日本側の全ての損失に対しての賠償が先で、それすらしないのに戦争責任など非難する資格がないと何故云わないのだ。

映画「狂気の行方」アメリカ・ドイツ合作

 監督ヴェルナー・ヘルツォーク、出演マイケル・シャノン、ウィレム・デフォー。
 プロデュースがデビッド・リンチである。意味の通らない、最後まで解釈を許さず観客を宙ぶらりんにする彼の面目躍如の作品となっている。

 物語はアメリカで実際に起こった実母殺人事件がベースである。
殺人事件の通報で現場に駆けつけたサンディエゴ警察のヘイヴンハースト刑事(ウィレム・デフォー)は白人女性の死体を検分する。凶器は側に落ちていた片刃の長剣である事を目撃者の黒人女性二人が証言する。
 現場はその黒人女性たちの家で、殺された女性は隣人であり、彼女たちの証言で、殺したのはその女性の息子である事がわかる。

 その息子は自分の家に何者か二人を人質に立てこもっているのだという。忽ちその家は警官に包囲され、SWATも手配される。そして犯人のブラッド(マイケル・シャノン)の婚約者(クロエ・セヴィニー)や彼と親しい劇団の演出家(ウド・ギア)も駆けつける。

 刑事は婚約者たちや、現場を目撃した隣人たちから、犯人のブラッドについて事情を聴取する。それが回想シーンとしてブラッドの行動、母親との関係として描き出される。その中でのブラッドの言動こそ狂気への迷走、深化の物語である。

 母親の過剰な干渉、カルト宗教への傾倒、友人たちの不慮の事故死など彼の精神が崩壊していく原因が次々と明らかにされる。それを見て観客は母親との関係が、全ての原因であり、犯人はそれを解消するために母親を刺殺した、と納得しようとする。しかし、それは証言者たちが皆精神的な健常者だから、その人たちが解釈した犯人の姿が語られているために、一つの理由に収斂されているように見えるに過ぎない。

 最後に人質たちの正体が明らかにされ、あっけない幕切れとなる。
 だが、証言者たちが語った、解釈不能の意味不明なブラッドの言葉は、観客にそのまま残される。刑事も、証言者も、観客も、宙ぶらりんの儘に放り出されて映画は終わる。

 そもそも狂気とは、解釈を許さないものだから狂気と云われるのである。そのことを知りつつ解釈しようとして堂々巡りをさせられる映画だ。

「上海游記」・鄭孝胥氏

 坊間に伝うる所によれば、鄭孝胥(ていこうしょ)氏は悠々と、清貧に処しているそうである。処が或曇天の午前、村田君や波多君と一しょに、門前に自動車を乗り付けてみると、その清貧に処している家は、私の予想よりもずっと立派な、鼠色に塗った三階建てだった。門の内には庭続きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬(せっきゅう)の花なぞが匂っている。私もこういう清貧ならば、何時身を処しても差し支えない。
 五分の後我々三人は、応接室に通されていた。此処は壁に掛けた軸の外に殆ど何も装飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一対の焼き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れている。鄭蘇戡(ていそかん)先生は中華民国の政治家じゃない、大清帝国の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した、「他人之退而不隠者殆不可同日論(たにんのしりぞいてかくれざるものはほとんどどうじつにろんずべからず)」とか云う、うろ覚えの一句を思い出した。
 其処へ小太りの青年が一人、足音もさせずにはいって来た。これが日本に留学していた、氏の令息、鄭垂氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語には堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田両先生の通訳を煩わす必要はない。
 鄭孝胥氏が我々の前に、背の高い姿を現したのは、それから間もなくの事だった。氏は一見した所、老人に似合わず血色が良い。眼も殆ど青年のように、朗らかな光を帯びている。殊に胸を反らせた態度や、盛んな手真似(ジェスチュア)を交える工合は、鄭垂氏よりも反って若々しい。それが黒い馬掛児(マアクワル)に、心持ち藍の調子が勝った、薄鼠の大掛児(タアクワル)を着ている所は、さすがは当年の才人だけに、如何にも気が利いた風采である。いや、閑日月に富んだ今さえ、こう溌溂としているようじゃ、康有為氏を中心とした、芝居のような戊戌の変に、花々しい役割を演じた頃には、どのくらい才気煥発だったか、想像する事も難くはない。
 氏を加えた我々は、少時(しばらく)支那問題を談じ合った。勿論私は臆面なしに、新借款団の成立以後、日本に対する支那の輿論はとか何とか、柄にもない事を弁じ立てた。--と云うと甚だ不真面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌っていたのではない。私自身では大真面目に、自説を披露していたのである。が、今になって考えて見ると、どうもその時の私は、多少正気ではなかったらしい。尤もこの逆上の原因は、私の軽薄な根性の外にも、確かに支那その物が、一半の責を負うべきものである。もし嘘だと思ったら、誰でも支那へ行って見るが好い。必ず一月といる内には、妙に政治を論じたい気がして来る。あれは現代の支那の空気が、二十年来の政治問題を孕んでいるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帯を経めぐる間、容易にこの熱がさめなかった。そうして誰も頼まないのに、芸術なぞよりは数段下等な政治の事ばかり考えていた。
 鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望していた。支那は共和に執する限り、永久に混乱は免れ得ない。が、王政を行うとしても、当面の難局を切り抜けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した国際関係に処さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇蹟の出現を待つものである。
 そんな話をしている内に、私が巻煙草を咥えると、氏はすぐに立ち上がって、燐寸の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣国の君子に比べると、日本人が一番拙らしいと思った。
 紅茶の御馳走になった後、我々は氏に案内されて、家の後ろにある広庭へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまわりに、氏が日本から取り寄せた桜や、幹の白い松が植わっている。その向こうにもう一つ、同じような鼠色の三階建てがあると思ったら、それは近頃建てたとか云う、鄭垂氏一家の住居だった。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の林の上に、やっと雲切れのした青空を眺めた。そうしてもう一度、これならば私も清貧に処したいと思った。
 この原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の処へ、一本の軸が届いて来た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強(むてんいかんぞしじのきょう)。呉興題識遜元章(ごこうのだいしきげんしょうにゆずる)。延平剣合誇神異(えんぺいのけんがっしてしんいをほこり)。合浦珠還好秘蔵(ごうほのたまかえってひぞうするによし)」--そういう字が飛舞するように墨痕を走らせているのを見ると、氏と相対していた何分かは、やはり未に懐かしい気がする。私はその何分かの間、独り前朝の遺臣たる名士と相対していたのみではない。亦実に支那近代の詩宗、海蔵楼詩集の著者の謦咳に接していたのである。

2012年10月 6日 (土)

ラクダの過労死

0403607敦煌・鳴沙山。

 中国は国慶節のゴールデンウイークで全国各地の観光地が観光客で満員となっている。
 甘粛省敦煌には鳴沙山という観光地があり、ご多分に漏れず、ここにも観光客が押し寄せている。鳴沙山の人気のメニューがラクダに乗っての観光である。ラクダは一日あたり8000人を超える御客を乗せるために朝早くから晩まで働きづめだという。
 ついに過労死するラクダが連続しているそうだ。

 以前は、敦煌はシルクロードの象徴として外国人に人気の場所だが、中国人にはそれほど人気ではなかった。今は様変わりのようだ。
 敦煌の街は、三万人程度の人口の、信号もないような小さな街だった。中国の田舎らしい綺麗な街だったが、多分この人気で観光土産物店だらけの街になってしまっただろう。

0403613_2鳴沙山のラクダ。

0403618_2鳴沙山の上から。

0403701_2わかりにくいけれどラクダに乗る人。

適度に愚か

 アメリカは日本の政府が適度に愚かである事を望んでいる。賢くても本当に愚かでもアメリカのコントロールから外れてしまうからだ。アメリカは日本が強い国になる事を望んでいない。日本が脅威であると云う認識が骨身に沁みているところがある。
 日本国民は賢い政府を望んではいるが、多少愚かでもかまわないと思っている。本当に愚かでは害が多すぎる。だから日米は適度に愚かな日本政府のときが最もうまくいく。

 中国の著名なブロガーの言葉をマレーシアのメディアが取り上げていた。尖閣諸島をめぐる問題で日本と中国が険悪になっているのはアメリカの陰謀だというのだ。
 中国がアメリカと張り合うような強国になってきたので、中国を牽制するために、日本に対して強硬姿勢を取るようアメリカが日本の後ろで糸を引いているという。

 起きている現象とアメリカの思惑については、言っている事は正しい。しかし日本はそそのかされているとはとても思えない。適度を越えた日本政府の愚かさの行動が、中国にとって強硬姿勢のように見えているだけだ。結果を想定せずに、しかもアメリカに相談もせず行動した結果で、こうなっているだけだ。アメリカも大統領選挙を控えていて特段の行動は取る気がないだろう。それに思惑としては中国と日本が仲良くする事を嫌っているアメリカの思うつぼに近い。ただ経済的な面も含めて火の粉さえかぶらなければ好いと思っているだろう。

 この記事では、アメリカの陰謀により、中国が日本に対抗して強硬姿勢を取らざるを得ないように追い込んだ、としている。これはアメリカの大きなミスであり、これにより中国は海洋大国を目指さざるを得ないのだそうだ。原因と結果を意図的に取り違えて正当化を図るのがこういう人たち(政府にそそのかされているのか、思い込まされているのか)のお仕事のようだ。

 日本は適度に愚かだから、アメリカや中国のように自国の利益第一の行動を取らない(本当は取りたくても取る知恵がない)。これは世界に誇っていい事だ。今日本はその両国の間で、ナイフのエッジの上を綱渡りするような生き方をしなければならなくなってきた。となると適度を越えている愚かな政府は退場して、ちょっと賢い政府が出てきてくれないと困るのだが、さて、御山の大将は見かけによらず御山のてっぺんが気に入ってしまって下りようとしない。困ったものだ。
 そういえば先代の御山の大将も懸案が片付いたらてっぺんから下りる、と公言しておいて半年くらい下りなかった。言っている理屈はそっくりだ。このグループの病気みたいだ。

 ところで適度に賢い(そう思いたい)日本国民は誰を選ぶのか。

こんなものか

 ドン姫と朝の四時まで飲んでいたので久しぶりに朝寝坊した。
お酒の量はそれほど沢山飲んでいないが、夜更かしは普段しないので、それが応えた。
 
 中国の広東省深圳のピザ屋の話。
新店舗の開店記念セールで、「支払額はお客様次第」というキャンペーンを行った。三日間限定だったが、多くの客が押し寄せた。店側は少なくとも二割程度の支払いを期待していたと云うが、客が支払ったのは10%に過ぎなかった。

 勿論無条件ではなく、中国版のツイッター「微博(ウェイボー)」に店のフォロアーとして登録する事が条件になっているのだが、食事後に取り消してしまう客が続出。ただ食いして平気な客もいたという。

 店側は、「に期待していたが甘かった」と云っているという。
しかし客が殺到してトラブルにならなくて幸いであった。先着百名様にサービス品を差し上げる、と云うキャンペーンに何万人も殺到して店とトラブルになり、しまいには掠奪が始まったりするのが中国だ。しかも今回は一割も支払われているというので中国を見直した。

 思うに中国には一割くらいはまともな人がいるようだ。どんな世の中でも、ずるい事をしたくない人が、一割は居るという私の理論通りだ。中国の実感ともあっている。

「上海游記」・西洋

 問。上海は単なる支那じゃない。同時に又一面では西洋なのだから、その辺も十分見て行ってくれ給え。公園だけでも日本よりは、余程進歩していると思うが、--
 答。公園も一通りは見物したよ。仏蘭西公園やジェスフィルド公園は、散歩するに、持って来いだ。殊に仏蘭西公園では、若葉を出した篠懸(すずかけ)の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが子供を遊ばせている、それが大変綺麗だったっけ。--だが格別日本よりも、進歩しているとは思わないね。唯此処の公園は、西洋式だと云うだけじゃないか?何も西洋式になりさえすれば、進歩したと云う訳でもあるまいし。
 問。新公園にも行ったかい?
 答。行ったとも。しかしあれは運動場だろう。僕は公園だとは思わなかった。
 問。パブリック・ガアデンは?
 答。あの公園は面白かった。外国人ははいっても好いが、支那人は一人もはいる事が出来ない。しかもパブリックと号するのだから、命名の妙を極めているよ。
 問。しかし往来を歩いていても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いじゃないか?此も日本じゃ見られない事だが、--
 答。そういえば僕はこの間、鼻のない異人を見かけたっけ。あんな異人に遇う事は、ちょいと日本じゃむずかしいかも知れない。
 問。あれか?あれは流感の時、まっさきにマスクをかけた男だ。--しかし往来を歩いていても、やはり異人に比べると、日本人は皆貧弱だね。
 答。洋服を着た日本人はね。
 問。和服を着たのは猶困るじゃないか?何しろ日本人と云う奴は、肌が人に見える事は、何とも思っていないんだから、--
 答。もし何とか思うとすれば、それは思うものが猥褻なのさ。久米の仙人と云う人は、その為に雲から落ちたじゃないか?
 問。じゃ西洋人は猥褻かい?
 答。勿論その点では猥褻だね。唯風俗と云う奴は、残念ながら多数決のものだ。だから今に日本人も、素足で外へ出かけるのは、卑しい事のように思うだろう。つまりだんだん以前よりも、猥褻になっていくのだね。
 問。しかし日本の芸者などが、白昼往来を歩いているのは、西洋人の手前も恥じ入るからね。
 答。何、そんな事は安心し給え。西洋人の芸者も歩いているのだから。--唯君には見分けられないのさ。
 問。これはちと手厳しいな。仏蘭西租界なぞへも行ったかい?
 答。あの住宅地は愉快だった。柳がもう煙っていたり、鳩がかすかに啼いていたり、桃がまだ咲いていたり、支那の民家が残っていたり、--
 問。あの辺は殆ど西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いじゃないか?
 答。西洋人の家は大抵駄目だね。少なくとも僕の見た家は、悉く下等なものばかりだった。
 問。君がそんな西洋嫌いとは、夢にも僕は思わなかったが、--
 答。僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなのだ。
 問。それは僕も勿論そうさ。
 答。嘘をつき給え。君は和服を着るよりも、洋服を着たいと思っている。門構えの家に住むよりも、バンガロオに住みたいと思っている。釜揚げうどんを食うよりも、マカロニを食いたいと思っている。山本山を飲むよりも、ブラジル珈琲(カッフェ)を飲み、--
 問。もうわかったよ。しかし墓地は悪くはあるまい。あの静安寺路の西洋人の墓地は?
 答。墓地とは亦窮したね。成る程あの墓地は気が利いていた。しかし僕はどちらかと云えば、大理石の十字架の下より、土饅頭の下に横になっていたい。況や怪しげな天使なぞの彫刻の下は真っ平御免だ。
 問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのか?
 答。いや、大いに感じているのだ。上海は君の云う通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ悪しかれ西洋を見るのは、面白い事に違いないじゃないか?唯此処の西洋は本場を見ない僕の目にも、やはり場違いのような気がするのだ。

2012年10月 5日 (金)

双子祭り

 10月2日、北京で第9回北京双生児文化フェスティバル」が開催され、全国から700組が出場したという。
 なるほど、一人っ子政策と雖も双子や三つ子を一人に間引く訳には行かない。こういう例外もあるのだ。排卵誘発剤を服用すると多胎出産になる確率が高まるという。中国の双子の率は自然の率より高いだろうか。知りたい気がする。

 処で以前各国の出生率を見ていたら、中国の出生率が日本よりずっと高かったのでびっくりした。日本が異常に低いのか、中国の一人っ子政策というのが言葉通りでなくて例外だらけなのか、中国の統計その物が出たらめなのか、どれなのだろう。不思議な国だ。

海風

 三重県南島町の、ある小さな港(名前は内緒)まで早朝なら約二時間で行く。伊勢自動車道の玉城(たまき)というインターで下りるのだが、この辺りには釣り餌の店が幾つもある。そこで氷と餌を購入。夜明け前に釣り場に到着。コマセを少々撒いて魚を寄せる。心配した通り、風が吹いている。既に数人竿を出している人がいる。

 明るくなった海面を見ると小魚が沢山寄っている。今年の春から夏に生まれた新子だろう、あんなのを釣っても食べる所がない。針に餌をつけて小魚の少し外側へ落とし込む。アタリがあまりない。何時も最初の頃は反応が弱い。もう少しコマセがはいると魚が酔ったようになって警戒心を失い、競争で食いついてくるはずだ。

 ぽつりぽつりと釣れだしたが、今日は木っ端グレ(メジナ)ばかりだ。いつもなら中型の鰺や、今頃なら底の方でキスが釣れたりして楽しめるのだが、グレ以外にはベラすら懸からない。

 風は収まるどころかどんどん強くなる。仕掛けを手元に寄せるのに苦労するし、手元に拡げているタオルやら餌やら仕掛けやらが飛ばないようにするのに苦労する。危うくコマセ用の小さなひしゃくまで海に落とす所だった。

 ぽつりぽつりと連れ続けては居るが、納竿する事にした。防波堤から見える、高台の小学校から始業の鐘が聞こえる。二時間位しか釣っていないので釣果も不十分だし、気分的にも不完全燃焼だが、この風では致し方ない。再チャレンジする事にしよう。このくらいなら日焼けもたいしたことはないし、好い潮時だ。餌を海に投入。沢山の小魚が思わぬ御馳走に驚喜しているのが見える。ゴミを回収して手を洗い、撤収した。

 帰りは二時間半の予定だったが、車の量がいつになく多い。途中で眠くなったのでパーキングで仮眠。目が醒めてからもう一度手を洗い直し、ソフトクリームを食べて爽快な気分になる。

 今帰宅して早速にブログを書いている。クーラーを覗くと釣果は十五センチ前後のグレが十数匹、二十センチあまりのグレが一匹。これはドン姫にやろう。

 さあこれから小出刃を研ごう。そして全てをさばいてから風呂で潮を浴びた体をさっぱりさせ、ビールでも飲もう。

釣行

 昨晩思い立って、今朝これから釣行する事にした。ドン姫にも連絡。仕事を終えたら(夜遅いだろうが)釣果をあてにやってくる。心配なのは風だ。三重県の英虞湾のさらに先に行く。水の綺麗な小さな漁港の堤防で、フカセ釣りという、仕掛けは単純だが、やや繊細な釣り方で釣る。小型や中型の魚でも引きを楽しめる釣り方だが、風があるとアタリがわかりにくいし、そもそも釣りにならなくなる。
 
 水温は高く天気も良いようなので防波堤には小魚は寄っているはずだ。何が釣れるか向こう任せの釣りだ。自分とドン姫が食べる分だけ釣れば引き上げる。早く帰れるか、粘らなければならないか。さあ支度をして出発しよう。

「上海游記」・章炳麟氏 

 章炳麟氏の書斎には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這いに引っ付いている。が、この書物に埋まった書斎は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるように寒い。尤も当日の天候は、発句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だった。其処へ瓦を張った部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲団のない、角張った紫檀の肘掛け椅子である。おまけに私の着ていたのは、薄いセルの間着だった。私は今でもあの書斎に、坐っていた事を考えると、幸いにも風を引かなかったのは、全然奇蹟としか思われない。
 しかし章太炎先生は、鼠色の大掛児(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黒い馬掛児(マアクワル)を一着している。だからむろん寒くはない。その上氏の坐っているのは、毛皮を掛けた籐椅子である。私は氏の雄弁に、煙草を吸う事も忘れながら、しかも氏が暖かそうに、悠然と足を伸ばしているのには、大いに健羨に絶えなかった。
 風説によれば章炳麟氏は、自ら王者の師を以て任じていると云う事である。そうして一時はその御弟子に、黎元洪を選んだと云う事である。そう云えば机の横手の壁には、あの鰐の剥製の下に、「東南僕学、章太炎先生、元洪」と書いた、横巻の軸が懸かっている。しかし遠慮のない所を云うと、氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆ど黄色である。口髭や顎髯は気の毒なほど薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、--上品な縁無しの眼鏡の後ろに、何時も冷然と微笑した眼だけは、確かに出来合いの代物じゃない。この眼の為に袁世凱は、先生を囹圄(れいご・牢獄)に苦しませたのである。同時に又この眼の為に、いったんは先生を監禁しても、とうとう殺害は出来なかったのである。
 氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社会の問題だった。勿論不要(プヤオ)とか「等一等(タンイタン)」とか、車屋相手の熟語以外は、一言も支那語を知らない私に議論なぞのわかる理由(わけ)はない。それが氏の論旨を知ったり、時々は氏に生意気な質問なぞも発したりしたのは、悉く週報「上海」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は私の隣の椅子に、ちゃんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になっても、親切に通訳を勤めてくれた。(殊に当時は週報「上海」の締め切り日が迫っていたのだから、私は愈氏のご苦労に感謝せざるを得ないのである。)
「現代の支那は遺憾ながら、政治的には堕落している。不正が公行している事も、或いは清朝の末年よりも、一層夥しいと云えるかも知れない。学問芸術の方面になれば、猶更沈滞は甚だしいようである。しかし支那の国民は、元来極端に趨る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成る程一部の学生は、労農主義を歓迎した。が、学生は即ち国民ではない。彼等さえ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が来るであろう。何故と云えば国民性は、--中庸を愛する国民性は、一時の感激よりも強いからである。」
 章炳麟氏はしっきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔々と独特の説を述べた。私は--唯寒かった。
「では支那を復興するには、どういう手段に出るが好いか?この問題の解決は、具体的にどうするにもせよ、机上の学説からは生まれる筈がない。古人も時務を知る者は俊傑なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無数の事実から帰納する、--時に循って、宜しきを制すとは、結局この意味に他ならない。・・・」
 私は耳を傾けながら、時々壁上の鰐を眺めた。そうして支那問題とは没交渉に、こんな事をふと考えたりした。--あの鰐はきっと睡蓮の匂いと太陽の光と暖かな水とを承知しているのに相違ない。してみれば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合わせだった。どうか私を憐れんでくれ。まだこの通り生きている私を。・・・

2012年10月 4日 (木)

続・本を処分する

 「本を処分する」にコメントがありました。勇気に拍手をして戴いたようですが、勇気なんてありません。年齢と共にそろそろ撤収を考えないと、子供たちに迷惑が残るだけだと気が付きました。

 全ての持ち物を、増やすのではなく減らしていく、意識してそうする事が、来たるべき日本の経済的氷河時代に対応した生き方かと思っています。中国との関係が此処まで悪化すると、日本の経済はさらに冷え込む事でしょう。年金生活者は年金が減額されても堪えられるように生き方を変えなければいけないと覚悟しています。

 いままで、片付ける、と云う時に何をしているかと云うと、分類をしています。分類整理をしていても実は何も片付きません。やはり覚悟を決めて捨てなければ片付かないのです。

今、埃まみれの汗だくで一区切りつけた所です。

 もうすぐ宅急便のお兄ちゃんが本を集荷に来ます。今日だけでは、ほんの一部しか片付きませんでしたので、あと二回位来て貰わなければいけないようです。---どうせ又増えますけど。

本を処分する

 久しぶりに本の処分をする為に整理を始めた。二三年に一度は500冊前後古本として処分するか廃品回収に出していた。少し間が空いた為に本の置き場がなくなってきた。今までは中国に関連するものは小説でも何でも一応残して置いたが、今回はそれにも思い切って手をつける事にした。

 昔夢見ていたのは書庫があり、書斎があり、映画を見る場所のある家に住む事だった。今2LK(3LDKを改造した)の我が家には普段は私しか住んでいない。殆ど好きなように使えるのだが、不要なものがあふれている。あと何年生きるというのか。限られた壁面に限られた本箱があり、そこに入るだけの本で好いではないか。そう思うようになった。

 気が変わらないうちにネットオフ(以前はイーブックオフ。此処に登録してある)に引き取り依頼をした所だ。此処なら段ボール箱を持参してくれて引き取り、査定して銀行に振り込んでくれる。哀しいほど僅かな金額にしかならないが、少なくとも焼却する訳ではなく、運が良ければ誰かの手元に行くだろう。

 さあまだまだ本の山は幾つもあるぞ。

 でも残すか処分するか心は揺れる。

国慶節

 中国の国慶節は日本のゴールデンウイークのようなもので、今年は8日間の大型連休である。出稼ぎの人や学生は故郷に帰る。多くの人は家族や友だちと国内旅行に出かける。余裕のある人は海外旅行に行く。今年は中国国内で期間中に3億五千万人が移動すると云う。凄い数だ。

 この連休は公営の高速道路は全て無料にした。国民へのサービスなのだという。下心があるのだろう。そのために大渋滞で、殆ど車が止まったまま動かない場所も多いようだ。インターチェンジなどでも交互に譲りながら、などという発想はない。我先に無理矢理突っ込むし、入れまいとする車はあるしでそこら中が警笛と怒鳴り合いの喧噪となっている事であろう。

 観光地も殆どが中国人でひしめいていると思う。万里の長城を一番身近に見られる八達嶺などは多分駐車場待ちのバスが延々と連なり、半日がかりだろうと想像する。人々が集まればゴミの山が出来る。きちんとゴミ箱に捨てる人もないではないが、大抵ポイ捨てだ。高速道路からもぽいぽいとゴミは捨てられているだろう。

 大勢の観光客目当てに土産物売りの現地の人々も声をからし、袖をつかんで必死に商売をしている事だろう。目に浮かぶようだ。

 あのやかましさとマナーの悪さには散々うんざりしたのだけれど・・・その中国に当分行くのを控えなければならないと思うと、とても淋しい。そしてあろうことか、あのエネルギッシュな喧噪がとても懐かしい。

 中国に行きたい。

放送禁止

 中国メディアを統括する国家広播電影電視総局は、日本に関わる番組の放送禁止を各テレビ局に通達した。今のところ口頭通達で文書通達ではないが、10月から一切日本のドラマの放送はなくなった。

 さらに動画サイトからも一斉に日本の番組が消えた。日本のドラマのファンは多く、この措置に批判も多いが、ネットでは、動画サイトは殆ど海賊版を流していただけだから日本は特に痛痒は感じないだろう、と嘲笑している。

 既に書店からは日本の本が撤去されている。今に日本の歌手も中国で歌えなくなるだろう。中国は国交を断絶でもしようというのだろうか。狂気の沙汰である。

富士山占領

 江蘇省南京市の男性が、4歳の息子とその姉を連れて富士登山をした。山頂で「釣魚島は中国領」と主張するパフォーマンスを計画していたという。食料や飲料水、防寒具を持たずに登山した為、飢えと寒さで疲労困憊、八合目の山小屋に必死の思いでたどり着いた。子供のようすを見かねた日本人から、手袋や帽子、衣類をプレゼントされ、下山を勧告されてそのまま下山した。
 
 この男性は途中に売店位あるだろう、と軽い気持ちで五合目から登り始めたという。富士山は既に登山のシーズンも終わって初冠雪もあり、装備無しで登るのは危険である。気温零度近い寒気の中、子供は途中から歩く事も出来なくなっており、危険極まりないことであった。

 帰国してこのことが話題となり、大馬鹿者、と非難されている。日本人に助けられた事も恥さらし、と云う訳だが、もし日本人が万里の長城で同じ事態になったら、殴り殺されていただろう、と云う意見に皆納得し、中国と日本の違いに始めて気が付いた人も少しいるようである。

飛行機を乗せない空母

 先月末に中国は初の航空母艦「遼寧」を海軍に配備した。一年に亘り、試験航海を行い準備万端と発表しているが、未だに戦闘機が艦上に見られず、発着の容子を全く見る事がない。ロシアやアメリカは性能的に艦載機の離着陸は難しいという観測を伝えているが、ついに中国のメディアもそのことに不審を伝えている。

 先般伝えた通り、ロシアはこの空母をスクラップにするつもりでいた所、マカオの中国系の民間会社がレジャー施設にする、と云って1998年に購入。2001年に中国に回航されて大連港で空母に再生した。

 ロシアではこの空母を建造当時、原子力空母を想定していたが、途中で計画変更し、6.7万トンの通常空母となった。レジャー用として売却した為エンジンは備えられていない。中国ではこの空母の性能を生かす為のエンジンを持っておらず、生産設備も技術もない為に普通の船舶のエンジンを積んだ。そのエンジンの儘では艦載機の離発着は困難だと云う事だ。しかも甲板の構造上離陸の時の加速用のカタパルトが装備されていないようである。

 アメリカもロシアも絶対に中国に空母用のエンジンの情報を漏らさないように注意して欲しいものである。

 使えるものが出来れば使いたくなるのが人情で、張り子の虎の儘がありがたい。

「上海游記」・戯台(下)

 支那の芝居の第四の特色は、立ち廻りが猛烈を極める事である。事に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、軽業師と称するの当たれるに若かない。彼らは舞台の端から端へ、続けざまに二度宙返りを打ったり、正面に積み上げた机の上から、真っ逆さまに跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乗りの親類らしい気がしてしまう。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青竜刀や何かを振り回して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云う事だが、これでは腕力がなかった日には、肝心の商売が勤まりっこはない。しかし武劇の名人となると、やはりこういう離れ業意外に、何処か独特の気品がある。その証拠には蓋叫天が、宛然(さながら)日本の車屋のような、パッチ履きの武生に扮するのを見ても、無暗に刀を振るう時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者武生らしい、凄味に富んでいるかわからない。
 勿論こう云う特色は、支那の旧劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何処までも新しいかと云うと、亦(えき)舞台とかに上演していた、売身投靠(ばいしんとうこう)と云うのなぞは、火のない蠟燭を持って出てもやはり見物はその蠟燭が、ともっている事と想像する。--つまり旧劇の象徴主義は依然として舞台に残っていた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此の点ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だったと云う外はない。少なくとも雨とか稲妻とか夜になったとか云う事は、全然見物の想像に依頼するものばかりだった。
 最後に役者の事を述べると、--蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の緑牡丹である。私が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或いは実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後ろの、壁が剥げた、蒜(にんにく)臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋が綺麗な事だったと云うが、こういう楽屋に比べると、成る程帝劇の楽屋なぞは、驚くべき綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子は殆ど百鬼夜行の図だった。そういう連中の通り路から、ちょいと陰になった所に、支那鞄や何かが抛りだしてある。緑牡丹はその支那鞄の一つに、鬘だけは脱いでいたが、妓女蘇三に扮した儘、丁度茶を飲んでいる所だった。部隊では細面に見えた顔も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も私に比べると、確かに五分は高いらしい。その夜も一しょだった村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧そうな女形と、互いに久闊を叙し合ったりした。聴けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だった頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのだそうである。私は彼に、玉堂春は面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云う日本語を使った。そうして--そうして彼が何をしたか。私は彼自身の為にも亦わが村田烏江君の為にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚だ済まない次第である。その為に完全正筆を使うと、--彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の刺繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ。

2012年10月 3日 (水)

映画「ビッグ・トラブル」1986年アメリカ映画

 監督ジョン・カサヴェテス、出演アラン・アーキン、ベヴァリー・ダンジェロ、ピーター・フォーク。

 アメリカのコメディータッチの映画はあまり好きではない。面白いものに出会ったことがない。あんなものが面白いと思う神経がわからない。だからそのような映画は基本的に見るつもりはないのだが、先日のジャック・ブラック(全く面白くないコメディアンだ)のガリバー旅行記で、少しはましかと期待したのに裏切られたばかりなのに、ジョン・カサヴェテスの遺作でしかもピーター・フォークが出ているというのでつい期待してしまった。

 完全に時間の無駄。ストーリーは杜撰の極み、ラストの収まり方もあり得ないようなデタラメさだ。何処かに見るべきところがあるかも知れないと、それでもあきらめきれずに見続けたのだが、何もなかった。こんな映画で金を取るとはアメリカも落ちたものだ。駄作中の駄作として記憶に残る。

 2006年に同じ題名だが、ストーリーは全く違う映画がある。こちらはもう少しましな映画(のはず)らしい。間違わないようにしよう。

映画「終わりなき叫び」2010年フランス・ベルギー・チャド合作

 映画は坦々と進む。もちろん映像だからカメラマンがいて、主人公を追っているのだが、見ている観客は外部からそれを見ているのではなく、主人公そのものとなり、沈黙していても主人公と同じことを感じとり、思考する。愛する息子と妻への思い、そして誇りを持って従事しているホテルのプールの監視人という仕事。彼は若いとき水泳選手としてアフリカ大会に出たこともあることが自慢で、まわりの人も彼をチャンピオンと呼ぶ。

 彼の生活するチャドと云う国は、今内戦が激化しつつあり、平穏な生活に影を落としだしている。息子ともだんだん気持ちがすれ違うようになってきた。ホテルでも人員整理の動きが始まり、彼の親しかったコックも首になる。息子と二人で従事しているプールの監視人の仕事も、ホテルの管理人から、一人でも出来る仕事だ、と嫌みを言われる。

 しばらくして支配人から告げられたのは門番への配置換えだった。プールの監視人は息子一人が続けることになった。彼にとっては自分のプライドを息子に奪われたような複雑な気持ちであり、息子とますます気まずい状態になる。

 内戦はますます激しくなってくる。ついに息子が招集されてしまう。このことは地元の実力者に内示を受けていたことであったが、主人公はそれを回避する為の手立てを全く尽くさなかった。それは彼に深い罪悪感をもたらした。

 内戦がさらに激化、町は避難する人であふれかえる。その中、彼はサイドカーに乗って、人々とは全く逆方向に走り出す。前線の息子のもとへ行こうというのだ。幾つもの検問を何とかくぐり抜け、ついに探し当てた息子は瀕死の重傷を負っていた。息子は昔父子で仲良く泳いだことをうれしそうに語り、またお父さんと一緒に川で泳ぎたいなあ、とつぶやく。その息子を乗せて主人公は密かに前線を走り去る。

 ラストの朝日にきらめく川の風景はとても美しい。

呉智英「真実の『名古屋論』」

 著者の本は若いときから読んでいた。時々読み返すこともある。さらさらと読めてしまうのに結構考えさせてくれる。最近著書を拝見していなかったが久しぶりに新刊を見たので購入した。

 「くれともふさ」と読むが「ごちえい」でもかまわないと著者は云っていたことを思い出す。舌鋒鋭く論敵を完膚なきまでに打ち砕き、見ているだけで快感を覚えるが、やられる方はたまらないだろう。結構しつこい所がある。しかしそれでも嫌みを感じないのは其処にそこはかとないユーモアがあるからだし、やっつけられる相手にはそれなりの理由がある。

 この本では巷間名古屋について流説している俗論の誤りを、一つ一つ取り上げて如何に好い加減なものかを暴き立てる。今回標的にされた一人が、自称県民性評論家・岩中祥史である。まずこの人の書いた「中国人と名古屋人」という本がトンでも本として俎上に上る。この本の名古屋人に関する記述の論拠が、内村鑑三が地方新聞に書いた中国人と名古屋人についての文章であった。明治時代に書かれたものである。しかもこの文章の主題は信州人の気質についてのものである。

 この文章では、信州人は愚にして頑であるという。愚にして頑とは馬鹿正直のことで、内村鑑三はだから信州人に奸物はおらず、明治の偽善政府の治下ではこのような県民性を評価したい、と云うのが主旨である。そして「救済の希望絶無なるものは、知恵のある者なり。中国人のごとき、名古屋人のごとき、ほとんどこの絶望の淵に瀕するなり。」と中国人と名古屋人の世知にたけた小賢しさを非難しているのである。

 これをもとに岩中祥史という人は「中国人と名古屋人」という本をでっち上げた。本人がその本にそのことを引用して論拠としているから間違いがない。

 ここから著者はこの本のインチキであることを明らかにする。このとき内村鑑三が中国人、としたのは現代の日本人が考えるような中華人民共和国(当時の清)のことではない。当時の日本では、中国という言い方はせず、支那と云っていたのだ。しかも当時の明治政府が長州閥であることを内村鑑三は問題にして批判していたのである。おわかりであろう、ここで云う中国とは中国地方という意味での中国であり、当時の人には間違いようがなかった。

 つまり岩中祥史という人は勘違いをもとに名古屋論をでっち上げてしまったのだ。この岩中祥史という人、細木数子の「六星占術 あなたの運命」という本の編集をして大ヒットを飛ばし、それから名古屋についての本を次々に出して有名になり、何時の間にか県民性の専門家と云うことになって外の県についてもほらを吹きまくっている人なのだ。

 人は環境に影響を受けるから、県民性のようなものはないとは云えない。「秘密の県民ショー」が成り立つ所以である。だが名古屋論の最初に書かれた本はトンでも本だった。

 岩中祥史についてはさらに鋭くそのインチキ性を暴き立てている。面白いがキリがないのでここまでにしておく。この調子で名古屋についての俗説を一つ一つ分析して間違いを指摘している。名古屋人は読むべし、と云うよりも名古屋について何らかの思い込みをしている人は誤りを正す意味で読んでみたらどうだろうか。如何に自分が俗説に惑わされているかを知ることが出来る。

宮崎哲弥著「新世紀の美徳」(朝日新聞社)

 テレビでおなじみの著者の本である。全編が書評をもとに日本の文化的状況を論じたものとなっている。この本は2000年に出版されているので、世紀末の日本を読み解く、と帯にある。

 超人的な読書量を誇る著者にはかねがね敬服しているが、私の敬愛する内田樹先生が、この著者をあまり評価していない気配なので、昔購入しながら読み掛けになっていたこの本を改めて最初から読んで、その理由を捜してみようと思った次第である。

 取り上げた本についてダメなものはダメ、評価できるところは評価していてその論旨は明快。特に不愉快な所は見当たらない。時々小林よしのりたちと論争を繰り広げているのはご愛敬か。

 主張していることに同感出来ないものがあるのはもちろん当然のことなので良しとして、さて全部を読み終わったとき、読了の満足感が希薄なことに気が付いた。著者の言い分は間違っていない。細かい突っ込みをいれたくても特に何もない。そして再びこの人も本が読みたくなることもないだろう。

 彼は沢山の情報源から人の知らない新しい情報を提供してくれる。そのことはいつもテレビで見ていて評価している。少ない言葉で的確にコメントを述べる能力があり、コメンテーターとしては有能であろう。

 この本を読んだ後、この人の思想はこちらに影響を与えなかった。肌合いが多少違うせいかもしれない。声量もあって、絶妙に歌がうまいけれども、ちっとも心を打たない歌を聞いた気がする。なるほど、なるほど。だから?

「上海游記」・戯台(中)

 その代わり支那の芝居にいれば、客席では話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或いは支那の事だから、たとい見物が静かでなくとも、聴戯には差し支えが起こらないように、こんな鳴り物が出来たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向こう三軒両隣の君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった。
 支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使わない事である。背景の如きも此処にはあるが、これは近頃の発明に過ぎない。支那本来の舞台の道具は、椅子と机と幕だけである。山岳、海洋、宮殿、道塗(どうろのこと)--いかなる光景を現すのでも、結局これらを配置するほかは、一本の立木も使ったことはない。役者がさも重そうに、閂を外すらしい真似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意気揚々と、房のついた韃を振りまわしていたら、その役者の股ぐらの下には、驕って行かざる紫騮(しりゅう・栗毛の馬)か何かが、嘶いているなと思うべきである。しかしこれは日本人だと、能というものを知っているから、すぐにそのこつを呑みこんでしまう。椅子や机を積み上げたのも、山だと思えと云われれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちょいと片足を上げたら、其処に内外を分かつべき閾があるのだと云われても、これまた想像に難くはない。のみならずその写実主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささえ見る事がある。そういえば今でも忘れないが、小翠花が梅龍鎮を演じた時、旗亭の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色(ひわいろ)の褲子(クウズ)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかったとしたら、あんなに可憐な心もちは起こせなかったに相違ない。
 この道具を使わない所は、上に述べたような次第だから、一向我々には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使われる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとえば今の梅龍鎮にしても、つらつら戯考を按ずると、当世に起こった出来事じゃない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎮の旗亭の娘、鳳姐を身染めると云う筋である。ところがその娘が持っている盆は、薔薇の花を描いた陶器の底に、銀鍍金(ぎんめっき)の縁なぞがついている。あれはどこかのデパアトメント・ストアに、並んでいたものに違いない。もし梅若万三郎が、大口にサアベルをぶら下げて出たら、--そんな事の莫迦莫迦しいのは多言を要せずとも明らかである。
 支那の芝居の第三の特色は、隈取りの変化が多い事である。何でも辻聴花翁によると曹操一人の隈取りが、六十何種類もあるそうだから、とうてい市川流所の騒ぎじゃない。その隈取りも甚だしいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽っている。まず最初の感じから云うと、どうしても化粧とは思われない。私なぞは武生の芝居へ、蒋門神がのそのそ出てきた時には、いくら村田君の説明を聴いても、やはり仮面(めん)だとしか思われなかった。一軒あの所謂花臉(ホアレン)も、仮面ではない事が看破出来れば、その人は確かに幾分か千里眼に近いのに違いない。

2012年10月 2日 (火)

映画「センチュリオン」2010年イギリス映画

 監督ニール・マーシャル、出演マイケル・ファスベンダー、オルガ・キュリレンコ。舞台は2世紀初頭(ローマ時代)のブリテン島北部。センチュリーがローマ軍の百人組の意味で、センチュリオンは、だから百人組隊長、主人公のクイントゥス(マイケル・ファスベンダー)のことである。

 当時ローマ軍は覇権をブリテン島まで拡げ、全土の征服を謀ったが、北部の寒冷な気候と、急峻な山河を利用したピクト人のゲリラ的な反撃に悩まされ、前線は膠着状態に陥っていた。

 ローマ軍は一気に戦局の打開する為、第9軍団を前線に投入する。軍を率いるのはウィリリス将軍。先導役にエティン(オルガ・キリレンコ)という現地人の女を連れて行くように命令される。エティンは下を切り取られている為に口が利けないが、狼のような能力を持ち、敵を察知することができると云う。将軍は彼女の同行に難色を示すが、命令には従わざるを得ない。確かに彼女の能力は並外れていることもわかる。

 それよりしばらく前、最前線のいくつかのローマ軍の砦が次々に襲われる。主人公のクイントゥスも必死で防戦するが、衆寡敵せず、殆どが殺されるが、激しく戦い続けた彼だけとらわれの身になる。敵の部落の中で屈辱の日々を送る中で、彼はある夜、決死で脱出する。必死の逃避行の後、土地に詳しい彼らに追いつかれ、まさに再び捕らわれそうになったその時、エティンを伴ったローマ軍の斥候部隊に遭遇する。クイントゥスは九死に一生を得、将軍に従軍することを誓う。

 エティンの先導でローマ軍は進軍する。敵は間近にいる。山間の山林を部隊が進むと突如大きな火の塊が両方の山からいくつも転げ落ちてくる。必死で防御体系を取るが、徐々に隊形が崩れ始めたその時、敵の大軍が一気にローマ軍に襲いかかる。敵による一方的な殺戮の中、ローマ軍は殆ど壊滅し、将軍はとらわれの身となる。

 敵が引き上げた後、辛くも生き延びた兵士が集まる。クイントゥスもその一人であり、全員に推されて彼が指揮者となる。クイントゥスは将軍の救出を命令する。

 それから将軍の救出劇、そして再びの逃避行が続けられるのだが、それはそのまま彼らとエティンとの闘いでもあった。エティンが敵の王から送り込まれた裏切り者であったことに激しい憤りを感じる兵士たちだが、エティンにはエティンの理由があった。

 絶望的な闘いの中で僅かな兵士が次々に倒されていく。彼らに望みはあるのか。エティンの追跡能力は神がかり的である。

 またイギリス映画を見てしまった。100分足らずの映画なのに中身は極めて濃い。戦闘シーンの血しぶきはリアリティがありすぎてこの映画はWOWWOWではR-15指定になっている。内容が暗すぎるからか、日本未公開だが、ビデオは発売されているらしい。迫力のある面白い映画であった。特にエティン役のオルガ・キュリレンコが良かった。

抽象的思考能力欠如

 一月以上前のネタなのだが、鮮度とは関係ない記事であり、見逃しにしにくいものだったので、あえて取り上げる。
 
 ニューヨークタイムズは「言語と中国の実用的創造力」という記事を掲載した。ある作家が、漢字が想像力を著しく阻害する、と説いた文章をもとにして、漢字は膨大な記憶力を必要とする為に、暗記中心の教育になり、抽象的な思考や分析力を失ってしまうと決めつけている。

 漢字が嫌いな人には喜ばれる主張かも知れないが、こんな粗雑な決めつけは、何となく西洋の優越主義のにおいがする。

 言葉を覚えるのに記憶力がいらないはずがないわけで、アルファベットが読み書き出来れば文章が全て理解出来るならいざ知らず、そもそも意味のない表音文字の場合は、全ての単語のスペルを記憶しなければならないと云うことを忘れている。表意文字は確かに記述するときに手間がかかるが、そのことが反って脳のイメージ創出能力育成に寄与しているという学説もある位だ。

 この粗雑な論を張っている作家やニューヨークタイムズの編集者が英語も駆使し、同時に漢字も使いこなしている中での結論なら、ある程度耳を傾ける値打ちがあるが、まず間違いなく漢字なんか殆ど知らないだろう。知らないものを否定してかかる、このような論説を見るとその無知に対する恥知らずさに怒りを覚える。

 私は英語が苦手で漢字が好きだが、英語を使う人々に対して知能がどうのと云うつもりは全くない。

 最後にこの記事は、中国人には深い創造力はない代わりに、既存のものを改良する実用的創造力が備わっている、と言い訳している。

 何を言っているのか意味不明だ。

泣き寝入り

 浙江省寧波市のある女性が、銀行のATMで500元を引きだした。そのまま近くの店で買い物をして支払おうとしたら偽札だと云って突っ返された。この女性の通報で警察が急行、銀行に赴いて正規の札に交換するよう要求した。
 
 ところが銀行は交換を拒否。この偽札がATMから出たという証拠がない、と云う理由だ。ATMには偽札の識別機能が備えられており、それも拒否理由と云えるのだが、稀にそれをすり抜けるものがあるという。その上機械のメンテナンスが不十分でほこりなどがたまると識別能力が低下するそうだ。だから銀行はそれを強く主張しない所が笑わせる。

 結果的にこの女性は泣き寝入りとなったようだ。これを伝えた記事では、何枚かの紙幣がATMから出てくれば違いがわかるはずであり、十分注意するように勧めている。中国では綺麗な札は偽札と疑われることがある。紙幣や硬貨は信用券である。これが常に疑わなければならないと云うことは、国家そのものが信用出来ないことの象徴だ。

作田明著「現代殺人論」(PHP親書)

 著者は精神科医で、犯罪心理学、病跡学が専門。

 著者は、人は誰でも殺人者になり得るという。人を殺したい程憎んだことはなくても、ある人間がこの世からいなくなって欲しいと願ったことのない人はいないだろう、と云うのだ。また、人は独占欲から殺人を犯すこともある。人に奪われる位ならいっそ自分の手で、と云う奴である。

 一生殺人など犯さない人が殆どである。殺人者とそのような人との違いは、実は紙一重だと著者は云うのだが、私はずいぶんとその差があると常識的に思う。

 殺人論という学問があるのだ。コリン・ウィルソンに古来からの殺人鬼についての膨大な著作(「殺人百科」ほか多数)があるが、あれは特殊な殺人鬼の犯行の一部始終がこれでもか、と書かれた、真剣に読んでいると頭がおかしくなるような本で、人間の極北を見せられる思いがするものだったが、この本は著者が色々な殺人者を精神病理学的に分類したものだ。

 当然分類項目ごとの具体的な殺人者の例が挙げられている。それによって分類の根拠を説明しているのだが、そして確かにそう云われればそういう分類も成り立つのだが、ついに最後まで私は殺人者は殺人者でしかない、と云う意識を脱することが出来なかった。

 ただ著者が、殺人者は全て精神異常者であるから、精神科の治療を受けさせる対象である、と云う一時期アメリカで流行った(反発が大きくて、今は全くなりを潜めているという、所が日本は遅れてそのような思想が流行し始めている)精神科万能主義には与していないことに安心した。精神疾患があるから無罪、という単純な考え方の難点を突き、殆どは一般人と同様に刑に服するべきだとしている点は同感である。

 精神疾患者が実刑を受けると多くが健常者よりも長く、ときには一生実社会に出ることが出来ない、と云うのは事実なのだろうか。

 また一般の人が一番知りたい所は精神鑑定が本当に妥当なものなのかどうかについてもいろいろ説明があり、判定に違いが生ずる理由も頷けた。

 さらに日本の裁判の有罪判決率が、欧米と比べて異常に高いことについて、改めて問題点が提起されていた。日本は検察のプライドが高すぎて砂上の楼閣になっているのかも知れない。この本の主題ではないが、参考になった。

「上海游記」・戯台(上)

 上海では僅かに二三度しか、芝居を見物する機会がなかった。私が速成の劇通になったのは、北京へ行った後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生(ウウシヨン)では名高い蓋叫天(がいきゅうてん)とか、花旦(ホアタン)では緑牡丹とか小翠花とか、兎に角当代の名伶があった。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はっきりと読者には通じないかも知れない。
 私の行った劇場の一つは、天蟾(てんせん)舞台と号するものだった。此処は白い漆喰塗りの、まだ真新しい三階建てである。その又二階だの三階だのが、ぐるりと真鍮の欄干をつけた、半円形になっているのは、勿論当世流行の西洋の真似に違いない。天井には大きな電燈が、煌々と三つぶら下がっている。客席には煉瓦の床の上に、ずっと籐椅子が並べてある。が、苟も支那たる以上、籐椅子と雖も油断は出来ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐っていたら、兼ね兼ね恐れていた南京虫に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまず芝居の中は、大体不快を感じない程度に、綺麗だと云って差し支えない。
 舞台の両側には大きな時計が一つずつちゃんと懸けてある。(尤も一つは止まっていた。)楚の下には煙草の広告が、あくどい色彩を並べてある。舞台の上の欄間には、漆喰の薔薇やアッカンサスの中に、天声人語という大文字がある。舞台は有楽座より広いかも知れない。此処にももう西洋式に、フット・ライトの装置がある。幕は、--さあ、その幕だが、一場一場を区別する為には、全然幕を使用しない。が、背景を換える為には、--と云うよりも背景それ自身としてはね蘇州銀行と三砲台香烟即ちスリイ・キャッスルズの下等な広告幕を引く事がある。幕は何処でもまん中から、両方へ引く事になっているらしい。その幕を引かない時には、背景が後ろを塞いでいる。背景はまず油絵風に、室内や室外の景色を描いた、新旧いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維が馬を走らせるのも、武生が人殺しを演ずるのも、背景には一向変化がない。その舞台の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持った、支那の御囃しが控えている。この連中の中には一人二人、鳥打ち帽をかぶった先生も見える。
 序でに芝居を見る順序を云えば、一等だろうが二等だろうが、ずんずん何処へでもはいってしまえば好い。支那では席を取った後、場代を払うのが慣例だから、その辺は甚だ軽便である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが来る、活版刷りの番付が来る、茶は勿論大土瓶が来る。その外西瓜の種だとか、一文菓子だとか云う物は、不要(プヤオ)不要をきめてしまえば好い。タオルも一度隣にいた、風貌堂々たる支那人が、さんざん顔を拭いた挙げ句鼻をかんだのを目撃して以来、当分不要をきめた事がある。勘定は出方の祝儀とも、一等では大抵二円から一円五十銭の間かと思う。かと思うと云う理由は、いつでも私に払わせずに村田君が払ってしまったからである。
 支那の芝居の特色は、まず鳴り物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇--立ち廻りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、とうてい天声人語所じゃない。実際私も慣れない内は、両手に耳を押さえない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴り物が穏やかな時は物足りない気持ちがするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴り物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである。「あの騒々しい所がよかもんなあ。」--私は君がそういう度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした。

2012年10月 1日 (月)

映画「パーフェクト・センス」2011年イギリス映画

 監督デヴィト・マッケンジー、出演ユアン・マクレガー、エヴァ・グリーン。

 またまたイギリス映画。それも寓意的な映画。だからストーリー的なものを紹介するのが難しい。

 全世界の人々が、五官を一つずつ失っていく。原因は不明、対策もなし。感染症のようだが、どのように伝播していくのかもわからない。人々は突然激しい悲しみの感情に襲われて、その後にまずにおいを失う。記憶にはにおいが伴う。人々から懐かしい思い出が失われていく。

 しかしひとは生きていかなければならない。何時の間にかにおいのない世界に慣れ、日常が戻って来る。

 次に人々は激しい渇望の後にある感覚を失う。失う感覚の順番にも意味があると思うのでそれは語らない。

 人々が次々に感覚を失う中で出会った主人公二人が、そんな中でも愛し合い、互いを求め合うのだが、ついに別れることになってしまう。

 そして次々に失われていく感覚の中で、ある感覚をまさに失う直前に互いは全てを許し合い、かけがえのないものとして再び抱き逢うのであった。めでたくないけどめでたし、めでたし。

 人類の滅亡と真の再生(再生の場面は期待して貰ってもありませんが)についての寓意なのだろうが、不思議な映画であり、解釈はいかようにも出来そうだ。

中国の栄養を吸い上げる

 中国の特許における日本企業の比率は25%だという。この記事に続いて次のような恐るべき論説が立てられた。

 尖閣問題をきっかけにして日本製品のボイコットを呼びかけているが、日本製品は中国の隅々にまでおよんでいる。それだけではない、目に見えない特許という形で日本企業はしっかりと中国に食い込んでいる。その価値は工場などの有形資産を上回っている。日本は失われた20年などと云って経済停滞に苦しんでいるように見せて、実は特許を通じて高度成長している中国からしっかりと栄養を吸い上げている。

 まるで日本が特許の権利を行使することが犯罪を犯してでもいるような物言いだ。この根底には特許などと言うものの価値を理解出来ない彼らの、あわよくばそんなものは無視してしまえと云う魂胆が見えている。知的財産を無視する国にはWTOに参加する資格はない。

 ここにも造反有理、愛国無罪の中国の病理が覗いている。中国は醜悪な国になりつつある。

ボケ、始まる

 糖尿病からアルツハイマーに至る道が生理学的に明らかにされた話は先日書いた。慌てて脳を活性化させる為に散歩を再開した。しかし手遅れだったらしい。ブログを書いてアウトプットに努める、と云うのも効を奏していないのか・・・。

 本日は名古屋へ出かけて雑用をこなし、歩き倒し、買い物をいろいろして帰ってきた。あれを買おう、これを買おうと一応心に決めていたものがある。そして迷っているものもある。そして既に買ったので不要なものもある。なんと買わなくていいものを二つも買い、買わなければならないものを買い忘れていた。

 自分が信じられない。うっかりすることは今までも度々あった。それなら自分で納得出来ないことはない。それが今回はどうしても納得することが出来ない。

  先日は年下の友人と呑んだとき、映画の題名、俳優、監督の名前が悉く出てこないことに愕然とした。今までは特定の人をど忘れすることはあっても殆ど出てこないというのは初めてだった。どうも頭の中の映画の部門の倉庫のドアが開かなくなっているみたいだ。幸い、翌日になって次々に思い出したのだが、これでは会話にならない。Sさん、ごめんね。またこのボケかけの老人とつきあってください。

 頭に靄がかかったようなときにこんなことが起こるような気がする。回路が切れかかっているのだろうか。今に間違ったことにも気が付かなくなるような気がして怖い。

家庭出身

 中国当局が、大学卒業生にたいして「職業的発展」と「家庭出身」の調査を行った。つまり親の社会的地位と子供の就職と社会的地位との関係を調べた。
 
 それによると回答者の75%以上が「親の社会的地位が子の社会的地位をきめる」と回答している。約17%が「運命は努力で変えられる」と答えていると云うが、おおかたは一般人の認識と一致しているようだ。

 また精華大学での調査では政府官僚の子女は就職後の初任給が一般より有意に高いこと、就職率も高いことが確認されている。

 中国では大学卒の就職率が60%台と低く、社会問題となっている。大卒の失業者が既に1000万人を超えている。これはホワイトカラーの就職口が限られている為であるが、大学卒業者は日本のようにブルーカラーに就業しようとしない。面子が許さないのだ。

 その上、その就職口の多くがコネによるものが優先され、実力で入ることは極めて難しい。この調査はそれを改めて確認したものになっている。これが大学生たちの不公平感の大きな原因になっているといわれる。

 しかし親のコネで就職出来た学生はそれをやましいことだと感じているだろうか。そしてコネのない学生が、もし自分にコネがあったら利用しないなどと云うことがあるだろうか。だからこれは善悪の問題としてとらえることは出来ない。

 中国社会の本質的な問題はここにあると思う。不公平感は極端に言えば善悪の問題ではなく嫉妬の問題である。賄賂でもそれ以外の犯罪でも、善悪ではなく損得で行われている社会である。中国はこの宿痾を脱するときがあるのだろうか。

 しかし多かれ少なかれこの宿痾はどこの国にもあるものかも知れない。山本夏彦が世の中を見切ってシニカルに生ききったのはこのことを誰よりも見抜いていたからだろう。何となく生きる気力を阻喪させるようなことに気が付いてしまった。

「上海游記」・城内(下)

 今更云うまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下回りの判官や鬼隷も暇じゃない。城隍が廡下(ぶか)に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒らし回った泥棒を斃死させてしまう。--と云うと好い事ばかりのようだが、狗の肉さえ供物にすれば、悪人の味方もすると云う、賊城隍がある位だから、人間の女房を追い廻した報いに、肘を折られたり頭を落とされたり、天下に赤恥を広告する判官や鬼隷も少なくない。それが本だけ読んだのでは、何だか得心の出来ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴったりと来ない。其処が歯痒い気がしたものだが、今この城隍廟を目の当たりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出来上がっていても、その想像の生まれた因縁は、一々成る程と頷かれる。いやあんな赤っ面の判官では、悪少の真似位は するかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂々たる儀衛に囲まれた儘、夜空に昇るのも似合いそうである。
 こんなことを考えた後、私は又四十起氏と一しょに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具、甘藷の茎、貝釦、手巾、南京豆、--その外まだ薄穢い食物店が沢山ある。勿論此処の人の出は、日本の縁日と変わりはない。向こうには派手な縞の背広に、紫水晶のネクタイ・ピンをした、支那人のハイカラが歩いている。と思うと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足の靴が二三寸しかない、旧式なお上さんも歩いている。金瓶梅の陳敬済、品華宝鑑の谿十一、--これだけ人の多い中には、そう云う豪傑もいそうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくもいそうじゃない。言い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥褻な、残酷な、食い意地の張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の亭(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有り難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追々流行らなくなった。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。
 それから我々は引き返して、さっきの池の側にある、大きな茶館を通り抜けた。伽藍のような茶館の中には、思いの外客が立て込んでいない。が、其処へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥、--ありとあらゆる小鳥の声が、目に見えない驟雨か何かのように、一度に私の耳を襲った。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下がっている。支那人が小鳥を愛する事は、今になって知った次第じゃない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の声を闘わせようとは、夢にも考えなかった事実である。これでは鳥の声を愛する所か、まず鼓膜が破れないように、、匆々両耳を塞がざるを得ない。私は殆ど逃げるように、四十起氏を促し立てながら、この金切り声に充満した、恐るべき茶館を飛び出した。
 しかし小鳥の啼き声は、茶館の中にばかりある訣(わけ)じゃない。やっとその外へ脱出しても、狭い往来の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しっきりない囀りが降りかかって来る。最もこれは閑人どもが、道楽に啼かせているのじゃない。何れも専門の小鳥屋が、(実を云うと小鳥屋だか、それとも又鳥籠やだか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねているのである。
「少し待ってください。鳥を一つ買ってきますから。」
 四十起氏は私にそう云ってから、その店の一つにはいって行った。其処をちょいと通り過ぎた所に、ペンキ塗りの写真屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ間、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳(メイランファン)の写真を眺めていた。四十起氏の帰りを待っている子供たちの事なぞを考えながら。

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