論争の歓び
論争は自ら依って立つ論拠の構築物の見せ合いである。だから勝ったとか負けたとか云う事とは無縁の筈である。自分の依って立つものを説明し、誇示し、それをもって自分自身を明らかにする。同時に相手の論理的構築物を吟味し、自ら足らなければ補うものである。そのことに何の敗北感も生じない。
アメリカ式のディベートを時々テレビなどで見聞きする。このディベートは勝ち負けを問題にする。ディベートは時に折伏である。宗教的に相手を征服することに似ている。ここには互いに高め合うという発想が見られない。
酔った勢いもあって一方的な自論の展開を行ったら、息子から突っ込みがあった。事実と推論は区別して話すべし、という。
その通り。しかし自然科学ではないものには事実の積み重ねでの論などそもそもあり得ない。もちろん突っこまれた通り私は推論を断定的に語っている。
だが事実の背景の検証にこだわるな!現実世界の向こう側に何があるのか、全知性を傾けて世界を空想して認識せよ、と私は云いたい。
こうして論争(といえるほどのことでもないが)をすることで私は彼に私を明らかにし、私を伝える。そして彼のメーセージを記憶に留めることで彼を受け入れる。これが歓びでなくて何であろうか。
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