椎名誠「ロシアにおけるニタリノフの便座について」(新潮文庫)
全七編の短文集。「ロシアにおけるニタリノフの便座について」。ロシアの便所の想像を絶する汚さをこれでもか、と云う怪文で綴っている。徹底的にその様子を描き尽くすことで読者は眼前にそれをリアルに見、場合によって臭気すら嗅ぐことであろう。
「万年筆いのち」。失恋の思い出に直結するある万年筆に始まり、こだわり続けた万年筆との数々の物語が語られる。物書きとして万年筆はとても大事なもので、よかれと思って選び抜いて購入した万年筆にも裏切られ、未だに意中の万年筆に出会えない悲しみが綴られる。あまりに悪筆なため、今はパソコンからのキーボード入力になっているが、この文章が書かれた時にはまだ万年筆にこだわっていたようだ。万年筆は椎名誠の物や人へのこだわりを象徴するものでもある。
「初めての川下り」。カヌーイストの野田知佑氏からカヌーを貰い、二人で椎名誠の故郷の花見川を上流から海まで下る。田園風景の中からやがて人家の中へ進むとたちまち川はその排泄物のたまり場と化してほとんど死にかけている様相を呈する。それを哀しみと共に見つめる。
「自動車たいへん記」。四十になって一念発起して運転免許を獲得すべく自動社学校へ通う。そこで出会った異常な教員たち。怒りはほとんど沸騰点に達するのだが、免許取得のために彼は堪え忍ぶ。けんかっ早い彼には考えられないほどの忍耐だ。やがて彼等の社会とは乖離した異常さの原因に思い至り、悟りの境地に至る。(至らないか)
「ストロングな波」。子どもの時から大きな波を見ることに憧れ続けた彼は、ついに八丈島で想像を絶する波の話に遭遇する。堤防で夢中になって波の撮影をしていた彼をオバケ波が襲う。
「梅雨のかたまりをとびこえる話」。仕事で飛び回り、広島で梅雨入りの知らせを聞いた彼は沖縄へ向かう。糸満の人たちを取材し、さらに南端の島、座間味に向かう。その時沖縄地方の梅雨明けの知らせを聞く。
梅雨のかたまりを飛び越えたのだ。
「まつりはいいなあ」。日本のあまり知られていない地元だけの祭りを訪ねて歩いたものである。観客がほとんどいない祭りもある。しかしそこには祭りの主役は祭りを行う人たちであって、観光客を喜ばせるものではないのだ、と云う祭りの原点がある。祭りは参加している者のものであり、見物人はあくまでよそ者なのだ。
怒りを過剰な形容詞に託して読むものを楽しませてくれる。怒っている人は端から見たら可笑しいものだということを椎名誠は承知しているのだ。
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