過剰な悔やみ
勘三郎が死んだ。歌舞伎界の至宝が失われた、などとその死を悼む声が多い。だがまだ勘三郎は至宝ではなかったと思う。多分これから10年くらいこそが歴史に残るような名演技を見せる所だったように思う。今までは沢山の交遊などでいろいろな物を蓄え続けてきた時代で、それを自分の血肉として表現に厚みと奥行きを加えていったのではないか。それを永遠に見ることがかなわないことを悼む。
10年ちょっと前に志ん朝が63歳で死んだ。肝臓癌だった。この人も本物になってきた所で、このまま行けば親の志ん生を超えるかも知れない、と思われた。至芸をこれから見せてくれるはずのところで死んでしまった。
志ん朝については落語はもちろんだが、池波正太郎の鬼平犯科帳の朗読が忘れられない。その中の「血闘」と云う物語で、おまさが悪人達にとらわれの身になった所へ平蔵が単身で飛び込んでいく。その迫力、おまさの心もち、平蔵の怒り、全てが朗読の中に込められていた。名人芸だった。
テレビでは朝から晩まで競争で延々と勘三郎を追悼する番組を繰り返している。あのハイエナのようなルポライター達が神妙な顔で勘三郎の身内のような話をしている。
過剰な悔やみは死者を安らげない。彼等は勘三郎の死をとっておきのネタとして悔やみを演じているように見える。好い加減にして静かに送ってあげないか。
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