本屋が減っている、という実感は十年くらい前からあった。ただ、その頃は、小さな本屋で、置いている本に何の工夫もなく、よれよれになった雑誌を平気で置いているような本屋が閉店しているという印象だったので、当然だろう、と思っていた。駅前一等地のシャッター街と同様の現象だと感じていた。
小売店がさびれ、スーパーのような大型店に集約されていくように、本屋も大型で郊外に駐車場を持つチェーン店になっていくようであった。
ところがその郊外のチェーン店が採算が合わないせいか、次々に閉店している。これは本大好き人間の私にとってゆゆしき事態である。
音楽CDがネットの配信音楽により、売れなくなってレコード屋が縮小、廃業に追い込まれているように、デジタルブックの普及により、本の売れ行きが落ちているのが理由だという。
確かにその側面はあるのかも知れないが、どうも本質は違うような気がする。
駅前の雑誌とベストセラーだけを置いていたような店が採算が合わなかったのは、工夫のなさと同時に万引きによる被害が大きいという。売り上げの5%以上が万引きされると利益が出なくなる。ひどいところは7%も万引きされていたという。ほとんどが中学生、高校生の仕業だ。
これは犯罪として摘発すべき事柄だが、いじめ問題と同様、学校がからむと余程のことがないと捕まえても無罪放免となって、いたちごっこになるという。
犯罪を犯す方は犯罪だという意識がなく、犯された方は生活が成り立たなくなる。その万引きを子供の遊びのように言ってかばう人間は犯罪を助長しているのであり、社会的に断罪されなければならないが、テレビで平然と笑いながら自分もやった、といっているのを見ることがある。日本も落ちたものだ。
しかし本屋の凋落はそれが理由ではない。
そもそも本が多すぎるのではないか。そして出版社も多すぎるのではないか。よくよく吟味された本が出版されるなら良いが、いまは低レベルの駄本がやたらに出版される。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、とばかりに、試しに出版してみる、というような本が多すぎる。編集者に目利きがいなくなったのではないだろうか。
本の数が多いから本屋も大型化した。だから小規模の本屋はやっていけなくなった。もちろん良い本をそろえたい、という店主もいた。ところがここに日本の本の流通を牛耳っている取次業者というのがからんでおり、本屋が自分で欲しい本だけを店頭に置く、ということが出来ない。
取次業者は本屋が売りたい本ではなく、取次業者が売りたい本を置かせようとする。その取次業者にはさらに本の目利きがいない。そもそも本が好きでは本のビジネスが出来ないシステムではないか、と首をかしげるようなシステムだという。
もちろんこれは読者が安く本を購入出来るように、しかも本屋に在庫の負担を持たせないように再販制度という仕組みがあるからだ。
農業が農協によりスポイルされたように、本屋もこの再販制度に護られて凋落した。自助努力を怠り、保護される産業はついには自滅する。
しかし問題はどうであれ、本をじかに手にとって眺めてさわってから購入したい私のような人間にとって、本屋が本当になくなってしまっては大変だ。
本屋に行くと一通り自分の興味のある本のコーナーを一巡する。新書のコーナーの平棚を見たら文庫本のコーナー、そして新刊の棚をひと渡り眺め、次に人文の歴史と思想のコーナーを見る。さらに中国関連の棚を一通りチェックする。
そうすると本の方から「私を読んで!」「私を買って!」と声がかかる。それを手にとって中を確認する。その作業を一通り済ますとだいたい十冊から二十冊の本が候補として選び出される。そして予算と相談して、優先順位に従ってその選ばれた本をかかえてレジに並ぶのだ。買われなかった本の怨みのまなざしを背に感じながら。
若いときは本屋へ行くと興奮してトイレが近くなった。物理的に読み切れないことが分かっていても、お金があまりなくでも本にかかる金はちっとも惜しいと思わない。
たぶん本当の本好きの人はほとんど同じ気持ちではないだろうか。
だからそのような人は決してデジタルブックに転じてしまうことはない。デジタルブックの利便性はよく分かるが、本を中身だけで読む人と違い、本を丸ごと愛する人は本屋が絶対必要だ。
駄本は全てデジタルブックにしたらいい。そうしたら本屋の棚が空く。本が高くなってもかまわない。良い本を置く本屋こそ残って欲しい。
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