無常観と自己犠牲
映画を見ていて思ったのだけれど、エンターテインメントでもシリアスなものでも、たいていのものに自己犠牲の場面がある。それが命を捧げることであったり、自分の人生や財産を捧げることであったり、またはもっとも自分が失いたくないもの捧げることだったりする。
「桜田門外の変」では「大儀」と信じたものに命を捧げていた。「真夏の方程式」ではかけがえがない人の秘密を守るために、犯罪者の汚名を被り、人生を捧げたのに「ありがとう」と云う。
アニメでも感動するものにはたいていこの自己犠牲のシーンがある。ただ(シリーズを維持するために)自己犠牲を選択したのに生き残らざるを得ず、不死身でないとやっていけなくなってしまうところが難だ。だって不死身なら自己犠牲にならないではないか。
キリスト教での殉教もある意味では信仰に命を捧げるという自己犠牲だ。キリスト教では神は絶対的存在であり、それを自分の命より大事だと思うのが正しいことであるとされてきた。この信仰を絶対視する考え方はいまは揺らいでいるけれど、その代わりに「愛」が絶対的なものだとされているように見える。
だから「愛の奇跡」としか云いようのない、時にはご都合主義的なドラマが数多くある。愛があれば奇跡が起こる、と思いたいけれど、現実にはそんなことはない。
西洋式の、信仰や愛が絶対的なもので、何にも優先することが正義であると云う思考方法は、キリスト教に育まれたものだろう。だから正義や真理に唯一絶対的なものが存在すると決めつけている。
それに対して日本にはそのような絶対的な真理や正義、信仰という考え方が根着きにくいようだ。日本人は何に対しても相対的な考え方をしているように思う。だから自己犠牲についても、絶対的なものに対してではなく、自分の価値観の優先順位で行う。
それは日本人の無常観、季節の移り変わりについての経験的な実感、農耕民族としての身についた世界観が、絶対的なものなどないと考えることにつながっているのではないか。日本人が桜の花に無常感を感じる心は、キリスト教的な世界観からは理解しにくいし、逆に、日本人には西洋的な殉教についても、今ひとつ得心がいかない。多分同じ自己犠牲についてもずいぶん違う受け止め方をしているような気がする。
このようなけっこう本質的な違いを抑えておくことは、互いの理解のために必要なことだろう。
ところで蛇足ながら、中国や韓国の価値感は西洋的なのか、日本的なのか。もちろんそれぞれ中国的で韓国的なのだろうけれど、それが物質的なものにあまりに重い価値を置いているとしたら、哀しいけれど何となく理解し合うのは難しいような気がする。多くの人はそんなことはない、と思いたいけれど。ことは精神、心の問題なのだから。
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