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韓国の国会議員再選挙・補欠選挙が15の選挙区で行われ、与党が11議席をとって圧勝した。
セウォル号の事件など、与党に逆風が吹いていたはずなのになぜなのだろう。
韓国の国民は韓国経済の先行きに不安を感じ始めているのではないか。野党が過半数をとるような事態になれば反対のための反対が横行して政治が不安定になり、経済的にマイナスになると思ったのかも知れない。
中国には農民の戸籍と都市住民の戸籍が厳然と分けられていることはよく知られている。建前にしても共産主義の国なのに身分差があるわけだ。
その戸籍を2020年までに統一するよう制度を改革するという。本当だろうか。
それでなくても農民が、暮らしが豊かに見える都市部に流入して問題になっているのに大丈夫だろうか。対策として、1000万以上の人口の大都市には農民層の流入制限を設けて抑制し、小都市や町なら住宅が確保できれば都市戸籍を持てるようにしていくらしい。
戸籍を分けて農民の移動を制限している現在でも農村からの流失は止まらない。貧富の差が大きすぎるからだ。農業人口が減少し不便なところの過疎化が急激に進むのではないか。
なによりも農業生産力が低下したら中国の食料は大丈夫なのだろうか。そんな心配があっても、あえて改革しなければならないほど中国は貧富の差による不満のエネルギーがたまっていて爆発しかねないことを中国共産党はおそれているのだろうか。
中国のもと中央政治局常務委員だった周永康がついに党籍を剥奪され、財産が押収される、と香港メディアが伝えている。
本人と家族の全ての財産を合わせると日本円にして1兆5000億円相当が押収されるそうだ。
こんな巨額の財産とは想像を絶する。頭の黒い鼠は彼だけではないだろう。共産党幹部は権力を利用してそれぞれ大なり小なり財産を蓄えていることは公然たる秘密だ。中国全体ではどれほどの額になるのだろうか。
もちろんこれは告発して粛清している習近平たちが清潔であることを意味していない。頭の黒い鼠が頭の黒い鼠を倒すための権力闘争に過ぎない。金の流れが変わるだけだろう。それでも中国は経済的に大丈夫なら、どれほど中国というのは懐が深いのだろうか。それに驚かされる。
監督モーリス・ピアラ、出演ジェラルド・ドパルデュー、サンドリーヌ・ボネール、モーリス・ピアラ他。第40回カンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞した作品。
オカルト映画みたいな題名だけど違う。日本人にはわかりにくい作品かも知れない。ドパルデューがこんな映画に出ていたとは・・・。若い(1987年なら当たり前だけど)。最初は主任司祭と助任司祭(ドパルデュー)の会話が延々と続き、助任司祭が宗教的なことで苦しんでいることが示される。ここを突破しないと最後まで見ることができない。
突如場面が転換し、侯爵や、医師で名士の人物と身体の関係を持っている成人前の奔放な女性が登場する。ここでも延々と会話が続けられ、彼女の苛立ちが伝わってくる。
また場面は転換し、助任司祭は用事で地方の村へ行くことになるのだが、そのはるかな道を徒歩で歩く。野を越え、山を越え、夜も歩き続ける助任司祭。疲労困憊した状態で彼はある男と道連れになる。男は別れ際に「自分は悪魔だ」と告げて立ち去る。
助任司祭はそこで倒れ、通りがかりの村人に助けられるのだが、突然彼は人には見えないものを見る能力が備わったことを識る。そして彼はあの女性を助けるために彼女の下へ駆けつける。
彼のその後の奇跡的な事蹟が示され、やがて彼は静かに生涯を閉じる、という啓示的な映画だ。
不思議な映画で、この物語の内容の意味は分かりにくい。カトリック信者ならもう少し分かるのだろうか、なにせパルムドール受賞作なのだから。面白さは感じられなかったけれど、何だか心に引っかかった映画だった。
監督ステファン・ルツォヴィツキー、出演エリック・バナ、オリヴィエ・ワイルド、チャーリー・ハナム、シシー・スペイセク他。
エリック・バナ、といえば「ハルク」ではないか。「アベンジャーズ」にもハルクとして出ていた。
居留民の賭博状から現金を強奪した犯人と、八百長試合で服役していてようやく出所したもとボクサーの運命が交錯する。強奪犯は男二人。その一人がアディソン(エリック・バナ)で、実は誰にも知られていない妹ライザ(オリヴィエ・ワイルド)が共犯として加わっていた。彼等はカナダの国境越えをしようと極寒地帯を車で疾走する。突然路上に現れたあるものが理由で車は大破し、アディソンとライザだけが生き残る。
アディソンは別々に国境をめざそう、といい、これからは兄妹であることを忘れるようにして行動し、国境の先で再開することになる。
ライザが路上で凍死寸前になりかけたとき、それを助けたのがジェイ(チャーリー・ハナム)。ジェイも出所後、自分だけが服役したことを恨みに、ボクシングジムの会長を殴り殺して逃走中だったのだが。
二人は互いの素性を隠しながら相手を利用しようとするのだが、次第に相手に引かれ合っていく。ジェイの両親が国境の近くに住んでいることを知り、二人はそこへ向かう。ライザは秘かにアディソンにその住所を連絡し、そこで合流することを提案する。
アディソンは次々に凶行を重ねながら教えられた住所の家へ向かう。そしてジェイ達二人もそこへ向かい・・・。
続けて寒くて冷たい映画を見た。面白い映画だろうと予感していたら的中した。これはお勧めだ。ちょっとグロイシーンがあることは覚悟して欲しい。ほんのちょっとだけれど。
ジェイの母親はなんとあの「キャリー」のシシー・スペイセクではないか。歳とったなあ。
寝汗をかき、長い夢を見て目が醒めた。連日だ。暑いし、この頃寝る前にハードな映画を見るからだろう。
そこらじゅうに金銀財宝がごろごろしていたら金銀財宝の値打ちは下がる。希少価値こそが値打ちを支えるものではないだろうか。美人だらけのなかにいたら美人も立つ瀬がない(韓国には本当に美人が多い。それが整形でも美人は美人だと本人も周りも思っている)。もちろん人はわずかな差違に必要以上に大きな価値の差をつけようとするものだけれど、それが空しいことだとうすうす気が付いている。
普通に生きていればしなければならないことだらけである。それに追われてしたいことがなかなか出来ないのが人生だ。出来ないからいつかそれを思うさま出来るようになりたいと願う。
定年後の一人暮らしは、経済的なことは別にして、しなければならないことがわずかになり、したいことをしたいだけ出来る・・・はずである。
堰(せ)かれて募る恋心。障害があってこそ恋は燃える。どうぞどうぞといわれたら熱はさめる。
したいことが好きなように出来ても、その喜びが昔ほどではないことに何となく気が付いて寂しい思いをするのが定年後の一人暮らしなのだ。
監督バルタザル・コルマキュル、出演オラフル・ダッリ・オラフソン他。
珍しいアイスランド映画。監督の名前に見覚えがあると思って調べたら(こう云うときにネット検索は便利だ)最近観た「ハード・ラッシュ」という、アメリカ・イギリス・フランス合作映画の監督だった。もともとこの人はアイスランド出身らしい。この映画はラストが爽快な犯罪映画だったが、「ザ・ディープ」のほうはだいぶ異色の映画である。
とにかく冷たい映画だ。冷たい、というのは精神的なものではなくて、物理的、身体的に冷たいのだ。アイスランドの冬と言えば極寒の世界である。そのアイスランドの冬の海で漁船が転覆する。船員たちは夜の海に投げ出される。気温はもちろん零度以下で、水温も5℃以下。最初励まし合っていた船員たちは体温を奪われ、次々に力尽きていく。夜明けまでは六時間以上あり、陸地までは5キロ近くある。他の漁船の灯がちらりと見えたりするのだが、それが現実か錯覚なのか分からない。
最後に一人生き残ったグッリはひたすら泳ぎ続ける。そしてついに夜明けと共に陸地を見る。しかしそこは・・・。
そもそも人間は極寒の海で20分以上生きることが出来ない。ところがグッリは6時間以上泳ぎ続ける。
これは1984年にあった実話だそうだ。この寒さ、冷たさは夏の暑いときにこそふさわしいかも知れない。
単純な話で、ひたすら夜の海をカモメを相手に話しながら泳ぎ続ける話なのに最後まで緊張感が途切れない。監督の腕力が素晴らしいことがよく分かる。不思議な映画だ。
監督エドガル・マリー、出演ジャック・ガンブラン、オリヴィエ・マルシャル、カルロ・ブラント他。
フランス映画お得意のフィルムノワール。ヴィクトルとミランの二人は親友で、共同でナイトクラブを経営していた。借金の返済のため、ミランが顔役の手引きにより、麻薬の取引を手伝うことになる。ヴィクトルは反対するが、仕方なく二人は現金をもってメキシコに行く。ところが取引相手のセルキともどもメキシコ警察に拘束されてしまう。
拷問を受け、セルキを売るという裏取引で彼等は釈放される。ヴィクトルはミランのせいでこうなった、といって絶交を言い渡す。それから6年、セルキがパリに帰ってきた。
セルキの復讐に彼等は逃げまどうのだが、次第に追い詰められていく。この逃亡と反撃がクールに描かれていく。
ヴィクトル役の俳優に見覚えがある。あるはずだ。つい先日見た「ブラインドマン 調律は暗殺の調べ」という映画の厭世的な刑事役だったジャック・ガンブランだ。
フィルムノワールは好きなジャンルだ。ハリウッド映画にはないクールさが何とも言えない。なにより甘さがない。だから終わった後に不思議な余韻が残る。
この映画はとくに出来がいいという作品ではないが、雰囲気がとても好い。しかしストーリーがわかりにくいところがあって評価は分かれるだろう。
韓国経済の先行きが停滞に向かいそうだといわれているが、やはり事実らしく、韓国政府は約4兆円の経済対策を行う方針だという。
韓国の名目GDPは日本の4分の1程度だから、これは日本なら16兆円の対策に匹敵すると言えようか。戦力の逐次投入はもっとも愚策で、思い切った集中的な投入こそ効果があるとされている。
げんに中国はリーマンショックのあと、約50兆円の大型経済対策を行って、世界でいちばん早く経済回復を成し遂げ、GDPは日本を抜いて世界第二位となり、世界経済の牽引車の役割を担うことになった。ヨーロッパが人権問題などそっちのけで中国に色目を使うまでになった。
これは日本の中途半端な経済対策の繰り返しという愚策を教訓としたものであることは中国も認めているところだ。反面教師として日本は中国に貢献したのだ。
だから韓国は苦しい経済が見込まれるなか、その中国を見習って思い切った経済対策を行うのだろう。
しかし中国がいま見かけとは違って内面で苦しんでいるのはあの大型経済対策のツケの処理である。韓国はそれをきちんと認識しているのだろうか。日本の失われた20年の轍をふまないために、韓国は大型経済対策を打つつもりだが、韓国政府には大型の財源の蓄積がない。結局国民にその負担がのしかかるだろうと見られているそうだ(当たり前だけど)。
韓国は一時デフォルトの危機に瀕したことがある。そのとき、日本が韓国ウォンをギャランティーしたことでそれを回避した。しかしそのための日本との通貨スワップという仕組みを、この数年で韓国は継続を拒否して解消してしまった。アメリカは頼られても財政出動は無理だろうし、日本に頭を下げるのはもってのほかとなると、全てを中国の元とのスワップに頼らざるを得ない(すでに巨額のスワップが締結されている)。
韓国が全ての結果について覚悟していればいいが、一時しのぎでの賭であれば、危険なことである。韓国の国民はそのことに気づいているのだろうか。マスコミはきちんと報じているのだろうか。反日などにうつつを抜かしているときだろうか。
韓国のマスコミや政治家には北朝鮮に使嗾されている者が少なからずいる、というのは良く聞く噂だが、もしそのような人々がいるとすれば、彼等は韓国が破綻して北朝鮮並みになることこそめざす韓国の姿だから、願ったりの状況なのかも知れない、などと人ごととしてこのニュースを聞いた。
韓国には二回観光で行った。非常にフレンドリーで(ソウルのガイドだけはやや反日的な匂いを嗅いだ。父親は軍人らしかった)いい印象しか残っていない。だから韓国国民には同情するが、この頃の過剰な反日行動の報道にはいささか反感を禁じ得ない。もし韓国が衰退したら「それ見たことか」と言いかねない自分がいる。
監督クレイグ・ゾベル、出演アン・ダウド、ドリーマ・ウォーカー、パット・ヒーリー他。
とにかくストレスフルで不快な映画である。しかし駄作だ、というのではない。この映画を見続けるにはそれだけ精神的な負荷に耐える必要があると云う意味だ。
この映画は実話を元にしているという。警察から、という電話一本で人はどれだけいいなりなるのか。その怖さを味わうことになる。なまじのオカルトホラーよりはるかに恐怖を覚える。
途中で、なぜおかしいと思わないのか、と観客は思うだろう。しかし当事者は巧みに思い込みを刷り込まれて次第に電話の相手の異常な要求に応じさせられていく。
これはいたずらを超えた犯罪だけれど、実際の世界ではもっとずっと巧みな刷り込みが無数に行われている。知識も情報も役に立たない。それがおかしい、と思えるためには何が必要なのか。二度と見たくない映画だけれど、ずいぶん勉強になった。この映画のことは忘れられないだろう。
監督ジョニー・トー、ワイ・カーファイ、出演ラウ・カウチン、ラム・カートン、ケリー・リン他。
人の中のいろいろな人格を見ることができる能力を持つ元刑事が主人公。冒頭は刑事時代のその異様な操作方法が新人刑事ホーの目に映った映像として描かれる。時が経ち、そのホーがベテラン刑事となった頃、事件の捜査に行き詰まり、いまは刑事を引退したその男コウに協力を依頼する。
あとはコウの眼から見える世界が中心に展開されるのだが、それがコウの妄想なのかどうか次第に混沌としてきてわけが分からなくなる。真犯人と思われる男が7人もの人格を持った複雑な人物だ、ということで容疑者の後ろにぞろぞろと7人の男女がついて回るという、こっけいであると共に異様な情景が見られる(これだと8人になるのかな?面倒なのでしっかり数えなかった)。そもそも多重人格というのは極めて稀な精神疾患で、そうでないにしても人格が統一し切れていない人間がそこら中に存在している、というのは驚異的なことである。
香港映画はときに猥雑である。汚らしい。それが生理的に評価を下げてしまうことがある。特殊能力を持つ主人公が登場する映画は嫌いではないなのだが、ちょっと度を過ぎて汚らしくしかも煩雑で、個別のシーンの意味が良く理解できなかった。
監督のジョニー・トーもワイ・カーファイも好きな監督なのにこの映画はちょっといただけない。それほど沢山の実例を知っているわけではないが、だいたい香港映画は複数の監督で作った映画で出来のいいのは少ないような気がする。
中国メディアが「外資系の企業の品質問題が続発しているのはなぜか?」という問いを立て、そもそも本国では問題がないのに中国に進出すると問題を起こすことについて分析を行っていた。
海外では問題を起こすと再起不能なほど賠償や社会的信用の失墜で企業が制裁を受けるのに、中国ではそのような制裁がわずかであること、そのような中国的な風土に進出企業が染まってしまうからだ、としている。
それはその通りなのだろうけれど、外資系企業の品質問題ばかりがこれほど告発されたり暴露されたりして大きく報道されるのか。中国企業が告発されていないとは言わないけれど、その取り上げられかたや告発の頻度がずいぶん違うような気がする。
なぜか?と問うなら、なぜ中国は外資系企業をスケープゴートにせざるを得ないのか?だろう。
「ある日どこかで(原題「Somwhere in Time」)」という1980年アメリカ映画を観た。 監督ジャノ・シュワルツ、原作・脚本リチャード・マシスン、出演クリストファー・リーヴ、ジェーン・シーモア他。
この映画は若いときに封切りで観た。感動した。そしてテレビで再放送されたときにCMでずたずたにされたのを観た。それでも素晴らしかった。いつかWOWOWで放映されると思っていたらようやく願いがかなった。
この映画についての思いの丈を語り出したらとんでもなく長い文章になってしまう。それほどこの映画が好きだ。Wikipediaを見ると、封切り当初は評論家に酷評されたらしい。確かに評判になって観客が押し寄せるという映画ではない。「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴され、現在でも熱烈なファンが多いと言うが、まさにわたしもその一人だ。
主演のクリストファー・リーヴといえばあのスーパーマン役で有名だ。彼のシリーズは全て劇場で見た。厚い胸板、頑丈そうなごつい顎と顔、そして澄んだ眼、まさにスーパーマンにぴったりだ。
スーパーマン役者には呪いがかかると言われる。この頑健そうなクリストファー・リーヴも落馬事故によって脊椎を損傷し、下半身麻痺によって車椅子生活を余儀なくされた。2004年、心不全により、52歳で亡くなっている。
原作・脚本のリチャード・マシスンはよく知られたSF作家で、この映画もSFといえないことはない。なにより「時間を超える」恋愛というのがテーマだからだ。
冒頭では1972年、脚本家志望の大学生リチャード・コリアーが処女作上演後のパーティで不思議な老女から懐中時計を手渡され、暗示めいた不思議な言葉を聞く。
そして8年後の1980年、脚本家として名前が知られるようになったコリアーは仕事に行き詰まって車で旅に出、あるホテルに投宿する。そのホテルの資料室で美しい女性の写真に出会い、魅せられてしまう。
この女性が舞台女優であり、1912年にこのホテルの劇場で公演をしたことを知る。この女優がエリーズ・マッケナという名前であることが分かったコリアーはこの女優の経歴を詳しく調べだす。そしてこの女優こそが、1972年に彼に懐中時計を渡した老女であり、彼にそれを渡した晩に亡くなっていたことを知ることになる。
1912年の彼女に魅せられたコリアーは、ときを超えて彼女に会いに行く方法を模索する。彼にとって彼女に会うというのは未来の確かな記憶のように感じられたからだ。ここのところが理解できないとこの映画の素晴らしさが分からない。
タイムマシンなど使わないで過去へ行くことが可能か?ここで使われている手法はコリン・ウィルソン(イギリスの作家で思想家)の「賢者の石」という小説によく似ている気がする。コリン・ウィルソンに言及すると話が止めどなくなるので機会をあらためる。
もちろん彼と彼女が出会わなければ映画にならないから首尾良く出会うのだが、その結末は1972年の老女の言葉に暗示されている。
とにかくこの女優ジェーン・シーモアがすこぶる付きに美しいのだ。とくに1980年にコリアーが魅せられた写真の表情が輝くように美しい。コリアーでなくとも魅せられてしまい、写真撮影のシーンではそれに感動してじーんとしてしまうほどだ。
多分この映画の熱烈なファンになる人は少数派だろうけれど、その少数派になる人は話が合うかも知れない。録画したBDはもちろんコレクションとして残す。
監督キャスリン・ビグロー、出演ジェシカ・チャスティン、ジェイソン・クラーク、ジョエル・エドガートン他。
あのウサマ・ビン・ラーディンの行方を追い、パキスタンの隠れ家を見つけ出して殺害するまでを描いた映画だ。ほとんどドキュメンタリー映画と云っていい。話題になった映画なので見たいと思っていたけれど、とにかく長い(157分)ので後回しにしていた。
アメリカの諜報能力のすごさと、そのすごさをもってしてもなかなかつかみきれない情報があると云うこと、そして膨大な情報から求めるものを選び出していく能力、執念というものを見せる。
最初は拷問による情報の取得が執拗に描かれる。デジタル情報をひたすら集めることよりも、拷問によって得られる情報のほうが、はるかに核心に迫る重要な情報が得られることをあらためて知るのだが、その手法が国際的に非難を浴びるて許されなくなると、たちまち何も見えなくなってしまう。
結局過去の捕虜からの情報をひたすら追い続けた線から突破口が開けていく。100%確実な情報などない。それなのに上司達はそれを求める。責任をとりたくないのだ。事態は延々と放置されつづける。その待ち時間こそが責任者が責任を引き受けざるを得ない、と覚悟するための時間であった。
全てが終了したあとの、主人公の女性CIA分析官の放心したような表情のなかにこの映画が語りたいことがあるような気がする。達成感であり、仕事が終わってしまったことへのむなしさであり、自分のしてきたことへのいささかの懐疑であろうか。
アメリカの正義とは何か。そもそも正義とは何か。テーマは重いけれど最後まで集中力が切れないで観ることが出来た。つまり面白かったと云うことだ。
監督サヴィエ・パリュ、出演ジャック・ガンブラン、ランベール・ウィルソン、ラファエル・アゴゲ他。
製作・脚本はリュック・ベッソン。ベッソンが関係したものはおおむね面白い(たまにとんでもない駄作もあるが)。盲人の暗殺者と孤高の刑事の戦い、というのがキャッチコピーだ。
強い盲人と言えば「座頭市」だが、それを換骨奪胎した「ブラインド・ヒューリー」というアメリカ映画があった。ルトガー・ハウアーが主演で期待したのだけれど、期待外れだった記憶がある。
この映画の盲人の暗殺者・ナルヴィクはもともと情報部の特殊戦闘員だったのが失明して、いまは調律師をしている。
不可解な殺人事件がつづけて発生し、それに関連があると睨んだ刑事・ラサールは鋭い直感からナルヴィクが犯人ではないかと考える。
ナルヴィクの目的は何か?それを追求していくなかでラサールとナルヴィクに不思議な心の交流が生じていき・・・という物語だ。
もちろん面白い。
ラサールという刑事は無精ひげでむさ苦しい中年男なのだが、部下である美人の刑事から慕われている。なんでだ!とちょっと妬ましい。
盲人が活躍したりするとついこちらも視力にハンディがあるような気になったり、他の登場人物も目が見えないように錯覚したりしてややこしい。感情移入しやすいのかも知れない。眼は大事だ。
アメリカ科学アカデミーが福島第一原発事故の原因と対策に関する報告書を公表した。
報告書では、事故が深刻化した原因を「東京電力と当時の原子力安全・保安院が津波対策を怠っていた」などとしている。津波に対する対策が不十分であることを示す証拠が集まっていたのに重要な設備の保全対策を怠っていた、というのだ。さらに電源喪失に対する適切な対応も出来なかったことが事故を深刻化した、としている。
まことに分かりやすく、原因と責任が明確である。
ところで日本の事故調査報告は膨大な文章を示しながらこのことを明確に示していたような記憶がない。結局誰にも責任が求められず、天災で不可抗力であった、ということをだらだらと書いていたのではないか。これでは韓国や中国を笑うことは出来ないではないか。
こうして日本の信用は大きく損なわれ、その損失は計り知れない。
仕事で働いている人にはまことに申し訳ないが、家でごろごろしていてもう夏バテ気味である。汗をほとんどかかない生活はかえって身体に良くないらしい。といって出かければ金はかかるし・・・。
本を読むペースも著しく低下、映画やドラマ、テレビのニュースばかり見ている。それにもあきると数字パズル、いわゆるナンプレ(ナンバープレイスか?)をやる。頭の体操のつもりだけれど、あまり集中するとかえって頭が空っぽになっていくような気がする。
NHKで精神病院の長期入院者の社会復帰をテーマにした番組を見た。長期入院者として四十年も入院していた人が社会復帰をして周りの人と問題なく生活している姿が写されていた。
政府は日本の精神病者の入院期間が世界の平均よりはるかに長いことを問題として、入院期間の短縮のための方策を決めたという。これが患者のためであるならばいいのだが、医療費の削減をめざすのが目的なら問題がある。
病院も入院患者に対する医療費(患者一人あたり年間500万支給される。本当だろうか?)をあてにして経営しているところも多いそうで、精神病院そのものが撤退、縮小に追い込まれたら問題だ。
精神疾患、とくに統合失調症は、どんなに平和な国でも人口に対して一定の割合で出現するという。それなら一定の受け入れ体制の確保は必要だ。
番組を見ていて気になったのは、登場した社会復帰が出来た人というのが、薬のせいか多少舌がもつれ気味な点を除けば全く問題があるように見えないことだ。社会復帰が出来て良かったと思うと同時に、長期入院者は全てこのように、実は普通の社会生活を送るのに問題がない人ばかりだ、と誤解されてしまわないだろうか。入院するには入院する理由があったのではないか。
こんな番組の作り方を見ていると、精神病院というのは健常者を強制的に収監する恐ろしいところだと誤解する人もいるだろうし、精神疾患の人が精神病院に治療を受けに行くことを逡巡することにつながったり、必要な入院を拒否することにつながったりしないか心配だ。
精神医療は見えないものを扱うものだけに、その理論に砂上の楼閣のような面がある。それだけを問題視すれば全てが崩壊しかねないし、あまりにそれに偏すれば、人間の社会逸脱行動の全てを精神医療が取り込もうという不毛の暴走につながりかねない。
それを適正に活用するには、経済的視点ばかりに重きを置くことなく、常識という理性的な座標軸を信じるしか手はないのだが、常識は数値化できないものなので、グローバリズムの世界ではなかなか通用しないようだ。
社会が精神疾患者の社会復帰を受け入れられるような仕組み作りと啓蒙が必要だ、と番組では強調していた。これは言うのは簡単だが難しい。入院患者の多くが、家族が受け入れしきれずに仕方なく入院しているのだ。家族すら難しいことを社会が受け入れられるだろうか。長期入院患者がいきなり社会に放り出される、という事態がやってくるような気がする。
番組が真面目に作られていただけにいろいろ気になることがあったのだが、どうもかんじんのことがうまく書けない。
「アベンジャーズ」、「マン・オブ・スティール」、「パシフィック・リム」とハリウッドの大作(?長いという意味では大作に違いない)を立て続けに観た。
「アベンジャーズ」での戦いがトラウマになったと「アイアンマン3」で言っていた。そのトラウマで精神が失調していたアイアンマンだったけれど、「アベンジャーズ」ではそこそこ活躍していたし、アイアンマンスーツの強度はそこそこあったように見える。あらためて「アイアンマン3」の方がおかしいように感じた。
それより「マイティ・ソー」の弟のロキが前作で陥った虚無からどう復活したのか説明がないし、これほど邪悪な存在が許されるのは理解に苦しむ。見ていないひとには何のことか分からないだろうが、とにかく「ハルク」や「マイティ・ソー」や「キャプテン・アメリカ」、「アイアンマン」が総出で地球を守る、というお話だ。
そのためなら何でもありで、ビルだの橋だの何でもぶっ壊す。これだけ壊すと地球の再建も大変だ。
「マン・オブ・スティール」は新しいスーパーマンの話だ。クリプトン星の崩壊の直前にただ一人宇宙に送り出された赤ん坊がスーパーマンだ、という設定は全てのスーパーマン物語の出発点だ。今回の敵役はそのクリプトン星でクーデターを起こして失敗し、虚無の牢獄に送り込まれていたゾッド将軍で、彼がスーパーマンを追って地球にやってきて戦う、というお話だが、ゾッド将軍もその部下の女性の副官もスーパーマンよりも強いのだ。
スーパーマンもいいようにあしらわれて地球の危機となるのだが、戦うごとに強くなっていく。なぜだかよく分からない。レベルアップしていくさまはあたかもドラゴンボールの孫悟空みたいだ。ゾッド将軍たちとの戦いはとにかくど派手でマンハッタンのビルやら橋やらがやたらに破壊されていく。これでは再建がたいへんだ。
「パシフィック・リム」は海底の裂け目から次々に現れる怪獣と人類の戦いの物語。この裂け目は異次元とつながっているらしく、怪獣は止めどなく現れてくる。
面白いのはこの映画ではみんなが怪獣を「カイジュウ」というのだ。ゴジラ以来怪獣という日本語がそのまま通用するらしい。ちょっと嬉しい。これに対抗するために巨大モビルスーツが開発され、怪獣との戦いは一進一退が続く。何だか「エヴァンゲリオン」みたいだ。さらにこのモビルスーツは人間と精神的にシンクロして動くのだが、一人では精神的な負担が大きすぎるため、二人以上で操作するようになっている。だからモビルスーツとのシンクロと、同乗する相棒とのシンクロも必要だ。
現れる怪獣は次第にレベルアップしてくる。その上出現の頻度が上がってくる。次第に人類は劣勢に追い込まれ、モビルスーツもそれを操縦するパイロットも限られてくる。このままでは人類壊滅は間もなくだ、という状況で、起死回生の作戦が立てられる。
いやあ、この映画では世界中の都市が怪獣に破壊されていく。ビルやら橋やらやたらにぶっ壊されていき、モビルスーツとの戦いでも怪獣へのダメージより都市のダメージの方が大きいくらいだ。ここまで徹底して破壊し尽くすと、何だか見ていてスカッとするのは監督の狙いか。
主人公のローリーの相棒になる森マコという女性を菊池凛子が演じている。彼女は子供のときに親を怪獣に殺され、自分もあわやという思いをしたことがトラウマになっていて、シンクロが困難になる危険がある。この子供時代の経験のシーンではマコは芦田愛菜が演じている。この子は本当に演技が旨い。彼女の感じる恐怖感はリアリティがある。
とにかく戦うごとに互いにレベルアップし、それに応じて破壊がエスカレートしていく、というのはドラゴンボールによく似ている。
それぞれの映画の結末は地球は救われて終わるので安心だ。
とにかく破壊に次ぐ破壊の映画を続けて観てしまった。くたびれた。しかしながら今回の三作品は「スター・トレック イントゥ・ダークネス」、「アイアンマン3」よりはずっと面白く、単純に楽しめたのはさいわいであった。もう一度見たいとは思わないけれど。
カビ肉を混入するなど、ずさんな食肉管理が暴露された福喜食品の食肉を使用していたことが明らかにされたマクドナルドだが、なんと北京では客足が減ることもなく行列が出来ているという。
「あんな報道があったあとだから、危険な肉を使用していないはずでかえって安心だ」から、だそうだ。
中国の食品が信用ならないのは周知の事実で、いまさら、ということのようだ。少しくらい高くても外資系の店舗のほうが安心であることだけは信用されているということか。他の国では考えられないことだ。
韓国でも福喜食品の問題が大々的に報道されている。そしてこの会社からの韓国への仕入れの報告はいまのところない、という。
本当だろうか。韓国にはマクドナルドはないのか?日本や香港のマクドナルドがこの会社から輸入していたのに、韓国だけ使用していないというのは信じにくい。「韓国政府は海外産の食材の安全性に高い関心を寄せている」と韓国メディアは報じている。
韓国政府が関心があるのは海外産の食材の安全ではなくて自らの保身ではないのか、などと勘ぐってしまう。
二ヶ月後に韓国の仁川でアジア大会が開かれるのだが、競技場や宿泊施設での工事の遅れや設備の不備(多くが手抜き工事らしい。なにせ国宝の南大門の再建にすら手抜き工事するくらいの国だから)が指摘され、大会に支障を来さないか心配されているそうだ。大会の開催は多分問題ないだろうが、選手に悪影響が出ないかどうか。
それに韓国で開催される国際大会では必ずと云っていいほど審判の買収などが噂されている。過去には観ていても驚くような裁定が平然と行われていたが、今回は出来ればそんなものは見たくないものだ。
またチケットも開会式と閉会式以外はまだ10%程度しか売れていないという。関心が低いらしい。韓国はそれどころではないのか。
国威発揚の意味合いが強い国際大会で、逆に国の信用を損なうような事態が続けば、韓国のイメージは低下してしまう。平昌の冬季オリンピックは大丈夫だろうか。
今のところブラジルと違って大々的なデモが起きるようなことがないのが救いと言えば救いか。
日本選手はハンディを背負っていると思って、無理をしないで無事に帰ってくることに努めてくれればけっこうだ。国民も結果にこだわらずに選手を温かく見守りたいものだ。
韓国セウォル号の船会社の実質的オーナーが変死体で発見された、というニュースが流れている。このオーナーの潜んでいると疑われた別荘のすぐ近くで発見されたのに、なぜ変死体の身元が分かるまでにこれほど時間が経ったのか、そして失踪から発見までのわずかな時間にどうして白骨化したのか、糖尿病で酒を飲めない人のそばになぜ酒のびんが並んでいたのか、なぜ首と胴体が分離していたのか、疑わしいことがいろいろある。
そもそもこの変死体のDNAや指紋が兄のものと一致する、というのも疑わしい、などと考えてしまう。データなどいくらでもでっち上げることが可能だからだ。
このオーナーから巨額の金が各方面にばらまかれていた、などという報道もあり、この事件の真相を明らかにされたくない多くの人がいるらしい。そうなれば幕引きのために容疑者死亡にすれば全てに都合が良い。
案外本人は実はどこかで悠々としている、などと云うことがありはしないか。韓国はいま公的なものが信用を失っている。だから人は、何が本当か分からない、などと思ってしまう。
中国の食品会社が期限切れの鶏肉を使用していたことを中国メディアが取り上げ、当局の手が入った、と報道された。
伝えられた映像を見ていたら、期限切れの肉を使ったなどというレベルをはるかに超えたずさんな実態が明らかにされていた。
だから中国の食品は信用できない、というのは誰もが思ったことだろう。しかしそんなことは中国人自身が身にしみて知っている。
問題は、なぜこんな報道が出来たのか、だ。
カビが生えて変色した肉を混入したり、床に落ちた肉を再び容器に戻したりする様子がどうして撮影できたのだろう。いくら本当にずさんな従業員でもマスコミのカメラの前でそんなものを見せるだろうか。
さらに言えば、こんな報道は中国の信用に関わるものだから、中国という国はこのような番組の放映を許可しないはずなのに、なぜ黙って報道を許したのか。
この食品会社は世界最大級の食品会社で、アメリカが本社らしい。この会社のダメージは大きいだろう。誰がそれでもっとも損失を受けるのか、逆に恩恵を受けるところはどこか。
中国の食品会社の実態に問題があり、それを少しでも改善するための報道だ、などというのが私には信じられない。確かに中国の食品が信用できないのは散々知らされてきてはいるけれど。
誰もが、先生は生徒より賢く知識があるのが当然で、その知識と知恵を生徒に教えるのが先生の役目であり、それが上手な先生が良い先生だ、と考えている。それがそもそも間違っている、と言うのが内田樹先生の教えであり、この本はその考えがなぜ間違っているのか、を丁寧に説明している。
先生は賢くなくても、知識が豊富でなくても先生でさえあればえらいのだ、ということを伝えようとしているのだが、分かる人には多分最初からすぐ分かり、分からない人には最後まで分からないかも知れない。人は刷り込まれた固定観念からなかなか抜け出せないものだ。
現代の生徒は、先生から与えられたものをもって先生をリスペクトする、という等価交換の考えに毒されている。リスペクトがただではない時代とはまことに精神の貧しい時代だ。
内田先生の考えは当たり前のことを言っているのに、分からない人には全く理解できないような気がする。だから一言で分かることを本一冊かけて説明しなければならない。こころやさしい先生は「えらい」。
ちくまプリマー新書は高校生レベルを対象にした新書だが、この本の内容は哲学の基本にも通じる真理をふくんだ教育論だ。大人も読まないともったいない。
監督シェーン・ブラック、出演ロバート・ダウニー・Jr、グィネス・パルトロー、ベン・キングスレー、ガイ・ピアース他。
スランプのアイアンマンの物語を延々と続けていてうんざりする。アイアンマンは「アベンジャーズ」で自信喪失してスランプになっているらしいけれど、まだ「アベンジャーズ」を観ていないのでつながりがよく分からない(録画リストにあるのですぐ観るつもりだ)。
強力な火器にも耐えられるはずのアイアンマンスーツが簡単に破壊されたりして、何だかいままでのアイアンマンの嘘くささを協調するための映画みたいだ。スーパーヒーローが思わぬ危機で苦戦しながらついに敵を倒す、と言うのはおきまりのパターンだが、それがあまりにエスカレートしてスーパーヒーローそのものの否定につながりかねないものに仕上がっている。監督もスーパーヒーローにうんざりしているのかも知れない。そんなものを見せられる方もたまらない。うんざりだ。
監督J・J・エイブラムス、出演クリス・パイン、ベネディクト・カンパーバッチ、ザカリー・クイントほか
「スター・トレック」は大人気のSF映画シリーズだが、この映画の前作からカーク艦長が若返った新作になっている。SFXの技術が格段に良くなっているから見応えが上がっているだろうと期待したのだが、期待外れだった。
そもそもこの「スター・トレック」の登場人物たちは類型的で、そこのところに工夫を加えないと大人の鑑賞に堪えないのだが、誇張されているから救いがたい。カーク役のクリス・パインも軽薄で、どうしてこんな人間が艦長という重責を与えられるのか理解に苦しむ。
もともとの「スター・トレック」のキャラクターを大事にしないと固定客に済まない、と考えているのだろうか。こんな感覚は如何にもアメリカ的な独りよがりだ。
悪役・カーンを演じているカンパーバッチだけが迫力満点の好演だった。
ストーリーも陳腐そのものの金をかけただけの駄作。
監督ポール・シュレットアウネ、出演ノオミ・ラパス、クリストッフェル・ヨーネル。
ノオミ・ラパスと言えば、あの「ミレニアム」三部作のリスベット役を演じた女優だ。あの映画はハリウッドで「ドラゴン・タトゥーの女」という題名でリメイクされた。この時のリスベット役はルーニー・マーラだったけれど、ノオミ・ラパスの方がインパクトが強かった(初めてリスベットという強烈なキャラクターに出会ったからだけれど)。
この映画は冒頭でのワンカットに向けて物語が進行していく。全部を見終わったときに初めて全体の意味が分かる、という映画だ。いや、それは正確ではない。見終わっても意味不明だったり矛盾したシーンが並べられている。だから人によって読み取る解釈は幾通りもある。そして観客は宙ぶらりんのままで終わる。
こんな映画が昔は苦手だった。しかしこの映画みたいに優れた作品を観ると、こんなのもありだ、と思うようになった。唯一ひととおりの解釈しか許さない映画よりもはるかに余韻が残り、忘れられない映画になる。
小学生の息子・アンディッシュを連れて、DVの夫から逃げたアナは保護監視の役人の用意したアパートに移り、身を隠す。アナのおびえ方は過剰であるが、夫が子供を殺しそうになったことなど、その理由も次第に明らかになる。
ところがアナの行動は次第にエスカレートしていき、保護官もアナが子供を養育する適格性を疑うほどになる。アナ自身も自分の行動が正常なのか異常なのか分からなくなっていく。
アナは息子のためにチャイルドコールという音声監視モニターを購入する。原題は「BABY CALL」なのであちらではそう呼ばれているようだ。ところがそのモニターから、子供が虐待されている音声が流れて来る。何処かのチャイルドコールと混信しているようだ。
このチャイルドコールの混信先にこだわりつづけるアナ。それが彼女の妄想なのが現実なのか観客には判然としない。アナはたまたま知り合った男と親しくなる。その男は、子供のときにやはり虐待を受けたことがほのめかされる。この男の母親は死の床にあるのだが、それに耐えてアナのことを心配する。
悲劇へと突き進むアナとそれを救おうとする男。そして男が知った真実はさらなる不可解な謎となって・・・終わる。
冒頭の「アナ、アナ、アンディッシュはどこだ?」という男の呼び声が耳に残って忘れられない。
フロリダ州の裁判所で、大手タバコ会社を訴えた女性に対し、陪審員が236億ドルの懲罰的賠償支払いを認める裁決を下した。
この夫は13歳で喫煙するようになり、一日あたり最大で3箱のタバコを吸っていたが、36歳で肺がんにより死んだ。この女性はタバコは健康に害があることを隠して販売した、としてタバコ会社に損害賠償請求を求めていたという。
よく読むと、この夫が死んだのは1996年で、訴えたのは2008年である。裁判に時間がかかるのはあり得ることだが、訴えるまでに12年間かかったというのはどんな理由だろう。
ところで236億ドルというと日本円にして約2兆4000億円である。喫煙する人で肺がんで死んだ人が1万人いて、すべての人の身内が同様の訴えを行ったら2京円以上の賠償金額になる。これではアメリカ国家あげても支払えない金額だ。正気とは思えない、狂気の沙汰である。
アメリカが訴訟国家でしかも異常な請求が横行し、ときにそれが通ってしまう、という話はしばしば聞く。「常識」を見失った国は恐ろしい。アメリカは裁判によって滅亡するのではないか。
朝、ふと気がつくと蝉の声がしている。今日から鳴き始めたのか、気が付いたのが今日なのか分からない。天気予報など知らなくてもセミは梅雨明けが分かっているのだろうか。
以前は、ほとんどがアブラゼミだったけれど、最近はクマゼミのほうが多い。今朝もクマゼミがたくさん鳴いている。アブラゼミは無防備に近く、すぐ見えるところで鳴いていることが多いが、クマゼミの姿はよくよく探さないと見つけられない。名古屋に来るまではクマゼミというのはほとんど見かけなかった。
本来九州などに多い、南のセミだというから、ヒートアイランドのせいか、二酸化炭素のせいか分からないが、名古屋の平均気温が高くなっていることは間違いないのだろう。
近くのスーパーで小アジを見かけたので購入。さばくのが面倒で嫌われるのをみこしてか、とても安い。二パック購入して早速はらわたを除く。三十匹ほどあっても手でさばけるから5分くらいで作業終了。骨が少し硬いけれど、骨ごと天ぷらにする。揚げたてを先日買ってきた藻塩で食べる。
九十九里近くで育ったので小魚が大好き。写真の小アジのようなやや鮮度の落ちた目をしているのは残念だけれど、揚げれば我慢出来る。黒々とした目をしていたら、少し酢漬けか南蛮漬けにするのだけれど・・・。
大町の東側に鷹狩山展望台がある。狭い山路を登っていくと鷹狩山の頂上に出て、北アルプスが正面に望める。眼下は大町の町だ。
大町を見おろす。大町市の若い職員が西洋人の男性に景色の説明をしていた。通訳の女性もついていたのだけれど、たどたどしい英語で一生懸命に話す。見ていてほほえましい。市の職員であることはその制服と、駐車場の車から分かった。
兄貴分の人が「アザミの歌というのがあったはずだが、どんな歌だったっけ」というのでメロディーを口ずさんだのだけれど、「分かりそうだったのにかえって分からなくなった」と言われた。
帰り道は姫川街道を糸魚川へ北上し、北陸道から東海北陸道を南下すると言う回り道を行った。長老と兄貴分のひとの要望で五箇山へ寄るためだ。北陸道はしばしば驟雨。東海北陸道を走り始めたら雨がやんだ。本当にこちらに合わせて天気が変わるようで嬉しい。
五箇山の菅沼集落を見おろす。
村の入り口の防火用水に睡蓮が咲いていた。・・・睡蓮でいいのかな。
この女性は知らない人。菅沼集落は小さな合掌集落。観光ずれしていないので好感が持てる。
いつもは甘酒を飲むのだが、長老に合わせて五平餅とアイスコーヒーにした。
ここから名古屋へ一路帰る。長老たちは機嫌良く大阪へ帰っていった。またいっしょに行こう、と嬉しいお誘いがあった。
まだ梅雨明け前の山だから天候に恵まれるかどうか半々だと思っていた。とくに栂池では雲が次第に垂れ込め、ロープウエイで上へ上がっても山が見えるかどうか、と思っていた。
雪ムロに保存して熟成させた酒。ワンショットをいただきたいが車だから断念。乗り継ぎの駅にある。薫香を漂わせてすれ違った初老のおじさんがうらやましい。
なんとロープウエイの終点で降りると山が綺麗に見えた。雲の上に出てしまった。
遊歩道への入り口で、兄貴分の人が大きな声を上げた。何事かと思ったら、むかし勤めていた会社の人であった。もちろんその人もリタイアしている。夫婦でツアーに参加したらしい。もともと山歩きの好きな人だから全くの奇遇というわけではないが、驚いた。「OB会に参加しろよ!」と声をかけられる。
散策したあと、下りのロープウエイに乗っていたら辺りが全く雲の中に入った、と思ったとたんばらばらと大粒の雨が降り出した。今回の旅で初めての本格的な降雨。こちらが散策を終えるのを待っていたように降り出したのに笑ってしまった。三人とも心がけが良いことが証明された。
兄貴分の人の言うことには、今回の天候の功労は私にあるそうである。なぜならば、昨年からずいぶんと私の言動が尋常になった、心がけがもっとも改善したのは貴君である、だから天がそれを多としたのであろう、と言うことで長老も、然り、と大きく頷いたのである。
喜ぶべきであろうか。
八ヶ岳にやってきた。望外の晴天。八ヶ岳を遠望する入笠山(にゅうかさやま)のロープウエイに乗った。高低差は七百メートルということだが、とにかく長い。記憶にあるロープウエイではいちばん長いかもしれない。頂上駅で標高一千七百八十メートル、さすがに涼しい。
ここから入笠山の湿原へ向かう。十分ほどという案内を信じて歩いたのだが、倍くらいかかった。途中小学生の遠足であろうか、たくさんの子供たちとすれ違う。皆次々に「こんにちは」と挨拶するので、こちらも挨拶を返す。
途中で花の写真を撮ったけれどそれは次回で。
中国や韓国が反日的であるのは、我々にとっては不快であるが、向こうにすればわけのあることなのだろう。しかし最近のその反日は過剰であろう。以前は多少は友好的であったこともあったように思えたけれど、あれは実は日本の経済力などをあてにして我慢していたと言うのだろうか。金の切れ目が縁の切れ目、日本の金がなくても何とかなる、とふんだのか、それとも何を言おうと日本人は黙っているのが分かったからカサにかかっていると言うことだろうか。
そこで中国や韓国について、どちらかといえば中国や韓国から見れば不愉快になるような本(つまりいまの日本人にとっては不快感を多少は解消しそうな本)を何冊か読んだ。
陳破空著(山田智美訳)「赤い中国の黒い権力者たち」(幻冬舎ルネッサンス新書)
著者はあの天安門事件のリーダーの一人で、事件のあと長期間投獄されたあとアメリカに追放になっている。本の内容は中国共産党の歴代の指導者を取り上げ、その暗部を明らかにしていく。取り上げられているのは、毛沢東、周恩来、林彪、鄧小平、胡耀邦、趙紫陽、江沢民、胡錦濤、そして習近平である。中国が決して認めることのないような事実が列記されている。もちろん著者の視点からのものだが、知っているつもりだったことのなかに意外な新発見もあった。習近平が毛沢東化しているとの指摘は、いまの習近平の行動を見ているとうなずける。
宮崎正弘「『中国の時代』は終わった」(海竜社)
急激な右肩上がりをつづけた中国に陰りが見えてきた。このような急成長がいつまでも続くはずがないのは歴史が教えてくれているが、それが見えない人もいるから不思議だ。この本では具体的な中国の先行き不安の徴候と、それを指摘している識者の意見なども織りまぜながら著者の予測を示している。「中国の時代」が到来したように見えるが、それはうたかたの夢かも知れない。
石平・西村幸祐「『反日』の敗北」(イースト・プレス)
石平が中国について、西村幸祐が韓国について反日の背景を語る。反日を計算ずくで進める中国と、感情に流されて進める韓国の行動は日本にとって迷惑なことで、中国にとっても韓国にとっても利益にならない不毛な行動だと思うのだが、反日は日本のせいだと彼等は言う。なぜなのか。それについて二人がやや感情的に語り合う。
室谷克実・宮崎正弘「仲良く自滅する中国と韓国」(徳間書店)
これも、中国と韓国の反日の背景は両国の国内問題を隠蔽するためのものである、と云う視点から、両国の抱えている問題をこれでもか、と次々にえぐり出す。ふたりが予測するのは両国の暴走と崩壊である。
似たような本を何冊読んでも同じ事しか受け取らなければ一冊の本を読んでいるのと同じである。さてどうだったのだろう。その違い、新たな知見を見つけ出したいと思って読んだつもりなのだが。
本日から週末まで長老と兄貴分の人とまた、旅に行く。八ヶ岳、車山高原、白馬を予定している。これから支度をして長老と兄貴分の人を迎えに行くのだ。旅は楽しみなのだけれどちょっと腰痛がぶり返していて心配だ。
兄貴分の人は私がブログをしているとあまりいい顔をしないので、ノートパソコンは持って行くけれど、帰ってくるまではあまり更新が出来ないかも知れない。。
野球ファンではない。結果に興味が多少あるチームはあるが、言わない。ただもっとも嬉しいのは巨人が負けることだ。あの原監督が連敗で顔をゆがめると秘かに快感を感じる。
千葉県生まれで、子供のときの郷土のヒーローは長嶋茂雄であった。だからもちろん巨人ファンであり、長嶋ファンであった。その長嶋が監督のときに優勝できなかった責任をとって巨人を追われたとき、巨人の、そして読売の仕打ちに激しい怒りを感じた。
それ以来のアンチ巨人である。その後長嶋は巨人の監督として復帰したけれど、復帰したことで心の中の長嶋の偶像は地に堕ちた。
巨人以外のチームを熱心に応援する人たちを見ると嬉しくなる。
だからというわけではないけれど、阪神びいきの、かすみ風子さんの「風子のブログ」をいつも楽しく拝見している。人形を使った写真に添えられているウイットに富んだ分かりやすい川柳も楽しい。お勧めだ。
何人か必ず拝見するブログがあるけれど、皆まことに達者でそのセンスがうらやましい。とくに女性のものに楽しいものが多い気がする。
韓国の朴槿恵大統領の支持率が、中国の習近平主席の韓国訪問のあと3%回復した。これが一時的かどうか、注目したい(一時的だと思うけれど・・・)。
朴槿恵大統領は、就任前の大統領選での演説で2020年に月面に太極旗(韓国の国旗)をはためかせる、と述べていたそうだ。もともと韓国の予定では2025年に無人の月探査船を打ち上げる計画を発表していた。
そもそも月面には大気がないから風は吹かず、太極旗ははためくことが出来ないのだが、それは置いておく。
このたび朴槿恵大統領は、就任後に新設された未来創造科学部と共にあらためて五年前倒しの2020年打ち上げを推進する、と発表した。
これについて韓国航空宇宙研究員の前院長が「予算さえ確保できれば難しいことではない」と語ったそうだ。
SF好きだったこともあり、宇宙に興味があるので志は多とするにやぶさかではない。しかしこのようなビッグプロジェクトには莫大な予算が必要であるし、そのための国民の賛同がなければ成功は難しい。
国民の賛同があると云う確信があるというよりも、このようなプロジェクトを立ち上げることで国民の賛同を集めたい、という意図があるとしたら、少しちがうのではないか。
韓国のロケットの打ち上げ成功率はいまのところ残念ながらいささか問題がある。しかも韓国経済はこのような巨額投資に今後耐えつづけられるのかどうか心許ない。「成功してもただのショーでしかないだろう」と言う中国の環球時報の報道が案外当を得ているかも知れない。
パフォーマンスでは国を救えないのではないか。それともまさか中国と組んでアメリカと戦うために秘かに独自の大陸間弾道ミサイルを研究するため、などと云うことはないだろうが。
先般読んだ佐高信の「司馬遼太郎と藤沢周平」のなかでの司馬遼太郎に対しての批判的な文章が頭から離れない。読みようによってはあのような批評が成り立たないことはないことについては理解できないこともないが、何となく浅薄であるような気もしていた。
そこでずいぶん古い本を引っ張り出して読んだ。この文庫は1974年が初版で、購入したのは1996年以降だ。海音寺潮五郎は明治34年生まれ、司馬遼太郎は大正12年生まれだから二回り以上年が違う。その二人が子供のように嬉しそうに対談している。子供がお互いのおもちゃを見せ合って喜んでいるようだ。わかり合えるということの喜びがあふれている。
司馬遼太郎は海音寺潮五郎が大先輩であるからまことに丁寧な言葉遣いをしている(この人はもともと言葉遣いは丁寧だけれど)。それに対して海音寺潮五郎の言葉遣いも次第に同じように丁寧になっていくような気がする。相手に一目置くとその敬意から言葉遣いは丁寧になるものなのだろうと思う。
この本で語られている内容を見て、佐高信の批評を思い返すと、やはり浅薄な批評であるように見えた。
葉室麟の新作。ラストの感動はこの人の本を読む喜びだ。
主人公は仏師である。仏師は掘り出す木の中に仏を見ているという。そしてその仏の姿にそって鑿を入れれば自ずから仏像があらわれるのだという。
木の中に仏を見いだすことが出来ずに苦悩する主人公の清三郎は、師と新妻(師の娘)の引き留めるのを振り切って京の都へ修行に向かう。そして三年の後もどった清三郎が知らされたのは悲惨な事件と妻の行方不明という事実だった。
清三郎は、妻を探し求めるなかに遭遇する出来事から何かをつかんだ、と確信したとたんに自分の未熟さを思い知らされる、と言う繰り返しのなかで、ついに自らの身命を賭した行動に出る。
妻は清三郎の元に再び戻るのか、そして清三郎は真の仏性を見ることができるのか。
人はときにたやすく死ぬ。しかしそのような死にも大きな意味があること、それが真に解ったとき、人は新しい境地に至る(らしい)。
老醜という言葉は嫌いだ。老人には、若い人から見れば老醜というしかないような、目を背けたくなるような事実がある。しかしそれを見て見ぬふりをするのが大人というものではないか。
その私があえて老醜という言葉を使いたくなるような気になったのは、小沢一郎が生活の党を換骨奪胎し、小泉純一郎などと共同で新党を模索しているという憶測記事を見たからだ。
それが老醜というのではない(老醜だけど)。それに看板として担ぎ出されそうなのが菅原文太で、しかも本人は満更でもないらしい、と報じられていたからだ。
菅原文太が東映ニューフェースとしてデビューしたとき、最初に出たのが帝人のコマーシャルだった。大柄な彼がスーツ姿で小さな車に乗り込む。そして「帝人テトロン、ウール・・・混」というコマーシャルの声が入る。なかなか颯爽としていて忘れがたい。
その彼が「トラック野郎」シリーズや任侠映画の準主役などに登場、そして「仁義なき戦い」の広能(主人公・モデルは美能という実在の暴力団の組長)役で看板スターになった。
若い頃、鶴田浩二や高倉健などの格好のいい任侠がでる映画が鼻持ちならず(あとで好きになったけれど)、それと比べれば格好の悪い日活映画の渡哲也や、菅原文太が好きだった。
その菅原文太が次第に嫌いになっていった。時々テレビに出て説教臭いことを言いだしたからだ。似合わない。
そして以前、芸能界は引退し農業をやる、と言って一線から身を引いたと思っていた。
それが時々コマーシャルなどで見かけて「あれっ」と思っていたところだ。台詞はたどたどしい棒読みで聞き苦しい。内心、老醜だな、と思っていた。
それが憲政記念会でのシンポジウムの席で政治家や政治評論家に続いて壇上に立ったという。これが報じられるなかで彼の立ち位置がニュースのなかで解説されていた、と言うわけだ。これ以上の弄言は不要だろう。
老醜の菅原文他は見たくない。私は大人ではないらしい。
「集団的自衛権行使容認」についての議論が喧しい。軍靴の音が聞こえてしまう、と云う人もいる。ただ、今日本に対して挑発的な行為が繰り返され、一触即発の事態を想定する必要があるとの認識を持っている人も多い。法的なことについては、これからの国会での論議によって、事態をエスカレートさせないように願っている。
ところで一触即発の事態が生ずるおそれのある周辺国と言えばどの国を想定しているのか。これが中国と北朝鮮であることは多くの人が認めることだろう。そんな事は絶対ない、と言い張る人もないことはないが。
中国と北朝鮮が日本の変更を非難するのは当然と言えば当然だ。
韓国国会は安倍内閣の「集団的自衛権容認」閣議決定に対して断固反対を決議した。
日本の集団的自衛権が(限定的にしても)行使される事態というのは米軍と自衛隊が共同で事に当たらなければいけない事態だ。このような緊急事態に韓国が無関係と言うことは有り得ない。
韓国は無関係な事態を当然と確信しているらしいことが不思議だ。それとも中国がそう約束した(かどうか知らないが)ことを信じているのだろうか。アメリカはいらついていることだろう。
韓国の客船(日本ではフェリーとして使われていた船なので、私はフェリーだとばかり思っていたが、客船なのだそうだ)セウォル号の沈没事故をテーマにしたドキュメント映画を、寄付金をつのって製作する予定だそうだ。120分の長さで題名を「ガチョウの夢」(歌の曲名にちなむ)とするらしい。
記録映画を残そう、という気持ちは分からないことはない。しかし寄付をつのって製作し、一周年記念で大々的に上映するらしいが、こんな映画、誰が見るのだろう。すでにこの事故の顛末は繰り返しテレビで見ているひとばかりだ。この事件でやりきれないのは多くの乗船客が見殺しにされ、救いがないことだ。だからドラマ仕立てにするのは不可能だろう。
十年後、二十年後に事件が忘れられ、同じような事件が再び起こったときのためかも知れない。
「従軍慰安婦」の映画もいまに作られるだろう(もう作られているのかも知れない)。
外国の警察ミステリードラマや映画を見ていると犯人の年齢や性格を推察するプロファイラーという役割の人が良く出てくる。何かで読んだけれど、プロファイリングが可能なのはシリアルキラー、つまり連続殺人犯の場合らしい。シリアルキラーは常に模倣犯である、ともいわれる。すでに連続殺人犯のモデルは出つくしているので、犯人はオリジナルのつもりでも模倣犯になってしまうのだそうだ。
プロファイラーというのは過去の犯罪をとことん研究しつくしてそのパターンを識り、新たな犯罪にその知識を応用する人、ということらしい。だから単独の衝動殺人などにはあまり役に立たない。それにそんな事件はプロファイリングする前に警察が先に犯人を見つけ出すだろう。
などというのは録りためた海外ドラマを見続けているのだけれど、それが連続殺人事件ものばかりだったからだ。
「犯罪捜査官 アナ・トラヴィス」シリーズの「消された顔 #1~#3」、「潜入捜査 全編、後編」、「模倣犯 第一話~第三話」。主人公のアナ・トラヴィスは魅力的ではあるけれど、あまり優秀な警察官とは感じられない。それより上司の主任警部・ラングストン役の俳優が、ごつい顔だけれど警官らしくてこちらの方が魅力的だ。悪役顔だけれど。これはイギリスドラマ。
「殺人の足跡 マーダーランド」第一話~第三話。母親を殺された娘が15年後にあるきっかけからその未解決事件を解明しようと立ち上がる。向かったのはそのときの捜査をした刑事の家なのだが、事件のあと、彼は警察を辞めていた。この元刑事の残していた資料を基に調べを進めるのだが、彼女は意外な事実を知ることになる。ついに彼女は真相を知るために危険な賭に出る。残念ながら主演の女優が長すぎる顔で、好みではないので感情移入しにくい。15年前の少女だったときがとても可愛いのに、どうして大人になったらこうなるのか分からない。ミスキャストだろう。これもイギリスドラマだが連続殺人ではない。
「ホワイトチャペル 終わりなき殺意」シリーズ、第一シーズン#1~#3、第三シーズン「暗闇」の前編、後編、「切断」の前編、後編、「怪人」の前編、後編、第四シーズン「魔女」の前編、後編、「仮面」の前編、後編、「生贄」の前編、後編。残念ながら第二シーズンは録画し損ねた。これもイギリスの警察ドラマ。ホワイトチャペルと言えば有名な「切り裂きジャック」事件のあった場所で、第一シーズンはその「切り裂きジャック」の模倣犯を追う。主人公のちょっと異常に潔癖なキャリヤ警部補チャンドラーとベテラン刑事のマイルズ、そして結果的にプロファイラーとなって捜査の手助けをする「切り裂きジャック」の研究家バッカンが猟奇連続殺人事件を捜査する。ほとんどが過去の猟奇事件の模倣犯であり、なぜホワイトチャペルなのか、それが最後に明らかになっていく。最初はミステリーなのだが次第にスリラーになり、最後はほとんどオカルトホラーである。とにかくチャンドラーがときに鋭く、ときに無能で分裂気味、捜査陣もちょっと異常な集団で、こんな警察では市民は守れない。事件はほとんど解決しない。犯人はつかまる前かつかまってからすべて死んでしまう。
「ゾーズ・フー・キル 殺意の深層」シーズン1、「閉ざされた世界」、「目には目を」、第2シーズン「死のゲーム」、「過去の幻影」。すべて一話完結。これはデンマークの警察ドラマ。女性刑事とプロファイラーとのコンビが活躍する。こちらも連続殺人事件ばかりだ。しかしどうして女性刑事というのはこんなに感情的でしかもあまり賢そうに見えないのだろう。腕力がない分、智能が勝らないと見ていてイライラする。もちろんこちらが犯人を先に犯人を知る話が多いから当たり前なのだけれど。
こうしてドラマの主人公たちと一生懸命犯人を追いかけていると、何となく犯人についての行動パターンや心の動きが見えてきたりする。ドラマを見ながら私もプロファイラーになっているつもりらしい。
とにかく録りためた海外ミステリーは一通り見終えた。くたびれた。
外に出れば顔見知りの人と挨拶程度はするが、一人暮らしなので会話らしい会話はほとんどない。時々独り言を言ったりするが話し相手は自分だけだし、ほとんど発声はしていない。この頃、いささか声が出にくいような気がしている。これでは母の二の舞になりかねない(発語障害で会話がほとんど不能)。だから時々誰かに会うようにしている。
先日は犬山に住む兄貴分の人と名古屋で飲んだ。仕事で世話になった人だし、泣き言もずいぶん言った。個人的なことも言ってきた。酒もよく飲みに行って痛飲した。今回も口切りのジョッキのビールを飲んだあと、気が付いたらワインをボトル三本空けていて、4本目を頼もうとして思いとどまった。もちろん調子に乗ってあることないことしゃべりちらしていた。しゃべっているときはとても良いことを言っているような気がしている。自慢話すら本当のことのように感じている。
酒の勢いでたまっていたものを全て吐き出しているのだと思っていた。でもよく考えると、このことを話そう、などと何も考えていたわけではないことに気が付いた。話しているうちに、私はこんなことを思っていたのか、と感じることがしばしばあったのだ。それは相手が興味を持って聞いてくれるようなかたちで相手に合わせた物語を作り出しているという感覚だ。
こんなことを考えたのは内田樹先生の文章を読んだせいかもしれない。
とにかくしゃべりすぎると物語が拡散し、ついに支離滅裂になる。当人はいい気持ちだが、周りで聞いていたら意味不明だろう。ただし相手には快感かも知れない(相手に合わせているのだから当然だ)。さいわい兄貴分の人は私以上によくしゃべるから私も快感を感じていた。
おかげで翌日は二日酔いであった。
北京料理の代表的なものに北京ダックがある。海外の要人が北京に来るとしばしば招待されるのが北京ダックの有名店、「全聚徳」だ。この店が開店して150周年だという。
ここでは開店以来から累計で何羽目のアヒルが供されたか、その数字が会計後に手渡されることでも知られる。不肖私もここのチェーン店の一つに子供たちを連れて北京ダックを食べた。たまたま手持ちの金がちょっと残ったので無理をした。店は満員の喧噪の中にあり、そこにいるだけでテンションが上がる。料理人がわざわざテーブルまでやってきて切り分けてくれる。もちろん旨い。特に北京ダックを包む薄い皮が旨い。
その「全聚徳」がブルジョワ的だとして文化大革命のときに紅衛兵に「北京烤鴨店」と看板を掛け替えさせられていたことを思うと夢のようだ。
副題は「『賢人支配』の100年」。中国は過去一度も民主主義を採用したことがない。そのことを忘れると中国について勘違いする。
読みかけていてそのままの諸星清佳「中国革命の夢が潰えたとき」(中公新書・副題は「毛沢東に裏切られた人々」)では、中華人民共和国成立は共産党と民主諸勢力の協力で成立したが、どうして共産党独裁政権になったか(かたちとしてだけは民主諸勢力はいまでも全く当時のままで存在する。ただし何の権限も発言力もない)、民主諸勢力の人々がどのように挫折させられていったのか、詳細に検証されているが、この「中国の愚民主義」では辛亥革命以後の中国が、民主主義を取り入れることができなかったのは孫文の愚民主義が出発点であるからだと断定している。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパは雪崩を打って民主化した。続いてソ連が崩壊した。そのまさに1989年、ベルリンの壁崩壊より早く、中国は民主化の夢を見た。それを徹底的にたたきつぶしたのが天安門事件であり、弾圧を指示したのが鄧小平である。
プラトン(だったと思うが)の理想とした哲人政治は、それが理想的にかなえられれば最も優れた政治のように思える。そして民主主義はしばしば過ちを犯し効率も悪いことは身に沁みて経験するところだ。ところが世界はおおむね民主主義に移行している。それはもし過ちを犯しても修復することが可能なシステムでもある民主主義が、最善でなくとも最悪ではないことを皆気が付いているからだ。
眠れる獅子と言われた中国が再生するのにあるいは現体制は貢献したかも知れない。しかしすでに共産党独裁のマイナス面が顕在化し、成果より害悪の方が大きくなりそうな事態となっている。これを修復しようと習近平国家主席は努力しているようだが、果たして可能か。
何千万という国民を「大躍進」や「文化大革命」などで死傷させた共産党独裁体制は、果たして今度もその危機を乗り越えることができるのか。多くの中国ウオッチャーは(私も)さすがに今回は無理ではないかと見ているが、韓国・朴槿恵大統領や朝日新聞は可能だと見ているようだ。
昨日は定期検診日で病院へ。ドライデーが減っているし、体重のリバウンドがあったので、この一週間節制した。その甲斐あってか血糖値も血圧も基準値をクリア。体重もリバウンド前にもどっていた。たべるのをへらして無理したから当然ですが。
腰痛で運動不足になりまして、などといいわけをして、医師(可愛い女医さん)にOKを貰った。数値が悪いとやさしくお小言をいただくのが案外こたえる。数値がいいと嬉しそうだし、悪いと本当に心配してくれているので。
次回の予約をして、支払いをして、投薬の処方を貰って、薬局に行って大量の薬を貰って、家に帰れば半日が経過している。血液検査の結果を待ってからの診療なのでこれは仕方がない。空腹の極みなので、早速買い出しに出かけ、食料と酒を大量に買い込んだ。この一週間は冷蔵庫に最小限の食料しかおかず、酒ももう底をついていたのだ。
空腹なのにあまりたくさん食べられないのは胃が小さくなったからであろうか。それに加齢と共に食べ物のうまさに対して昔ほど感激がないのが少し寂しい。もう記憶でものを食べるしかなくなったのか。空腹が最良のコックではなくなっている。
ブログを書く、というのは自分が何を見て何を感じ、何を考えたか、を記録に留め、それを自分以外の人の供覧に資するためである。つまり、私は何者であるのかを表現すると云う事であるが、それ以上に、自分自身を他人として眺めなおすという意味もある。
などと理屈をつけるのが悪いクセだが、最近読んだ本を並べて記録しておくことにする。
山本夏彦「ひとことで言う」(新潮社)
副題が「山本夏彦箴言集」とあるように、彼の死後、彼の文章のなかから彼らしい部分を抜粋して本にしたもので、多分彼がこれを知れば不愉快だろう。彼は内田百閒と同じく、文章を極限までそぎ落として精魂を傾けた。だからその文章は全体で完成されている。それを抜粋すればその意は誤解されるおそれがある。それは彼が再三経験してきたことだ。 その文章を私もいくつか抜粋した。夏彦翁、ごめんなさい。
内田樹「武道的思考」(筑摩書房)
内田樹先生がブログも含めて書いた文章のなかから武道に関連すると思われるものを選んで編集したものだが、武道に直接的に関わるとはとても思えないものもある。ただ、武道の神髄は何か、と云う点について繰り返し先生が語る精神的なもの、つまり考え方から世界を見直せば、こういうものもありかも知れない。
何か意見を言うときは、人の言っていることと違うことを云わないと耳を傾けてもらえない。しかしあまりに奇矯であってはやはり相手にしてもらえない。なるほど、そんな考えもあるのか、初めて聞いた、という話を語るのはまことに至難である。先生の本はその驚きに満ちている。
養老孟司「『自分』の壁」(新潮新書)
帯にあるように「自分探し」なんて無駄なこと!自分を探さなければいけないなら、探している自分は一体何なのだ?言われてみればその通り。
確固たる自分、いわゆるアイデンティティと言うものの存在を信じる西洋的な思考法に疑問を投げかけているのだが、信仰のように染みついてしまっているこの考え方はちっとやそっとでは落とせない。自分とは外部があっての自分だという当たり前のことに気が付かないと、その迷妄から抜けることはできない。
宮城谷昌光「歴史の活力」(文春文庫)
もともとは海越出版社から1992年に単行本で出版されたものだ。もとの題を「会社人間上昇学」という。まだ宮城谷昌光がメジャーになるかならない頃に書いたものと覚しい。まるでプレジデントか何かに連載した文章みたいだが、その該博な知識の一端がうかがえる。
宮城谷昌光が直木賞を取った「夏姫春秋」も受賞後第一作目の「天空の舟」も海越出版社という出版社だった。
志賀直哉「小僧の神様 城の崎にて」(新潮文庫)
この短編集は小説らしい小説が多い。もちろん私小説も多い。私小説のなかの彼は自分に正直に生きている。自分に正直、というのはときに周りの人間には残酷なことだ。それでも彼は悩んだ。そしてその結果都電にはねられるという事故に遭遇した。「城の崎にて」はその療養先の城の崎での出来事を記したもので、私の大好きな文章だ。
中国国立の敦煌研究員は8月から莫高窟近くにある「敦煌莫高窟デジタル展示センター」を一般公開することにしたそうだ。
同センターでは敦煌の歴史、文化をデジタル映像などで紹介する。予約制。
敦煌はシルクロードの象徴のような場所で、外国人の訪問が多い。しかし近年中国人の訪問客も激増しているようだ。
莫高窟は400以上の石窟があり、その内50窟くらいが公開されている。それぞれ入り口は狭く、一度に30人程度しか入れない。内部は照明がなく、敦煌研究員であるガイドの人が懐中電灯で伊武の彫刻や壁画を照らしながら説明をしてくれる(日本人専門のガイドもいるので大丈夫)。カメラやビデオは入り口で預けることになっており、撮影はできない。
しかしここに中国人が殺到することになったら・・・。壁にさわるわ、私語でやかましいわ、勝手に写真を撮るわで収拾がつかないのではないだろうか。
外国からの観光客はここまでやってくるのは大変で、時間と金がかかる。だから敦煌のこと、莫高窟のことをよく勉強してから来る人がほとんどだ。だから熱心に見学するし、遺蹟を毀損することはない。
しかし中国人は観光地の一つ、という認識しかないから意識がまるでちがう。
できれば人数制限もかねて「敦煌莫高窟デジタル展示センター」での勉強を莫高窟入場の義務にすべきではないか。
莫高窟の文物、そしてその遺蹟そのものを保持するためにどのような苦難の歴史があったのか、「敦煌の夢」王家達著・徳田隆訳(竹内書店)に詳しい。中国最高の文学賞「魯迅文学賞」を受賞したこの本は、涙なしには読めない。
中国が日本人戦犯の供述書の公開を始めた。旧日本軍人45人分の日中戦争中の殺傷、破壊行為について順次公開していくと言うことである。
第二次世界大戦は8月15日に日本の敗戦で終わりを告げたが、その後もソビエト軍は中国に進軍をつづけ、軍も一般人も併せて捕虜にした。この時、多くの日本の軍人がシベリアへ抑留されたことは知られている。なかにはカスピ海のほうまで連行され、日本に返されるまで何年もかかった人も多い。まだ帰れた人は良い。そのままシベリアの土となったひとも少なくないのだ。私の父方の叔父は昭和24年にようやく帰れた。
だがその話ではない。
このソ連軍に抑留された軍人と、その武器弾薬はその後当時の中国に引き渡された。本来中国を代表するのは国民党が率いる政府だったが、ソ連が侵攻したのはもちろん中国北部である。その地区は中国共産党の支配地であり、国民党の軍隊と共産軍は内戦に突入していた。だから捕虜は中国の共産党に引き渡されたのだ。
ソ連に捕虜になったときは食料も不十分で過酷な捕虜生活だったが、中国に引き渡されてからは貧しいながらも温かい食事が与えられ、生き返った気持ちだったという。そしてもちろん捕虜たちは逐次日本に引き揚げることが許された。
ところがその中に帰ることが許されなかった人々がいる(記憶では約二千人ほど)。
この顛末が「撫順収容所」というNHKのドキュメントで記録され、放映されている。すでに消去してしまったので、不確かな記憶だが、ここでの徹底的な思想教育、自己批判の強要はほとんど捕虜の精神を破壊するものだったことが明かされていた。すべての捕虜は自分の罪を認め、積極的にその行為を証言した。全員死刑を覚悟したという。ところが結局死刑になったのは10人前後で、ほとんどの人が日本に帰国することができた。
彼等の日本に帰ってからの証言は、虐待を受けた、というものではない。しかし洗脳というものの恐ろしさを体感したことにより、ほとんど廃人に近い者もいる。
今回の、中国が公開を始めた戦犯の供述証言というのは、ここで供述されたものか、それに類するものであろう。あのドキュメントをNHKはいま再放送する勇気があるだろうか。
誤解を招くから、と云う理由で多分放映しないだろうけれど、NHKアーカイブスで見ることは可能のはずである。
日本のメディアが「日本と中国が戦争になった場合、食糧の供給で中国に依存している日本では野菜の価格が10倍になる可能性がある」と伝えた、と中国で話題になっているらしい。
このメディアがどこなのか知らないし、その記事も読んでいないが、早速に中国で突っ込みが殺到しているというのだ。
「戦争になればミサイルが飛んでくるかも知れないのに野菜の心配をしている場合か!」。まことにもっともである。
この日本の記事が本当だという前提で言えば、日本のそのメディアの平和ボケは異常である。しかしいくら何でも・・・と考えたら、こういうことか、と思い当たった。
この記事を書いた記者は日中の間に戦争が起こるような事態はいけない、と主張したかったのだろう。当然だ。そして日本国民、特に女性にその危機を訴えるには野菜価格の高騰を訴えることが具体的な戦争危機を分からせるのに良い、と思ったのだろう。
ここには読者、つまり日本国民がその程度に愚かである、という意識が感じられる。愚民に戦争の危機を伝えるにはこのレベルの話題が適当、と判断して記事を書き、それを編集長などの上司が諒としたから記事になったのだろう。
あの号泣会見の議員のように愚かな国民もいる。そんな国民も含めて日本国民であり、読者である。しかしそこをターゲットにして報道をするのは異常だ、と思うのだ。
新聞に使う漢字のレベルを小学生の読めるものにする、という趣旨でおかしな漢字の使い方(熟語の一部をひらがなにする!など)を平然とするところにも読者の蔑視が含まれている。
小学生でも新聞を読むくらいの子供は当用漢字でなくたって読めるし、読めなければ辞書で調べるだろう。山本夏彦ではないけれど、ルビを振れ!ルビを復活させろ!
いま読んでいる本(「中国の愚民主義」横山宏章)で思ったことだけれど、独裁国家(社会主義国家はすべて独裁国家)は、国民は愚かなものであり優れた人間が領導しなければならない、という確信のもとにある。
そして民主主義はその愚かな国民も国民として国家経営に関与できる、とする考えで成り立っている(だからときに民主党を政権につけるような間違いをおかすが、それを修正することが可能なシステムでもある)。
読者を愚民と前提するメディアに社会主義に対するあこがれがほの見えるのは、だから当然なのかも知れない。
中国のネットでは、「中国人でも危険で食べたくないのに、日本が中国の野菜を食べているとは驚きだ。本当なのか」というのもあったらしい。
3日4日に国賓として韓国を訪問した習近平国家主席は温かい歓迎を受けたようだ。初日は、両首脳は日本に対して直接的な非難をせずに、当初控えめな物言いをしていた、と報道されたが、習近平のペースが次第に抑えきれなくなって、朴槿恵大統領も最後は名指しで日本を非難していたようだ。
当初控えていたのはアメリカの強い申し入れがあったかららしいが、結果的にはそのアメリカの意向は無視されることになった。
これで韓国の、中国べったりの経済政策がさらに推し進められることだろう。それが功を奏すれば良いけれど、果たしてどうか。その思惑が外れて韓国経済がじり貧にでもなれば、韓国国民の反発は激しいものになることだろう。
そもそも韓国はウオン安を武器に日本とのコスト競争に勝ち抜き、安価攻勢で世界に韓国製品を拡販してきた。ところがアベノミクスによってウオン高になり、その価格競争力は低下、それを無理をしているから利益率は大幅に低下している。
しかも世界の市場で韓国製品と競合するのは中国製品である。今後両国は同じゾーンで商売をするライバルとなると思われる。中国の巨大市場に一方的にものが拡販できる、と韓国が夢見るのは甘いのではないか。
日本ではなぜか韓国製の製品はあまり売れない。これは韓国が極端な反日行動に出る前からそうである。それがなぜなのか、韓国は胸に手を当てて考えないと、中国に呑みこまれるだけではないか。
それとも韓国製品を買わない日本人を恨んで反日に走っている、とでもいうのだろうか。
朴槿恵大統領はとにかく今回の中国との友好アピールが支持率回復につながる、と確信していることだろうが、実際には韓国国民にどう受け止められているのか、直近の支持率調査の結果が知りたいものだ。
私は多分支持率はさらに下がるような気がする。それはあまりにも中国ペースであり、軍門に降るかのように国民には見えたのではないかと思う。習近平という人はそういうイメージが拭えない人に見えるから。
持病の腰痛が少し悪化している。腰痛は多くの人が経験しているようで、何ともない、と云う人の方が珍しい。ウエイトコントロールのためにも運動をしないといけないのだけれど、歩くのもちょっとつらいのでつい家でごろごろしている。不思議なことにしばらくすると痛みが軽くなるので今はそれを待っているところだ。
椅子に座っているとつらい。長距離運転もつらいし、こうしてブログを打ち込んでいるのもつらい。録画している映画やドラマを見るのもつらい。それなのにこのところ録りためた海外ドラマを集中的に見ているからますます腰が痛い。
記録のために題目だけあげておく。
「主任警部アラン・バンクス」 第二シーズン第一話~第三話、第三シーズン第一話~第三話。このシリーズは大好きだ。アラン・バンクスのいつも苦虫をかみつぶして眉間にしわを寄せている顔が男らしくていいのだ。ほとんど笑わない。しかしどうして警官の娘というのはいつも親に反発して道を踏み外しかかるのだろう。中身が濃くて見応えがあるドラマなので、もし再放送があったら絶対お勧めする。ただしWOWOWだけど。
「SHERLOCK」シリーズ、第二シーズン第一話~第三話、第三シーズン第一話~第三話。これはシャーロック・ホームズの現代版。もちろんドラマは原作を下敷きにして現代風に大きくアレンジしている。あのカンパーバッチがはまり役で、これで彼は大スターになった。第一シーズンでその驚異的な智能に驚嘆したけれど、それがますますエスカレートしている。第一シーズンと第二シーズンに通底する敵はもちろんモリアーティである。第三シーズンはちがうけれど、予告されている第四シーズンはモリアーティが復活するかも知れない。あまりにもホームズの智能がすごすぎて時にコミカルになってしまうのが好みの分かれるところか。これはNHKBSで放映していた。傑作だから必ず再放送するはずで、見逃さずに見ると好い。
「新米刑事モース オックスフォード事件簿」CASE#1~#5。イギリスではモースというベテラン刑事(警部か?)の物語がとても有名で人気があるらしいが、そのモースが新人としてオックスフォードに赴任して数々の事件を解決する。彼の鋭い観察力と該博な知識と知性について行けない周囲は彼の独特の推理に反発して捜査は難航するが、唯一彼を理解する上司に助けられる。イギリスのドラマはよく出来ているし、好みの映像なので大好きだ。できればモースがベテランになってからのドラマが見たいものだ。
「刑事トム・ソーン」第一シーズン第一話~第三話、第二シーズン第一話~第三話。これもイギリスの警察ドラマ。シーズンの三話で一つの事件が解決する。トム・ソーンは推理力と言うより直感力に優れる刑事で、身長190センチを超える大男で時に暴走する。連続殺人事件が途中で阻止されると言うより、犯行が行われてしまってから犯人を突き止めるというスタイルであるから、結果は時に悲劇的な様相を呈する。犯罪者の異常さが際立ち、人間の不気味さが迫る。
これからみたいドラマがまだいくつか残っているし、WOWOWのMOZU第二シーズンも始まったし、今度八月から「リゾーリ&アイルズ」の第四シーズンが始まるし、見ないつもりだった「ザ・フォロイング」の第二シーズンも始まったから、多分見ると思うし・・・。けっこう忙しい。
あの号泣会見が海外でも話題になっているそうだ。もしあれが日本人の一モデルとしてみられるとするなら、なんとも日本人として恥ずかしい。
このことについてはたくさんの人がいろいろな意見を語っていることだろうからいまさらだけれど、私もあれを見て本当に驚いた。昨日朝のテレビ番組で、御丁寧にもあの三時間以上の会見を時系列に沿って編集したものを見たのだ。記者の質問に対して答えるうちに次第にその答は支離滅裂になり、ついには崩壊して号泣をした。あの県議会の代議士には家族もいるだろうに、まことにいたたまれないことだろう。
しかし、記者が舌鋒鋭く追い詰める、というような様子はうかがえなかった。彼の答が質問の答になっていないから、きちんと答えてくれるように再三聞き直しただけのように見えた。それなのに最後は号泣した、というよりわめき倒しの嘘泣きをして見せただけで、質問に対しては全く答えなかった。
質問は、本当に出張したのかどうか、出張したならどんな目的で誰に会ったのか、ということである。出張したのが事実なら答えることは簡単だ。そして事実でないなら申し訳ない、空出張でした、と謝罪するしかあるまい。
泣き止んで見せたあとの、最後の最後に彼はこう謝罪した。「今日は感情的にならないように記者諸君にお願いしたいと思っていた(!)のに、自分が感情的になってしまった。そのことを申し訳ないと思うので謝ります」。謝罪はこれだけである。記者諸君はこれで良かったのか?
子供が叱られるのを逃れるために泣きわめいて同情を買おうとするのに似て、大の大人の男としてみっともないけれど、案外それが通用してしまう、というのを経験的に知っている人物とお見受けした。
悪いことをしても泣けば許される、などと云うことは世の中にないことを兵庫県議会は子供に教えてあげて欲しい。次の選挙で落選するまで待つ、などという悠長なことは許されないと思うけれど。
本に書き込みをするのは嫌いだから普通はしない。ところがこの本の最初のほうには何カ所か書き込みがある。十年くらい前にこの本を買って読んだときのものらしい。
「佐高信の論理」
ブルジョアは悪である。
財界人などのブルジョアに評価される司馬遼太郎は、だから悪である。そうではない藤沢周平は善であり、正義である。
正義と悪を裁く自分(佐高信)が庶民の迷妄を打破してやる。
それは私が正義の人だから。
これが書き込みの一部である。好き嫌いが正義と悪に置き換えられているように感じたのだろう。
この本の前半は司馬遼太郎を批判した人々の文言の引用が次から次にあげられている。多分前後の文言のなかから意図的に抜かれているものも多いだろう。批判している人は司馬遼太郎の評価すべきところと批判的なところをあげているはずだと思うのだが・・・。それはいくつか彼の対談が引用されているなかでのやりとりを見れば分かる。何とか自分の論理に引き込もうとして、相手がうんざりしているのが読み取れるし、その挙げ句仕方なく「そうですね」と言わせておいて自分の意見と同じだ、と決め付けているようなものもあることから分かる。もちろん天から司馬遼太郎が嫌い、と云う人もいるけれど。
佐高信はもともと池波正太郎が好きだったけれど、後に藤沢周平が大好きになった。司馬遼太郎も評価していたけれど、小説から歴史エッセイを書くようになった頃から首をかしげるようになったという。上から目線で書いていることに不快を感じたようだ。
本全体を最後まで読むとそれなりに言いたいことは分からないことはない。しかし前半がひどすぎる。
佐高信は山形県庄内地方、酒田の出身、そして藤沢周平は同じく庄内の鶴岡の出身、同郷であり、しかも二人とも郷里で教師をしていた、という経歴も似ている。このことが佐高信の藤沢周平への強い思い入れを産んでいることは本文中に何度も言及されている。
だからといって北朝鮮や中国ではあるまいし、好きであること、嫌いであることが政治的、思想的な論理で語られては読むほうは不快である。
もともとテレビで何かを語るときの佐高信の風貌、物言いの貧相さ、頑なさに不快なものを感じていたけれど、その中身をあらためて知ることでますますそう感じた。まさに日教組的教師の典型そのものである。
「素晴らしい人」とレッテルを貼ったら「ことごとくが正しい」と思い込む佐高信に思い入れをされた清河八郎もあまり嬉しくないだろう。
俗に真実々々とありがたいように言うが真実は実はいやなものである。それを言うには隠して面白おかしくして言わなければならない。面白がって読むうちは敵は本能寺にあって真実は徐々にあらわれる。その面白いところが「小説」で面白いところだけ読んで作者が言いたいところを読まない人がある。読んでくれる人は稀で、それはやむをえない。(薄氷をふむ思いでいる、より)
事実をいくら積み重ねても真実があらわれるわけではない。事実は常に選択されて提示されるから。ひとは見たいものだけしか見ない。そして真実とは見たくないもののなかにある。
言葉というものは電光のように通じる。時に通じすぎる。ことに読者のノドまで出かかっていることを言うと、そうだそれが言いたかったのだととびあがって、あとで論旨が一転し、再転してもまさかと思うのか、そこは読まないで痛快がって終わる。
言いたいことが胸にまた腹にあった読者は、少しちがった喜びを喜ぶ。腹にあることさえ気が付かなかった読者は、それがあったことにまず驚き、あわてて打ち消す人と怒る人のふた派に分かれる。
山本夏彦は短い文章に思いを凝縮させているので、淺読みすると読み誤る。読み誤る人にはそれについに気が付かないままの人とあとで気が付いて怒る人とがいた。怒る人はバカにされたと思うらしい。バカにされたのだけど。
困ったことに言葉に好き嫌いのない人は実はいないのである。ことに婦人は敏感で、三島由紀夫の「美徳のよろめき」以来よろめくと言いだした。それまでは間男するとか間夫とか言った。卑しいことには卑しい言葉がふさわしいのにそれが正視できなくて、よろめきにとびついたのだから言葉に敏感だと言わなければならない。
私は時と場合によって助平と言って婦人にいやな顔をされることがある。エッチと言えば莞爾とするからエッチならいいんだと分かってこの婦人も婦人なりに敏感だと知るのである。
して見れば敏感と敏感が鉢合わせして、互いにせめぎ合っているのが浮世かと私は不承するのである。(このけがらわしい言葉「ロマン」、より)
マスコミが忌み言葉だらけになってがんじがらめなのはこの故か。まことにこの世は言葉に敏感で、その分事実に鈍感だ。
玉木林太郎OECD事務次官が日本記者クラブで会見した内容を読んで仰天した。
「中国のGDP成長率は2010年~30年に5%代半ば、2030年~50年には2%代半ばに鈍化するものの、2060年までに中国の一人あたりのGDPは現在の米国並みになり、全体のGDP規模は断トツで世界一となる」という。
この予想は世界のGDPが2060年には4倍以上になるという前提にもとずくらしい。
もしこれが正しいなら、エネルギー消費量は現在の少なくとも4倍以上になることが必然である。中国のGDPあたりのエネルギー消費量は日本の約6倍である。中国のエネルギー消費効率が如何に改善されたとしても、現在の日本よりよくなる見込みは今のままでは有り得ないから、エネルギーの消費量は5倍以上に増えるという予測である。
どこからそんなエネルギーを、そして資源を持ってくると言うのだ。世界はすでに限界に来ている。あとは限られたものを如何に再配分するのか、ということを考えなければいけないはずなのに、こんな有り得ない予測をとくとくと語るこの人物は妄想患者だろうか。
世界は今のところアメリカだけが豊かだから何とか回っている(そのアメリカですら再配分がうまくいかずにぎくしゃくしている)。中国までアメリカ並みの豊かさを享受できる日など絶対に来ない、と私は思うがこの人物はそう思わないらしい。私のなかで愚か者のリストに入れることにした。
どんな席に出ても自分が一番若かったのに、いつのまにかいちばん年かさになってしまったとは皆が皆歎く嘆きである。これは本来人には年齢がない、女は永遠に十七である証拠だと言うと、傳恒のように理解する人と理不尽で分からぬという人に分かれるから念のために書く。
(略)
まことに歳月は勝手に来て勝手に去る。私たちの内部は永遠に年をとらないのに、外部だけとるのは納得できないことである。それに年とったからといって少しも利口にならなければバカにもならない。いつかしわがよるのである。何よりおお男たちの見る目が違うのである。自分が男たちを見る目は違わないのに。
女のことばかりいったが、男も同じだと思ってくれ。白髪は知恵のしるしではない。人間本来男女なし老幼なし。だからその目で五十六十の女を見てごらん、もうろう彷彿として老いた顔のなかに十七の顔があらわれ、次第にそれが全貌を覆うから。
山本夏彦は本当に冷たい。それが大好きなのだから私も冷たいのだろう。
人生教師になるなかれと私は思っているが、口に出しては言わない。人は年をとると教えたがる、教える資格が自動的に生じると思うらしいが、むろん誤りである。(その誘惑にたえかねて、より)
まことにおっしゃる通り。教えられました・・・。あれっ?
安倍政権が集団的自衛権行使容認の閣議決定をしたことについて、韓国の各紙は「日本の侵略DNAが復活した」と書き立てた。
あれれ、この侵略DNAと云う言葉、昨日習近平主席が使った言葉の使い回しではないか(拙ブログ「覇権をめざすDNA」参照)。韓国のマスコミは中国のマスコミか。いつの間に韓国は中国の属国に戻ったのか。
ところで中国のLINEは1日夜から使用出来なくなった。韓国製の通信アプリ「カカオトーク」も不通になっているという。明日3日には習近平主席が韓国を国賓として訪問する。そのことに関連して中国内では情報を遮断することにしたようだ。そして韓国からの情報も合わせて遮断するつもりらしい。こうして中国も韓国も情報管制のもとにおかれることになった。
ラブコールは一方的に朴槿恵大統領から習近平主席に送られている。四面楚歌の習近平主席はそれを最大限利用しようとしている。ところで中国人は日本人よりも韓国人が嫌いであることはふだんのネットでのやりとりをみているとよく分かる。そして韓国の多くの人は中国に偏りすぎている朴槿恵大統領に強い危惧を抱いている。
朴槿恵大統領が反日に盲進して日本との関係を損ない、さらに中国に取り込まれることでアメリカとの関係を悪化させることは、日米韓の連携にくさびを入れようという中国の思うつぼではあるが、さて、韓国にとってどんなメリットがあると云うのだろうか。韓国は経済的に中国との関係だけで生きていける、と決断したのだろうか。
中国の経済が停滞したとき、韓国は一番先にその悪影響を受けることになるけれど、それでいいという覚悟があるのだろうか。北朝鮮が瓦解したときに日本もアメリカも韓国を助けないというシナリオを覚悟しているというのだろうか。
ありえないけれど、半島はすべて中国の国土、というシナリオも描くことは出来る。実は朴槿恵大統領はそれを受け入れているなどと云うことはないだろうが・・・。まさか朴槿恵大統領は日本に膝を屈するくらいなら、国を売る方がまし、と思っているのだろうか。
友の幸運は嬉しいものである。けれども二度も三度もかさなるといやな気がする。また友の不運は同情に耐えないものである。けれどもその友を見舞う足どりは我にもあらず勇むのである。
俗に金銭の貸借は友を失うという、だからしないと断る友がある。なに貸したくないのである。真の友なら貸す。そして貸したことを忘れる。借りたほうも忘れる。形勢が逆転してこんどは貸してくれたほうが借りにくると、以前借りた友は貸し手に回れたことを喜んで貸し、そして共に忘れる。かくの如きが真の友ならこの世に真の友はない。
お話変わって中年の妻の五割以上が夫と別れたがっていると、新聞で読むとその気になる妻がいる。夫が退職金を貰うと日ならずして菊池さん又は佐々木さんと妻は夫を姓で呼ぶ。
その声音にぞっとして振り向くと、ながながお世話になりましたが今日かぎりお別れしたいと言う。女はそれが流行となればそそのかされれば何でもする。ひと前でまる裸になるくらいだから、別れもしよう。
けれどもこの世に友はないのである。友のごときものでさえ稀なのである。三十年四十年友に似たものならそれは友なのである。一夫一婦は根本に無理をふくんでいる。けれども人間の考えたもののなかではよく出来たほうだとながめて私は思うのである。(友に似たもの、より)
山本夏彦は心に地獄を持っていた。若いときひとたびふたたび自殺未遂のすえ、死んだまま生き続けた。つまり生きたまま死んでいた。それでも生き続けて友も出来、妻もめとり、子供も作った。
大東亜戦争は侵略戦争でないというのはちとムリである。狭い日本にゃ住みあきたという歌が昔からある。日本人は広い海外に進出したいとかねがね願っていた。はじめ北米南米に移民したが、排日で移民は出来なくなったから満州へとめざすようになった。五族協和というのは美名で、支配下におきたかったのである。
めでたく満州国建国にこぎつけたが、建国一周年のニュース映画では、満州国皇帝溥儀の面前で、まず大日本帝国万歳次に天皇陛下万歳、最後に満州帝国万歳をとなえていた。
そのあとハルノートをつきつけられてやむなく勝算おぼつかない日米戦に突入した。それによって欧米の旧植民地が皆々独立したのは日本のおかげだが、その発端は侵略である。あれはうそから出たまことみたいな独立で、うそから出ようと独立は独立だから感謝している国はあろうが、だからといって発端を打ち消すことはできない。(ひとくち話 戦争まで より)
侵略された国に禍根の残ること、韓国、中国はもちろん、アフリカ、中近東の今を見ればよく分かる。彼等は報復がしたくてたまらない。同じ事を相手にしなければその恨みは永遠に解消されないのかも知れない。それをされないための集団的自衛権が必要だ、というのが哀しい現実なのだろう。
戦争には勝敗はあるが、正邪はない。戦勝国と敗戦国はあるが、その間に正義が割り込む余地はない。
古往今来勝者は敗者を存分にした。殺すか奴隷にした。敗けた国は臥薪嘗胆して今度は反対に勝つと、おなじ復讐を復讐した。こうして何千年来戦争はあった。これからもある。
清盛は頼朝を助けたばっかりに、あとで殺しておけばよかったとくやしがったが及ばなかった。頼朝は義仲を殺した。義経を殺した。
戦に初めて正義をもちこんだのはアメリカ人である。アメリカ人は報復を報復でないように見せたがった。東京裁判なんて前代未聞の偽善である。(昔は喧嘩は両成敗だった、から)
このアメリカの呪いが日本を永遠の悪者に仕立て上げた。だから東京裁判以前に無数の戦争があってもその正邪が問われることはなく、日本のみが悪者になった。中国や韓国の反日に根拠を与えたのはアメリカの正義だ。
あっしには関わりのねえことでござんす
日本はアメリカの植民地または属国であります。植民地はもとの独立国に返りたいと願うのが尋常なのに、ひとりわが国のインテリにはその気がありません。アメリカの植民地でなければ、ソ連または中国の属国になることをなが年欲していました。(どっちへころんでも属国、より)
今ようやくそのインテリのくびきから国民が目覚めようとしている。それは中国と韓国のおかげであり、迷走するオバマ大統領の率いるアメリカのおかげだ。いまだに目覚めていないのはマスコミとそのマスコミの提灯持ちをしている御用学者たちだ。(いかん!北朝鮮や中国や韓国の品のない云い方がうつってあらぬ事を言いそうだ)
古人は閨のむつごとと言ったから、何もかも知っていたのである。ただ女が一休みして立つのはいい、あるいはやむを得ない。そのとき正気にもどって、日常ふだんの声で寝ている男に何か言うのはあんまりな無神経である。男にどんな声で返事をせよというのか。
男は閨房で街角の声を聞いて愕然と我にかえる。女はもどって再びむつごとの続きを繰り返すつもりなら、正気にもどったあのどら声をださぬがいい。無言で立つのが尋常の女のたしなみである。我とわが声に驚かぬとすればあまりである。帰って何のかんばせあって喃語にもどれるのか。
男は女が思っているより繊細な存在で、事が終わって入浴して、着がえてワインでも飲んで、常のごとき生活に帰って常の「生活の言葉」にもどるのが尋常である。
これは私のことではありません。山本夏彦の言葉です。でもあまりにもその通りだと感心したので・・・。
医者と薬は信じなければ効かないと私は思っている。かぜを売薬で治そうとして治らないことが多いのは薬屋と病人の間に信頼関係がないからである。そう言えば子供のときの医者の薬は良く効いた。
粉薬と水薬があって、水薬はびんに一回分の目盛りの線が記してあって、それに従って飲むと風邪なんかすぐ治った。今は治らないのは情報が多すぎて、これまた信頼が薄れたからだろう。
今はなき山本夏彦の箴言集を読んでいる。その中からいくつか分かりやすいのを記していこうと思う。情報は多すぎると信頼性が失われる。至言である。
そのとおりダベ~
習近平国家主席が、北京の人民大会堂で開かれた平和五原則60周年記念式典で、「中国人には覇者を目指し、みだりに戦端を開くDNAはない」と発言した。さらに「他者に国際法を守るように言い立てつつ自分は守らない、法の支配を名目に他国の正当な権益を侵害する行為に反対する」と発言し、暗に日米を批判した(のだそうだ)。
揚げ足を取るわけではないが(揚げ足を取るけれど)、DNAには覇者を目指す、などというものはないから、中国人には覇者を目指したり、戦端を開くDNAがないという発言は誤りではない。しかし、それは中国人に限ったことではないから、言っていることは無意味でもある(こういう云い方をマスコミは喜ぶけれど)。
そして、中国以外の多くの国(日米だけではない)が、中国に対し国際法を守るように言い立てているのは事実であり、それは中国が国際法を守っていないからである。そして、習近平が、国際法を守っていないのは中国だけではない、というのは具体的にどのことを言うのか明らかではない。そんな事実はそもそもないから、習近平も聞かれたら答えようがないだろう。誰も聞かないけど。
そして法の支配を名目に他国の権益を侵害する、と日米を批判するのは、法の支配、つまり法に基づいたら、中国の言う権益は守れない、ということ、つまり中国の言う権益は違法であることを自ら認めていると云う事になる。
どうも習近平以下、中国共産党は最近いささか常軌を逸しているようだ(こう云うところを見て長谷川慶太郎は中国が末期的症状だ、というのだろう)。
中国では要職にある共産党員は逮捕されない。だから逮捕するためにはまず党籍が剥奪される。党籍剥奪は要人の社会的生命の喪失そのものだ。
中国の元制服組(2012年に解任)のトップが党籍を剥奪された。職権を利用して部下らの昇進に便宜を図り、その見返りに自身や家族が賄賂を受け取っていたそうだ。その部下はすでに逮捕されている。当人は膀胱癌で入院中だったが、入院先から連行され、拘束された。
広州市の書記(市長格であり、立法、行政、司法権限のあるトップ)が解任された。これから共産党が規律違反で取り調べを行う。次いで党籍の剥奪が行われ、司法機関に引き渡されるだろう、という。
前国務院国有資産監督管理委員会主任(閣僚級)であり、元中国石油天然ガス集団会長と、前公安次官の収賄容疑が固まったとして党籍が剥奪されることになった。このあと司法機関に身柄が引き渡される。この二人は前最高指導部メンバーである。そして周永康・前党中央法制委員書記の側近でもある。
これで今まで何とか危機を切り抜けてきた周永康の足もとも危うくなってきた。周永康と言えば江沢民とその一派の金蔓だと言われる。前々国家主席で、前国家主席の胡錦濤と張り合って隠然たる勢力を誇っていた江沢民の金脈にメスが入ることになるのかどうか。
そもそも江沢民が自分の傀儡として送り込んだのが習近平だ。江沢民にしたら飼い犬に手を噛まれた、というところだろう。果たして周永康は処分を免れるか否か。
ところで、先日習近平は自分の親族に対して公的な仕事を離れ、資産を整理するように命じた。自分の権力を親族が利用することを禁じた、というわけだが、子供や妻がそれに応じて整理した資産は1500億から2500億円だという。一族すべてならどれほどの額にのぼるだろう。
腐敗撲滅、といいながら、実はただの権力闘争であることがこれでよく分かる。
中国共産党の党員の伸びが鈍化している、と報じられた。前年比で25%の減少だそうだ。
同時に党員数は前年に対して155万6000人増えて8668万6000人になったとも報道された。
習近平の反腐敗運動で共産党員になることのうまみが薄れたのか、それとも山分けするものが先行き心細いので党員として認可する枠を絞り始めたのだろうか。
前年よりも増えているけれど、その伸びは鈍化しているというのは中国経済と同じ傾向だ。党員数と中国経済は多分関係があるのだろう。
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