佐高信「司馬遼太郎と藤沢周平」(知恵の森文庫)
本に書き込みをするのは嫌いだから普通はしない。ところがこの本の最初のほうには何カ所か書き込みがある。十年くらい前にこの本を買って読んだときのものらしい。
「佐高信の論理」
ブルジョアは悪である。
財界人などのブルジョアに評価される司馬遼太郎は、だから悪である。そうではない藤沢周平は善であり、正義である。
正義と悪を裁く自分(佐高信)が庶民の迷妄を打破してやる。
それは私が正義の人だから。
これが書き込みの一部である。好き嫌いが正義と悪に置き換えられているように感じたのだろう。
この本の前半は司馬遼太郎を批判した人々の文言の引用が次から次にあげられている。多分前後の文言のなかから意図的に抜かれているものも多いだろう。批判している人は司馬遼太郎の評価すべきところと批判的なところをあげているはずだと思うのだが・・・。それはいくつか彼の対談が引用されているなかでのやりとりを見れば分かる。何とか自分の論理に引き込もうとして、相手がうんざりしているのが読み取れるし、その挙げ句仕方なく「そうですね」と言わせておいて自分の意見と同じだ、と決め付けているようなものもあることから分かる。もちろん天から司馬遼太郎が嫌い、と云う人もいるけれど。
佐高信はもともと池波正太郎が好きだったけれど、後に藤沢周平が大好きになった。司馬遼太郎も評価していたけれど、小説から歴史エッセイを書くようになった頃から首をかしげるようになったという。上から目線で書いていることに不快を感じたようだ。
本全体を最後まで読むとそれなりに言いたいことは分からないことはない。しかし前半がひどすぎる。
佐高信は山形県庄内地方、酒田の出身、そして藤沢周平は同じく庄内の鶴岡の出身、同郷であり、しかも二人とも郷里で教師をしていた、という経歴も似ている。このことが佐高信の藤沢周平への強い思い入れを産んでいることは本文中に何度も言及されている。
だからといって北朝鮮や中国ではあるまいし、好きであること、嫌いであることが政治的、思想的な論理で語られては読むほうは不快である。
もともとテレビで何かを語るときの佐高信の風貌、物言いの貧相さ、頑なさに不快なものを感じていたけれど、その中身をあらためて知ることでますますそう感じた。まさに日教組的教師の典型そのものである。
「素晴らしい人」とレッテルを貼ったら「ことごとくが正しい」と思い込む佐高信に思い入れをされた清河八郎もあまり嬉しくないだろう。
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