矢野誠一「圓生とパンダが死んだ日」(青蛙社)
冒頭が「浅香光代・西街道御難旅路」で、浅香光代を座長とする女剣劇一座の九州巡業に筆者が同行したときの顛末記。上からでもなく、下からでもない、同じグランドに立った視線で一座の人々と浅香光代の様子が語られるのだが、それがそのまま脚光を浴びていた過去と、ほそぼそとどさ回りをする現在とを描いてそのまま女剣劇の歴史を語るものになっている。
怪しげな興行師、降りかかる災難、それを明るく笑い飛ばし、旅を続ける一座の姿に感動を覚えてくるのは、著者の優しいまなざしを通してかれらをみているからだろう。
芝居の巡業と言えば思い出すのはフーテンの寅さんにしばしば登場する吉田義夫を座長とするうらぶれた旅の一座だ。先の見えないその日暮らしのわびしさに旅芸人の切なさをみて、寅次郎の郷愁をさそう。
そのような作者の交遊録、人物論、レクイエムが三十八篇、つまり三十八人が語られている本だ。その三十八人に関わる多くの人々が登場するから実際には二、三百人の人物名が出てくる。
多くは私も知らず、すでに世に忘れられた人々だが、著者の筆で彼らのある瞬間の輝きのようなものがよみがえってくる。もって瞑すべし。
ラストが題名の「圓生とパンダが死んだ日」。志ん生や文楽と違い、狷介な面もあった圓生の突然の死を著者は聞く。圓生をただすばらしかったなどと言わず、交流の中で知り、感じたその欠点のようなものを次々に取り上げて書きながら、その死を誰よりも悲しみ、呆然とする姿に熱いものがこみ上げる。そして翌日の新聞にはパンダの死がトップであげられていた。私は子供のときから誰よりも圓生が好きだったから、少し著者に感情移入してしまった。
蛇足であるが、「稲荷町の牛めし」と言う文章で先代の正蔵(彦六)が語られる。名人と言われた林家正蔵の長男が林家三平(先代)で、正蔵は三平には跡を継がせず、弟子の彦六に名跡を譲った。そして譲られた正蔵は三平が死んだときに名跡を返上、元の彦六に戻った。その正蔵の名前は長く空位であったけれど、いま三平の息子が継いでいる。実力に伴わない名前を継いだその息子をテレビで見ると、私は舌打ちして顔を背けてしまう。
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