生活は苦しい?
雑誌を眺めていたら、ある女性社会学者のコラムが興味深かった。
厚生労働省が毎年実施している調査の中の、国民の「生活意識」の項目の結果について取り上げていた。「現在の暮らしの状況を総合的にみて、どう感じていますか?」という質問に対する回答である。「大変苦しい」「苦しい」「普通」「ややゆとりがある」「大変ゆとりがある」の中から選んで回答するものだ。
記事によると、「大変苦しい」人の割合が、1991年には9%、2001年には20%、2013は28%と増えているらしい。問題は、2001年には「普通」と答えた人が、55%だったのに2013年には36%に減っていることだ。2013年は逆に「苦しい」と「大変苦しい」を合わせた人が60%になった。
つまり今日本では生活が苦しいと考えている人が過半数を超えていると言うことだ。野党の大半とマスコミがアベノミクス批判をする根拠がここにあると見て良いだろう。
しかしこの女性学者の考察はここからもう一歩踏み込んでいる。
では国民は何を基準に生活が苦しいと感じているのか。自分が中流ではなく下流、つまり貧困であると考えるのは相対的に何との比較をしているのだろうか。こうでありたい、という期待とそれがかなわないことの中に苦しいという実感があるはずである。
これは広いマイホームや会社を持つことがかなわないから、などというものではもちろんない。「せめてこれくらいの生活がしたい」という期待に基づくものであろう。
ここで著者は2011~12年に自分のおこなった「最低限許容範囲の生活」を考える調査結果をつきあわせている。最低限許容範囲の生活に必要なものを、箸一膳から家財道具、会社のつきあいの飲み会の費用まで全て上げてもらい、三鷹市に住む夫婦と子供一人という想定で、月々に必要な最低限必要な生活費を回答に基づいて算定した。
いったいいくらだったと思いますか?
その数字は月々47万円(うち住宅費は12万円)。
ではその数字の内訳はぜいたくなものだったのか。例えばアルコールは週に発泡酒を三本、日曜日だけ缶ビールを一本、家族での外食は月一回の100円の回転寿司など、ごく当たり前か、むしろ質素と云えるものだ。
この最低限許容範囲の生活のための月47万円が得られないから「生活が苦しい」という回答が生まれるのではないか、と言うのが彼女の分析である。
世界中の国で月47万円が最低生活に必要な国、などという国があるだろうか、などと私などは考えてしまう。
さらに低い生活水準でも満足できるように意識改革をするのか、それともその水準獲得維持のために頑張るしかないのか、世の中がどうなれば期待と現実のギャップが減り、「苦しい」と回答する人が減るのか、そこが問題だ、と著者は締めくくっている。
あなたはどう感じますか?人によって全く受け取り方が違うような気がする。
ここから先については思うところがあるけれど、ここまでとしておく。
ここまで詳しく書いて著者を紹介しないのはまずいか。
書かれていたのは「週刊東洋経済」11/1(年に数回買って読む)、著者は阿部彩さんという国立社会保障・人口問題研究所社会保障応用分析研究部長。「経済を見る目」というコラムである。
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