呉清源のエッセイ
今日、菅原文太と呉清源の訃報を聞いた。邦画好きなので、菅原文太については少なからず感慨はあるけれど、すでにブログに書いた。ただ、最近の菅原文太の何かを勘違いしたような姿は見るに堪えなかった。誰かに利用されていただけかも知れないけれど。
学生時代に碁を覚えた。この年でいまだにザル碁しか打てないのは哀しいが、生まれて初めて買った星の定石の本が呉清源の書いた物だった。いうまでもなく腕が上がらないのは呉清源の本のせいではない。何しろ弟子にはあの林海峰がいるのだから。その後テレビで解説する姿をたびたび見た。その風貌は風格があり、好感を持った。
呉清源の追悼の意味で彼のエッセイを全文掲載する。ある本の中に収められていたものだが、普通の人は多分目にする機会がないはずだ。
「草矢」 呉清源
何もしないでぼんやりと朝から晩までなまけて暮らす生活のなつかしい時がある。
そのような生活が、手をのばせばとどきそうな身近にあるようでいて、なかなか望めそうにない。
生まれつき、自分の好きな事にはわき目もふらずに熱中出来るくせに、少しでも気にいらないとなると、もうそれを考えるのさえ厭になって、投げ出してしまう。
そうするのが私の利益だから、ぜひそうするようになどと言われる時もよくあるが、私は意地にもそうしたくないし、またしもしない。
「呉さんはのんきだからなあ」と木谷さんあたりによくうらやましがられるが、事実、私はのんきだ。
然し、そのような仕事を投げ出してしまうのを、私ののんきな性質からだと善意に解釈されるのは有難いようで、本当はそんなでもない。
皆、私の剛情から来ている。
たいがいの人が、私の剛情なのを知らない。
碁ばかり打って、碁に熱中しきっている私の姿勢を傍らから見て、好い意味の言葉で色色と物を言われるのは、だから擽ったい時が多い。
私の剛情なところは剛情だと認めてくれている方がはっきりしてよい。
碁などに一生を献げて生きていくのだから、それだけでも剛情をもっていなければ息が詰まってしまう。
五、六年前に信州の地獄谷温泉へ言った時にも、私の剛情なのに自分であきれたことがある。
木谷さんに誘われて信州の地獄谷温泉へ行ったのは、ちょうど今頃の季節で、汽車の窓から見えたものは何もかも青一色に塗りつぶされていた。
私の碁が何か堅い壁にぶつかったように身動きの取れない焦燥の中にあった時だから、喜んで私は木谷さんに従って行った。
地獄谷温泉は木谷さんの奥さんの郷里(おさと)だし、何よりも静かな周囲の環境に心が惹かれて、出発前夜などは自分でも不思議な位心が弾んでいた。
「仏法僧が鳴くんだからねえ」と木谷さんが、度の強い近眼鏡を採りあげながら何度となくくりかえして言うのも、うるさくなく聞けた。
地獄谷へ着いた時、私は来てよかったと思った。
山の瘴気が狂おしいまでに身の廻りを閉じこめてしまうような深山は、私の細い神経には厳しすぎる。然し、この眺望の明るい温泉の溪は私の肌に快い風を送ってくれたからだ。
私は「易経」の上巻と「中庸」とを持って来ていた。二つとも私の愛読している経書である。
易の名は蜥蜴からきていると言われている。蜥蜴は日に十二度も体の色を変えるから、変易の意義に転用されたのだそうだ。
蜥蜴が色を変えるのは周囲の環境によってであろう。
私は木谷さんに問われるまま、易についてそんな話をした後で、こう付け加えた。
「地獄谷へ来た以上、私も色を変えなければいけない」
「碁なんか忘れてしまうのがいいよ。そうしてうんと身体をよくするんだね」
ところが蜥蜴になるのは難しいと見えて、ついた日の夜から早速二人で大議論を始めてしまった。
いままでと全然違った碁の布石について考えていた事を洗いざらい二人で議論してしまった。
しまいには、私の剛情なのに木谷さんがあきれてしまった。
割り切れない気持ちで寝た夜更けに、私は仏法僧の鳴く声を聞いた。
その濁った、濡れている布を叩くような「ぶっぽう」「ぶっぽう」という啼き声は暁方まで続いて、私は眠れなかった。
霧の深い翌朝、私は奥さんの小さな妹さんに案内されて、温泉の渓へ降りて行った。
すっすっと尖のとがった萱が暾(トン・日のひかり)に濡れて眩い位に光っていた。
昨夜の興奮がまだどこか頭のしんに残っていたのか、私は難しい顔をしていたらしい。
その小さな妹さんは、私の先に立って歩きながら、しきりに話しかけてくれた。
背中できちんと結んだ赤い帯が、廻りの草色の中でかっと明るく燃えて、寝不足の私の目に直に突き刺さってくる。
思わず眼を逸らして山を仰ぐと霧はいつの間にか動いて、頂の杉の梢がきらきらと輝いていた。
私が立ち止まったので、少女は口笛を吹きながら、こごんでせっせと茅萱の葉っぱを引き抜いている。
引き抜きながら器用な指さきで葉をすっとしごいていた。
ぼんやりとそれを見ていると矢のような形を作っているのだ。
「ああ草矢ですね」
「ええ」
少女はちょっとはにかんで、できあがった草の矢の幾らかを私にくれた。
ふっと飛ばせば、静かな風に乗ってすいすいと渓へ落ちていく草矢。
私は次から次へと少女の繊細な指先から作られる草の矢を何本も何本も飛ばした。
ああ、こんな日が私にもあった。童の時に故郷の野に出て、夏の灼灼くと照りつける日の下で私の作った草の矢を、兄や妹が喜びの声を上げて飛ばしたのは・・・・。
「ほら」
と弾んだ調子で少女が握りしめた拳を突き出した。
「はたはたよ」
季節が早いのでまるで透きとおるような草いろをしたはたはたが、ひっそりとした空気の中で羽をきしらせている。
「可哀想ね。話してやりましょう」
そう言って少女は大げさに掌を拡げた。
はたはたはすぐ近くの叢に隠れてしまったが、わたしは血の生き生きと明るく脈搏っている少女の掌をじっ見つめていた。
何か私に失われていたものを取り戻したような気持ちであった。
渓から戻った私は、木谷さんともう一度昨夜の議論を続けた。
新しい布石を二人で試みたのはその年の秋からであり、私にとっても思い出の多い夏の一日であった。
今でも目を閉じると、あの明るい日の下で風に乗ってすいすいと飛ぶ草の矢があざやかにうかぶ。少女の掌(たなごころ)も。
呉清源は中国・福建省に生まれた。少年の時、瀬越憲作という囲碁の名人に見いだされて来日、ほとんどを日本で生きた。中国での思い出はそれほど多くないであろう。
呉清源と木谷名人は古典的な囲碁の定石を打破する新しい定石を生み出した。このエッセイが書かれたのは1939年、呉清源が二十五歳の時である。
彼が死の床で見たものは何であったろうか。
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