句読点は難しい
ブログを書いていると句読点をどこで打つか迷うことがある。ふだんはそんなことを気にせずに適当にやっているのだけれど、いったん気になり出すとどうして良いか分からなくなることがある。
たぶん国語学者ならそれなりのルールのようなものがあって、答えを知っているのだろう。しかしそれをあらためて勉強するほどの気持ちはない。
それほどこだわらずにリズムで書けば良いのだ、と言う誰かの文章を見たことがあって、ふだんはそれを念頭において適当にやっているのだが、人の文章を読んでいて何となく引っかかってしまうところがあると、それが句読点の打ち方が気になっていたのだと気がつくときがある。
たとえば今読みかけの西村京太郎「飛鳥Ⅱ 着岸せず」(オール讀物五月号新連載)のなかの
「二人は、十一月十一日の乗船に、間に合うように、新幹線で、神戸に向かった。」
という文章。句読点が必要以上に多いと感じてしまう。読むときのリズムが狂うのだ。西村京太郎のこの小説は全体がこんな句読点だらけ、ということはなく、他の部分はおおむね違和感がない。たまたま特に気になったところを取り上げただけで他意はない。
そもそも昔の日本の文章には句読点などないものが多い。読む方が自分の呼吸に合わせて勝手に区切って読んでいたのだろう。むりやり句読点で区切られるよりも、そのほうが慣れたら読みやすいかも知れない。
野坂昭如の初期の実験的な小説では、句点なし、一つのセンテンスが延々と続いて読点がほとんどない、などというものがある。それでも読めるし、却ってリズムがあったのを覚えている。
ハードボイルドなどでは、クライマックスでわざとセンテンスを短く連ねて緊張感を感じさせる。
この辺はあんがい好みに大いに関係しているかも知れない。
誤字脱字、ことばの使い方の間違いは避けたいけれど、校正者を抱えていない身としては自らが校正者になるしかなく、見直しても見落としが多い上にそれすらサボって手を抜いている。不勉強の故に自分の間違いに気がつけないこともあるだろう。
あれやこれや考えだすと、人に読んでもらう文章など恥ずかしくて書けなくなるけれど、ブログを始めたらそれが思った以上に楽しくて、いまのところ恥を承知で書いている。
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私は、OKCHANのブログは大変読みやすく、ここちよりリズム感を感じています。
投稿: かんちゃん | 2015年5月 8日 (金) 12時26分
句読点、これは難しいですね。
これは文筆家ではないのですが、私も句読点なしの文章を読んだことがあります。
奇異な感じは否めませんでした。
このことを考えてしまうと書く楽しさが半減してしまいそうです^^
投稿: おキヨ | 2015年5月 8日 (金) 13時16分
かんちゃんへ
素直にありがとう。
投稿: OKCHAN | 2015年5月 8日 (金) 17時11分
おキヨ様
書く楽しさに水を差したようなら申し訳ありません。
おキヨさんのブログは読みやすくて、いつ読んでも楽しいです。
投稿: OKCHAN | 2015年5月 8日 (金) 17時14分