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ギリシャが債務不履行になるとデフォルトになってたいへんなことになる、と繰り返し言う。
ではデフォルトになったらギリシアはどんなことになるのか。
一番知りたいことを誰も言わない。デフォルトになった国が出来なくなることは何なのか、どんな困難がその国民に降りかかるのか。
だれも知らないのだろうか。予想もつかないのだろうか。そんなはずはないので、知っていて恐ろしいから言わないのだろう。
そういえばアルゼンチンがデフォルトを経験している。そのときに何があり、それをどう乗り越えたのか、マスコミはそれをまず教えて欲しい。そうして初めてギリシアの置かれている深刻さがこちらにある程度理解できるはずなのに。
たいへんだ、たいへんだ、と騒ぎながら何がたいへんなのかがちっとも解らない。騒いでいるマスコミが解らないぐらいだから日本国民はもっと解らない。お化けは、だから妄想のなかで膨らむばかりだ。
予想しなければ外れることはないが、当たることもない。ギリシア情勢は時々刻々と変わるだろう。それを興味深く見続けるためにもあらかじめ予想を立ててみたい。
細かい予想を立てても細かく外し続けるだけであるから、大枠で予想する。ギリシアの現政権は「EUの脅しである」と反発している。こんな風に言われたら、ここでEU側から歩み寄ったらそれこそ「脅し」であったことを認めることになるから却って妥協の余地をなくすことになった。しかし、これでユーロは値を下げるだろうが、それほど大幅ではないと思う。対応策がすでにとられているし、EUからその説明がなされるはずだ。
イタリアやスペインに波及するという予想をする向きもあるが、すでに両国はEUの意向に沿って緊縮財政に取り組んでいる。ダメージはあるだろうが破綻が連鎖することは心配せずに良いと思う。しかしヨーロッパ全体としては経済活動に多少ブレーキがかかることはやむを得ないから、大きな影響を受けるのは多分中国であろう。
中国の経済の伸びが鈍化している大きな要因はヨーロッパへの輸出減少だとも言われる。中国は韓国ほど輸出比率の高い国ではないが、ヨーロッパの経済停滞はもっとも中国に大きく響く。
ドイツにとってユーロが下がることは実は歓迎すべきことではないか。円安で日本が潤うよりもはるかにユーロ安でドイツは潤う。そもそもEU圏内でドイツが一人勝ちなのは、自国の経済力が強いのに通貨が安いことが大きな理由だ。これでドイツの輸出競争力はさらに高まる。その利益はギリシアへの負担増大よりもはるかに大きい。ソフトランディングさえ出来ればドイツにとってはほくそ笑む事態だろう。
世界は20世紀末の通貨危機や、21世紀初めのリーマンショックで苦い経験をした。だから今回のギリシア債務問題ではそれを見越してさまざまな手立てを水面下で講じているにちがいない。しかも事態は急激に起こったことではなく、長期間の準備期間を持つことが出来ていた。
とはいえ減速した中国に予想以上のダメージを与えることになれば事態は予測を超えて甚大なダメージをもたらすかもしれない。中国株はすでにここ二週連続で大幅下落をしており、バブル崩壊の予兆とも言われている。それに対して中国政府は細かい対応を取っているが、こういう場合、「戦力の逐次投入」は無駄に終わって奏功しないことが多い。
中国株は世界のほかの地区と異なり、機関投資家ではなくて個人の素人の比率が極めて高い。それだけ些細な事態に軽挙妄動する要素をはらんでいて、バブル崩壊が懸念されるのもそのような個人投資家の動きが懸念されるからだ。注目したいところだ。
もし中国経済に激震が走れば韓国は大ダメージを蒙るだろう。日本にも影響が出る。中国の習近平政権がどのような対応を取るのか、場合によって歴史が動くきっかけになるかもしれない。
一番こわいのはISなどのテロ組織が跳梁跋扈することだ。社会不安は彼らのエネルギー源だ。フランスで起きているテロはこのようなEUの状況と無関係ではない。これがギリシアに飛び火し、中国に飛び火するのが何より恐ろしい。すでに中国では新疆ウイグル地区で頻繁にテロが起きているようだが、ほとんど中国では報道されないので解らない。中国が混乱すればはるかにその頻度と規模が拡大するだろう。
当たり前の、だれでも予想するようなことしか予想できないが、同じ情報を元に考えるのだから当然か。さて如何なることになりますか。大山鳴動して鼠一匹、というようなことで終わればまことに平和でよろしいが。(29日・朝記す)
週明けの銀行業務を停止する、とギリシア政府が発表した。EU側が支援を停止すると通告したことでギリシアはデフォルト状態になりそうだ。
すでにギリシアの人びとは、銀行から制限内で下ろせるだけの預金を引き下ろしてきたが、月曜日からは下ろすことが出来ない。それにしてもいままでよく銀行の取り付け騒ぎが起きずに済んだものだ。
どうせ何とかなるにちがいない、と高をくくっているギリシア国民の気持ちの表れだったのかもしれない。EUのせいでギリシアが困っているのであって、ギリシアがEUを離脱すれば困るのはEUだから、かならず支援が行われると思い込んでいた人がほとんどなのだろう。
多分EU側は最後はギリシアを救済するだろう。損得を考えればそのほうが良いと判断するだろう。しかし今のままではただ現状がだらだらと引き延ばされていくだけでらちがあかないし、ギリシア国民の甘えはかえって大きくなって行きかねない。
いったん破産状態を作り出し、銀行の倒産、年金支給の停止などを実際に経験させて、ギリシア国民にいま自分の国がどのような状況にあるのか、何を覚悟しなければならないのか身にしみて味合わせないと仕方がない、と決断したのだろう。
EU側は、一時的なデフォルトによって生ずる傷に対してのシミュレーションはとことん行って、準備はしているはずだ。
ギリシアがこの措置に対して腹を立て、EUを離脱してロシアに与する、という懸念があるというけれど、ではロシアにどんな利があるというのか。地政学的に魅力的な場所にあることは間違いないけれど、産業もなく、勤勉さもあまりない国民の経済を支援することは、ロシアにとってたいへんな負担になるではないか。
EUを離脱することでギリシア国民は生活が楽になるだろうか。一時的に借金のくびきから逃れることが出来たとしても、そもそも財政的に問題があるのだからどちらにしても立て直しのための苦しみは変わらないだろう。それなら国民の不満は変わらない。
唯一の観光資源もEUだからフリーパスで来られることによって多くの人が訪れたけれど、離脱すれば大きく減少するだろう。社会不安が増大すれば中東地区と隣り合わせの国である。たちまちテロ集団の餌食になる恐れが大きい。
だからEUは最後は手をさしのべるだろう。
今日の株価はどうなるのか。世界がどうこの事態を見ているのか。人ごとで申し訳ないがとても興味深い。これでまた大きくもうける人と損する人がいるのだろうな。
張岱(ちょうたい)という明末清初期の文人がいる。紹興の人である。この人の「陶庵夢億」という本が好きで、いま三回目を読んでいる。一気に読めるような本ではないが、短い話が多いので少しずつ読める。自宅にも実家にも一冊ずつ置いていつでも読めるようにしている。陶庵というのは張岱の号である。その中から一つ紹介する。
「三代の蔵書」巻2第30話
わたしの家には三代にわたって積まれた蔵書が三万余巻あった。祖父(張汝林)はわたしにいった。
「数ある孫のなかで、おまえだけが書物好きだ。おまえが見たいと思う書物は、勝手に持ってゆくがよい」
それでわたしは、太僕公(張天復)と文恭公(張元汴)及び祖父の書き入れがあって手沢の存しているのを選び集めて、これだけくださいとお願いすると、祖父は喜んで、舁(かつ)いでゆくように命ぜられた。それが約二千余巻あった。
天啓五年、祖父が世を去ったとき、わたしはちょうど杭州に行っていた。父叔及び諸弟、門客、職人、下男、下女の連中が勝手に分け取りしてしまって、三代の遺書は一日にしてことごとく失われた。 わたしは垂髪の子供の時から書物を集めること四十年、三万巻をくだらなかった。乙酉の年(明亡後二年目)、兵乱を避けて剡渓(せんけい・地名会稽山中にあり)に入ったとき、いくつかの箱に詰めて少し持って行ったが、あとに残った分は、邸を占拠した方(方国安)の兵が、毎日ひき裂いては煙にし、また銭塘江の岸に舁いで行って、鎧の中に敷いたり、矢玉を防ぐしろにしたりして、四十年間に積んだものが、これまた一日にしてことごとく失われた。これがわたしの家の書籍の運命であってみれば、いまさら誰を咎めよう。
私はそれにつけても嘆ずる次第であるが、古今を通じて蔵書に富めること、隋・唐に過ぐるはあるまい。随の嘉則殿では書籍を三類にわかち、紅瑠璃、紺瑠璃、漆の軸で見分けがつけられるようになっており、殿には錦の幔幕を垂らし、ぐるりに飛仙を彫刻してあった。帝が書庫におでましになって、隠されたバネ仕掛けをお踏みになると、飛仙が幕をかかげ、本箱の扉が自然に開く。帝が出て行かれると、またもとのとおりに閉じる仕掛けになっていたそうだ。随の蔵書はおよそ三十七万巻であった。
唐のときには、宮中のお庫の書籍を東宮の麗正殿に移し、修文・著作の両院学士を置き、名前を届け出たものには出入りを許された。太府からは毎日蜀都(成都)の麻紙五千枚を給せされ、季ごとに上谷(河北省)の墨三百三十六丸を給せられ、年ごとに河間・景城・清河(以上みな河北省)・博平(山東省)四郡の兎の毛皮千五百枚を給して筆を作らせた。甲乙丙丁に分けて、唐朝の書籍はおよそ二十万八千巻であった。
わが明朝の宮中の秘籍は、それこそ数えることが出来ないくらいで、『永楽大典』の一書だけでも、いくつかの書庫にうず高く積み上げられている。わたしの蔵書などはそれに比べればたかが九牛の一毛にすぎず、物の数でもないのである。
*『永楽大典』明の永楽帝の勅撰による大百科事典。編纂に従事するもの二千百人余り、六年の歳月を費やして完成。およそ二万二千余巻、一万二千冊。その後、火災や戦乱で消失散佚して、今日わずかに二百余冊を存するのみ。
張岱のこの本は松枝茂夫訳で岩波文庫に収められている。わたしが持っているのは二冊ともワイド版。一冊は風呂で読んでいるうちにうとうとして取り落とし、慌てて取り上げて何とか修復したが、上の方が少しよれよれになっている。それも何となく古書の雰囲気で気にいっている。
ところで紹興といえば魯迅・周作人の生地である。魯迅がこの『陶庵夢億』を愛読していたことはこの本の訳者の前書きにある。
母親の介護に休みをもらって神田の古本屋に出かけることにした。どうせ行くならJRで市ヶ谷まで行き、靖国通りから九段の坂を下って神保町まで歩こう。久しぶりに靖国神社に寄りたい。
監督ダニエル・T・ラスコ、出演キャスパー・ヴァン・ディーン、マイケル・ビーチ、サラ・ヴィングほか。
近未来の世界終末ものの物語は嫌いではない。しかしこの映画のお粗末さはこれまで観た映画のなかで最低クラスだった。この陳腐な造り、合理性のかけらもない話の展開、台詞のひどさ、何より登場する人物たちがバカばかり。
ここまでひどいと逆に途中で見るのを止めることができなくなってしまった。これも作戦だろうか。
核融合と地球の自然エネルギーを融合する?ことで世界のエネルギー問題を一挙に解決するプロジェクトが稼働実験に入る。画面には数人しかいないし普通のパソコン画面が数台だけで、なにやらインチキ臭い連中が秘密基地で悪さを企んでいるようにしか見えない。ところがのっけから核融合装置から発射するビームのコントロールが不能となり、地球の気象に異常を与えてしまう。科学的な理屈を多少は語るのだがまったく意味不明。
実はこのプロジェクトの一番の頭脳である人物は当日家族と気球大会に出かけていて参加していない。しかしさすがに彼は気象の異常にいち早く気づき、気球をすぐ降下させて家族と車で逃走を始める。その車を異常気象で発生した巨大竜巻が追いかける。ひたすら逃げる家族とそれを追いかける竜巻。どうもこの竜巻、意志があるようで逃げるこの家族の車だけを追いかけているらしく見える。というのは遙か彼方に見える道路の上には何事もないようにのどかに走る車が見えているからだ。
それよりもイライラするのは後ろの座席に座っている息子が「早く、早く」などとやたらとせかし、それに対して助手席の妻が「うるさい、静かにしなさい」と絶叫し、「どうしてこんなことに」「それにしてももっと早く走れないの?」などとバカ息子の百倍くらいやかまし騒ぎ立てることだ。それに対して主人公が「これでも精一杯だ」と言い訳しながらハンドルを無意味に左右に切り続けるのだ。
どうして「やかましい!」と一喝しないのか分からない。多分そうした瞬間にこの母子は彼の元を去って行くのだろう。そのことはこのあと映画を観ていくとよく分かる。「人類のためより私のためにここにいて」などという。ただただひたすらバカ息子とバカ女なのだ。それなのに危機がさらに迫ったとき、あたりの惨状を見て息子が「もう何も残っていないね」というと「俺たちには家族が残っているではないか」などとほざくのだ。
人間は愚かなものではあるけれど、いざとなればそれなりに知恵を働かせて自分の役割を知るものだと信じたいものだが、この映画に出てくる登場人物たちでは絶望的である。とはいえ最後にはこのバカ息子とバカ女もそれなりの仕事をする。するけれど主人公も含めて不手際きわまりなく、こんな連中に地球の危機が握られていると思うと目の前が暗くなるではないか。しかし風速200メートルの暴風が吹き荒れているという異常気象の中でどうして普通に行動できるのだろうか。
この映画は、もしかしてアメリカ人はこれほどバカであると世界に宣伝して、実はロシアや中国を油断させるための高等作戦かもしれない。私もまんまとそれにはまってしまった。そうでなければそんな映画なのに最後まで観てしまった理由が分からない。
宝石も中国の玉(ぎょく)もいわば石である。あの故宮の至宝の中でも特に人気のある焼き豚もどきの石や白菜に虫の彫り物も石である。
玄武洞は兵庫県豊岡市にある。あの城崎温泉に近い。城崎も今は豊岡市である。城崎温泉には数回行っているが、この玄武洞には寄ったことがない。
岡山県の県道48号線の若杉峠を東に越えてしばらく行くと日本の名瀑100選の一つ「天滝」がある。
岡山県の佐用町に近いひなびた温泉に泊まっている。朝起きたらウグイスの声が間近に聞こえる。今まで聞いたウグイスの中では一番声が好い。窓を開けると冷気がさわやかだ。
私は恐がりである。だから洞窟の暗がりの陰になにかが潜んでいるような気がしてドキドキする。だから鍾乳洞などの洞窟に入るのが好きだ。シーズンはずれなどのだれもいないときに小さな鍾乳洞に独りで入ると早く出たいと思って早足になる。そんなときには特にときめく。
昨晩は息子と広島の夜を歓談した。私よりも日本酒に詳しい息子に銘柄をまかせて次々に杯を重ねて、このばか親父は酩酊した。
名古屋から津和野まで600キロあまり、それを一気に走った。昔はそれくらい何ともなかったのにさすがに疲れた。 ついてそのまま願成就温泉に直行(願成寺温泉ではありませんでした。うっかり間違いです)。しかも津和野からすぐなのにここは島根県ではなく、山口県。津和野は県境にあったのだ。
監督・三隅研次、原作・子母沢寛、出演・市川雷蔵、城健三郎(若山富三郎)、天知茂、藤村志保、田崎潤ほか。
主人公は新撰組の探索方として知られる山崎烝(市川雷蔵)。近藤勇が城健三郎、土方歳三は天知茂が演じている。東映のような、正義と味方のはっきりした描き方ではなく、その時代の新撰組の実態をクールに描いた映画だ。ラストのクライマックスはもちろん池田屋討ち入り。だから「始末記」とあっても新撰組の敗走は描かれていない。
山崎烝は近藤勇という人物を信じて新撰組に入る。しかし初代新撰組局長・芹沢鴨(田崎潤)の専横で隊内の雰囲気は暗い。京都の町の評判もさんざんである。それをただすべく、土方歳三はまず芹沢鴨の右腕、新見錦を隊規をたてに切腹させる。山崎烝は芹沢鴨を同じように隊規で処断するよう近藤に迫るが却下される。それなのに土方たちによって芹沢は暗殺され、外部からの侵入者の仕業として処理されてしまう。山崎は近藤に不信感をいだき、入隊したことに後悔を感じる。
そんなさなか、隊士が私闘で相撲取りを切り捨てるという事件が起き、その隊士は京都奉行書に拘束されてしまう。新撰組は無礼討ちを主張し、奪還をはかるが、強硬な与力のために拘束が解かれない。沖田総司らはその与力を暗殺するという暴挙を企て、山崎を無理に同行させる。行きがかりからその与力を斬る羽目になった山崎は表向き隊を抜けたかたちにされる。
会津藩からもたらされた勤王方の情報を追って町人に姿を変えた山崎烝は池田屋を探索、浪士たちがなにか事をなそうとしていることを感づく。やがて山崎の報により、勤王方の主要人物である古高俊太郎が捕らえられ、勤王方の集合場所、その企てと実施日時を白状させるためにすさまじい拷問が行われる。
土方が聞き出した古高の自白では四国屋に集合するということだが、山崎烝の探索では池田屋である。こうして新撰組は二手に分かれざるを得ず、山崎を信頼しない土方は主力をつれて四国屋へ、近藤はたった六人を引き連れて池田屋へ向かう。
いずれもよく知られた話だが、描かれ方が微妙に違う。あの桐生の新撰組フリークの美人がこの映画を観たらどう思うだろうか。
城健三郎は大映時代の若山富三郎の芸名。だから大映制作の座頭市には城健三郎として出演している。当初東宝に若山富三郎として入り、大映に移籍して城健三郎に改名、その後さらに東映に移籍して元の若山富三郎に戻った。勝新太郎の実兄。
この若山富三郎がテレビ(東京12チャンネル)の「風雲児半次郎」という時代劇ドラマで中村半次郎を演じていた。好きなドラマで記憶に残っている。勝新太郎よりもこの兄の若山富三郎の方が私は好きだ。一時安田道代(後に大楠道代)と同棲していた。この女優も大正か昭和の初めの雰囲気のある地味な服の似合う独特の女優で、忘れられない。
市川雷蔵については眠狂四郎シリーズばかりではなくいろいろな思いがあるが、きりがないのでまた機会があれば。
胸が悪くなるような「事実」がならべられている。本当のことだろうか。中国製の爪楊枝や割り箸を使うのがいやになった。といってそんなものに「中国製」かどうか明記されているわけではない。しばしば変な臭いのするものがあるが実はそれは・・・などと思うとぞっとする。その意味はこの本を読むと分かる。
一部はすでに告発されていることだけれど、信じ難いものも多い。こういう暴露本はあまりに過激だと内容に疑いを持たれかねないのだが。
中国では犯罪を見ても関わらない方が良いという。著者もたまたまほんの少し被害者に関わっただけで繰り返し不快な目にあったという。中国では子供が事故に遭っても見て見ぬ振り、年寄りが倒れていても助けたら賠償を求められた、などという話はしばしばニュースになっている。
著者は中国の元共産党員で、18年前に日本に留学し、その後日本に帰化している。彼はそのような中国人の人心荒廃は、共産党という存在がもたらしたものだとして、密かに収集したそのような共産党の犯罪行為を伝えているのがこの本だ。
この本ではわずかしか触れていないが、「大躍進」のときや「文化大革命」のときにどれほどの数の命が奪われたか、どんなひどいことが行われたかについては、すでに何冊かの本で知らされているので、中国ではときに命が鴻毛の軽さで扱われることは知らないわけではない。
著者は法輪功にシンパシーを持っているか、法輪功信者かであるらしく、記述の多くが法輪功の弾圧で拘束された多数の信者たちがどのような目に遭っているのかというのがこの本の多くの部分をなしている。
法輪功はもともと気功をもとにして集まった集団で、それが宗教色を帯びた団体だが、オウム真理教のようなものではなく、日本人から見れば社会に積極的に害をなす存在には見えない。その数は最盛時に数千万人ともいわれ、多くの共産党員も参加していた。
それが当時の江沢民主席により「中国社会に害をなす」として徹底的な弾圧を受けたのだ。このことは日本人には理解しにくいところだが、中国の王朝は過去たびたびこの宗教団体によって危機に瀕し、それが要因で倒れたという歴史があるため、共産党にとって危険だ、と見做すのはある意味で当然でもある。
そもそも共産党独裁政権というものは集団を形成すること自体を毛嫌いする。集団を組織するリーダーというものを共産党は特に恐れる。デモやストライキは原則として禁止であり、それが黙認されるのは当局が押さえきれなかったか、背後で共産党が指示しているかのどちらかしかない。先般の反日デモの暴走は当局がバックにいたことがほぼ明らかだが(金をもらってバスで動員されたという証言も多いし、きれいに印刷されたプラカードや旗や幕が使われている)、それが想定以上にエスカレートした。
中国では臓器移植を受けることがどこの国よりも容易である。人口が多いからというわけではない。死刑囚の臓器を使うというのは公然たる事実だといわれている。だから需要に応じて鮮度のいいものが供給できる、などと病院がうけあえるのだ。
その臓器が実は死刑囚ばかりではなく、拘束された法輪功信者の臓器が使用されているとこの本では告発している。それもときには生きたまま臓器が抜かれている、などというから胸が悪くなるのだ。
死刑囚の臓器を利用していたことは世界の非難を受けて、中国はその利用を自粛、現在は公然とは行われなくなった。しかし臓器の供給にいささかの問題もないらしい。
数多くの法輪功信者は信者であることを止めるよう矯正された。多くは信者を止めたが、中には矯正を受け入れないものもある。そのまま家族から引き離されて消息不明のままの人間の数は分からない。その教育機関である「強制労働教養所」の強制労働の実態とすさまじい虐待の様子が伝えられている。
共産党統治体制が変わらないかぎり中国の人心荒廃は変わらないと著者は明言する。習近平は体制を維持しながらなんとか中国を改善しようとしているように見える。中国人もこのままでいいとは思っていないだろう。しかしこの本のようなことを知らされると体制を維持しながらの改善などあり得ないような気がしてしまう。
韓国のニュースで従軍慰安婦の一人が死去したと報道があった。年齢は八十歳。慰安婦であると明らかにしている女性の中で一番年少だったそうだ。
それはそうだろう。終戦の年から今年で70年になる。しからばこの女性は当時十歳かそれ以下の従軍慰安婦だったというのか。今の十歳なら栄養も行き届いて発育もいいからもしやと思うが、当時の食糧事情であればその年齢では本当に子供でしかないと想像される。
明らかにおかしいと思うのは普通の(あえて普通の、とつけるのは韓国の言い分のみを頭から信じ込む正義の味方の日本人もいるので)日本人だけで、韓国ではそのような幼い少女も慰安婦にされた、と言い張るだろう。そういえば慰安婦の銅像は少女であった。
まだ初潮もないような子供を相手にするのを変態といい、そのような子供を慰安婦にするなら鬼畜の仕業である。韓国は日本人はそのような変態であり鬼畜であると歴史教育で教えていて、日本人もそれを認めろ、と強要しているのだ。だから韓国の人は日本に来ると、自分の教えられた日本人と実際の日本人の違いに驚く。
自分の正義のために相手を貶めることに馴れると、その人は知らず知らずに信用を失っていく。本当の戦争責任や侵略の歴史がそのような過剰な言動で却って見えなくなっている。
弟が父や母の若い頃のことやその親類について知らないことが多いというので、先日酒を飲みながら思い出話をした。するとそれを書いたものに残して欲しいと言われた。
試しに書き出すと次々にいろいろなことが思い出されてとりとめがない。私が書いたものが我が家の歴史になってしまうけれど、しかし他人に見せるものではないからいいだろう。多少の記憶違いがあっても今となってはとがめるものもない。
まだ書き出したばかりだが、当たり前に日々暮らしていると特に目新しいことなど何もないつもりでいたけれど、振り返ってみればそれなりに盛りだくさんだったことが分かる。
そういえば時期違いだけれど「いろいろなこと思い出す桜かな」という句があったなあ。
昨日、義弟(妹の夫)の母親の葬式があった。92歳と高齢でもあり、ガンで療養中でもあったから身内はみな覚悟していたことだが、さすがに花をぎっしりと敷き詰めていざ棺を覆うということになると、姪(妹の娘)たちもハンカチを目に当てていた。
故人にもいろいろな歴史が山ほどあったのだろう。そのことが記録に残されるかどうかは知らない。しかしそれぞれの参列者の記憶の中に残されたものは確かにある。高齢者の葬儀には高齢者の参列者が多い。その高齢者もやがて退場し、記憶は薄れ忘却の彼方に消えていく。
それでいいのだ、と思った。私は葬式など大げさにする必要がないと思っている。自分の葬式は自分がするわけではないからどうでもいいけれど、では自分の親の葬式を粗末にできるかというとなかなかそうはいかない。葬式は死んだ人のためというよりも残されたもののためにするものだからだ。
母の具合は一進一退。午後になると高熱が出て座薬の解熱剤で平熱に戻している状態だ。こうして体力が削がれていく。
高熱の原因の検査結果がまだなので、医師も入院するかどうか決めかねているようだ。訪問看護師に聞くと、在宅介護ではしばしばあることで、今まで平穏に来られたことがめずらしいことでした、という。医師や看護師がばたばたしないのを見るとこちらも安心できる。
それを見て昨晩名古屋に帰った。夜の雨中の運転はこわい。こわいと思えば慎重になるので夜半に無事到着。案外疲れなかった。
著者は2006~2010年の駐中国大使。2010年に外務省を退官。現在宮本アジア研究所所長。
真摯な人柄が本を読んでいてうかがえる。感情を抑え、中国の現状を分かりやすく、しかも偏らずに伝えたいという心情にあふれている。その熱い気持ちが最後に抑えきれずに今の中国に対する懸念のことばになって表れており、中国が大好きで、だから中国が嫌いな私の心に伝わった。
あとがきから一部引用する。
私は、中国の将来は、すべてうまくいってアメリカをいずれ追い抜くベストのシナリオから、すべてがうまくいかず中国共産党の統治が崩壊し中国が大混乱におちいる最悪のシナリオまでの間をさまようものになるだろうと思っている。私個人の皮膚感覚としては、ベストのシナリオよりもワーストのシナリオの方が可能性は高いとも思っている。どのシナリオに落ち着くかは、この本の冒頭で述べたように、中国の抱える問題の深刻化のスピードと中国共産党の統治能力向上のスピードとの間の相関関係で決まる。
中国社会はこれからさらに変化し、それに対応して中国共産党も変化していく。これが常識的な将来予測だ。つまり早すぎる変化を経て、中国の経済成長のスピードも遅くなり、社会の変化も次第にゆっくりしたものになっていく。そして中国社会の自己反省も始まる。
この自己反省はすでに始まっており、拝金主義にどっぷりと浸かった社会の風潮に対する反発は強まっている。仏教やキリスト教、それに道教といった宗教に対する関心も強まっている。中国社会の価値観や倫理観も、伝統的な価値観の影響を強く受けながら、これから大きく変わって行くであろう。
つまり中国のベストシナリオに恐怖するのでもなく、またワーストシナリオを渇望するのでもなく、その二つの可能性があり得ることをしっかりと頭の片隅に置きながら、それでも中国は着実に前に進んでいく蓋然性が高いと想定しておくべきである。
つまり中国は深刻な問題を抱えながらも、社会の安定はギリギリ確保され、経済はギリギリ指導部の想定内で発展し、軍事力は比較的早く増大し、中国の国際社会における重みはさらに増す、と見ておくのが無難だ。
そして中国に対し日本はどう向き合うのか、最後にその考え方を示している。
「ベストシナリオに恐怖するのでもなく、ワーストシナリオを渇望するのでもなく・・・」 という言葉にしびれた。
先般、「週刊文春」に連載されていたエッセイをまとめた「お言葉ですが・・・」を紹介した。これはシリーズになって文春文庫に収められている。その文春文庫に収められた高島俊男の第一冊目は、そのシリーズではなく、この「本が好き、悪口言うのはもっと好き」という本である。
この本は第11回講談社エッセイ賞を受賞した。長短取り混ぜて厳選された文章が集められていておもしろくてためになってしかも読み応えがある。
解説として東大教授の坂梨隆三氏が一文を載せているが、その一部を引用する。
こわい名文家の、しかも講談社エッセイ賞(第十一回)をもらったような本の解説を書くというのは何とも気の引けるものである。ただ、この書に対する思い入れの強さだけなら人後に落ちないものと思っている。この本の誕生以前から、この本とは少しばかりの縁が私にはあるのだ。
本書の大半は、かつて大修館書店の雑誌『しにか』に「湖辺漫筆」として連載されたものである。1991年4月に始まり、1994年3月の第35回まで続いた。私はその愛読者だったのだ。高島さんとはむかし岡山で同僚だったから、たまたま雑誌『しにか』を見て、「あれっ、高島さんが書いてる」というので読み始めたのであった。
そこには高島さんの身辺雑記もあり、その近況を知ることもできた。また文章が面白い。かならず笑わせてくれる。声をたてて笑ってしまう。高島さんの声や姿を知っているので、その文章から高島さんの言動を人よりも思い浮かべやすいということはあったかもしれない。一見冗談も言いそうにない高島さんが、志ん生ではなくて円生の語り口で笑わせてくれるのである。(後略)
このあと本の内容について本当の解説が続くのだが、この本のおもしろさについてはこの紹介で必要十分である。特に円生を引き合いに出すあたりがにくい。先日来寝付くために円生の落語をいくつか寝物語で聞いたところで、その符合になんだか嬉しくなった。
見直してみたら、昨日のブログの表題、「属国化扱い?」は変だった。「属国化?」、乃至「属国扱い?」のどちらかであるべきであろう。さっそく訂正した。恥ずかしい。
今実家である弟の家に到着。母の様子を見ると眼をしっかり開いて顔色も尋常である。昨日医者の往診があり、抗生物質の点滴を加えてから平熱に下がっているという。どうも誤嚥が原因の発熱ではなく、膀胱炎かなにかの発熱でもうろうとして誤嚥をおこした、ということではないかという。血液と痰と尿を持ち帰り、現在検査中とのこと。このまま抗生物質の投与で容体が安定していれば、入院の必要はないようだ。
一安心した。
妹(千葉在住)の嫁ぎ先の母親がガンで死んだので、通夜と葬式に参列するために千葉に行く。このために予定していた九州旅行は延期を余儀なくされたが仕方がない。ところが毎月介護の手伝いをしている自分の母親が誤嚥から高熱を発し、具合が悪いと連絡があった。熱が下がれば良いが、下がらなければ入院することになるだろう。
こういうことというのはどういうわけか重なって起きる。大事が無ければ良いのだが。
これから出かける。
前回取り上げた日暮高則「こんなに脆い中国共産党」のなかに、こんな文章があった。
[中国はすでに韓国を属国化扱い]
韓国の地政学的位置を見ると、クリミア半島と同じく大陸の端にあり、大国の回廊となっている。これはすなわち、周辺の大国の影響下に置かれることを余儀なくされることだ。
このため、朝鮮半島の国家自身も歴史的に事大主義に陥りやすく、かつては清朝の配下にあったり、帝政ロシアになびいたり、日本にも頼ったりした。時代ごとに、どの大国と結びつくことが得策かを巧みに嗅ぎ分ける習性がある。
韓国は今、経済的にも安全保障的にも中国に頼ることが得策と考えているようだ。米国や日本との自由主義同士の連携を忘れたかのように中国にべったりとなり、中韓で反日の大合唱を行っている。ただ、忘れてはならないのは、大国に頼ることは属国化を意味することだ。韓国はそこまで意識しているか。
2014年5月、韓国とフィリピンの国防相会議が行われた際、韓国の金寛鎮国防省はフィリピンの要請にこたえ、多目的の上陸用舟艇一隻と高速艇十六隻を引き渡すことに同意した。韓国側は中国への配慮からかこの協議内容を秘匿していたが、フィリピン側が後日暴露してしまった。
中国側は、フィリピン支援の動きに敏感で、韓国の艦船売却を知った直後に「米国の対中包囲網形勢に与するものだ」として韓国に撤回を要求。ソウル駐在の中国大使館武官らが韓国外交通商省や国防省を訪問し、「もし計画通り進めるならば、首脳会談開催を含めて中韓関係に大きな影響を与える」と警告した。
これを見る限り、中国はすでに韓国を属国扱いしている。中国の高圧的な態度に良識ある韓国政府の役人が不快感を持ち始めたようだが、すでに宗主国-属国、いや、かつての王朝-冊封国の構図が出来上がってしまった。
韓国は事大主義の国だから、中国の孤立が一段と進み、自国にプラスにならないと分かれば、やがて再び日米韓の自由主義国家同士の安保体制重視の姿勢に戻るのかも知れない。だが、機を見て敵、味方を嗅ぎ分ける国は結局、嫌われる。
今の韓国が、自らを置いている立ち位置がよく分かるし、私も全く同感だ。そして不思議なことに、朴槿恵大統領を筆頭に韓国はほとんどそのことに気がついていないらしい。
*事大主義
定見がなくて、ただ勢力の強いものに従うやり方。
以前書いたことがあるが、私にとって階上の住人は騒人である。朝5時過ぎになると歩き回る気配があり、雨が降っていないかぎりベランダのガラス戸を開けたり閉めたりする音が聞こえる。その回数が尋常ではない。造りのしっかりしたマンションなので耐えられないほどの、騒音と言うほどのことではないものの、気になり出すと気になる。
その階上の住人の物音がしばらく前からぱったりと止んでいる。旅行にでも行ったのか、数日物音がしないことはいままでもあったけれど、今回は長い。所帯数の多いマンションなので引っ越しのトラックをしばしば見るが、もしかしたら移転したのかも知れない。
マンションの、私の属するグループは私の階の階層から下なので上の階は別グループとなり、行き来はない。こちらの天井とあちらの床とのしきりを挟んだ隣人なのに、引っ越ししたのかどうか知らない。男の独り暮らしは人に出会えば挨拶はするものの交流がほとんどない。こんな暮らしでは孤独死予備軍そのものだ。
だからといってマンションの回り持ちの役割の時以外は積極的に人と交流するつもりはない。わずらわしい気持ちが先に立つ。
こんな生活をしながら周辺の住人の気配だけを感じている孤独老人というのが多いのだろう。そこで妄想が働けば迷惑行動に出るものもあるだろう。これからますますそういう人が増える。階上の物音が絶えたことをきっかけにその一員であることをいささかながら感じた。
それぞれほとんど正味一時間、全八話だから通しで観ると八時間かかる。当たり前だけれど、かなりハードだ。
幼い息子とともにフランス旅行していたイギリス人夫婦の車が地方都市で故障する。修理にしばらくかかるというので、紹介された「エデン」というホテルに泊まることを余儀なくされる。子供にせがまれ、父と子はプールに出かける。そこで飲み物を買うためにバーカウンターへ向かうのだが、折からサッカーのワールドカップの試合中で、店内は大勢の人でごった返していた。
つないでいた手が離れたと思ったとたん、子供の姿が消えていた。狂気のようになって子供を探す父親。警察が捜索を開始するが、少年はそのまま行方不明になる。パリから敏腕のジュリアン警部(チェッキー・カリョ)がやってきて事件の捜査の陣頭指揮をはじめるのだが・・・。夫婦は捜査状況を知らせてくれない警察にいらだちを覚えていらだつ。父親のトニー(ジェームズ・ネスビット)は暴走をはじめる。自分の子供が行方不明になれば私でも半狂乱になるだろうが、この父親はいささか常軌を逸している。
その事件があったのは2006年。現在少年は生きていれば13歳になっている。トニーはいまだに息子の行方を捜し続けている。たびたびイギリスからこの街にやってきては誰彼かまわず聞き込みをするのでいまではだれも相手にしない。そのトニーがかすかな手がかりをつかむ。
こうして2006年の事件捜索時の回想シーンと、現在のあらたな捜査の様子が交互に語られ、少年の行方不明の事件からあぶり出されてくるさまざまなことが描かれていく。それは事件と直接関係があるものも、そうでもなさそうなものもならべて描かれ、それがその後の展開の伏線になっている。
事件を境に夫婦の運命はこわれ、リゾート地だった街もこの事件をきっかけにさびれた街になってしまう。当初は同情的だった街の人も父親のトニーを鼻つまみのように扱うようになっていた。
脚を負傷して、いまは警察を引退しているジュリアンがトニーの手がかりをきっかけに事件の捜査に協力をはじめ、新しい発見がある。やがて判明する少年の運命。
関連するエピソードがたくさん描かれていくので進展が遅く、多少もどかしい思いがする。事件は一応真相らしきものがあばかれて終結するのだが、謎が残される。
そして第二シーズンが予告される。
日本の金融緩和による円安は「隣国の韓国を窮乏化させている」、だから、「この非道を国際社会に訴えよ」と朝鮮日報は述べている。韓国財務当局は金利を下げて対応しているが後手に回ってその効果が出ないのだそうだ。
もし本気でそんなことを思っているのなら、韓国は甘えていると言わざるを得ない。円高で日本が苦しんできた中で、韓国は未曾有の好況を続けた。日本が韓国をターゲットに金融政策をとっているかのごとき言い方を韓国の主要新聞が恥ずかしげもなく言うことに驚いた。しかも韓国政府は本気でそれを訴えかねない状況のようだ。
日本は自国の経済立て直しのために金融緩和政策をとり、ようやく経済も持ち直しかけてきたところだ。これはただ自国の利益を考えてのことである。いったい世界のどこの国が他の国をターゲットに金融政策をとるというのか。
自国の経済が如何に他国の政策の影響で悪化しても、自分の国でその責任を取り、建て直さなければならないことは考えるまでもない冷厳な事実だ。単に恨みに思うのは構わない。勝手にしたらいい。しかしそれを国際社会に訴えよ!と新聞が国民に呼びかけ、それをもし政府が本気に受け取って行動するならほとんど幼児に近い。
韓国が困ったときは反日で切り抜ける、という甘えの手法をとり続けてきたことのツケが現れているのではないか。どこの国もそんな韓国に同情などしない。そういうときにおためごかしを中国が言うとしたら、それは中国にとって都合のいいことがあるからで、そんな中国を味方だと思うと韓国はさらに痛い目を見るだろう。
韓国の記者がアメリカの専門家に会うたびに、「韓国が中国寄りに行動しているように見えるがそうなのか」と質問されるそうだ。確かにそう見えるからそう聞いたのだと思うが、この朝鮮日報のコラムは驚くべきことを続けて書いている。
アメリカの専門家たちにそのような考えを刷り込んでいるのは日本であり日本政府だというのだ。ここにも日本が陰謀を巡らしている、という妄想が見える。
AIIBに積極的に参加し、中国で中国語でスピーチを行い習近平主席と満面の笑顔で握手する朴槿恵大統領の姿が報道されているのを見れば、日本にわざわざ言われなくても、アメリカの専門家が「韓国は中国に接近している」と見るのは自然だろう。
その朴槿恵大統領に拍手喝采して支持したのはだれか。
6日、韓国保健当局はMERSのウイルスは中東地域のウイルスと同じもので、「変異していない」と発表した。きちんと確認したのだろうか。そう疑うのは、そもそも中東地域のコロナウイルスは、「人から人への二次感染はしない」と言われていたからだ。しかし韓国では二次感染どころか三次感染まで起きている。だからこそ変異が疑われているのであり、もし変異していないのなら、そもそも中東のコロナウイルスも韓国と同様に二次感染が発生していたはずだからだ。
今朝の「サンデーモーニング」で、韓国のMERSについて説明するコーナーで、感染者の数と死者の数が昨日6日の朝の韓国発表の感染者50人、死者4人だった。しかし今朝8時41分の時事通信のネットニュースでは、韓国当局の発表として「あらたに14人の感染者が確認され計64人となり、、死者も一人増えて5人となった」ことを伝えていた。この数字はネットニュースよりも早く報じられているはずで、TBSが確認できないはずがない。
テロップをすでに作成済みだから新しい情報を追加しなかったのだろうか。こういうニュースは時々刻々状況が変わるのだから迅速最新を旨とすべきなのにお粗末なことである。
ところで、朴槿恵大統領のMERS対応が危機感に欠ける、と韓国で批判されている(私もニュースを見ていてそう感じる)が、あらたにMERSの治療スタッフを激励している大統領の姿が映像で放映された。これで前向きに対応している姿をアピールしたのだろう。
ここで私が違和感を感じたのは、いつもに似ずにこやかなその表情だった。いつもどこか具合でも悪そうな暗い顔のことが多いのに、このときは和やかとも言える表情だったからだ。これはただ私の感想で他意はない。
このときの写真が中国でも報じられた。ここでの中国のネットでの批判になるほど、と思わされた。朴槿恵大統領は治療が行われている病院を訪れている。スタッフは治療中らしく、全身を防護服に身を包み、マスクをしている。その前で朴槿恵大統領は普通の服でマスクもせずににこやかに激励の言葉を掛けていたのだ。「こんな不用意な大統領は異常だ」「このまま中国に来たりしないでくれ」「習近平主席と会うな!」と書き込まれている。
福島第一原発の高放射能地区に防護服なしで安倍首相が慰問に訪れたら、やはり批判されるだろう。一国の元首がこのようなことでは本人も粗忽を批難され、それを注意しない側近も愚かと言われるだろう。
朴槿恵大統領は今月14日からアメリカへ行くはずだ。まさか朴槿恵大統領は中国の依頼を受けて、ウイルスを身につけてアメリカにMERSを振りまくつもりだろうか。タイミングもぴったりだし。
もちろん冗談です。まさか本気にするひとはいないと思うけど。
高名な漫画家が病気で死に、遺稿を整理したところ未発表の画稿が見つかった。最終稿の状態なのに未発表というのは通常あり得ない上に、内容が漫画家のものとは思えないものであることから、その画稿が本当にその漫画家のものであるのかどうか、未亡人(真野響子)から調査が依頼される。
依頼された調査会社から、むかし警官だった調査員(松下奈緒)が派遣される。こうして彼女の調査が始められる。その画稿が本当に漫画家のものなのか、一体いつ描かれたのか、なぜ未発表なのか、それを読み解いていくのだが、彼女は漫画にまったく知識がない。やがて彼女は出版社の編集長からある男(古田新太)を紹介される。漫画についてはもちろん、いろいろなことに博覧強記のこの男は、この画稿が漫画家の遺稿ではないと断言し、この漫画が描かれた年代の特定をする。
この漫画には異常な殺人事件が描かれているのだが、やがてその特定された年代に、何人かの女性が行方不明になった事件があったことが判明する。これは実話ではないか、果たしてだれが描いたのか。行方不明の女性はどうなったのか、そして最大の謎は、連続した事件がなぜ突然終わったのか。
死んだ漫画家にあまりにも酷似している、いやそれ以上にうまい画稿から、当時のアシスタントの中の人物が浮上する。しかしその所在がどうしてもつかめない。そんな中、再び若い女性の行方不明事件が発生する。
そしてある男の急死により、調査の過程で感じられた違和感の正体が明らかになり、彼女も次第に事件に巻き込まれていく。そして彼女にも危機が迫る。
事件は二転三転、見ている者を翻弄していく。いくつか疑問点がないわけではないが、全体としては良くできていて楽しめる。
私個人はあまり大柄の女性は好みではないが、この松下奈緒という女性はだんだん好みの女性になってきた。人柄からくるらしいはにかみの部分が女らしさを感じさせてくれるからだ。古田新太はこの癖のある役柄にぴったりで、さすがにうまい。このキャラクターがこのドラマを成功させている。
監督ケヴィン・コスナー、出演ケヴィン・コスナー、ロバート・デュヴァル、アネット・ベニングほか。
正統派の西部劇だが、インディアンも黒人も出てこない。そういう意味ではリアリティに欠けると言われるかも知れないが、テーマを際立たせるためにこのような設定にしたのではないかと思う。
ボスと呼ばれるスピアマン(ロバート・デュヴァル)、もとガンマンとおぼしきチャーリー(ケヴィン・コスナー)、太っちょのモーズ、メキシコの少年バトンの四人は牛を追って草原を移動するカウボーイだ。
町へ買い物に行ったモーズが戻らないのでスピアマンとチャーリーが探しに行く。モーズはけんかをしたという理由で留置場に入れられていた。モーズはかなりの抵抗をしたものの相手は多勢だったらしく袋だたきに遭って怪我をしていた。
町を牛耳る牧場主は流れ者のカウボーイを嫌い、言いがかりをつけて彼らを追い払おうとしていた。保安官も牧場主の手先である。二人は怒りをこらえてこの町を引き払うことを受け入れ、モーズをひきとる。
しかし牧場主は想像以上に悪辣な人物だった。ボスとチャーリーは牛を奪おうとする相手に先手を打って、牧場の牧童たちを逆に闇討ちにして懲らしめたのだが、その間にモーズとバトンが襲われ、モーズは殺され、バトンは瀕死の重傷を負う。
バトンの命を助け、報復をしなければ男が立たない。
こうしてたった二人の戦いが始まる。
もともと放牧は定住ではなく、こうして移動を続けるものだった。だから彼らは自分の土地を持たない。それが囲いをして自分の土地を持つような牧場主が現れると諍いが起きる。定住するのは農耕民で、元々は遊牧していた牛飼いが定住して農耕民のようになり、所有の原理が異なる集団の争いになる。そもそも土地はだれのものでもなかったはずなのだが。 遊牧式のカウボーイはやがて消滅していく。それが西部劇の消滅でもある。そのことをこの映画は象徴的に描いている。
あの「シェーン」もまさにそのような映画だった。チャーリーはシェーンでもあるが、彼はついに運命を受け入れる。時代は変わるのだ。
医師の妹の中年女性をアネット・ベニングが演じているが、気丈な美しさが魅力的だ。アメリカ映画では女は愚かで弱々しいことが多いが、この女性は女らしいのに愚かでも弱くもない。さすがケヴィン・コスナーはアメリカの隠れた女性蔑視を脱している。
雨の後の道のぬかるみや銃撃戦のリアルさがすばらしい。
子供の頃「荒野の星」という、キット・カースンというカウボーイを主人公にした本を買ってもらったことがある。ぼろぼろになるほど何度も読んだ。キット・カースンが預けられ、たくましく成長していった幌馬車隊のカウボーイたちの世界が思い出された。
「私淑」ということばがある。辞書には「尊敬する人に直接には教えを受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶこと」と書かれている。だから「私淑」した師は、私のことを知らない。つまり勝手に弟子になることを言う。
私は若いときから森本哲郎に私淑している。
この本は昭和56年に出版された。副題に「愛書家に捧ぐ」とある。森本哲郎の体験的読書論であり、本に対する愛着、彼のたどった哲学的思索と本との関係、古本屋での本との出会いの楽しみなどが20章に分けて語られている。
本は楽しむためのものである。たとえその本が難解でいくら読んでもほとんど分からなくても、その本を手に取ること、ページを繰ることだけで嬉しくなる本があることを私はこの本で教えてもらった。
気がついたらとても読み切れないほど本が家にあふれていた。でも、その本の背中を眺め、表題を眺めるだけで幸せな気分になる。ひとりでにそうなっていたと思っていたが、この本を読んで森本哲郎の影響を強く受けていたのかも知れないと気がついた。
厳しく犯罪者を告発する検事(岸谷五朗)が殺人事件の容疑者として追われることになる。全ての状況や監視カメラに残された映像から彼が犯人であることは確かなように見える。
主人公はその検事の補佐をする、検事をめざす事務官の女性(仲里依紗)。彼女は司法試験を受けるために勉強していた三年前、警官だった父が交番勤務の晩に暴漢にバールで惨殺された過去を持つ。その際に犯人を自白に追い込んだのがその検事だった。
その犯人が有罪判決を受け、半年後に刑務所で自殺したことをその裁判の時の弁護士から知らされる。そして弁護士はその事件は冤罪ではないかと疑って調査中なので協力して欲しいという。どうやら真犯人を追っているらしい。
弁護士は検事にも接触してきて、自分があの事件の見直しをするきっかけになった犯人のメモを見せる。検事は事件の記録の見直しを行い、自白を供述させたときのビデオを繰り返し見て、そのときに感じたかすかな違和感を思いだしていた。
そしてその弁護士がナイフで刺殺される。現場にいたらしい検事が犯人として追われることになった。
果たして三年前の巡査の惨殺事件の真相は?そして検事は本当に弁護士を殺したのか?
検事局は組織を守るためにそもそものきっかけとなった事件の冤罪の可能性を隠蔽しようとする。やがて検事はある理由から検事局に現れ、逮捕される。検事局は動機など無視して何が何でも有罪に持ち込む姿勢で対処しようとする。動機を追及すれば冤罪が露見する恐れがあるからだ。そして敏腕検事が派遣されてくる。
残念ながら(意図的なのかも知れないが)真犯人は勘のいい人なら最初から見当がつくだろう。逆に登場人物たちがどうして気がつかないのかもどかしい思いがするかも知れない。
仲里依紗は司法試験に合格するような女性に見えないけれど、熱演していて好感が持てる。自殺した男の父親役の世良公則が加害者の家族のつらさを実感させる。実は事件に関わっていることがラストで明らかになる。
岸谷五朗の演技が下手くそだ、という文章を読んだことがあり、それからそのことが念頭から離れない。そのつもりで見るからこのドラマでも岸谷五郎の演技が臭く感じて困った。本当に下手くそなのかも知れない。ファンの人に申し訳ない。こうして私もその観念をばらまいているのだから。
韓国ではMERSが問題になっている。今日もすでにあらたに医師など5人の感染が伝えられていて、合計35人となり、感染が疑われる隔離者は1667人になったという。いまもさらに増えているかも知れない。
当局の初動に問題があったのではないかとマスコミなどから強く批判されている。最初の感染患者が判明した際の保健当局の危機感のなさは批判されても仕方がないものだったようだ。そもそもそういう想定が全くなかったのかも知れない。
批判の論調はセウォル号遭難事故発生の初日と同じだ、というものでその気持ちはよく分かる。今回はセウォル号のときとは違って朴槿恵大統領の所在は判明していたのだろう。特にそのことは批判されていないから。ただ、このMERSについての役人への大統領の指示はなんだか気合いの入らないもののように見えた。報じられている映像からは当たり前のことを言っているだけ、つまり言っても言わなくてもいいことを言っていた。この人は本当にパフォーマンスが下手だ。危機の時こそ名誉挽回のチャンスなのに。事態が長引けばまた支持率がダウンするだろう。
そんな中、韓国軍は北朝鮮全域を射程圏とする弾道ミサイルの発射に成功した。ニュース映像では軍の幹部と朴槿恵大統領が空を見上げるシーンが映されていた。ここでも朴槿恵大統領はなんだか元気がない。もともと前屈みの姿勢で、視線にも力が感じられない人だからそう見えてしまう。どこか身体の具合が悪いのではないだろうか。まさかMERSではないだろうけれど。
中国の長江クルーズ船転覆事故のニュースを見ているが、救助の遅々とした様子が歯がゆくてたまらない。
船は完全に上下逆さまになっているが、いまは川底に船の上部が着底している状態だという。水深は約15メートルというから船の大きさから考えて間違いなくこれ以上沈むことはない。転覆してから流されたのだろうが、浅いところで引っかかっている状態ということだろう。
何が言いたいかといえば、船底に穴をあけることが可能だろうということだ。もし船底の空気でかろうじて浮いているだけ、ということなら穴をあけることはできない。穴をあけると沈んでしまうからだ。
テレビのニュースで、当初から専門家がなぜ穴をあけないのだろう、と首をかしげていた。
映画「ポセイドン・アドヴェンチャー」にもあったように、船底に残った空気を頼りに生き残った人がいるにちがいない。実際に救助隊がハンマーで叩いて、船内からなにか聞こえているらしき様子が映像で映されていたように見えた。
水温が低く流れが速いため、潜水作業からの救出は困難を極めていると繰り返し報じられている。しかも船内は机などの家具類などが通路をふさいでいる上、部屋に鍵のかかっている部分もあるらしい。そもそも生存者を発見したらどうして船から連れ出すというのだろう。だから60歳代の女性を発見したきり、救助の知らせは全くない。
早朝のニュースを見たらようやく船底に穴をあける作業を始めていた。こちらがいらいらしているせいか、いかにものんびりと作業しているように見える。切迫感が感じられない。考えてみれば、今できるということは、最初から穴をあけることができたということだろう。もともと船の上に何人も作業員が乗っているけれど、ただ右往左往しているだけでなんのためにいるのかよく分からない。
水温が低ければ、生き残った人も濡れてからだが冷え切り、体力が尽きつつあるのではないか。それを思うと歯がゆくてたまらない。私などがそう思うくらいだから、遭難者の家族のいらだちの気持ちはいかばかりだろうか。一人でも多く救助されることを祈るばかりだ。
李克強首相が陣頭指揮をして救助にあたっているが、マスコミはほとんどシャットアウトし、報道管制を行い、救助のパフォーマンスだけに終始しているとしか見えないが、これはあの高速鉄道脱線転落事故の時の様子を思い出させる。
このままでは政府批判を防ぐはずのいろいろな対処が結果的に政府批判の原因になるようなことになりそうだ。
曽野綾子を感情的に嫌う人と、その言説に共感する人と、大きく別れる。私はここでたびたび曽野綾子の本を取り上げることから分かるように、曽野綾子の辛口のこういう本が好きである。
先般来、曽野綾子が南アのことを書いた文章が人種差別であるとして盛んに攻撃を受けていた。この本の長いあとがきに、その顛末が詳しく書かれている。それを読むだけでこの本を買う値打ちがあった。本文はいつもの曽野綾子節で、気持ちよく読めるけれど、こんなに本当のことばかり書くといやがるひともいるのだろう。あまりそういう人とはお近づきになりたくない。意見が合わないと思うからだ。
曽野綾子は何十年にわたってアフリカの各地を訪ねている。アフリカのすさまじい実情をだれよりも知っている一人だと思う。日本にいてなんの苦労もなく生きて、困ったときは政府が助けるべきだ、などという感覚しかない人にはアフリカの現実は到底理解できないだろう。私も彼女の本でそれを想像するばかりだ。
その前提で命がけで彼女は語っている。それを言葉尻を捉えて彼女に攻撃を加えている人権団体と称する人びとの名前や組織が列記されている。彼女はこの件ですぐに日本にある南アの大使館を訪れ、南アの大使に状況を説明し、誤解を解いている。そもそも誤解すらなかった。
「曽野綾子は安倍総理のアドバイザー」で「アパルトヘイトを称賛した」とロイター電が伝え、海外のメディアがそのままそれを伝え、それをまた日本のマスコミの一部が取り上げた。しかし曽野綾子は安倍総理のアドバイザーを務めたことは全くないと明言している。個人的な関係もないと断言しているのだからこれらは全くの誤報である。訂正を求めても知らぬ顔だという。
そして人権団体は曽野綾子に文章の謝罪と撤回を要求している。
この様相に言論弾圧の臭いを強く感じるのは私だけだろうか。日本はいつから作家が自分の考えを表明することを許さなくなったのだろうか。そのことが恐ろしい。
曽野綾子と意見を同じくしようが異にしようがこの騒ぎは異常だと感じる理性だけは持ちたいものだ。
日本年金機構の情報漏洩の問題が話題になっている。この組織のお粗末さは救いがたい。報道ステーションで、日本年金機構の人が、匿名で顔を隠して今回の問題について釈明をしていたが、こんな人ばかりだったら総入れ替えをしなければならない、そう思った人が多かったのではないだろうか。そもそもそうすべきだったのにそうしなかったことのツケがいま表面化したのだ。
賢くて悪い人は必ずいる。だから起こった問題は悪いやつの問題である。その責任は悪いやつにある。しかし問題が発覚した後、その対処を怠ったり、その問題の対処が理解ができない人間は、その後の事態に対して責任がある。問題は起きたけれど、それに対して対処する、そして穴をふさぐ、というのは当事者の責任である。その認識のないのが、今回の覆面の年金機構の人のことばでよく分かった。
驚くべきことは、報道ステーションはこのことを理由にマイナンバー制度を全否定する立場で報道していたことだ。
確かにマイナンバー制度も危うい。しからばどうすれば良いか、という視点はかけらもない。制度がなければ問題も起きないという主張には、車がなければ交通事故も起きないから車をなくせという論と同じような意味で賛同しかねる。問題点としてあげているプライバシー漏洩の例として古館氏のあげている事々が、全て問題とはほとんど関係のない枝葉末節のことであることに唖然とする。別に知られて問題であるほどのこととも思えないものばかりに思えたけれど、そう思わない人も多いのだろうか。
私もプライバシーは守りたい。しかし別に知られても構わないことも山ほどある。古館氏が列挙したことは、ほとんど、だからなんなのだ、と言うものが多い気がした。
マイナンバー制度にしてもなんにしても、導入することで大きなメリットのあるものは導入したら良い。問題を想定した準備を行い、それでも問題が起きたらそれに対処すれば良い。怠慢な者には厳罰を処し、悪いやつには制裁を加えれば良いのだ。
だれが見てもマイナンバー制度に反対しているのは税金をごまかしている者なのに、その側にたち、プライバシーがどうのこうのいう人間を私は信用しない。そもそも普通に暮らしている人間には自分が思うほどプライバシーなどもともと大してありはしない。
悪用した者に厳罰を科す法律と対策を。そして怠った役人や公的な組織の人間に制裁を。酩酊しているのでいささか言い過ぎたか?(6月2日夜記す)
プライバシー問題で不快感を感じるのは見ず知らずの会社などから郵便、メールが送られてきたり、勧誘電話がかかってきたりすることだ。独り暮らしで在宅しているとそのようなものにわずらわされる。こちらが必要としないことを匿名で売り込まれたくないし、勧誘されたくもない。
今度法律でそのような電話勧誘は禁止されるようになるらしい。まことに時宜にかなったことである。必要ならいまはいくらでもネットなど調べて自分の意思で買うことができるのだから、勧誘は不要である。これを禁止すれば、そもそも個人情報の意味も減少する。
先日来私のメールアドレスが交際サイトに掲示されているらしく、二、三日に一度位の頻度で女性名でお誘いのメールが入る。自動的に迷惑メールに分類されるので、受け取り拒否に登録して削除している。煩わしいがアドレスを変更するのも面倒なので放ってある。こういう悪意のあるいたずらをだれがしたのだろう。どういう報復が可能なのだろうか。調べるすべを持たないから如何ともなしがたい。こういうことがあるから個人情報の過剰保護が叫ばれてしまうのだろう。
人間は社会的存在として義務と責任を引き受けるとともに恩恵も受ける。その際に個人情報確認が必須であることは否定できない事実だ。世捨て人でない限り全てを秘匿して生きることはできない。問題は個人情報を悪用する一部の者たちだ。それにどう対処するか、それに期待したいし、そのための経費はみなが負担せざるを得ないだろう。日本は保護のための予算が少なすぎるという。新しい時代が来たのだ。対応せざるを得ないだろう。
妹の夫の母親が危篤で、二、三日が山だろう、という連絡があったのが土曜日。本日名古屋で兄貴分と飲みながら、もしかしたら、と思いながら飲んでいたが、何の連絡もない。医者は悲観的な予想を言うだろう。予想より早く死んだら何を言われるか分からないのが現代だ。
危篤である本人は必死で生きようとしている。そのことが分からないわけではないけれど・・・。
こちらの予定が立て込んでいるいまでなくても良いのに、というのが申し訳ないけれど、こちらの気持ちだ。日曜日から九州旅行で、その足で広島の息子にも会う予定にしている。それも用事があってのことである。
こうしていろいろなところにしがらみの何ほどかにしがみついて影響を与えるのが、この世を去るときの一つの儀礼なのかも知れない。こちらはただ待つだけ。
むかし自分の映画のベストテンを作って遊んだことを書いたら、忘れられない映画のことがとりとめもなく頭に浮かんできた。
「ネレトバの戦い」
いまは分裂してしまったユーゴスラビアが舞台の、ナチスドイツとパルチザンの戦いを描いた戦争映画。圧倒的劣勢のパルチザンが虎口を逃れるまでの苛酷な戦いを描いていて、登場人物たちの犠牲的精神の行動を見ていて涙が止まらなかった。学生時代に見た映画だが、なけなしの金で何度も映画館に通った。あの映画を思い出すと、あのチトー大統領というカリスマがいたからユーゴスラビアという国が成り立っていたことがよく分かる。彼が死んで、必然的に分裂した。シルバ・コシナという北欧の女優(と記憶している)が化粧なしで恋人のいる女兵士を演じていた。なにか叫びながら突撃していく姿が忘れられない。思い出すといまも涙が湧く。残念ながらWOWOWもNHKBSも放映する気配はない。ドイツ側の状況も良く描かれていてすばらしい映画なのだがなあ。
「ジャワの東」
こんな映画があったことすら知られていないようだが、私にとっては忘れられない。二十世紀初頭、インドネシアのクラカトゥア火山の大噴火とそれによって起きる津波がクライマックスの映画だ。おんぼろ船で密輸する船の船長が主人公。特に気球でジャワの山のあいだを飛ぶシーンが夢に出てくるほど強烈に記憶に残っている。その夢に限って必ずカラーなのだ。これももう一度ぜひ観たいと思うけれど、もしかしたらがっかりするかも知れない。思い出としてそっとしておいた方が良いのかもしれない。
「ラムの大通り」
アメリカの禁酒法時代、カリブ海から酒が密輸されてくる。それを「ラムの大通り」と呼んだ。その密輸船の船長がリノ・バンチュラ。ヒロインが、盛りを過ぎた無声映画の女優、ブリジット・バルドー。リノ・バンチュラが酒の飲み比べで、ラム酒の入ったショットグラスをずらりと並べて次々に飲み干していくシーンが好きだ。これも「ラムの大通り」にちがいないと思っている。ラストシーンで、映画館に一人すわるリノ・バンチュラが、あこがれだった女優のブリジット・バルドーをじっと見つめている。そしてカメラが少しずつ回り込み、スクリーン側からリノ・バンチュラの顔を映し出す。このとき私たち観客こそリノ・バンチュラに見つめられていることに気がつく。しみじみとしてしゃれたラストだ。この映画はDVDを持っている。
ほかにも次々に頭に浮かぶけれど、きりがないからここまでとする。気が向いたら続きを書くつもりだ。
今日はこれから犬山の兄貴分の人と久しぶりに名古屋で会う。会えば酒。いろいろ泣き言を言ったら聞いてくれるのだが、たいてい兄貴分の人のほうが早口で声も大きいので、私が聞くことになることが多い。多分今日もそうだろう。いつになっても友だちと会うのは楽しい。
最近はあまりしないけれど、若いときは自分の映画ベストテンを良く作った。手帳にもその記録がいくつか残っている。そのリストにいつも載る映画と、入れ替わる映画がある。新しい映画を観ればランク変更があることは当然だ。
ただ、よく見ると映画そのものの出来の良さでベストテンを決めているわけではない。あくまで自分がその映画でどれだけ感情を揺さぶられたかで決めている。だからそのときの気持ちのありようや経験してきたことがおおきく影響している。年齢でもランキングが変わるのだ。
映画を観ても見落としていることが多い。ほとんど見落としているのかも知れない。映画評論家の書いたものなどを見ると、自分の表面的で浅い見方を知らされる。
読書でも同じだ。本は読者に対するメッセージだ。それなのに私は書かれていることのほんのわずかしか受け取っていない。そのことは読書家の書いた評論を読むと思い知らされる。
それは絵画を見てもそうだ。もちろん音楽でも。表現されたものは、受け取る側の能力でずいぶん違って見えるものなのだろう。
絶対音感というのがあるが、あるしっかりとした座標軸があれば、それを基準に物事の評価をすることが出来る。その座標軸を確立するためにはおびただしい数の作品を集中して真剣に見ることが必要なのだろうと想像する。自分と作品との距離感がぶれなくなるまでその世界のそれぞれの作品を位置づけできるようにならなければならない。
およそ私の可能なことではない。プロの仕事とはそういうものなのだろう。もちろんそれは理想であって、それを達成することは人知を越えているのかも知れないが、その理想を持たなかったり、見失っているのは真の批評家とは言えない。
私は残念ながらその能力がないからそういう職業を選ぶことがなかったので、観た映画や読んだ本の話を気楽にぶれまくった視点から書き散らしている。
だから私の話はあくまで、私にはそう見えましたよ!というもので、同じものを見たり読んだりしたらそこから私が見えるかも知れない、と言うようなものだ。たびたび書いているように、つまり自己紹介なのである。
とりたてて書くほどではないことをだらだら書いた。
監督チャールズ・ロートン、出演ロバート・ミッチャム、シェリー・ウィンタース、リリアン・ギッシュ、ピーター・グレイヴスほか。
恐ろしい映画だ。ホラー映画などよりもずっと怖い。福音伝道師の姿をして神の教えを説きながら、平気で人殺しをする男をロバート・ミッチャムが演じる。彼にとっては、自分のことばと神の教えと自分の行動がなんの矛盾もない。なんの罪の意識もないそのことがとてつもなく恐ろしい。
彼は刑務所で同室の死刑囚が盗んだ大金を隠したままであることを知り、出所後巧みにその死刑囚の未亡人の家族に近づいていき、なんと未亡人と結婚する。隠された金を見つけ出そうとするうちに、幼い息子と娘が金のありかを知っているらしいことを嗅ぎつける。そして子供を脅しているのを妻に知られた彼は・・・。
子どもたちは母親の運命を知らないものの、新しい父親の異常さに気がつく。そして危機一髪で二人の子供は男から逃げ出す。その逃避行の様子と、執拗な男の追跡がこの映画の主要部分である。
ラストに、捕まった男をリンチに掛けろ、と叫んで大衆を扇動する老女が、死刑囚の妻とこの男を結び合わせた女であり、夫が、あの男はおかしい、というのを一笑に付したのもこの女だ。
自分の過ちをこういう狂信的行動で糊塗しようとする心性こそ、主人公とよく似た行動であり、アメリカの心性でもあるような気がしたのは考えすぎだろうか。
そもそもアメリカの福音伝道師という存在そのものがかなりいかがわしいものであり、無教養で狂信的な人間が普通だったらしい。
リリアン・ギッシュが最後に子どもたちを救う毅然とした女性に扮している。信仰の無力さと救いが描かれている。神は謎である。
少し前のニュースだが、びっくりしたものなので遅ればせながら取り上げる。ソウル市は漢江に架かる楊花大橋の一部の橋桁と支え台を撤去する工事を行った。大型のクルーズ船などを通すために、現在の橋桁の間隔を42メートルから112メートルに拡げたのだ。
この橋桁を撤去したまさにその場所で投身自殺した者がいた。警察がその遺体を捜索したのだが、そのとき川底に大量のコンクリートや鉄骨が投棄されているのが見つかった。なんと橋桁の撤去工事を請け負った会社が、撤去した橋桁の廃棄物をそこに投棄していたのだ。
そもそも船を通すための工事が、船を通すのが危険な工事になっていた。およそまともな国では考えられないことだ。もしこれが投身自殺者によって発覚せず、ここを大型船が通過したら、座礁する恐れが大きい。
セウォル号沈没事故をはじめ、韓国のこのような不正の絡む事件が目につく。日本をワルモノだ、と騒ぐ前に、自ら省みる必要がある気がする。それともこれらの事件も日本のせいか。
インドネシアでプラスチック米(プラスチックでできた米か、表面にプラスチックがついているだけなのか分からない)の混ざった米が見つかった。インドネシアは中国から持ち込まれた疑いがあると発表。これに対して中国政府は「即座」にこれを否定した。「中国は米の輸出を特定の会社が管理しており、管理に問題はない。しかも2008年以降、中国からインドネシアに米は輸出されていない」というのだ。
こういう場合、中国は「即座」に反論する。インドネシアも根拠なしに中国由来である、などとはいわないはずだ。確かに公的な流通ルートではないかも知れない(これも疑わしいが)。しかしこういう場合、現在のところ考えられないとしながらも、インドネシア側の言い分を問い合わせ、調査して問題があれば対策をする、というのが普通だろう。
「あり得ない」と言い切ってしまえば、あの毒餃子事件のように問題が拡大しない限り、問題はなかったことになる。こうしてあらゆるところで問題は隠蔽される。臭いものにするフタが無尽蔵にあるのが中国か。ところでプラスチック米は食べられないのだろうなあ。だとするとなぜこんなものを混ぜるのか。どんな意味があるのだろう。理解不能だ。
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