六十五の手習い
いろいろな方のブログをなるべく毎日拝見している。書かれていることがわたしの興味のあることもあるし、まったく知らないこともある。それでも続けてみているのは何となく波長が合うところがあるからで、意見が似ているのに続けて読みたいと思えないものもあるのは、残念ながらしっくりしないからで、不思議なことである。
いつも感心するのは鳥や虫や木々や花の名前を皆さんよくご存じだったり、よく調べておられることである。ものを知るためにはまず名前を知ることからだと分かっていながら、知らないまま人生を過ごしてきたことを今になって残念に思う。
詩が理解できない。特に和歌や俳句が分からない。それが自分の好みの問題だと思っていた。せっかく分かりやすくそのイメージを教えてくれる本をいくつも読みながら、読み飛ばしてきた。
最近、昔読んだ本を読み返しているうちにそのことに気がついて愕然とした。自分は何を読んできたのだろう。旅をして見る景色や旧跡に、一体自分は何を見ていたのだろう。ただ読んだ、ただそこへ行った、それだけではないか。その場所に時間的奥行きを感じるために必要な素養が有ると無いとではどれほどの違いがあるのか。
芭蕉が旅をしながらそこに西行をはじめとする先人の世界を重ねて見ていることの、時間的空間的広がりを感じなくて何を見たというのだろう。そこにある花鳥風月の名も知らず、それに先人たちが何を感じていたのか、それを知らずに何を見たというのだろうか。
考えても恥ずかしいことに、むかし、ひとに素養のあるなしで失礼極まりないこちを言ったことがある。そんなことを言える自分ではないことに今頃気がつくのだから慚愧に堪えない。
それに気がついたということは、かすかながら詩歌に感じる心が芽生えたのではないか。気を取り直してそう前向きに考えたい。分からないなりに漢詩や和歌、俳句を繰り返し読み返し、古典をひもとく機会を持ちたいと思っている。六十五の手習いである。旅を一からやり直したい気持ちだ。
*蛇足ながら本来は六十の手習い。ものを習うのに遅すぎることはない、という意味だが、最近は四十の手習い、という言い方もあるようだ。
来月から、つまり明日からいくつか雑用があるので、今晩千葉から名古屋に帰る。弟たちはもう一週間くらいいて欲しそうだがこちらも多少くたびれた。なにせ本を読むしかやることがないのだ。いくら好きでもいささか飽きる。
夜の運転は注意が必要だ。そのうえ今晩は雨が降り出しそうだ。慎重に休み休み行くことにしよう。帰ったら久しぶりに娘のどん姫に会いたいのだが、都合がつくだろうか。けっこうクールだからなあ。
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いつまでも向学心を持つことは、良いことですね。
頭があがりません。
投稿: かんちゃん | 2015年7月 1日 (水) 05時21分
いくつになっても向学心を持つことは素晴らしいことですね。頭があがりません。
投稿: かんちゃん | 2015年7月 1日 (水) 05時22分
かんちゃんへ
知ってみるのと知らずに見ることがこんなに違うのかと今頃気がついています。
自分がものを知らないと言うことにもう少し早く気がつきたかったです。
投稿: OKCHAN | 2015年7月 1日 (水) 06時54分