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国道168号線は新宮から本宮、十津川を通って奈良県五条へと通じるメイン道路である。この道路が十津川で崖崩れのために通行止めだという。
十数年前に子どもたちと遊覧船による瀞峡巡りをしたことがある。そのときは小雨交じりのあいにくの天気で、熊野川には川霧がたちこめていた。
二日目、瀞峡へ行く前にもう一度熊野本宮大社に参詣。寄りたい用事があった。
菅直人元首相が安倍首相を「亡国の首相」と非難したそうだ。
菅直人氏は、この世で安倍首相を非難する資格が最もない人のひとりだと私は思っているのだが、彼には自分こそが「亡国の首相」であったという自覚がまったくないことがよく分かった。
原発再稼働が始まった。再び事故が起きる心配をしているひとが多いのは当然だ。しかしそのなかに、万一事故が起こった時に「それ見たことか、だから私が反対しただろう」と言う機会が来ることを無意識に願ってしまうような人たちがいる。菅直人氏はそのような呪いの気持ちが強い人に思えてしまうのは私の偏見か。
葬儀屋に頼むと、思ったよりかかります。でも葬式をするなら普通はそのような専門家に頼むしかありません。考える時間はほとんどありません。本当に信じられないくらい考える時間はありません。次から次へこれをどうする、あれをどうする、という雑事が押し寄せます。
だからある程度の蓄えが必要です。
すべてのことをファイルにとっておくのがいいです。今回は父のときのすべてを弟がファイルにとってあったので、ずいぶん作業が楽になりました。
雑事が悲しみを紛らわせる、などと良くいいますが、雑事は疲れます。悲しみは悲しみです。
葬儀屋は商売ですから、こちらがまあいいか、と言う落としどころを察知して自分で選んだつもりが相手に選ばされているようなところがあります。ある程度は仕方がありませんが、こちらがある程度言うことも向こうは想定しているので、言うべきことは言ってみることは必要です。
昨日と本日、弟とともに葬儀屋といろいろ段取りをして感じたことです。まだ経験したことのない人はちょっと参考にして下さい。
一週間飲めなかったので、昨晩と今晩は弟と息子と三人でひたすらビールを飲んだ(とてもたくさん飲んだ)。甥も少しだけ参加。
甥の子どもたち(弟の孫たち)も加わって楽しく笑いながら飲んだ。母の告別式も終わらないのに不謹慎かも知れないけれど、父も母もそうやって楽しく飲み食いする家族を見て喜んでくれるはずだ。
母は夕方エンバーミングのためにいまいない。明日の夕方に葬儀会場に綺麗になって帰ってくる。そこでみんなでまた楽しく飲もうといっている。言っているのは私と弟だけれど。
一度名古屋に仕事でもどっていた娘のどん姫も、明日の夜にはそれに参加する。
にぎやかに母を送るのだ。
新聞や雑誌などに載った小文を集めたもの。久しぶりの再読。
東北の庄内に生まれ育った著者は、意外なことに東北をあまり歩いていないという。作家になって取材も含めて東北各地をたずねるようになり、東北にルーツをもつ者として、そして若くして東北を離れ、そのままもどることのなかった者として東北を見つめ直している。
私も、父が山形県の最上郡の生まれなので東北がルーツであるし、大学四年間を山形に過ごしたので、この小文集に登場する地名はなじみのあるところが多い。その場所の映像を思い浮かべることができるのだ。
仕事をリタイアしてからは年に二三度東北に足を運んでいる。芭蕉についての入門書などを読んだりして、奥の細道の旧跡などを一度丁寧にたずねたい思いがつのっている。この本はその気持ちをさらにかきたてる。
そういえば「しずかさや岩にしみいる蝉の声」のあの山寺へは学生時代にたびたび行き、一度は母とその友人を連れて登った。母もまだ四十代だから途中一度休憩して力こんにゃくを食べただけで、すいすいと登った。
日付の換わったばかりの夜中の一時、がんばり続けた母が逝った。一昨日ごろからときどき呼吸が停止、そのたびに呼びかけると蘇生するということを繰り返していたが、昨日昼からは呼吸も静かに、そしてだんだん小さくなっていき、ついにあちら側に旅立って、もどらなくなった。
まったく苦しがることもなく、命が薄れて消えていくような最期だった。まわりに駆けつけた子どもや孫たちもあまり深刻にならずに談笑しながら見守った。その笑い声を聞くたびに母は名残惜しそうに繰り返し息を吹き返した。
医師が臨終を告げる言葉に、さすがに女性たちは声を詰まらせ涙ぐむ。泣くはずがないと思っていた私も目が潤んでしまい、あたりがぼやけてしまったのであわてて席を外した。
それからがまた慌ただしい。臨終の悲しみをかみしめる間もなく、葬儀屋への手配(これは弟夫婦がした)、これ以降の段取りの打ち合わせが続く。その間に看護師さんたちが母のなきがらの清拭をしてくれる。思えばたいへんな仕事だ。夜明け前、三時過ぎに母とともに帰宅。母を寝かせて、そのまわりの仕度を調え、みな疲れ果ててようやく就寝。
危篤の連絡を受けて駆けつけてからほぼ丸六日間、仮眠をとることはとるものの毎晩の徹夜が続いた。それにしても母はよく頑張った。母も私たちもようやく静かに眠った。
母は高いところが好きだった。これは谷川岳のロープウエイで下を見下ろして喜んでいるところ。リフトでも平気で、足をぶらぶらさせていた。
肺炎で片肺がすべて白くなり、肩やあごや全身での呼吸をするようになって、すでに丸四日。一昨日からたびたびその呼吸が止まる状態なのに、母はまだ頑張っている。
医師によれば、この状態になると24時間から48時間しかもたないのが普通なのだという。「お母さんは強いですね!」と感歎していた。心臓の強さのみで命を長らえているのだそうだ。
昨晩は私の弟、妹、その妹の娘(看護師)、私と私の息子の五人で付き添いをした。もうさすがに限度だろうとみな考えたからだ。ところがいまも母は全身で呼吸し続けている。
入院している病院にはほとんど個室がない。主治医である院長のはからいで、家族が気兼ねなく介護できるように、数少ない集中治療用らしきその個室をあてがってくれた。その個室は、実は一昨夜救急車で運び込まれてきた若い女性が入っていた。今日昼、手当のかいなくなくなったので空いた部屋だ。どんな病気か事故か知らないが、駆けつけた家族や友人はみな若くて一様に呆然としていた。
一息入れたら今晩も徹夜の付き添いをするつもりだ。
医師、看護師、介護士、他の患者とのことで次々にいろいろなことがあるけれど、それが夢の中のように眼前を通り過ぎていく。あとで思い出すことがあるだろうか。
天保義民一揆という、きわめて特異な騒動があったことだけは聞き知っていたが、詳しいことをこの本で初めて知った。藤沢周平の本はずいぶん読んだけれど、長塚節について書いた「白き瓶」とこの「義民が駆ける」だけは未読であった。
羽州庄内藩に、幕府から突如青天の霹靂のような国替えの沙汰がくだされる。そもそもの発端は理不尽なものであるのだが、庄内藩としてそれを表向きに拒否することは不可能だ。藩として手の限りを尽くして裏工作するのだが、国替えの実施が遅れる程度で、覆す望みはほぼない。
そんな中で庄内藩の百姓たちが行動を起こす。幕府の実力者たちや各藩に対して駕籠訴という手法で次々に嘆願が行われる。そのようなことをすれば訴えたものや、それに関わったものが厳罰に処せられることがわかっているのに、なぜ彼らは身を賭してそのようなことをしたのか。そしてその背後で誰が動いたのか。画策したのは誰なのか。
読み始めたらとても面白い。つい先を急いで当時の文章の引用部分を飛ばし読みしてしまった。読み終わってからその辺を読み直した。人間はきっかけを与えると保身よりも激情が優先した行動をとる。それがうねりとなるとすさまじいエネルギーとなり、ついにあり得ないことが起こる。
これこそが革命だ。この物語はある小さな革命の成功談と言って良いだろう。ただし、革命の収束は難しく、そして成功を持続するのも難しい。ジャスミン革命の成功は革命以前よりも人々に不幸をもたらしている。天保の義民一揆という革命は、その希有な成功の例といっていいだろう。
今晩の付き添いは昨日駆けつけてくれた息子が引き受けてくれたので、布団で休めることになった。手を握ってもほとんど反応のなかった母が、かすかに握り返すようになった。確かに気持ちだけだけれど、持ち直しているのかも知れない。
娘のどん姫は仕事が代わって半年足らずなので、あまり休めない。顔も見せたし、母の顔も見たしするので一度帰した。
母は肌の一部に内出血の紅斑が見られる。どんどんそれが増えている。血小板の量が低下して内出血しやすくなっているので、成分輸血をした。改善は難しいかも知れないけれど、進行は止まるかも知れない。他にもいろいろあちこちがこわれていく様子が見て取れる。いままであまりひどくならなかった褥瘡(とこずれ)が目立つようになった。呼吸は相変わらず肩呼吸。見ている方がくたびれる呼吸だ。
五人入れる病室に一人だけ太ったおばさんが同室している。わがままで看護婦さんを困らせている。寝ていない時は常に何かぶつぶつと言っている。夜中だとあたりに斟酌のないその声が良く響く。とてもイライラする。鼻つまみなのでここに入れられているのかも知れない。ときどき唾を吐く。食事を食べさせる看護婦が気にいらないと、食べたものを吐きかける。こんな普通やらないことをするというのは、精神を病んでいるのかも知れない。
看護婦さんという仕事は本当にたいへんだと思う。そしてその人のわずかな対応がこちらには「いい看護婦さん」に感じられたり「感じの悪い看護婦さん」に思われたりする。相性もあるのだろうけれど。
母のことで皆さんからコメントをいただき、ありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ありません。
肺炎で、レントゲンで見ても、肺の半分以上が真っ白に映る状態となり、医師も手の尽くしようがないということでしたが、輸血や抗生物質、栄養剤投与を続けた結果、一部肺機能が回復し、医師も「奇跡だ」とつぶやくほどに持ち直しました。しかしこれは一時的なもので、意識の混濁は続いており、一時的な延命かと思われます。
私も二晩病院に泊まり込み、いささか疲労しました。いま休憩で実家にもどったところです。夕方にはまた病院へ行きます。
医師にもこの先の見込みは立たない状態で、もしかすると長丁場になるかも知れません。一時的でも意識が回復してくれるといいのですが・・・。
個別のコメントへのお礼は一段落したらあらためて申し上げますのでご容赦ください。
母危篤状態のため、昨晩から病院に詰めており、ブログが書けません。
呼吸が荒くなっていますが、それほど苦しそうではないのが救いです。
昨晩ちょっと仮眠しただけなので、いま実家で小休止中。また病院へもどります。
「イントゥ・ザ・ストーム」という映画を観た。巨大竜巻が主人公(と言うのも変だけれど)のパニック映画だが、駄作である。台詞が陳腐で、登場する人物が愚か者ばかりという、見ていて怒りばかりを覚える映画であった。
危険が迫っているという情報が、十分与えられないことは確かにあるだろう。しかしその危険が間近に迫れば、「へんだぞ」、「これはやばい」と誰かに言われなくても、さすがに感じるはずだ。
その危険センサーがまったく働かないで危機に陥る連中が、何とか生きのびた姿を見ても、ちっとも感動しない。
言いたいことはこの映画のことではない。
幕張メッセでゲームソフトのイベントがあり、想定外の人数が押しかけて会場の内外が人であふれかえった。炎天下で何時間も待ち、会場に入ってもまた延々と並ばされた。しかも会場でテロ行為を避けるために液体ものの持ち込みを禁止したので、飲み物がない。何とそのために持ち物検査まで行ったという。並んでいる道筋の自動販売機はすべて売り切れ。水分なしで猛暑の中に立ち続けて、熱中症で倒れる人が続出し、救急車が走り回ったとニュースで報じられた。
イベント開催者の不手際の責任は大きい。大きいけれども並んだひとびとは誰かに強制されたわけではない。こんな状態が続けば危険だと思わないのか。自分の前にまだたくさんの人がいれば、あとどれくらい立ち続ければならないかわからないのか。
会場で主催者に対して怒号を浴びせていたが、そんなことをする前に帰れよ!
そんなゲームソフトに思い入れもないし、とにかくならぶのがきらいだからそんなことを言う、というわけではない。これは危ないかも知れない、という危険センサーは、本来誰にも備わっているはずなのだが、それが劣化しているのを見ると、愚か者だな、と思う。
多分自然界では危険センサーの働きの悪い種は淘汰されて滅び、感度の良いものが生き残ってきただろう。それが人間だけ鈍感でも生きのびられるというわけにもいくまい。センサーの劣化したものばかりになれば、いつか突然人類は滅びてしまうかも知れない。
ところで中国の軍拡の脅威に危険を感じるか、安倍政権の安保法制に危険を感じるか、センサーの感度はどちらに強く反応すべきなのであろうか。
庾崇(ゆすう)と云う人が建元年間(晉のころ)に江州(江西省)で水に溺れて死んだ。ところが魂はその日のうちに家に帰り、ふだんとかわらぬ姿をして、たいがいは妻の楽氏の部屋にいた。妻は初めのうちはこわがって、毎日姪たちを呼んではそばにいてもらった。そこで幽霊もつきっきりでいることは次第に稀になったが、それでも時たまちょっと顔を出しては、腹立たしげにどなるのであった。「おれはあとに残ったもののそばにいたくてたまらないだけなのに、疑ったり嫌ったり、おれが帰ってきた気持ちにさからうなんて、もってのほかだ」
そして姪が部屋の中で糸を紡いでいると、道具が不意に空へ舞い上がり、なにかにかき散らされたようになってしまうし、ときには地べたに投げつけられたりするので、姪はこわがって寄りつかなくなった。
それからは幽霊がいつも姿を現すようになった。ひとり息子は三つになったばかりで、母親に食べ物をせがむと、母親は
「おあしがないのだから、食べ物など買えるものかね」
と言う。すると幽霊はうちしおれて息子の頭を撫でながら言った。
「運が悪くてわしが早く死んだばっかりに、おまえにもつらい思いをさせるなあ。おまえにすまなくて、おまえのことを思うとまったくやりきれない気持ちになるんだよ」
そして不意に二百貫の銭を持って来て妻に差し出すと、
「せがれに何か食べさせてやってくれ」
と言った。こうして数年たったが、妻はますます貧乏になって、その日の暮らしも立たないありさまとなった。そこで幽霊が言うには、
「おまえも後家を立て通して、こんなにも貧乏に苦しめられるのなら、こちらへ迎えてやろう」
と言ったが、それからまもなく妻は病気になって死んだ。それっきり幽霊も姿を現さなくなった。
夫の幽霊は「妻が後家を立て通した」と言うけれど、こんな幽霊が憑いていたら再婚の話も来るはずがない。よく考えると幽霊のストーカーの身勝手さに腹が立つ。妻はあの世に連れて行かれたというけれど、幽霊のために疲れ果てて死んだのであって、あの世でも夫につきまとわれるわけだから絶望感は深いだろう。少なくとも食べる心配はなくなっただろうが(ただ、中国ではお供え物をあげないと幽霊はひもじい思いをするらしい。もう死んでいるから飢え死にすることはないだろうけれど)。しかし残された子どもは誰か面倒を見るのか。
古川緑波(ろっぱ)という喜劇役者がいた。当時「東京新聞」は夕刊紙で、連日、著名人にその道楽・趣味を問うていた、ロッパ氏は「麻雀。三度のオマンマよりも好き」と答えた。翌晩、楽屋に配達されてきた同紙を見て、氏はとびあがった。重大な誤植があったのである。どの字をミスったかはご想像におまかせする。
北京在住の日本婦人が、北京大学日本学科を卒業したばかりの通訳嬢を伴って病院へ行った。診察が終わると、男性の医師が何かのたまい、通訳嬢は、「センセのケツを調べるそうです」と訳した。お上品で慣らしたその日本婦人は、「少し、おなかが痛いだけですから、ケツは調べないように頼んでください」。通訳嬢は首を振り、「大丈夫、ほとんど痛くありません。幾らかケツをとるだけですから。
「血」を「ケツ」と発音したのであった。日本語では「血液」とも云うから、その区別は確かに外国人には難しい。
某テレビで、トレードされてキャンプインしたプロ野球の選手に記者がインタビューした。
記者はその選手への期待感を披露したあと、「ところであなたの座右の銘は何ですか」。瞬時、とまどいの色がはしり、「両方とも一・五です」。
記者は深追いをしなかった。
不思議な日本語。
「私はここからあまりちかい都市に出生しました」
「もしあなたが別に心とらなかったら、お茶を願います」
「常に私の朝ご飯は大食です」
「この重い箱をお助けて持ち上がらせてくれ」
「貴方はご計画を彼に話してはいいですか」
「貴方は考えがきめればお決意を知らせてください」
「私たちが何の料理を入用のことに服務員は急いで知りたいようです」
「私は馬鈴薯の泥と豌豆を買います」
「医者が私の余り肥すことを気がつきました」
「煙草を吸うなら健康に妨害することを医者から私に言いました」
「彼は学問深いですからお聞きに行きましょう」
「私は曲がる処の郵便箱に手紙を入れました」
「貴方は衣類に対する鑑賞の方が、あまり上手ですね」
内モンゴル自治区の発行した日本語辞書から。ずいぶん古い話なのでいまはもう少しマシになっているだろう。それでも中国のホテルなどで見る日本語には絶句するような珍妙なものが多い。それぞれの文章の意味は少し考えればわかると思うので省きます。
「中国酔いがたり」という、コラムをまとめた本の中からピックアップしました。
あるとき阮徳如が便所で幽霊に出あった。身のたけは一丈あまり、色は黒くぎょろりとした目で、黒いかたびらに武官の頭巾をつけ、すぐ目の前に立っていた。しかし徳如は落ちつきはらって、やがてにやりと笑って言った。
「幽霊というやつはいやらしいものだと世間で言うが、なるほどそのとおりだ」
すると幽霊はまっ赤な顔をして退散した。
子供のとき、夜の便所は怖いところであった。昔は和式で水洗ですらないから、下に暗い便壺が見える。しかも便所の灯りは小さく暗い。なにかがひそんでいるような気がしてしまう。
ところで身のたけ一丈と云えば、十尺、いまなら約三メートルだが、当時の中国では一尺が24~25センチだから2.4メートルあまりか。それにしても見上げるような大きさだ。しかし阮徳如の入った便所には天井がなかったのだろうか。いくら高い天井でも幽霊の頭はつかえてしまうから屈んでいたのだろうか。狭いところに大きな幽霊はそぐわない。
物語と関係ないけれど、便所の灯りが暗いと云うことから、「便所の百ワット」という言葉を思い出した。無意味に明るい、という意味で、某ジャイアンツ出身のタレントたちのことを思い出した。いまはLEDの時代、20ワットでも明るすぎて幽霊は出るに出られないだろう。
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