曽野綾子「人間の分際」(幻冬舎新書)
「なせばなる、なさねばならぬ、何ごとも。ならぬはうぬがなさぬなりけり」という言葉がある。これは私の父がしばしば口にしていた。
「やればできる」と人は言う。「やればできる」と「なせばなる」とは同じことだろうか。
試験の成績の悪い子が、「勉強したらできたはずだったのに」、と思う。いまは親までそう思う。勉強してもできない子供もいることは誰でも内心知っているけれど、そんなことを言うと袋だたきに遭うのが現代だ。
練習すれば誰でもプロやオリンピックの選手になれるわけではない。みんな知っているのに「やればできる」、と尻を叩く。
「できるのにやらない」人に対して「なせばなる」という言葉があるのだろう。あきらめて、なにもしなければできることもできない。しかし人にできて自分にできないことは、人生にたくさんある。
自分を知ること、それが「自分の分際」を知ることなのだろう。自分に足らないもの、願っても叶わないものがあることを知り、そのことこそが自分自身であることを引き受ければ、人生の不幸の多くは解消する。
本文から
「お金の問題はやはり低い次元の話である。しかし低い次元の部分には却って単純明快なルールを自分で作っておかないと、心が腐ってくる。
得をしようと思わない、それだけでもう九十五パーセント自由でいられることを、私は発見したのである」
「日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において多くの人が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全になれない。むしろ与えられていない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。
このからくりをもう少し正確に認識しないといけない」
「私たちは自分のお金で好きな時に好きな所に行ける。嫌な人に会わねばならない時もあるが、たいていの時は会いたい人にだけ会っていられる。多くの場合心にもないことを口にしないで済む。非人間的なほどの忙しさに苦しまない。
それもこれもすべて自分の小さな力の範囲で「分相応」に暮らす意味を知ったからである。
その釣り合いがとれた生活ができれば、晩年は必ず精巧に輝くのである」
« 内田樹編「日本の反知性主義」(晶文社) | トップページ | 葉室麟「鬼神の如く」(新潮社) »
こんばんは。。
曽野綾子さん、大好きです。
産経のコラムも毎週おもしろいです(^^)
投稿: 藤子 | 2015年8月28日 (金) 21時16分
藤子様
私には当たり前のことを当たり前に言っているように思えるのですが、どういうわけか市民運動家などには毛嫌いされているようですね。
多分曽野綾子の書いていることをきちんと読んでいないか、または読解する力がないか、はじめから悪魔が書いた文章と思って読まないでいるのかするのでしょう。
そういうのが「反知性主義」だと思います。
投稿: OKCHAN | 2015年8月28日 (金) 21時48分
私も曽野綾子の云うこと、言わんとすることが、無理なく判ります。
中高時代カトリック系の学校で教育を受けたことが底に沁み込んでいるせいかもしれません。
投稿: おキヨ | 2015年8月29日 (土) 12時00分
おキヨ様
日ごろ拝見しているブログを読めば、おキヨねえさんのものの見方は多少わかります。
そういう人に読んでもらえるのは私もしあわせです。
投稿: OKCHAN | 2015年8月29日 (土) 13時21分