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2015年8月16日 (日)

昨日は終戦記念日

 昨日は終戦記念日だった。四年前に死んだ父は専門学校を出てすぐに中国に行って、戦争が終わるまでほとんど中国にいた。満鉄系の会社に勤めていたけれど、日中戦争以来一度ならず招集されて、従軍していた期間の方が長かったようだ。

 主に華北地区、山西省のあたりを転戦していたという。終戦のときには寡兵で山に立てこもっていた。八月十五日を境にまったく敵から弾が飛んでこなくなったそうだ。そして「戦争は終わったから投降するように」というビラがたびたび降ってきたという。当初は謀略だ、として疑っていたけれど、食べるものもほとんど尽きていたので、約一ヶ月後に皆で相談して山を下りた。

 約一年抑留されたのち帰国した。

 父はほとんど戦争の話をしなかったから戦争時代の父をほとんど知らない。語学の学校を出て中国語が得意だった父は、単身で支配地ではない中国の街などに潜入したこともあったらしい。私の顔の洗い方が中国人みたいだと笑ったあとで、顔の洗い方一つで日本人と見破られる、などとポツンと言ったことがある。

 戦争を語り継ぐ、などというが、従軍した戦地での経験は語り継げるようなものではないのかも知れないと思っている。

 今月死んだ母はしばしば戦争時代の話をした。家族で暮らしていた千葉の家は空襲で焼尽した。祖父母と母と叔父たち三人は焼夷弾の降るなかを逃げ惑い、奇跡的に全員生き残った。目の前で直撃を受けた人も見たという。翌朝焼け焦げた数多くの屍体を見た時には感情が麻痺して何も感じなかったそうだ。友だちも死んだ。

 母は大事にしていたアルバムすら持ち出せず、わずかに数枚の写真のみが残った。それが戦争までの家族のすべての形のある記録である。  

 そのあと疎開した九十九里に近い町から千葉の勤め先に通う母の乗った列車も米軍の艦載機に何回か襲われた。子どもを狙って弾を撃つ飛行機も見た。子どもだとわかっていて銃撃したのだ。叔父のひとりはパイロットの顔をすぐ間近に見た、と言った。

 それでもふだんの生活はそれほど暗いものではなかったようだ。祖父からは終戦よりだいぶ前に「この戦争は負けるだろう」とひそかにいわれていたという。終戦の日、灯火管制が解かれ、おおいをつけずに灯りをつけることができて、ようやく終わった、とほっとしたそうだ。

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コメント

お父様も戦争の話は語らなかった。。。お気持ち判るような気がします。
私の夫も深川で東京大空襲のただなかで死線を彷徨った話をあまり言いたがりません。
どう話せばその状況を伝えられるか、またそのうわべだけを話しても虚しい気分になるのは自分だということだと思います。そしてその後生き延びた状況も〔訊いてどうする〕といいますね。
焼けただれて亡くなった人のポケットから食べ物を探した話は聞きました。彼はその時13歳の少年でした。

おキヨ様
体験を伝えようと努力されている方々には敬意を表しますが、語っても伝わらないという思いでいる人のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。
百人いればただ一人くらいには伝わるかも知れませんが、そのために間違った受け取り方をされたり政治的に利用されたりすることの方が多いような気がします。
それに経験を語ることは、つらい体験を再体験することでもあるでしょう。
それが平気になっているならば、すでに記憶は変形されているのではないでしょうか。

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