内田樹編「日本の反知性主義」(晶文社)
物事には人によって無数の見方があり、世界は複雑である。同じことを見ても人によって受け取り方が全く違うのに驚くことがある。他の人は自分と同じように世界を見ていない。その違いはときに絶望的なほどである。
知性とは、知れば知るほどますますわからなくなる世界の複雑さを引き受けながら、絶望せず、なんとかあるがままに認識しようとする態度のことであろうか。
だから反知性主義とは複雑さに耐える忍耐力に欠け、世界を単純化し、簡単に説明しようとする態度のこととでもいおうか。
反知性主義者として典型的なのは、レッテル貼りにいそしむ人々であろう。
何人かの論客が、求めに応じて自分の考える反知性主義について、そしてますます反知性主義的になっているという観点から日本の現状を論じている。
このなかに高橋源一郎が書いた、「『反知性主義』について書くことが、なんだか『反知性主義』っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」という一文がある。
書かれている内容も興味深くてしかもわかりやすいのだが、この馬鹿に長い表題そのものにも意味がある。
「反知性主義」とひとくちに言っても、なかなか一義に論じられるものではない。そのことは多くの人がよく理解していて、その点では知性的である。しかし、なかにはせっせと自分の考える反知性主義を詳細に語る人や、めったやたらにレッテル風の言葉を乱発している人が見られるのは残念なことである。
つまり「反知性主義」をわかりやすく単純化して説明しようとすると、いつの間にか「反知性的」な文章になりやすいということなのだ。ではくだくだしく長く書けば良いかというとそれでは読む方が耐えられない。
「反知性主義」について書こうとして、自分の考える「反知性主義」について書くと、「反知性的」になる。では「反知性主義」は語ることができないのか。それを乗り越えている文章が高橋源一郎のものであり、内田樹のものである。もちろん他の論客の中にもその罠から脱したものもある。つまり「知性的」なのだ。
だから私はこの本を簡単にまとめることができない(うまい言い訳だ)。読んでもらうしかない。ただ、朝日新聞や、テレビのコメンテーター、市民運動(の一部)、シュプレヒコール、共産主義、中国や韓国のマスコミ、ネットの意見、社会の悪を断罪する正義の味方等々(なんたる並べ方!)、品性に欠けることの多いものが私にはなんとなくうさんくさく感じるし、はっきりいえばきらいな理由がおぼろげにわかった気がする。
別に私が知性的であるなどと主張はしないけれど、そうありたいとは思っているということでご海容(内田樹先生のよく使う言葉)ください。
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