「ふるさと」(「カルテの向こうに」から)
紹介された外科病棟の患者さんの診察を終えて、エレベーターを待っていると、「先生、先生」と言って呼び止める人があった。
「先生、さきちゃん、元気でしょうか。先生の本に出てくるさきちゃんです」
「さき」というと、学生時代の下宿屋の女主人(あるじ)が谷口咲さんだった。でも、その人のことは本には出てこない。すると別のさきちゃん、と思いを巡らせているうちに気がついた。岡山の長島愛生園に住む、南さきさん。
「ええ、そうです。うち、同じ小学校に通っとって、一年下でした。さきちゃん、背が高うて、ええ子で、勉強もようできて。遠足の日の朝、トラックが来て、さきちゃんトラックに乗せられて、遠い診療所に連れていかれた。皆がトラックの後を追っかけて、『早う帰ってきてよ』って言ったんです。さきちゃん、元気でしょうか」
ハンセン病の診療所に、鳥取を故郷にする人たちが、いまも数十人いる。でも、その人たちの安否を尋ねる人は、誰もいない。ぼくは初めて尋ねられた。
「元気だと思いますよ。あなたの名前と電話番号を、さきさんに伝えておきます」というと、その人は、「うち、主人が癌で、もう食べれんで、ずぅーと病院に泊まり込みです」と声を落とした。「忘れとると思うけど、森下みちがそう言って尋ねておったって、伝えておいてください」
4月の末の連休の日、ぼくは小学五年生の末娘を連れて、瀬戸内海にある長島愛生園に行った。橋の上から、カキ棚の浮かぶ瀬戸内海を見渡して、「ワー、きれい」と娘は叫んだ。
本土から瀬戸内海の長島へ行くには、かつてはフェリーに乗らなければならなかった。日生(ひなせ)港から四十分、虫明港からだと十五分かかった。隔離されている島という感じがあった。本土と長島の距離は、瀬溝と呼ばれる一番短いところでは、たった三十メートル。だのに、五十八年間にわたって橋はかけられず、隔離は続いた。「人間回復の橋を」という患者自治会の十七年間に及ぶ架橋運動が実って、橋が架かったのが三年前(1987年)だった。橋が架かって、バスが走り、速達や宅急便が一日で届くようになった。
鳥取を出て二時間四十分で愛生園に着いた。
「意外に近いじゃん」と末娘。潮干狩りに来ている人たちがいたが、園内は人影も少なく、静かだった。
「どうぞ。お嬢さんですか。あがってください」
夫婦舎団地の一角に、南さきさんは住んでいる。庭にアザミや山ブキやボタンが咲いていて、その向こうに瀬戸内海が広がり、その向こうに小豆島が大きく見える。「お久しぶりですね」と言って、お茶を淹れてくださる。
およそ十年前、ぼくはさきさんから、ハンセン病にかかってからの半生について聞かせてもらったことがあった。さきさんのお父さんもハンセン病で、家で亡くなり、四人姉妹の三女だったさきさんは、同じハンセン病にかかった次女と二人で、昭和十三年に長島愛生園に収容されたのだった。次女である姉は、昭和十九年に腎不全のために島で亡くなった。さきさんは元気で、農芸部で知り合った男性と結婚する。さきさんの一番上の姉の子(甥)も発病するが、治癒し、同じ病気を経験した女性と結婚、社会復帰して、子供もできている。
「私ね、このあいだ、甥坊主の車に乗せてもらって、鳥取に帰ってきたんですよ」
父も死に、「おまえが帰ってくるまで、この家を守っている」と言い続けた母も死に、家も土地も他人の手に渡って、さきさんの故郷の家は、すでになかった。
「でもね、あたりのたたずまいや、川面の湯気や遠くの山々がね、やっぱりなつかしいのよね」
瀬戸内海を背にして坐っていた兵庫県出身の宮部修さんが、「最近は土、土への郷愁ですね」と言う。園内は昔から、時代先取りの夫婦別姓だ。宮部さんは最近、四十七年ぶりに弟に出会っている。発病して故郷を去ったとき、弟は三歳。対面したとき、不思議な親しみをお互いに覚えたそうだ。いま、弟に、四十七年間の療養所生活を、手紙として書き送っている。
さきさんがジュースやお菓子を持ってきてくださる。娘はジュースを飲み、イチゴも食べる。
「政府がもしね、隔離してすまなかった、あらゆる保障はするので、どこでもいい住み直して下さいと言ってきたら、どこに住みたいですか」とぼくは聞いた。宮部さんは、「うーん、やっぱり、故郷の神戸にしてくれって言うかもしれんな」 と答えた。さきさんは、「うちは違うな。ここでいいっていうか、ここがいいですって言うと思うな。昔はいろいろ思ったけど、ここが自分たちの場じゃないかって思うし、ここでなきゃ、実際暮らせないしね」と答えた。
生きがいは、と尋ねると、ご主人は『弟への手紙』いう小説を完成させたい、と言ったが、さきさんは、選択したり、料理したり、花を作ったりすることだと言った。
「私、連絡をいただいてから、森下みちさんのうちに、何回か電話かけたんです。でも誰もでなかった。元気にやってるって、伝えてください」
別れて、車で静かな園内を走ってみた。海が見渡せる道の端に立っている盲導響から、唱歌の『ふるさと』が静かに流れていた。
愛生園から帰って一週間くらいして、病院の玄関で森下みちさんにバッタリ会った。ご主人が亡くなり、葬儀を済ませ、書類や支払いのことで来院したらしい。「さきちゃん、とても元気でしたよ」と言うと、「そうですか、よかった。うちの話、さきちゃんにだったら聞いて欲しいな」と言って、森下みちさんはちょっと目をうるませた。
長島愛生園については、私の尊敬する神谷美恵子さんの著作で詳しく知っている。「神谷美恵子著作集」全十巻プラス補遺二巻(みすず書房)は私の宝物である。
現役の頃 出張で四国の高松港から船でハンセン病の療養所へ行ったことがあります
港の案内所の地図には島が乗っていませんでした
その時の自分の恥ずかしい姿が今も心に残っています
島の小学校の子どもさんは療養所の患者さん(元)と交流の機会を持っているそうです
それなのに 船で迎えに来てくれた船頭さんが手袋を履いているのを見たり
施設を案内してくれているのに案内してくれるている人の顔を見たり 未だに内心不安におびえている自分がいました
間違っているとはいえ 先入観というものは恐ろしいものだと思います
そういうことがすでに 相手を傷つけていることも知らずに
今日 このブログを見て改めて思い直しています
投稿: イッペイ | 2015年8月19日 (水) 17時39分
イッペイ様
知っていてもなかなか相手のありのままのすがたに対峙するのは難しいと思います。
私も自信がありません。
相手の立場に立つことは本当に難しいことなのだと思います。
日本ではいまハンセン病がほとんど克服されたことを心から喜びたいと思います。
いつか世界でもこの病気が過去のものとなることを心より願っています。
投稿: OKCHAN | 2015年8月19日 (水) 19時41分
昔はらい病といわれ〔田舎ではさらに方言でいいましたが忘れました〕特に田舎の無知なものたちほど自分達と違うものに対し残酷な仕打ちをしたものです。
私の家族も例外にもれず残酷側に属しました。
差別はもちろんの事、発病をしたという家の前を通るときに息をしてはいけないというので、子供たちでさえも口に手を当て走り抜けたことを覚えています。
無知ゆえに人は他人に対して計り知れないほどの残酷な行為をするものですね。
この病気に対し国がしたことも同罪とおもいます。
投稿: おキヨ | 2015年8月20日 (木) 12時06分
おキヨ様
病気の実態を知らなければ、仕方のないこともあります。
しかし、いまでは感染はほとんどないこと、感染しても簡単に完治することがわかっています。
それを知りながらの差別であれば問題でしょう。
自分の問題としてどこまで考えられるか、ということでしょうか。
投稿: OKCHAN | 2015年8月20日 (木) 19時00分