村上陽一郎「科学者とはなにか」(新潮選書)
著者は科学史と科学哲学専攻の東大教授。科学がキリスト教という宗教と不即不離の出生でであることをこの人の本で知って、目からウロコが取れる思いをして以来著作を何冊か揃えていて、ときどき読む。
今回は特にこの本の中のSTAP細胞問題に関連する部分(第5章「その倫理問題」)を興味深く読んだ。この本が出版されたのは1994年だから、もちろん小保方さんのあの事件が起きるずっと前で、直接STAP細胞のことが書かれているわけではない。それなのにまるでそれを予告しているように読めないことはない。
あの事件は意図的なデータ捏造があり、論文は取り下げられ、まちがいである、という結論にほぼ落ち着いているようだが、釈然としないところがある。そもそも論文に書かれたことが画期的であれば、必ず第三者によって検証が行われることは、科学者なら知らないはずがない。完全な捏造ならすぐそれは暴露されてしまう。
いまわかっていることは、STAP細胞とされていたものが、外部から紛れ込んだES細胞だったということである。実験中に誤って汚染され、紛れ込むことはないとは言えない。しかしあり得ない結果が出たなら繰り返し確認作業をしたと思われる。その際に汚染による混入についても細心に注意したことであろう。
いま疑われているのは、誰かが故意にES細胞を紛れ込ませたのではないか、ということである。これなら繰り返し結果が同じになる可能性が大きい。そうなると結果優先で、裏付けのデータをそれに合わせてしまうということが起こりえる。そのことについてこの「科学者とはなにか」という本の中で「研究における不正、データの捏造」という文章の中に詳しくそのメカニズムが記されている。
これは小保方女史の行動を正当化することではないが、研究者の陥りやすい陥穽である。ここで著者は一転してノーベル賞の役割は終わったのではないか、とその問題点を提起する。その論理の流れを説明しようとすると私の手に余る。ただ言わんとすることはわかる人にはすぐわかるはずだ。
この本では原爆の開発に科学者がどう関わり、アインシュタインをはじめ主要な科学者がどう行動したのか、それが詳細に紹介されているので、あわせてそれも興味深い。
できてしまったものをなかった昔に戻すことはできない。できないけれども、人類は自分で制御できないものを手に入れてしまったことに対して、対応策をいまだに見つけ出せずにいる。科学とはなにか、科学者とはなにか、あらためて考えさせてもらった。
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