映画「薔薇の名前」1986年フランス・イタリア・西ドイツ
監督ジャン=ジャック・アノー、出演ショーン・コネリー、クリスチャン・スレイター、ロン・パールマン他。
ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」を原作とするこの映画を観るのは三回目か。傑作であることを再確認したけれど、前回との間隔が空いていたので、記憶と違った部分がたくさんあった。自分の中で作品が改作されていたようだ。
舞台は1327年の北イタリア山地に建つ修道院。ヨーロッパの中世という時代を自力でイメージすることは難しいが、この映画では厳密な時代考証に基づいて忠実に再現されている。そもそも原作が、細部にこだわって書き込まれた、博覧強記の著者の作品であるから当然なのだ。
ヨーロッパがまだ未開の野蛮の地であったことがよく解る。ルネッサンスはまだ始まっていない。キリスト教という宗教がすべてを支配していた。人の思考すら支配するのが当然だと思われていた時代のことだ。異端審問官という存在がそれを象徴している。「魔女狩り」が神の名のもとに行われていた。
主人公のウィリアム修道士(ショーン・コネリー)という人物は、元異端審問官。各宗派の会合に弟子のアドソ(クリスチャン・スレイター)を従えてこの修道院にやってきた。彼はこの時代に珍しい科学的思考の持ち主で、ある意味では来たるべき時代の先駆け的象徴である。
この修道院で不審死があり、それを調べるよう修道院長から要請され、その調査を進めた矢先に殺人事件が起こる。これらの事件が、この修道院の秘密に関係していることが次第にわかってくる。その鍵となるのがアリストテレスの「詩編」という書物であった。
中世は神の名のもとにギリシャの哲学や科学を封印した。ギリシャの科学が宗教と相容れない、不都合なものと考えられたからである。だからアリストテレスの書物が現存すること自体が奇跡なのだ。
ギリシャの哲学や科学(これは一体のもの)がヨーロッパでは異端とみなされ、その文献がほとんど失われていたこと、そしてそれらが残されていたのは当時のペルシャやトルコのイスラム世界であった。このことがヨーロッパのコンプレックスという精神的な傷として残った。だからことさらにギリシャがヨーロッパの原点であると言い立てるのだ。
ラストの、膨大な蔵書をかかえる巨大な党が炎上するシーンは圧巻である。これはヨーロッパにギリシャの文献が残らなかったことを表している。朝鮮半島に古代や中世の文物が残らなかったことと同様である。そしてイスラムにギリシャの文化が残されたように、朝鮮半島のものが日本に残されている。
クリスチャン・スレイターが初々しい。
この映画は観るたびに発見があって、何度観ても面白い。
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