勝手読み
ニュースを勝手読みしている。それはわたしがそう読んだ、というだけのことで、他の人にそう読むべきだ、などと主張するものではない。わたし自身が自分の書いたものをあとで読んで違うことを考えることもある。書いたときと読んでいるときの自分はすでに違う人間だ。まさか、と思う人は自分が書いたものを読み直したら、なるほどと納得するだろう。どうしてそんなものが書けたのかわからないことはしばしばあることなのだから。
内田樹老師の古いブログを読み直していたら、「他人が書いたことをどう解釈するかは100%読み手の自由に属する」という一文があった。なぜかということが詳しく書かれているのだが、老師はいつものようにレトリックを駆使して説明しているので、なかなか要約して伝えることができない。
老師は、「わたしはそんなつもりで言ったんです」と言う説明も「わたしはそんなつもりで言ったんではありません」という作者の言い訳もあまり意味がない、と言い、「人の言葉はどのように解釈しても、それは解釈するものの自由である」としている。
さらに「原理的にはそうとも言えるが、常識的にいかがなものかと思う」ものもあるだろう。「わたしの言い分は正しい」ということをある程度定着させ、物質化するには「わたしは正しい」と主張するだけでは足りない。「この人の言い分はまあまあ常識的だわな」という外部評価が必要となる。
だから誰であれ、「私の言うことこそが常識だ」などと主張する権利はない。そんなことを言い募るのは「非常識」なふるまいであるからだ。自分の言い分が常識的であるかどうかを、語る当の人間は決定することができない。「ここが大切な点だ」と老師は語る。
「常識」は「そんなの常識である」という文型ではなく、「そんなの常識ですよね?」という疑問文を経由してしか、つまり他者の「とりなし」を経由すること無しには、生きのびることができないものだからである、と一文は結ばれている。
言説について、そして常識についてよくわかるとともに、原理主義的振る舞いが如何に問題があるかもわかる言葉ではないか。「常識」を「正義」に置き換えてみればよくわかる。
これで説明になっているのかなあ。
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