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2016年1月

2016年1月31日 (日)

まだ酔っている

 昨晩は酩酊した。

 兄貴分の人と船橋で待ち合わせ、飲み屋を選定した。ワインレストラン、という、先ず自分から入ることはない店にした。ワインが各種あり、グラスでもボトルでもデカンターでも頼める。ワインに合う料理もたくさんあって、けっこう楽しい。

 ワインを強調しているから、ワインの管理がしっかりしているのだろう、たいへんおいしい。ワインはあつかいが悪いといくら良いワインでも台無しになる。チーズもいろいろあって大きなかたまりから切り分けたり削り出したりして供してくれる。チーズの味がとても濃く感じられる。ふだん食べているものとは違う気がする。

 気が付いたらボトル二本とグラスワイン数杯を飲んで好い気持ちになった。もちろん話も盛り上がった。なんとなく飲み足りない、語り足りない気がしたので、もう一軒、近くの焼き鳥屋に行く。

 その頃には二人とも出来上がっているから、多分そこにしらふの人がいたら同じことをくどくどとしゃべっているように見えただろう。きりがないので切り上げた。

 弟の家に帰ったら、弟が酒の用意をして待っている。「ちょっとだけ」飲むことにした。もちろんちょっとだけで済むはずがない。ビールを飲み、日本酒を「一杯だけ」と言いながら飲んだ。もちろん一杯で済むはずがない。さらに酩酊した。サッカーを観戦しながら飲んだのだが、結果をおぼえていない。途中で寝たのかもしれない。おぼえていない。 

 今朝はまだ昨日の酒が抜けていない。だからまだ二日酔いの不快感はない。朝食もおいしくいただいた。これから酒が抜けると二日酔いになるだろう。私の場合は頭痛はないけれど、胃がむかつく。しかし二日酔いというのは、当日の酒が二日目も持続していることなら、まさに二日酔いなのかもしれない。

2016年1月30日 (土)

無事到着

 新東名も東名も首都高も雪はなく、土曜日のせいか、車もそれほど多くなかったので、スムーズに千葉に到着した。途中、トイレ休憩を一回しただけなので、ゆっくり走ったのに五時間あまりで走破。

 昼前なのに底冷えがする。いま雪が降り出してもおかしくない。父と母に線香をあげ、無沙汰の詫びをいう。あの世で仲良くやっているだろうか。

 弟夫婦は買い物にでも行ったのか、留守だ。母の鍵を預かっているので、勝手に入れるのだ。実家であるこちらにも本が数百冊置いてある。早めに引き揚げてやらなければ弟たちも迷惑だろう。司馬遼太郎の「街道を行く」のハードカバー全巻43冊と、江戸川乱歩全集全巻だけはもっていきたいが、残りは処分してもらってもいいか。捨てがたいものもあるけれど、それを言ったらきりがない。

2016年1月29日 (金)

雪の心配

 明日早朝から車で千葉方面に向かう。しかし関東は今晩遅くから明日朝までに積雪があるかも知れないという。スタッドレスだから雪でも大丈夫なのだが、問題は首都高速など、高速道路が通行止めになることだ。

Dsc_3299 まさかこんなには降らないだろう

 日曜日に実家(いまは弟の家)に泊まり、月曜日一日で用事を済ますつもりなのだが、そのついでに明日の晩に私の兄貴分の一人のKGさんに会って、船橋で酒を飲む予定にしているのだ。

 以前は母の介護の合間に時々つき合ってもらっていたが、母が死んでなかなかその機会がとれずにいた。だからとても会いたい。六十を過ぎたおっさん(私のことです)が、会って泣き言を言うと、その兄貴分の人によしよししてもらえるので、元気が出るのだ。

 雪など積もりませんように!

 そういうわけで、多分明日はほとんどブログを書く機会がないかもしれない。

乱れまなこの勝手読み(31)

 28日、台湾の馬総統が南シナ海のスプラトリー諸島の中の、太平島を総統として初めて訪問した。南シナ海の領有権問題で、中国や周辺諸国がきな臭い関係にあるなか、わざわざこんな所を訪問することにどんな意味があると考えたのだろう。

 当然世界中からその行動に対して反発の声が上がっている。アメリカなどは特に不快感を露骨に表明した。面白いのは中国政府からもあまり好意的ではない反応が上がっていたことだ。

 ところが一日たって、突然中国が馬総統の太平島訪問に賛意を表明した。中国もあまり触れて欲しくない南沙諸島に注目が集まることを避けたいから、馬総統の勝手な行動に不快感を感じたのだけれど、よく考えたら、台湾は中国の一部だという立場から考えれば、台湾の領有している場所は中国が領有しているところなのだから、良いではないか、と気が付いたのかもしれない。

 それにしても馬総統という人は世界にとり、そしてなにより台湾にとって、自分のしていることが迷惑かどうか、という発想のない人間らしい。

 イタチの最後っ屁、という言葉があるが、まさにそのような人物であるらしいが、総統の引き継ぎは5月である。それまでにどれほどおかしなことをしでかすのか、世界が、そして台湾の人々が心配しているのではないか。中国だけはなにか期待しているかもしれないが。

 韓国の朝鮮日報が、社説で韓国の外貨準備について心配していた。現在貿易収支は、原油価格の減少もあってずっと黒字なのだが、韓国経済の失速を嫌気し、外国人投資家の韓国株売りが続いていて、どうも韓国からの資金流失が始まっているようなのだ。

 しかも韓国の外貨準備高のうち、すぐに使える現金性資金が3.6%しかない点が弱点なのだという。なんと93.8%は債券や株式に投資されているのだ。これでは非常時に現金化できる資金が足らずに、あの韓国が一度経験しているデフォルト危機を恐れているというわけだ。

 前回の時は日本とのスワップによって日本が韓国の信用保証をして切り抜けたのだが、それを韓国は恩義とも思わず、向こうから断ってきたから、いまはスワップは解消している。もし、ふたたび韓国経済が大きなダメージを受けたとき、日本とアメリカは、ふたたびスワップなどで韓国を助けるしかないけれども(ちょっと腹立たしいけれど仕方がない)、そのときは韓国は自国民に、日本にたすけを求めたことを、しっかりと公表することを条件にして欲しいものだ。すでにスワップについては日韓の間で話が進んでいるようだ。 
 この話の関連だが、イランは韓国の銀行に巨額の資産をもっている。アメリカの経済封鎖によってそれがすべて凍結されていたのだが、今回それが解除された。イランは海外のそれらの資金を引き揚げて自国の再建に投じたいと考えている。その金をめざして中国が、そして日本が、さらにヨーロッパがイランに押しかけている。

 いまイランは金を預けっぱなしにしておく余裕などない。韓国から引き揚げるのは国のために当然のことである。ところがこれは韓国から資金が流出することに外ならない。だから韓国は特使を派遣してイランに資金引き上げを待つよう懇願した。そのためにいろいろ便宜を図ることを提案したようだが、イランは首を縦に振らなかった。繰り返すがイランの実情からすれば当然のことである。

 朴槿恵大統領は遅くとも5月までにイランを訪問する意向だという。マスコミや経済界が、中国や日本がイランに次々に経済外交をしているのに朴槿恵大統領は何をしているのだ! と非難囂々であり、それに尻を押されての訪問検討なのだろう。

 韓国危うし(嬉しそうに見えたらごめんなさい。心配しているのです)。

 甘利さんが大臣辞任を発表した。やむを得ざる事態だと国民の多くは納得すると共に、これが日本の国にとってはプラスかマイナスといえば、マイナスであると思ったことだろう。甘利さんの甘さが責任として問われたけれど、告発した側に非常に不審なものを感じている人も多いだろう。しかしマスコミの論調を見ている限り、あまりそこを突いたものを見聞きしない。その千葉の建設会社というものの裏に何があるのか、なにがいるのかいないのか、週刊文春にスクープで抜かれたほかのマスコミはそこを取材して公表すべきではないか。まさか贈賄側は不問に付すなどというつもりなのではあるまいなあ。

朝日新聞経済部「ルポ 老人地獄」(文春新書)

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 高齢者が、蓄えがないとどのように悲惨なことになるのか、現状を知りたいと思って、怖いもの見たさでこの本を読んだ。ここには目を覆いたくなるような苦境にあえぐ人たちがこれでもか、とばかりに次々と具体的に紹介されている。それは確かに事実であろう。

 「老後はブラックだ!」と帯に大書されている。憂鬱なブルーではなく、真っ暗なブラックなのである。

 どうだ、参ったか!といわれれば、参りました、と答えるしかない。

 まことに日本人の老人の未来は真っ暗だ・・・ろうか。

 私の周りにこんな悲惨な老人はいない。だからこんな風に老人ならだれでも悲惨だ、という論調で語られると、まてよ、という気になる。この本には私の知っているような、自分の蓄えや、家族のたすけでなんとか平穏に暮らしている人がまったく出てこないのだ。

 冒頭の部分を引用する。

 消費税率が五%から八%に上がり、さらに十%に上がろうとしている。増税分は介護、年金など社会保障の充実に当てるとされているが、これから深刻化する少子高齢化を考えると、今後も負担増は避けられない。私たちの負担は報われるのだろうか。そんな問題意識から、朝日新聞経済部は二〇一四年一月、「報われぬ国」という連載を始めた。

 なるほど主旨は分かった。「負担は報われるのだろうか?」という「問題意識」から取材を始めたということだ。

 しかし書かれていることはすべて「報われない」という事例だけである。「報われている」という事例は皆無だ。

 しかし、私自身が母の寝たきり介護の手伝いを約二年近く経験している。母は、寝たきりになってしばらくして要介護4、その後要介護5の認定を受けた。ケアマネージャーと相談し、褥瘡のできにくいベッドの手配やヘルパーの依頼、訪問看護師の依頼や在宅で風呂に入れてもらうサービスを受けることができた。

 母の両親が認知症で、母と父がほんとうに苦労していたのを知っている。金もかかってたいへんだった。そのときとくらべたら、今回は天国のようなものだった。介護のシステムはとても改善されている、と実感した。

 妹の夫の母がやはり寝たきりで、その介護に夫婦で苦労していたけれど、それでもいろいろ介護のシステムのお陰もあり、それに対応できていた。私の母に先立って、ひと月前になくなった。介護システムがなければ悲惨なことになっただろう。

 なにが言いたいのか。

 世の中にはうまく機能していることと、不十分なことがある。不十分なことをどう改善するかを考えていくのが、この場合に必要なことであろう。それがすべての老人がブラックであるかのごとき決めつけをしていては、なにを改善していいのか分からなくなってしまう。

 そもそも自民党政権否定、役所否定、社会システム否定を前提に取材をしたのか、それでは冒頭の問題意識とはなにか。日本は少なくとも他の国よりはるかに社会保障システムが機能していると言って良い。しかしそれが不備である部分もある。そして今のままではその不備がさらに拡大してしまう、という指摘でなければならない。

 絶望だけを声高に叫ぶことでなにが生み出されるのか。社会不安だけではないか。これでは無意識のテロリズムではないか。

 この本を読んでも、老人問題をどうしてらよいか、などという答えはない。日本を「老人が報われぬ国」と決めつけながら、どこの国のどんなところで「老人がこのように報われている」というのか、具体例はまったく示されない。現在が地獄だということを知らされるだけである。これでは年寄りは死ぬしかない、といっているように読めてしまう。これが朝日新聞の正義か。

2016年1月28日 (木)

e-Taxがうまくいかない

 毎月、月初めに雑用を集中的に処理することにしている。しかし、2月始めには離婚の件で、千葉のほうまで先方との話し合いや、裁判所に行かなければならないので、それどころではない。というわけで今日のうちにできることをいくつか片付けた。

 ついでに散髪にいった。もっと早くに行きたかったのだけれど、咳が完全に治まらないと、危険なので、先延ばしにしていたのだ。さいわい問題なくすんだ。前回から少し刈り上げてもらうようにしている。ほんとうは五分刈りくらいにしてしまいたいところだが、あまり頭の形が良くないので、躊躇しているのだ。

 むかし大学の部活で格闘技をしていた。そのときはほとんど丸刈りに近かったから、自分の頭の形は知っているのだ。すでにかなり髪がわびしくなっているからどうということはないのだけれど・・・。なまじ髪を短くすると、散髪の頻度を上げないといけないし。

 確定申告に必要な書類が揃ったので、e-Taxで電子申告しようとしたら、最後の所でループに入ったようになって、送信が完了しない。カードはまだ有効期限内のはずなのだが、どうしたことだろう。

 一昨年はいろいろ苦労したけれど、昨年は問題なくすいすいと終わった。どうして同じことをしているのにこんなに違いが起こるのか。なにが悪いのか、どこが不備なのかのまったく表示がない。問題なく最後まで進んでいるし、カードリーダーもエラーは起きていない。

 頭が熱くなったので、今日はもうやめた。明日またやってみて、だめならプリントアウトしたもので申告しよう。どうも歳のせいでなにか見落としているのかもしれない。それにしてもこのソフトにはちょっとイライラさせられるところがある。丁寧すぎてかえって分かりづらいのだ。

 離婚でどうやら財産の半分近くを奪われそうな気配だ。21年も別居して、一度も家に帰らなかった妻が、どうして内助の功を主張できるのか分からないが、法律的にはそうなっているらしい。財産といってもしれたものしかないのだけれど、向こうはもっとあるはずだ、とみているようだ。うんざりだ。向こうというのは妻本人ではなく、妻の兄とその妻、つまり嫂だけれど・・・。これがお金にとてもこだわる夫婦なので、話がややこしくなりそうでかなわない。

 家の中の持ち物を整理するよりさきに、老後の蓄えが整理されそうである。それもさばさばして良いかもしれない。そのかわり海外旅行などには行けなくなってしまうのが哀しいが。いままでせっせと楽しんできて良かった。

乱れまなこの勝手読み(30)

 民主党の参院選向けのポスターのひとつに、「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい」というのがあるのだ、と報じられた。

 民主党に対する好き嫌いが、民主主義を守ることと同じグランドで語られている。確かに民主党は民主的な党だ。だから意見が右から左にたくさんあって、なにも決められない。政党も政治家も、国民のために何が最善かを判断し、それを国民に問うた上で支持を取り付けて主張していく、というのが現実的な民主主義であろう。

 では民主的な民主党は国のため、国民のために考えているのだろうか。政権を失ってから、朝日新聞的な、つまり旧社会党的な正義をすべての思考基準とし、国民も国もどうなろうと関係なさそうな言動に終始しているようにしか見えない。

 鳩山元総理大臣や、仙谷由人氏をはじめ、世界から日本の位置を引きずり落とすことに腐心した人たちのことについて、党として申し訳ない、という言葉を聞くまでは、民主党になにかを託そうとわたしは思わない。なんなのだ、このポスターは。

 民主主義が前提ではない。国民が少しでも良かれと思う方向に国を動かすシステムとして、民主主義がとりあえずベターであろうということでしかない。民主主義が絶対的正義、という思想がなにをもたらしたか、アメリカが世界で反発を受けていることを見れば明らかではないか。民主主義は理念ではなく、システムでしかないのではないか。

 中国・北京の国立がんセンターの研究チームが、アメリカの学術誌に発表した報告書によると、中国の死因の第一位は肺がんである。2015年のがんの新規診断例43万件、死者数は280万人だったと推計されているそうだ。死者数は2006年にくらべて74%の増加だという。

 肺がんがそれだけ増えていることは、どうしてか、だれにでも分かることだろうし、これからもっと増えていくことだろう。

 アメリカのキューバに対する経済制裁が一部緩和されるという。オバマ大統領はもっと進めたいのだが、共和党がキューバの人権抑圧が改善されないからと反対しており、大統領権限でできることだけとりあえず進めたらしい。

 これでアメリカから直接飛行機で行けるようになるかもしれない。少し楽になるだろうか。

 ところで、キューバが人権抑圧をしている、という共和党の主張は、何を根拠にしているのだろうか。確かにキューバはアメリカ的なグローバリズムが全くない。グローバリズムを展開するためには経済的にもう少し豊かにならなければ始まらないことで、ここまで徹底的に経済的に抑圧されていてはどうしようもない状態で、それをもたらしているのはまさにアメリカなのである。

 それを昨年キューバに行って体感した。お陰でみんなが貧しい。それはそれでしあわせに近い。なかなかみんなが豊かになれないときは、誰かだけが豊かであるよりも、みんなが貧しい方が、みんなしあわせに近い気持ちになれるのだ。

 これからキューバも誰かだけがしあわせになるようになりそうだ。才覚のある誰かがうまいことをするだろう。キューバの良さがたちまちくずれるかもしれない。

 中国の中央規律委員会が、国家統計局の局長を調査しているそうだ。2009年から財務次官補、2012年から財務次官、2015年に国家統計局の局長となった人物で、財務次官時代の不正が問題になっているらしい。つまり収賄容疑である。

 中国の国家統計局といえば、あの2015年のGDPの伸び率が6.9%だった、と報告した部局であり、この局長はそのことについて記者会見をした直後に拘束されたそうだ。

 この6.9%とという数字について、疑義があることは以前書いたけれど、この局長を逮捕することで、数字のインチキを彼のせいにして、お茶を濁そうとしているのだろうか。まさかね。

 EUがシェンゲン協定を見直すかもしれないという。EU内を自由に移動できることを例外的に取りやめ、7カ国ほどが入国審査を再開することになった。期限はとりあえず半年、最大で2年までらしいが、もちろん移民問題が背景にある。これがEUそのものの根幹にかかわる事態であることは間違いない。そしてイギリスは今年早めにEUの離脱を国民投票で問う、という。

北村稔「『南京事件』の探求」(文春新書)

 本屋の平棚にあったので新刊だと思ったら、2001年に刊行された本であった。よく見れば、帯には「南京事件論争を知るための古典的名著」とあるではないか。

 「探求」とあるように、南京事件についてなるべく予断を持たずに調べられるだけの資料を徹底的に洗い、そこから見えるものについて考察する、という姿勢をとっている。

 「南京事件」について知りたい、と思っている人なら、すでに目を通している人も多いのではないだろうか。私は寡聞にして知らなかった。「南京事件」については、大虐殺説支持派と、大虐殺は捏造だという立場の人、「大虐殺」であげられているような30万人が殺されたなどというのはあまりに荒唐無稽であるが、しかし市民や投降した捕虜の少なからずが殺されたという事実はあっただろう、という中間派に意見が別れる。

 連合国による軍事裁判である「東京裁判」では、南京で多数の市民が殺害された、ということが認定され、そのときの司令官であった松井石根陸軍大将が、その責任を問われて戦犯として処刑されている。

 この本のような、冷静で学術的な資料の調査と比較検証をしたものに基づいたうえで、それぞれの立場の人が話し合える日は来るのだろうか。多分「大虐殺説」の立場の人はこの本を認めようとしないだろう。ただ反論のための反論をするであろうし、中国人と一緒に感情的になるだけだろう。

 この本では「東京裁判」でメイン資料とされたものが、だれによって、どういう意図で作成されたものであるか、それが次第に30万人の市民が計画的に殺された、という話に、どのようにエスカレートしていったかが詳細に検証されているので興味のある人は読んで欲しい。

 原文、中国文、それを訳した日本文を比較しながらそこに意図的な改変がされていることを鋭く指摘していく。これはミステリーの捜査のための資料探査そのものであり、面白いのだが、面白い、と思わないとその詳しい説明が苦痛かもしれない。

 本文から引用する(168ページ)

(前略)裁判官たちは、『スマイス報告』の内容が「三十万大虐殺説」と矛盾することに気が付かなかったのであろうか。いずれにせよ判決書としては杜撰の極みである。

 次に、東京の極東国際軍事裁判で、『スマイス報告』が検討の対象にならなかった理由を考えたい。これは『スマイス報告』の証拠能力の不十分さからではなく、松井石根大将の南京攻撃の総責任者としての管理能力の有無にあったからである。松井石根大将に対する判決文は、以下のように結ばれている。

「彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたと共に、その権限をもっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めなければならない」  


 南京以外でも日本軍が侵攻し、都市を占領した時に多数の市民が犠牲になったことがあったであろう。しかしなぜ南京だけがこのように大きく問題視されたのか。これは統制に甘さがあり、強姦、略奪、殺戮が通常よりもだいぶ多かったのではないか。30万が3千人でも同じでことある。

 南京市の、当時の人口が20~25万であり、占領後しばらくして普通の市民生活が再開されたという信憑性のある証言もあるから、30万人が虐殺された、というのは荒唐無稽だけれど、実際に暴行や略奪、捕虜の処刑の目撃証言が少なからずあることも間違いない。南京は当時の中国の首都である。首都が陥落すれば戦争に勝つと思っていた日本軍は、浮かれて一部が暴走したのではないか。そういうときこそ統制をきつくしなければならないのは当然である。

 その責任は問われなければならない。そのことが、日本の国が戦後ここまで非難される理由になったことの責任も重いとわたしは思う。

2016年1月27日 (水)

ショーペンハウエル『読書について』から「思索」①(岩波文庫)

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 ショーペンハウエルについては、知っている人は知っていて、興味のない人にとっては知りたいとも思わないだろうから、特に説明しない。

 ずいぶん昔に表題に惹かれて購入し、眠り薬としてところどころ拾い読みしていたけれど、どういうわけか今回一気読みした。一気読みした、といっても、本文は150ページ足らず、それが「思索」「著作と文体」「読書について」の三部に別れているのだから、その気になればそれほど苦労しないで読める。

 「思索」の冒頭にどんなことが書いてあるのか、引用しよう。

 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれば効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それをほかのさまざまな知識や真理と結合し、比較する必要があり、その手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである。われわれが徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。だが知っているといっても真の意味で知られるのは、ただすでに考えぬかれたことだけである。

 当たり前のことが書かれている、と読み飛ばせばそれまでだけれど、ショーペンハウエルは主に19世紀前半(1788-1860)のドイツの人である。産業革命以後、イギリスやフランスがそれによってどんどん国力を増大する中、ドイツは思想的な部分で自国のアイデンティティを保持しようとしていた。デカルトやフィヒテ、シェーリングという哲学者たちがもてはやされている中で、それに苦虫を噛み潰しているショーペンハウエルの気持ちがこの本にもあふれている。

 そんなことを抜きにしても、「考える」ということと「読書する」ということの根本的な意味をこの文章は示している。これは『論語』の「子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし。」と同じだと思う。

 蛇足だが、論語を現代訳すれば、
「知識や情報をたくさん得ても、思考しなければまとまらず、どうして活かせばいいのか分からない。逆に、思考するばかりで知識や情報がなければ一方的になり、独善的になってしまう。」(加地伸行訳)。「まとまらず」、というのは、観念ばかりになってしまう、ということだろうか。

乱れまなこの勝手読み(29)

 ボケ一歩手前の私から見ても、SMAPやベッキーについての過剰報道は異常である。日本がどうかしてしまったのか、マスコミがそもそもおかしいのか。正直、うんざりである。ベッキーもSMAPも大嫌いになった。

 今日、あの元兵庫県議で、政務活動費をごまかした野々村氏の裁判があった。論評に値しないことではあるけれど、このような輩について、黙っていられない。みんなが黙っているから、このような輩が世の中を甘く見てのさばるのだから。

 泣いたりわめいたり、「記憶にありません」などといえば、窮地を切り抜けられる、といまだに思っているらしい。切り抜けられない、ごめんなさい、といって罪を償わなければならない、と思い知らさなければ、世の中のためならないし、子どもにも悪影響を及ぼす。

 ネットを見ていたら、あの「行列のできる法律相談所」の北村弁護士が問われて、「実刑の可能性は低い」と答えたという記事を見た。「再犯の可能性が高い場合、量刑が軽減されなくなるが、そもそもすでに議員でなくなっているから、再犯の可能性がない、というのがその理由である。

 再犯の可能性がなければ、罪に対して反省していないのに罰が軽くなるのか。多分これが弁護士の考え方なのであろう。そして日本の法制の現状なのであろう。

 犯した罪に対しての罰である。そして罰は罪を反省させるためにこそあるのではないか。再犯の可能性がなければ、「忘れました」とうそぶけば許されるなどということが通用するのなら、刑事罰の意味はそもそもなんであるか。

 昨晩、二ヶ月の拘留が決定したようだ。異例のことだが、当然のことだろう。人権弁護士はこれを不当というだろうか。そんなことを言えば叩かれるのが分かっているから、多分黙っているのではないか。

 自分が慰安婦であったと主張する女性二人が日本にやって来て、「日本と韓国の慰安婦問題についての合意は無効である」と訴えた。この合意は、日本政府と韓国政府が行ったもので、このことによって、彼女らの訴えるさきは韓国政府になった、というのが常識的な認識であろう。彼女たちが合意に反対するのは自由である。しかし、彼女たちが日本に来て、日本政府の不当を訴えるのは筋違いである。

 彼女たちが日本でこのような訴えをすることについて、援助している日本人がいるとしたら、その正義の意識は異常であり、愚かであると思う。日本人なら、もういい加減にしてくれ、やっととりあえず終わりにしたではないか、と思うところだろう。なぜ蒸し返すのか。

 北朝鮮の人権問題について、アメリカと日本は、北朝鮮人権法を成立させ、北朝鮮の人権問題の解決に向けて活動する団体へ支援を定めている。ところが韓国は、なかなかこの法案が国会で議決されない。野党(現在の民主党の前身のウリ党)が反対していたからである。「北朝鮮人権法は行き過ぎた内政干渉」だ、と反対してきたのだ。

 2005年以来、10回近く国会に提案されながら廃案になり、このたび、ようやく一部野党からも賛同の声が出て成立した。反対していた野党の人たちが、北朝鮮の人権無視を容認していたのではないだろうが、結果的に北朝鮮の利するところとなり続けてきたわけである。

 韓国には北朝鮮のシンパが深く広く浸透している、という陰謀論があながち妄想ではない、と思わせるではないか。日本の野党が、正義感や国のためではなく、ただひたすら安倍首相を引き下ろすことに腐心しているのと同様に、韓国野党も、ただ政争のためになりふり構わない、というのが実際なのだろうけれど。

 まてよ、日本の野党が韓国の真似をしているのか。

曽野綾子「流される美学」(3)(興陽館)

 引き続き引用する。

 ほんとうにその対象に興味をもてば、一人でうちこむものである。恋愛や、情事を、友だちと連れ立ってする者はいまい。
 一人で遊べる習慣を作ることである。
 年をとると、友人も一人一人減っていく。いても、どこか体が悪くなったりして、共に遊べる人は減ってしまう。だれはいなくとも、ある日、見知らぬ町を一人で見に行くような孤独に強い人間になっていなければならない。

 私は強い人間ではないけれど、普通の人よりは孤独に強いと思う。もちろん淋しさを知った上でのことである。淋しさを感じなければ孤独も平気だろう。しかしそれは孤独に強いとは言えない。淋しく思いながら見知らぬ町に立つ、そのことに心の底からわき上がる、震えるようななにかが、一人旅に私を誘う。

 ものごとが見えないので健康な人と、ものごとが見えるので病気になっている人だけが増える。

 ものごとが見えて、健康な人でありたい。

 人間、自分の欲しいものしかほんとうは要らないのだ。

 身の廻りは、ほんとうに欲しいものでないものにあふれている。そしてほんとうに欲しいものは手に入らない。

 中島みゆき「シュガー」から

  欲しかったものは 手に入れたわ なにもかもさ

  ほらこんなに光ってる 靴もネックレスも

  人生は二番目の夢だけが叶うものなのよ

  ほら だってあの人はあたしに残らない

 これでこの本の紹介は終わり。

2016年1月26日 (火)

ドラマ寸評

 ドラマは面白い。面白いドラマだけを見ているから当たり前だが。

 いま気にいってみているものを取り上げてみるので、興味があれば参考にしていただきたい。ただし、すでに何回か進んでしまっているものばかりなので、途中からではイヤな人は、再放送を期待してください。いいものばかりなので、多分再放送があると思われます。

NHKBS時代劇『大岡越前3』
 題名の通り第三シーズンである。大岡忠相(ただすけ)は東山紀之が扮する。まことに姿良く大岡忠相を演じている。大岡忠相夫人が第三シーズンからミムラさんになった。それまでは国仲涼子で好演していたが、ミムラさんも違和感なく、可愛い妻女を演じている。話がシンプルで分かりやすく、見たあとの気分も悪くない。

NHK大河ドラマ『真田丸』
 むかしはこの大河ドラマが好きで必ず見ていたが、最近は見ないことが多い。特に女性が主人公のものは疲れるので最初に見ても続かない。今回は三谷幸喜が本を書いているとのことで、ちょっと期待していたら、予想通り面白い。そういえば今回真田信繁(幸村)を演じているのは堺雅人で、この人を初めて見たのは同じく三谷幸喜がこの大河ドラマで脚本を書いた『新撰組』であった。

 『新撰組』はあまり評価が高くなかったけれど、私としては芹沢鴨を演じた佐藤浩市が良かったし、土方歳三を演じた山本耕史、そして山南敬助を演じた堺雅人を始め、配役がすばらしかった。残念だったのは、近藤勇を演じたSMAPの、図体がでかいだけのあの甘ったれ口調の大根役者(ファンの方、ごめんなさい。もともと好きでないのにこのところの騒ぎで大嫌いになったのだ)だけだ。

 もうひとつ、やはりNHKの水曜日だったかの時代劇ドラマ、『真田太平記』で、幸村役を演じていたのが草刈正雄で、今回は幸村の父親の昌幸役を演じているのが縁を感じてなんとなく嬉しい。この『真田太平記』で女忍者のお江を演じていたのが遙くらら、女忍者というのはなんとなく色っぽい。女忍者といえば、むかし土田早苗が栗塚旭主演の『風』という時代劇で女忍者に扮していたのを見て大好きになったし、『用心法日月抄』で嗅足組の女忍者に扮した黒木瞳も忘れがたい。『水戸黄門』の由美かおるはちょっと薹が立ちすぎているけれど(何しろ私と同い年のはずだ)。

 話が飛びすぎた。

同じくNHKBSのイギリスドラマ『刑事フォイル』
 これは以前にも取り上げた。もう20回を超えたので、もうすぐ終わってしまう。第二次世界大戦中のイギリスの話で、時代背景が丁寧に描かれていて、すばらしい。警視正フォイルの運転手のサムと呼ばれる女性が、美人ではないのだけれど、とてもチャーミングだ。これは再放送されたらもう一度みたい。続編も出るのではないかと期待している。

またまたNHKBSの、プレミアムドラマ『鴨川食堂』
 どなたかがブログで言及していた。確かにここに登場する萩原健一は絶品である。毎回最後のシーンでじーんとしてしまう。それぞれの人にそれぞれの人生があるのだなあ、としみじみと感じさせてくれるのだ。これは見ないと損だと断言できる良いドラマだ。

WOWOWドラマ『撃てない警官』
 豊川悦司が、現行犯逮捕が一度もない、まことに警察官らしくない警官を演じる。いくら何でもこんな軟弱で良いのか、というところをさんざん見せられるが、それがドラマの後半に効いてくるのだろう。いまはある警官が自殺した責任をかぶせられて、本庁から警察署に左遷させられている。見ていてじれったいが、実は彼の予断を排した、じっくりした行動が正当であることが、これから分かってくるだろう。それが楽しみ。

NHKBS『江戸川乱歩短編集』
 30分で江戸川乱歩の短編を一話完結でドラマ化している。うたい文句が、「ほぼ」原作に忠実に再現、というのが好い。今のところ、『D坂の殺人事件』『心理試験』『屋根裏の散歩者』の三作が放映された。事件の謎を解く(事件をそそのかす)、明智小五郎を、満島ひかりが演じている。意外に思われるかもしれないけれど、ドラマ自体がまことに意外なのだ。こんなミステリーなどあり得ない、というようなシリアスさを欠いたものなのだが、江戸川乱歩好きなら、多分これを最高に楽しめるだろう。「ほぼ」だからいいのだ!ちょっとくせのあるドラマ。第四回にあたる今週日曜に番組がないのが気になる。三回で終わりということはないだろう。満島ひかり、好い。お願い、続けて!

NHKBS『Jミステリーはここから始まる』
 これはドラマではないが、日本の傑作ミステリーを解析して、何倍にも楽しもう、という番組。前回、江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』を取り上げていた。もちろん、江戸川乱歩そのものを解析していくので、『怪人二十面相』シリーズや、その他の小説がたくさん網羅して語られていた。ミステリーをここまで深読みするか、と思うけれど、ここまで考えながら読んだら、さぞかしおもしろさも何倍かになるにちがいない。次回は横溝正史の『八つ墓村』だ。これも大好きなミステリーなので、楽しみ。

 『八つ墓村』といえば、映画の『八つ墓村』はこわかった。そういえばこれにも萩原健一が出ていた。こわかったのは小川真由美。岡山の、あの津山事件をベースにした物語だから、こわくないわけがないのだ。このときの金田一耕助を演じたのはだれあろう、渥美清である。

 きりがないのでここらでやめておく。

名古屋散策・上から見る

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テレビ塔に上る。

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テレビ塔の展望台は高さ90メートル。エレベーターは一分で上る。おばあさん二人が仲良く下界を見下ろしていた。

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南方向を見下ろす。歩いてきた久屋大通り。

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北方向。久屋大通りは向こう側で行き止まり。左方向へ目を転ずれば、

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名古屋城。

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西方向の名古屋駅の高層ビル群。

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はるかに名古屋港の方向を遠望する。名古屋港の橋が見える。

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展望台からもう一階上に上がれる。ガラスがないから冷たい強風が吹き付けて寒い。

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そこからオアシス21を見下ろす。残念ながら金網の枠が入ってしまった。歩き疲れたので名古屋駅に戻り、三省堂に寄って本を購入し、帰宅した。

これで名古屋散策はおしまい。

曽野綾子「流される美学」(2)(興陽館)

 曽野綾子が嫌いな人も多い。私が敬意を感じている論客(たとえば内田樹老師)もあきらかに毛嫌いしているのが哀しい。ただ、その人たちがリスペクトしている人を私が嫌いなこともある。好き嫌いはそうなった背景があるから、仕方のないことで、だれだって、その人のすべてが好きだったり嫌いだったりするわけではないのだが、嫌いになると良いところが見えにくくなることはある。

 引用を続ける。

 果たして人生には運というものがあるだろうか。こう言うと、答えは、あるかないかの、どちらかに決めねばならないようだが、私はそうは思わない。あるとも言えるし、ないとも言える。

 長い人生の間に、何か運が向くパターンのようなものがほの見えて、それを意識すると、なんとなく良いことが続いたりする。ところが、突然そのパターンは変わる。運というのもそんなものかもしれない。

 評判などというものは、よくしておこうとするからエネルギーがいるので、最初から悪くしておけば、こんな爽快なものもない。

 評判を意識する、というのは欲だろう。その欲を離れるとほんとうに楽になる。

 東京美術倶楽部の骨董市で、永楽の桜のお猪口を買った、と思ったら牡丹だという。色のかわいさがたまらない。
 もう何もいらない、捨てることだけが大切ということばかりを感じてはいるのだが、まだ生きているうちになにも買わなくなると、またあまりに偏頗な人生になりそうなので、時々こうしてでたらめをする。
 それに私は筋を通すことがあまり好きではない。
 
  人生にこだわりを持ちたい。しかしこだわりにこだわりすぎると生きるのが窮屈だ。ものを捨てて身の廻りをきれいにする、ということは、自分の始末の準備だが、多少の欲、色気のようなものは必要だ。それが生きている、ということなのだろう。

 この世のことは一筋縄ではいかないから、単純に正義を振り回すと、真実が見えなくなる。

 南京事件、慰安婦問題など、多くのことが正義か邪悪かという問題になり、真実とはかなりかけ離れたものに変貌してしまって、冷静に論じることができなくなっている。

2016年1月25日 (月)

減った!減った!

 このところ寝そびれてしまうことが多い。眠くないなら起きてなにかする、というのが私の不眠対策なのだが、たいてい二時か三時にはいつの間にか眠っている。しかし翌日は、朝からかかりつけの病院へ定期検診に行く日だ。下手に朝になってから寝たりすると寝過ごす恐れがある。といって、特効薬の寝酒を飲むわけにもいかない。空腹時血糖をはかるので、夜八時以降は、酒や食べものは控えなければならないからだ。

 ちょうど雪が降り始める前に眠り込んだのだろう。あっ、と飛び起きたら七時前、外を見たら雪で白くなっている。テレビでは、名古屋の朝七時の気温は-4℃と言っている。仕度をして病院へ行く。

 今日はレントゲンの撮影。咳が続いたので、精密に検査してもらっているのだ。前回との比較で見ても器質的な異常は見られない、ということである。一度治まっていた咳が正月再発していたが、それもこのところ完全に治まっている。とりあえず様子を見ましょうと言うことに。

 肝心の血糖値の検査は今回も良好。体重もリバウンドしていない(正月にリバウンドしたので、そのあと努力したのだ)。「前回の約束通り、薬をひとつ減らしましょう」と、美人の女医さんがにっこり笑って言った。
「このままなら、また時期を見て減らしましょう」。頑張りたくなるではないか。正直に嬉しい。

 血液検査が出てから診察なので、いつものように昼過ぎまでかかると思っていたが、今日はあまりに寒いせいか、患者が少ない。だからいろいろなことがスムーズに進んで、昼頃には自宅に帰ることができた。

 さあ、今晩はこの検査のために控えていた天ぷらでも作ろう。とても食べたかったのだ。しばらくは食べたいものを食べることにする。酒も飲むぞ!(いつも飲んでるけど三日ほど我慢していたのだ)。

 体重は、いちばん馬力があった三十代の頃にもう少し(あと3~4キロ)。今年中にゆっくりとそれをめざすつもりだ。

 ところで病院から帰る道々、前をおぼつかなげに歩いている初老の女性がいた。その後ろから歩くのだが、なかなかその女性との距離が縮まらないことに愕然とした。あきらかに私の歩幅のほうが大きいのであるから、すぐに追いつき、追い越すはずなのだ。

 自分では若いときのように早足で歩いているつもりが・・・多分はたから見れば、ゆったりと歩いて見えるのだろう。息を切らしてさらに早足でその女性を追い越した。
 
  なんたることだ。

名古屋散策・オアシス21

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オアシス21とはなんだ?と問われれば、モニュメント、と知ったようなことばを口にするしかない。どういういきさつでこれが作られたのか知らないからだ(調べれば分かるが、面倒くさい)。

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とにかく上へ上がってみよう。エレベーターと階段がある。

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あがってみるとこんな景色。オアシス、というくらいだから、水がある。

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目の前にテレビ等が見える。ぐるりを散策できる。寒いせいか人がほとんどいない。

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全景。小さく見えるが、結構大きいのだ。

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のぞきこむと水を透かして下が見える。

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エレベーターの案内板。ハングルもこんな風にすべて表音文字なのだ。意味が文字から入ってこないので、読みにくい。はんれいとはなんだ?凡例がすぐ出てこない。一度漢字に置き換えて理解しなければならない。

このオアシス21の地階はバスターミナルになっている。
このあとテレビ塔の展望台に行ったので、そこから見たオアシス21がどう見えるのか掲載する。

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けっこう見栄えのするモノでしょう?(つづく)

曽野綾子「流される美学」(1)(興陽館)

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 曽野綾子が好きである。本人を直接知っているわけではないから、書いたものを通して好きであることはもちろんである。持っている彼女の本も五〇冊を超えているだろう。しかし小説はほとんどなくて、エッセイばかりだ。若いころ彼女の小説を読んだ覚えがあるから、多分それらは処分したのだろう。

 あるはずだと思って探しても出てこないことはしばしばある。しかし、ないと思っていた本が突然出てくることは、私の場合、まずない。だからむかし読んだ彼女の小説本は、多分現在手元にないはずだ。

 今回読んだ「流される美学」は、彼女の小説やエッセイの中から、警句のような部分を抜き出して集めたものだ。最近こんな形のものがしばしば出版される。それぞれ書かれたエッセンスを抜き出しているのだが、実は前後も大事であって、エッセンスだけで好いのなら、そもそも元の文章には意味がないことになってしまう。

 さいわい以前に一度全体に目を通していることが多いので、エッセンスだけでその意味が分かる。その中から、私なりに好いと思ったものを取り上げてみようと思う。エッセンスのそのまた自分好みのエッセンスだ。ただしそれぞれに表題がついていたけれど、内容とかぶってわずらわしいので省いた。

 人は自分の弱みや卑怯さを知った時、人間の悲しみというものに気づいて、共通の運命に対する優しさも出てくるんでしょう。私は、部分的には外界に折れていいと思っています。私たち凡人には、それ以外に生きていく方法はないですから。ただ、自分が折れたとか、ごまかしたとか、逃げたという確認をして、一生それに負い目を感じて悲しんでいこう、という気持ちでいます。「私にはできませんでした。すみません」と思うことが誠実でしょうから。そしてまたいつの日か、それを補うことができる機会があれば、ささやかな勇気を持って、美学に殉じるほうに少しでも近づいていけばいいんです。

 学生時代、親しくしていた友人と絶交した。相手が悪いのだ、と自分で思い込もうとしたけれど、実は自分が卑怯で、逃げた、ということに内心では気がついていた。そのことが一生の自分の負い目になっている。そのあとも、そんな悔いの残ることがいくつかあった。ようやくいい格好をしないで生きられるようになったと思ったら、もう中期老人になっていた。

 すべての人が、自分の生まれ合わせた同時代の、それも数年間か数十年間、お役に立って死ねばいいのである。組織も人も、いつかは消えて当然だろう。

 私はものの考え方は不純がいいと思っている。むしろ小さなことでは不純を許す方がいいと思う。人間には、自分を疚しく思う部分が必要だ。自分は正しいことしかしてこなかった、と思うような人間になったら、それは眼が昏くなっている証拠だし、周りの者も迷惑する。

 私が、朝日新聞(マスコミを代表して)や日教組的な正義の味方がうさんくさくて嫌いな所以である。今嫌いなのは民主党の蓮舫という女性と岡田党首である。

2016年1月24日 (日)

大盤振る舞い

 中国の習近平主席がサウジアラビア、エジプト、イラン、イラクなどを歴訪して日本円で4兆円を超える融資や援助を約束、中国が原子力発電所建設やインフラ整備を積極的に行うようだ。

 各国がそれを歓迎しているところを見ると、自分の国と中国では、自分の国にあきらかに得なのであろう。ということは当然短期的に見れば中国にとっては持ち出しということになる。気前の良いことである。

 もちろんAIIBの展開や、アジアと欧州を陸と海からつなぐという「一帯一路構想」の推進を睨んでいるのだろう。

 ところで、中国からの資本流出が昨年一年間だけで、79兆円に上ると報じられた。景気減速や証券市場の混乱を嫌気して、中国からこれだけの資金が引き揚げられた。中国政府はこれを受けて、個人の海外への持ち出し外貨を年間5万ドル以下に制限することになった。また、海外のATMで引き出せる金額の規制をするという。

 中国の外貨準備高は3兆3000億ドルという、とてつもない巨額だ。しかしこの外貨準備高が、激減しつつあることは以前にもここで取り上げた。まだまだ残っているはずなのだが、実際にはほんとうにそれだけ残っているのか、疑わしいところもある。

 そんな中で、習近平主席はアメリカに行けばアメリカで、ヨーロッパに行けばヨーロッパで、アフリカで、インドネシアで、そして今度は中東で大盤振る舞いをしている。打ち出の小槌でもあるなら別だが、持ち出せば減るだけだ。

 いったい習近平の約束した金額の合計はいかほどであろうか。

 習近平は甚だしい経済音痴だと噂されている。どんぶり勘定なのである。ほんとうはナンバー2であり、首相である李克強が経済通で、二人セットなら良いのだが、習近平は胡錦濤派の李克強の権限を奪ってしまい、李克強は自分が進めたい経済政策を全く実行に移せないでいる。

 今中国が経済立て直しをするなら、国有企業の徹底的な手入れが必要なのだが、習近平は、自分の権力基盤としてそこには手をつけないどころか、以前より庇護する方に動いている。このことは中国の将来に大きな禍根を残すことになるだろう。

参考図書
近藤大介「中国経済『1100兆円』の衝撃」(講談社+α文庫)

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名古屋散策・久屋大通り

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名古屋の久屋大通りは、あの雪祭りが行われる札幌の大通公園とよく似ている。名古屋の中心の繁華街、栄(さかえ)もこの場所にある。


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東西に走る若宮通り(百メートル道路)と交差して久屋大通りは南北に通じている。若宮通り川がいちばん南端にあたる。その南端から北側をのぞむ。

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大通りの公園は土日などはいろいろな催し物があるけれど、ふだんはこのように広々としている。札幌の大通りとよく似ているのは、似たようなテレビ塔があることだ。

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このような彫刻がいくつか見られる。丁寧にみても面白い。

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普通にベンチに腰掛けている。以前、もっとリアルなものがあって、ぼんやり見ていたら本物と間違えてびっくりしたことがある。

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「春」というこの彫刻はちょっとエロチックだ。多分それを連想させることも意図しているはずだと思うのは、私の妄想か。

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噴水を撮っているおねえさんを撮った。

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北へ歩きつづけると、テレビ塔が近くなった。駅から東へ延びる広小路通りとの交差点近くにて。

つぎの錦通りとの交差点近くにオアシス21があるはずだ。実はオアシス21はテレビなどでよく見るのだが、実際に見るのは今回が初めて。

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おお、これがオアシス21か!詳細は次回。

宇江佐真理「糸車」(集英社文庫)

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 女流の時代小説作家の作品は優れたものが多い。私が「優れた」、というのは、面白い、ということである。そのおもしろさは、情景描写、季節感、登場人物の心の動きが、観念的ではなく、読んでいるこちらに、主観的に感じられるところにある。

 ときに汗や女の匂いが直接感じられて、どきりとする。これは女性の感性のわざによるものだろう。

 宇江佐真理は、昨年惜しくも亡くなってしまった。歳は私のひとつ上、66才、乳がんであった。この新刊の文庫本の帯に、「追悼 宇江佐真理さん」とあるのだもの、買わずにはおれないではないか。宇江佐真理の本は、「髪結い伊左次捕り物余話」のシリーズの初期のものなど何冊か読んだが、全体のほんの一部である。これからときどき追加して読んでみたい。

 今回読んだ「糸車」は、松前藩の家老の元妻で、夫が藩の江戸屋敷で不慮の死を遂げ、同時に行方不明になった息子を探すために、単身で江戸に出て、小間物の行商をしているという、三六才のお絹という女性が主人公である。

 自分の人生に悲観的になることなく、それなりの人付き合いもしながら、日々の暮らしを一生懸命生きている。人の難儀にも手をさしのべ、関わりを拡げていく姿に、しずかだけれど、勁い女を感じる。まことに「悲観は気分であり、楽観は意志である」。

 ときどきふるさとの松前を思う。松前と江戸をくらべることで、いっそう江戸の情景が鮮やかに浮かび上がる。ラストのお絹が糸車を廻す情景を想像したら、涙がにじんでしまった。だれも見ていないから良いが、ちょっと恥ずかしい。私は涙もろいのだ。

 しみじみとした好い時代小説だ。

2016年1月23日 (土)

名古屋散策・大須界隈(2)から百メートル道路へ

名古屋大須観音から東へ、そして北へ歩く。


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中央の背の高いビルがアメ横第二ビル。一階と二階が電気店街で、電機部品のジャンクショップもたくさんある。このビルの前の赤門通りをさらにすすむ。

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赤門通りと交差する大須新天地通り。昔はここがいちばんにぎやかな通りだったのだが、閑散としている。

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新天地通りに面して万松寺という寺がある。ここはむかし織田信長の父親の葬儀が営まれたところで、織田家の菩提寺。当時は広大な寺域を持った寺だが、今は見る影もない。工事中であった。寺そのものが取り壊されている。

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横から見た万松寺のビル。なんだかなあ。

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万松寺のすぐ近く、新天地通りに面して第一アメ横ビルがある。昔はパソコン屋ばかりだったが、今は見る影もない。

再度赤門通りへ戻り、大須通りから北へ進み、百メートル道路へ向かう。

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これが通称百メートル道路と呼ばれる若宮大通り。若いときは、早足で信号を一回で渡りきったけれど、今は走らないと一回では渡りきれない。

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若宮通りの広い中央分離帯。今は人がいないが、土日は若い人がダンスを踊ったり、スケボーの練習などをしてにぎやかだ。左手の時計台の向こう奥に、味仙の黄色い看板が見える。辛いラーメンで有名なところだ。大汗をかく。

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若宮通り沿いの正秀寺(せいしゅうじ)に初めて立ち寄る。

織田信長の養育係の平手正秀のために信長が建てた寺である。平手正秀は、信長が奇行を繰り返していたのを諫め続け、ついには諫死した。信長は内外に敵を抱えていたので、うつけを装っていたのだが、最も自分を愛してくれた平手正秀にもそれを明かしていなかったのだ。さすがの信長もこの諫死には涙したことであろう。

若宮大通りを渡ればそこは大津通りだが、一本筋を東に替えて、久屋大通りへ行く。ここから北上すればオアシス21やテレビ塔がある。(つづく)

名古屋散策・大須界隈(1)

前回も書いたけれど、大須界隈はむかしよく歩いた。


大須観音が浅草に似ていること、それと大須界隈が秋葉原に似ていることがこの辺りの魅力だった。大須にはアメ横があるのだ。といっても、第一アメ横ビル、第二アメ横ビル、と秋葉原を意識した電気屋の集合ビルがあって、そこの周辺に中小の電気店が蝟集している。

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大須にはこのようなアーケード街がいくつもある。この大須観音通りは大須観音から一番近い。

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大須観音から鐘楼越しに見える、大須仁王門通りの壁絵。
今回はこちらを行く。

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大須仁王門通り。まだ人通りは少ない。

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「大須ういろ」の本店もこの通りにある。昔は確か大須観音の参道脇にあったはずだが、今はコンビニになった。

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こういう店をみると、浅草の仲店や上野のアメ横を思わせる。

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大須本通りを横切って東仁王門通りへ。

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筋を一本替えて、大須万松寺通りを行く。

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途中から横道へ入ると大須演芸場がある。昔はぼろぼろの演芸場だったが、こぎれいになった。その代わり風情もなくなり、小さくなったように見える。

ここから万松寺方面に戻る。(つづく)

山東民話集から、「宝の山」

 むかし、あるところに星星山(せいせいざん)という山があった。年寄りたちの言い伝えによると、この山には宝物があるという。

 この星星山の麓に一人の百姓がいた。百姓は一畝(1ムー:約6.67アール)ほどの瓜を作っていたが、あおあおとしたその畑には、一面にマクワ瓜や西瓜がごろごろしていた。

 或日、一人のアメリカ人宣教師が西瓜畑のわきを通りかかって、一本の蔓にきわだってあおい、手のひらほどの瓜がなっているのに眼をとめた。宣教師は、長いひげ蔓のついたその瓜を、子細に眺め回してから、瓜を作っている百姓にたのんだ。
「この瓜をもがないでとっておいてくれ。熟れたころになったら、私が取りに来る。代金はおまえの欲しいだけあげることにしよう」

 宣教師が立ち去ったあと、百姓は、この瓜をどうするつもりか見とどけてやろう、と考え、瓜を残しておくことにした。

 秋になると、ほかの瓜は葉が黄色になり、蔓も枯れた。ところが、あの瓜だけは葉も蔓もあおあおとしていて、しかも実が熟れているのであった。
 
 やがて、宣教師がやって来た。瓜を見るととても喜んで、百姓に言った。
「実を言うと、この瓜は山を開くかぎなのだ。山を開くときにこの瓜を持っていてくれたら、手に入れた宝物は山分けにしよう。瓜を地面に落とさないように、くれぐれも気をつけてくれ」
 百姓は、
「承知しました」
 と答えた。

 宣教師は、その瓜を根ごと引き抜き、手に持って山裾の方へと歩いて行った。崖の下へ行き、山に向かって合図すると、ガラガラという音がして山が開いた。

 中には、金の石臼や金の牛があり、金のかたまりに埋もれていた。宣教師は、瓜を百姓の手に持たせると、そこへ飛び込んでいった。

 その瓜を作っていた百姓は、なかなか根性のある男であった。
「アメリカのやつらにわしら中国の宝物を渡してなるものか。こっちの分け前なんぞ欲しくもない。あいつを出られないようにしてやれ」

 そう考えると、百姓は手に持たされていた瓜を地面にたたきつけた。すると、山はたちまちふさがって、宣教師も閉じこめられてしまった。

 それっきり、この山は二度と開くことはなかった。


 山東民話集の話で短いものはこれだけ。その他はずっと長いので、紹介するのはこれまでとする。

2016年1月22日 (金)

乱れまなこの勝手読み(28)

 ベトナム・ハノイのホエンキエム湖に棲む、伝説の巨大亀が死んだ。

 淡水に棲む亀では世界最大で、世界に四匹しかいないうちの一匹である。残りの三匹のうち、二匹は中国にいる。その二匹は中国に持ち去られたものである。だから繁殖はかなわず、それぞれの亀が死ねば自動的に絶滅する。

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 写真のように、亀というよりスッポンの化け物である。写真はホエンキエム湖のほとりに、剥製で陳列されていたもので、本物である。死んだ亀は一度治療のために引き揚げられ、2011年に湖に戻されたものだが、そのときの身体測定では、体重169キログラム、体長185センチであった。

 神聖な亀が死んだことで、世のなかに悪いことがあるのではないか、といわれているが、悪いことだらけの世の中を悲観して生きる気力を失ったのではないか。それになかまを失って慰め合う相手もいなくなっていたし。

 甘利大臣が収賄容疑で窮地に立たされている。TPPの日本の代表として奮闘してきたことを思えば、なんとか切り抜けて欲しいような気がする。

 こういう場合はなかなか真相は明らかにならないことが多い。しかし、スクープした週刊文春によれば、証拠となる書類だけではなく、問題の贈収賄の現場での会話の完全な録音が残されているのだという。それなら逃れられないであろう。

 だが、普通贈賄側も罪に問われる行為である。それを、そこまで完全に記録を残し、録音までするというのはどう考えてもおかしい。意図的な何かがあったと思うけれどもそのような報道をしたメディアを見聞きしない。

 意図があるとすれば、TPPを妨害したい組織、安倍政権を損ないたいグループなどがたちまち想像される。それは日本ばかりではない、韓国や中国ならなによりそうしたいだろう。公安はその辺を内偵すべきであろう。目先の正義よりも、国益を考える動きがあっても良いのではないか。

 それにしても甘利さんともあろう人が、つまらないことにひっかけられたものだ。浮かれて喚いている民主党以下のあまり賢そうに見えない議員の顔を見ていると、情けなくなってくる。こんな連中はひっかける値打ちもないのだろうなあ。

名古屋散策・大須観音

Dsc_7741 大須観音

三十代、四十代には、大須界隈をほとんど毎月のように歩いた。東京の浅草(だいぶ小型だが)に似て、なんとなく好きなのである。それなのに、五十を過ぎてから忙しくなったし、そのあと金沢へ単身赴任したので、ほとんど行かなくなっていた。六十を過ぎてリタイアして、時間が出来たのに、正月に大須観音に立ち寄るくらいで、やはりほとんど行かなかった。

ずいぶん久しぶりに大須観音から大須界隈を歩いてみようと思い立った。その足でオアシス21を見、テレビ塔に登ってみよう。
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大須観音を横から見る。
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境内の日陰部分にはまだ雪が消え残っている。
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境内横にある、人形供養塔。
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こんな看板があるところを見ると、ここに人形を置く人がいるのだろう。
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大正琴発祥の地の記念碑。名古屋は大正琴の発祥の地なのだ。しかし、大正琴のことなど知っている人は今はもういないだろうなあ。私が子供の時にちょっとしたブームの再来があり、母が懐かしがって借りてきて弾いてくれた。簡単なので私も教えてもらった。メロディーくらいならすぐ弾けるようになる。
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御大師さまの石像。
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芭蕉の句碑。「いざさらば 雪みにころぶ所まで」
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境内には鳩がたくさんいる。鳩に別れを告げて大須のアーケード街へ行く。  (つづく)

山東民話集から、「貧乏神」

 うちの年寄りから聞いた話だが、むかし、こんなことがあったそうだ。

 あるところに、じいさんとばあさんが暮らしていたが、二人とも年をとって、仕事をしようにも体がきかなくなってしまった。それまでは、少しばかりの畑を借りて作っていた。しかし、種まきもやれない、採り入れも出来ない、年貢も払えないというわけで、それも人に取り上げられてしまった。

 致し方なく、二人は、たいへんな苦労をしながら、豆腐を作って売った。どうやらこうやら、飢え死にだけはしないといったところであった。

 大晦日が来て、真夜中になると、どこの家でも福の神を迎えに行く。じいさんは腹立ちまぎれに言った。
「わしは生まれてこの方、ずっと福の神を迎えてきたのに、この貧乏暮らしだ。今年は、福の神ではなくて貧乏神を迎えるとしよう」

 年寄り夫婦は、それから提灯をつけて出かけた。通りへ行って紙を焼いていたら、遠くの方から誰かやってくるのが見えた。近くへ来てみると、それはぼろぼろの着物を着た乞食であった。

 ばあさんは、愚痴をこぼして言った。
「あんなことを言うからですよ。ほんとに貧乏神が来てしまったじゃありませんか」
 じいさんは、かっとなって言った。
「好いとも、わしはあの男を迎えるとしよう」
 そして、乞食に近寄っていって声をかけた。
「そこな貧乏神さま、どこへ行きなさる。うちへ来て年越しをしなされ」

 その乞食は、どことて行くあてもなかったから、じいさんのあとについてやって来た。

 家へ来てからは、二人とも乞食を他人あつかいしないで、あまったおからや豆の皮を、三人で一緒に食った。

 乞食もひもじい思いをしなくなると、元気が出て来たようであった。豆腐づくりの暇を見ては、山へ行って草を刈ったり、人の使い走りをしたりして、少しずつ金を稼いだ。

 無駄遣いもしなかったから、金が貯まって、畑を買うことが出来た。三人の暮らし向きは、日一日と良くなっていった。しまいには、食うものや着るものにも困らなくなった。

 隣近所の人々は、口々に言った。
「あそこでは、ほんとうに福の神を迎えたものだ」

2016年1月21日 (木)

北朝鮮畏るべし

 北朝鮮発行の英字新聞「平壌タイムス」が、二日酔いにならないお酒を開発した、と報じた。

 四月一日ではないし、まさかあの正直一途の北朝鮮が嘘などつくはずもない。それならアルコールの入っていないお酒ではあるまいか。

 しかし記事では、アルコール度数が30~40%というから、けっこうまともな蒸留酒と思われる(醸造酒ではそんなに度数の高いものは作れない)。

 「砂糖の代わりに焦げた餅米を配合したところ、二日酔いをしないこの酒が誕生した」ということだ。カクテルでなければ、普通酒には砂糖は入れないだろうと思うが、私が無知なのかもしれない。

 しかしこんな貴重なノウハウを公開してかまわないのだろうか。太っ腹なことである。

 もしかしてこういうことだろうかと思う。

 そもそも北朝鮮で造られる酒は粗悪酒ばかりで、そのためにすさまじい二日酔いになるのだろう。ところが、今回開発した酒はまともな酒だから、普通の北朝鮮の酒よりもずっと二日酔いをしないのではないか。

 それでも飲み過ぎれば二日酔いになるだろう。記事では「本当に二日酔いがないかどうかは証明する方法はない」と逃げている。

 そんなもの、飲めば分かるぞ!

乱れまなこの勝手読み(27)

 CoCo壱番屋の廃棄委託品が、横流しされて流通していたことがニュースになっている。ぼんやりと見聞きしていると、CoCo壱番屋が事件の首謀者で、悪者であるように名前が連呼されている。横流しを承知で委託していたとでもいうなら別だけれど、どうもそういうことはないようである。

 名前を繰り返し報じられ、しかも悪い点が一切なければ、ある意味で宣伝効果があるともいえるが、私からはCoCo壱番屋は被害者としての扱いを受けていないように見える。マスコミに配慮が欠けているのはむかしからだけれど、それは相手の立場に立って考えるというような、想像力を持っていないせいか(分かっているけれどそんなヤワなこころでは報道など出来ない、と記者が育てられているからだろうか)。これでは宣伝よりも風評被害のほうが大きいのではないだろうか。客の入りはどうなのだろう。

 原油価格が1バレル26ドルを切るほどまで下落した。しかしこの26ドルというのは、本来100ドルが正当な価格なのに暴落した価格なのか、それとも本来26ドルのものが、100ドルに暴騰していたもので、それが元の値段に戻っただけなのか。

 中国の製造業の生産減で原油の需要が減退したことや、イランの原油生産再参加、シェールオイルなどが価格下落に影響していることが価格下落の原因だというのは分かる。しかし、だからといって、特別の希少品でも無いものが、こんな短期間の間に四倍も価格が変わるというのはおかしいではないか。

 50年以上前に、石油は枯渇する、と学校で教わり、それはずっと言われ続けてきたけれど、原油の可採量はつねにあと40~50年といわれ続けている。もちろん限りのあるものだから、いつかは枯渇するだろうけれど、それは今ではないようだ。

 多分原油価格は20~30ドルというのが、コストからはじき出される正当な値段なのだろう。もうみんな気づいてしまった。原油価格の下落によって株価が暴落しているのは、それでしこたまかせいでいた誰かが、世界の金融を膨らませて動かす原動力だったからかもしれない。こちらも膨らみすぎていただけで、元に戻るだけなのだろう。株価が上がろうと下がろうと、私には直接関係ない。

 株が下がっているのに、円は上がっている。今まで日本は、その暴騰、膨張の恩恵を受けていなかった、ということの表れであろうか。それだけ真っ当なのだろう。

 東日本大震災の復旧道路工事の受注で、談合が行われていたという。そのために工事費が水増しされ、復旧予算を食い物にしていたというのなら、断罪されて然るべきであろう。

 しかし、談合そのものにはやむを得ざる面もあったのではないか、と思ったりもする。あのような緊急事態では、迅速を優先しなければならない。大型工事でしかも急ぎであれば、それに段取りよく対応するために、ときには談合がやむを得ざることもあったであろう。きれい事ではものが進まないことも世のなかにはあるのだ。正義の旗だけでかれらを断罪する気になれない。

 しかし、災害を「恩恵」や「チャンス」とほくそ笑んだことについて、彼らは処罰されるだろう。

山東民話集から、「狼」

 朝からこんな残酷な話で申し訳ない。

 むかし、平度(ピントー)県のあたりにこんな話が伝わっていた。

 ある山あいに一人のじいさんが住んでいた。その頃は人家も少なく、あっちに一軒、こっちに一軒といった具合で、今のような村はまだなかった。
 狼ばかりはやたらに多かったが、じいさんの家ではみな死んでしまい、じいさんのほかにはだれもいなかった。 

 それなのに、じいさんのところはひどくにぎやかであった。犬、羊、猫、兎を一匹ずつ、それに鶏とアヒルを二羽ずつ、これをじいさんが飼っていたからだ。
 餌を奪い合うときになると、鶏が鳴き、犬が吠え、羊がメーメーというわけで、その騒ぎは遠くの方まで聞こえるのであった。

 或日のこと、じいさんは山へたきぎを取りに行って、岩の割れ目に落ちていた小さな狼をひきずり出し、そのまま家へ連れて帰った。

「生き物をあやめると、とがめがある」と信じているじいさんは、狼を縄でつなぎ、首に小さな鈴をつけてやった。そして朝から晩まで、
「青や、青や」
 と呼んで、とてもかわいがった。毎日、餌を食べさせてやり、ときには市場の帰りに肉を一切れ手に入れて与えたりもした。

 そうこうしているうちに、狼は次第に大きくなり、牙も伸びはじめてきた。
 あるとき、じいさんが、いつものように市場の帰りに肉を手に入れて、食べさせてやった。すると、狼は、その肉を食っただけでは足りなくて、がぶりとじいさんの手に噛みつき、血を流させてしまった。

「わしは、おまえの身体を育てはしたが、おまえの心を育ててやれなかった。おまえを話してやるから、これからは自分で食い物を探すんだ」
 じいさんは、そう言い聞かせると、さっそく狼を放してやった。

 その二日後に、じいさんはまた市場へ行って、帰るのが夜になった。
 家まではまだ三町ほどもあるあたりで、鈴の音がするのを聞いた。川縁から一匹の狼が躍り出たので、はっとして見ると、それはじいさんが飼っていた狼であった。

「青じゃないか」
 じいさんはそう叫んだが、狼はそのじいさんの体めがけて飛びかかった。だいぶ年のいったじいさんには、それを防ぎ止めるだけの力はなかった。

 狼は二度三度と飛びかかって、じいさんを押し倒した。そして爪でその腹をかき裂き、肝とはらわたを食ってしまった。

2016年1月20日 (水)

山東民話集から、「人を食う蚊」

 むかし、山の中の大きな洞穴に、一匹の大きな蚊が住み着いていた。
 その蚊は、口先が一尺五寸もあり、体中に長い毛が生えていた。その上、大きな羽が二枚、小さな羽根が二枚あって、歩くのも飛ぶのも思いのままであった。

 夏になると、毎晩必ずどこか一軒の家の者を食い尽くしてしまう。みんなは何とかしてこんな災難をなくしたいと知恵を絞ったが、自分から進んで蚊に近寄ろうとする者はいなかった。遠くから矢を射かけることだけは出来たが、矢が当たっても平気であった。

 こうして、こっちの村もあっちの村も、次々に食い尽くされていった。

 ある夜、蚊はまた新しい部落を襲って、一軒の家の者を食い尽くした。そのつぎの夜、ちょうどその部落で火事になった家があった。火の勢いが凄かったので、煙がもうもうとたちこめ、人々はみな火を消しに駆けつけた。

 そこへ大きな蚊が飛んできたが、ブーンとうなり声を上げて、素早く飛び去ってしまった。みんなは、どうして蚊が部落に入ろうとしなかったのか、と議論した。ひとりの年寄りがこう言った。
「きっと、蚊は部落から立ち上る煙にむせたにちがいない」
「そうかも知れない。では、明日の晩試してみよう」
 ということになった。

 明くる日の夜、みんなは、乾いたたきぎと湿ったたきぎ、乾いた草と湿った草を集め、部落の中央にある脱穀場に積み上げた。日が暮れてからそれに火をつけると、煙は高く上がって、やってきた蚊は部落へ入ろうともしないで、向きを変えて飛び去った。 

 この話はあっという間に広まり、あたりの部落では、どこでもそのやり方をおぼえて、夜になると火をたいて煙を上がらせることにした。蚊はそれっきり部落へ来て人を喰おうとはしなくなった。

 何日かたってから、部落ではまた相談が持ち上がった。
「こんなことばかりしていても、らちがあかないし、たきぎがもったいない。何とかして、焼き殺すか、いぶし殺すかできないものか」
 すると、またあの年寄りが言った。
「脱穀場にぐるりとたきぎを積み上げ、まん中に紙の人形をくくりつけておく。わしらは火縄をともして持っていて、蚊がこの囲みの中に入ったら、いっせいに火をつけるのだ」

 蚊は、もう五日も六日も人の血にありついていなかったから、腹を空かしきっていた。辺りが暗くなるのを待ちかねて、空高く飛び上がると、この部落で火をたいていないのが眼にとまった。

 部落の上へ来てブンブン飛び回ってみたが、みんなは姿を隠してしまい、人っ子ひとり見当たらない。そのうちに、脱穀場にくくりつけられた紙の人形をみつけて、すぐさま襲いかかった。

 着物をはぎ取って血を吸おうとしたとき、四方からいっせいに煙が立ち上った。その煙にいぶされて蚊は倒れてしまった。

 銅鑼が打ち鳴らされ、人々は、年寄りも子どもも、それぞれたきぎを抱えていって、脱穀場に放り投げた。折からの強い風にあおられて、火はパチパチと燃え上がり、大きな蚊はひとたまりもなく焼き殺された。

 あくる日になると、あちこちの村から、この大きな蚊をながめに来た。その夜、この大きな蚊の身体に、そっくりの形をした小さな蚊が何匹か止まっていた。

 あの年寄りは、
「この小さな蚊もたきぎで焼き殺して、一気に根絶やしにしなければだめだ」
 と言った。

 ところが何人かの人が、
「なにも焼き殺すことはあるまい。こんなに小さな蚊が人を食うものか」
 と言った。

 みんなも小さな蚊だからと高をくくって、焼き殺す手間を怠った。そんなわけで、蚊は現在までも生き残り、夏になると現れて人をさし、煙にいぶされるのを嫌うのである。

ウソだと分かっている

 昨年の中国のGDPの伸び率が6.9%だった、と中国政府が発表した。目標の7%に届かなかったことで、世界の株が下がっているようだ。しかし、一国のGDPの伸び率が、たった0.1%予測を下回っただけで、なぜこんな騒ぎになるのか。他の国ならこれが1%違ったところでこんな騒ぎにはならないだろう。

 この6.9%という数字がウソであることなど、だれもが分かっているのだ。6.9%という数字は、7%という目標だったけれど、それに届かなかったというだけの意味で、実際の数字は5%なのか、3%なのか、はたまたマイナスなのか、どれかであってどれでもないかもしれないという数字だ。

 中国は外的要因で明確な理由がある時以外は、目標を達しなければ誰かが責任を取らされる国家である。しかし、目標に0.1%足らない程度なら、ギリギリだれも責任を取らないですませられるのかもしれない。それだけのことである。

 昨年、香港の書店や出版社の経営者や責任者が、5人も相次いで失踪した。それらの会社は中国政府に批判的な出版物を販売したり作成していた。習近平の進める言論統制の網に引っかかったのではないか、と噂されていたが、中国政府は沈黙を守ってきた。

 しかし、ここへ来て、次第にこの失踪した5人が中国本土にいること、中国当局に拘束されていることが、明らかになってきた。

 香港はイギリスから返還されるときに、中国とイギリスの間で、将来50年間(2047年まで)一国二制度を維持することが約束されている。それまでは社会主義を香港に強制しないことが明記されているのだ。

 それが次第に有名無実化していることは、香港の学生運動などを通じて世界中が知っている。

 そんな香港で、出版や書籍に統制が及ぼうとしていることは、民主主義を標榜する世界の国々、特にイギリスにとって、由々しきことであろう。しかしイギリスがAIIBに嬉々として加わり、中国に少しも異を唱えようとしているように見えないのはどうしたことだろうか。

 中国はそんな国であり、そういうことを平気でする国である。特に習近平になってから、それが露骨になってきている。そんな時には、その中国に対し、非は非として異を唱えなければ、その国の尊厳にかかわる。イギリスのキャメロン首相は、ヒットラーに妥協を続けたチェンバレンの轍を踏んでいる。

山東民話集から、「銀貨」

 いま山東民話集を読み始めている。短くて分かりやすいものを紹介しよう。

 こんな大尽がいたそうだ。明けても暮れても頭の中は金儲けのことばかり、なんとか旨い汁を吸おうと鵜の目鷹の目であった。いつとはなしにだれも近寄ろうとはしなくなっていた。

 張(チャン)という小作人を雇って、畑仕事をしてもらっていた。しかし取り入れがすむと、とれた穀物はそっくり自分の手元におき、小作人には秕(しいな:皮ばかりでよく実っていない穀物)や古いものしかやらなかった。その穀物を銀貨にかえ、大事にしまい込んでいた。銀貨は貯まる一方であった。

 ある晩のこと、大尽は、その銀貨が泥棒に盗まれた夢を見て、それからは、いつも銀貨を身につけておくことにした。びっくりして大汗をかいた。

 ある年の夏、長いこと雨が降り続いた。村の東にある大きな川から水があふれ、いまにも家が押し流されそうになった。

 小作人の張さんは、部屋に目ぼしいものがなく、高粱(コウリャン)の粉で作った堅パンが二つあるだけであった。張さんは、それを持って大きな木によじ登った。

 ところが慌てふためいた地主は、あれも惜しい、これも惜しいと目移りがして、あげくに銀貨だけを身につけて木にのぼった。

 雨はなかなか止まず、とうとう家も押し流されてしまった。どっちを向いても、見わたすかぎり一面の水であった。一日たっても、水は引くどころではなかった。

 小作人の張さんは、木の上で高粱の堅パンをかじった。地主は、銀貨を取り出して、キラキラ光るのを眺めると、また袋にしまった。

 そうこうしているうちに、張さんの食っている堅パンが、ほんの小さなかけらを残すだけになった。

 地主は、もうひもじくてたまらなくなった。そこで張さんに、
「その堅パンをわしの銀貨と取り替えてやろうか」と言った。

 張さんは、
「銀貨と取り替えれば堅パンがなくなってしまう。堅パンがなくなれば、飢え死にするかもしれない」
 と考え、地主に言った。

「銀貨は食えないから、取り替えないよ」
 
 地主はどうしようもなく、手に銀貨を握ったまま飢え死にしてしまった。

*堅パン:原文では餅子(ピンツ)、小麦粉をこねて円盤状にして焼いたもの。その他、トウモロコシ、あわ、豆類などの雑穀の粉で作ったものも含まれる。

**銀貨:原文では元宝(ユアンパオ)。馬蹄形をした銀塊。決まった形や重さではなく、その重量で価値をきめる。中国では公的な銀貨はなかった。

2016年1月19日 (火)

アーナルデュル・イングリダソン「声」(東京創元社)

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 「湿地」「緑衣の女」に続いて、刑事エーレンデュルシリーズの第三作の「声」を読了した。北欧ミステリーの重厚な読み心地を満喫した。

 著者のアーナルデュルは、なぞ解きよりは被害者や容疑者たちの過去の描写に重点を置いているので、話の進展は重々しく、ゆっくりしている。直接事件に関係のないことでも丁寧に描くので、気の短い人には向いていないかもしれない。とはいえ、かくいう私も気が短い。それなのにじっくりと彼の小説が読めるのは、そこにリアルな人間が読み取れるからだろう。

 舞台となるのはアイスランドの首都レイキャビク。アイスランドは北海道よりひとまわり大きな国土に、三十数万人の人口という小さな国だ。そして人口あたりの殺人事件の数は他の国にくらべてずっと少ない。

 だからアイスランドのミステリーというのはほとんどなく、いままでは翻訳されたイギリスのミステリーが読まれてきたそうだ。しかし著者の出現により、アイスランドミステリーは世界的に名を知られることになった。

 クリスマスを間近に控えて混雑するレイキャビクの著名ホテルの地下室で、サンタクロースの衣装を着けた男が刺殺体で発見される。ホテルのドアマンだというその男について、ホテルの従業員やマネージャーに事情聴取を行うのだが、その男のことはみなが無関心で、どんな男だったのか皆目分からない。

 そんな中、エーレンデュルは、ホテルの宿泊客のひとりから被害者の意外な過去を知ることになる。その男の栄光と転落の歴史をたどるうちに、次第に事件の背景らしきものが明らかになっていく。

 親が子供のために良かれと思ってしていることが、実は子供を支配することであることがしばしばある。そのことが子供にどのような影を落としていくのか。また、子供の時のトラウマが、その人間の人生にどのように重くのしかかり続けるのか。そしてその呪縛にとらわれることも、それから抜け出すこともそれぞれの人生である。

 アーナルデュル・インドリダソンの小説は、ミステリーでありながら、というより、ミステリーであるから、被害者や加害者、容疑者の人生をとことん暴き出してしまう。

 それが北欧テイストの情景描写とマッチして、心にしみるのだ。次回作が訳されたら、また絶対読むぞ。

消化する

 録りためたドラマや映画で、ブルーレイのハードディスクが一杯になってしまった。BDに落とすための空ディスクも、もうほとんどない。読み切れないのにいつか読むだろうと思って本を買い続けるのに似て、いつか観るだろうと思って観きれないまま、たまってしまった。

 テレビをリアルタイムで観るのはスポーツとニュースだけになってきた。それも録画があふれる理由だ。まず紀行ものの番組の録画を観る。中国・アモイ、中国・ハルビン、キューバ・ハバナなど。

 氷の街・ハルビンに行きたくなった。ハルビンにはロシアや日本の名残が残っている。異なる文化の融合したところには魅力がある。食べものもうまそうだ。父もハルビンに行ったことがあるときいた。寒かった!といったのをおぼえている。

 ハバナは昨年11月に行ったばかりだ。映像では自分の歩いた場所がふんだんに出てきて、興奮するほどなつかしかった。

 「鉄道・絶景の旅」は毎週録画して必ずみる。ナレーションの峠恵子さんの声と語り口がとても好い。今回観たのは神戸から姫路へ、姫路から播但線で北上し、豊岡、城崎を経由し、山陰本線で鳥取までの旅だ。城崎も去年12月に行ったところだ。途中下車した中で、以前から行きたいと思っていた生野の町が紹介されていた。古い町並みが残り、銀山跡の坑道もある。今年、春にでも是非行きたい。

 映画も何本か観た。その中で、「シン・シティ」「シン・シティ 復讐の女神」「米軍極秘部隊 ウォー・ピッグス」が面白かった。

 「シン・シティ」は以前一度観ている。実画をコミックのようにみせる特殊な映像で、モノクロに一部だけカラーを載せるという前衛的な映画だ。それが前回のときには違和感のほうが強くて、あまり出来がいいとは感じなかった。ところが今回観たら、けっこう好いではないか。このえげつないシーンが連続する物語を実画のままで見せたら、エログロスプラッター映画になってしまう。

 ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、イライジャ・ウッド、ルトガー・ハウアーをはじめ、俳優たちが嬉々として演じているのが感じられて、こちらも嬉しくなる。物語はいくつかの話を関連させながら展開していくもの。続編に当たる「シン・シティ 復讐の女神」では登場人物が前作と一部同じだが、新たに登場した人物が多い。エヴァ・グリーンが強烈な演技でほかの俳優を喰っている。加わった俳優の名前を挙げていくと多すぎてきりがない。

 「米軍極秘部隊 ウォー・ピッグス」はルーク・ゴス主演、助演がドルフ・ラングレンの戦争映画。1944年、ノルマンジーに上陸した連合軍は、ドイツ軍を敗走させなからフランス各地で転戦している。上官の愚かな命令で部隊を失った大尉(ルーク・ゴス)が、その責任をかぶせられて中尉に降格され、ならず者部隊を率いてドイツ軍の新型兵器の調査を命じられる。補助としてフランス外人部隊の大尉(ドルフ・ラングレン)がつく。

 ルーク・ゴスは好きな俳優だ。つまらない映画にも数々出ているが、彼がでているだけで許せる。ドルフ・ラングレンは大根役者だと思っていたが、珍しくこの映画ではおさえた演技と落ち着いた台詞回しで、なかなかいい味を出していた。やれば出来るではないか。

 少しご都合主義的な映画だけれど、緊張感があって楽しめた。

 こうしてとにかく録りためた映画やドラマを「消化」している。

2016年1月18日 (月)

竹中平蔵「大変化 経済学が教える二〇二〇年の日本と世界」(PHP新書)

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 この本の前書きに、先般取り上げた、「悲観は気分であり、楽観は意志である」ということばが引用されていた。

 竹中平蔵といえば、マスコミやほかの経済学者、評論家から、日本の格差拡大の元凶のようにいわれ、ほとんど悪者扱いである。

 マスコミでは、正義の味方と悪者がシンプルに色分けされないと、視聴者に分かりにくいとばかりに単純化する傾向がある。物事にはいろいろな面があることを、まともな頭をもつ人なら分かっているのだが、マスコミは、国民大衆はバカだ、と決めつけているから、そうした単純化をして恥じない。街頭インタビューでも、ほとんどそのような見方に合致するような意見ばかりを選んで垂れ流す。

 では私は竹中平蔵を全面的に肯定するのか?そういう質問自体がマスコミの大衆愚民化プロパガンダに犯された思考様式から来るものだろう。とにかく竹中平蔵は独自の視点を持ち、自分の考えに信念をもっている。それはどんなものか、この本を虚心坦懐に読んでみても好いのではないか。

 この本で繰り返されているのは「俯瞰的な視点をもて」ということである。目の前で時々刻々移り変わる事象にとらわれず、もう少し長いスパンで原因と結果、その理由を読み解き、これからどうなるか、それを考えてみよう、ということである。そのようにして、彼は日本やアジア、世界がいまどうなっているのか解析し、そしてこれからどうなっていくのか推測していく。当然それには不確定な変動要素がたくさんあるから、予測の多少の違いを非難しても意味がない。

 後知恵で些細なことを拾い出して非難するのはマスコミやコメンテーターの得意とするところだが、彼らはリスクのある予測などほとんどしないし、しても木を見て森を見ずの視点での予測だから外れることが多い。そして外れてもそれを反省などしない。忘れてしまうのだろう。

 先ほどの質問に敢えて答えれば、竹中平蔵は大所高所からの経済学者の視点からの発言をしている。そこには庶民の具体的な個人の生活という視点はない。それは別の話だからである。彼の世界観に賛同する部分と納得しにくい部分があるけれど、それは彼が庶民の視点を論じていないからではない。

 国家の将来がじり貧になるのか、いままでの豊かさを維持できるのか、その分水嶺に日本がさしかかっていて、そこで何を優先させなければならないか、という彼の問題の立て方、そしてその処方についてのいくつかの提案は、大いに参考になった。

朴槿恵大統領と蔡英文新台湾総統のことなど

 名古屋は昨晩から雨で、心配した雪が降ることはなかった。先週滞在していた鳴子温泉や老神温泉は今頃銀世界の中だろう。

 台湾の総選挙では、民進党の蔡英文氏が圧勝して新総統に選ばれた。あわせて民進党も立法院の議席の過半数を獲得した。ねじれにはならなかったことで、新総統も政権の運営が多少はやりやすいだろう。民進党の総統を選べば、それとバランスを取るような形で国民党の議員が多数を維持する、というようなことがこのような選挙にはしばしば起こるが、台湾国民はよほど国民党に愛想を尽かしたのだろう。

 日米の首脳は蔡英文氏の当選が確定した時点で、即座に祝電を送り、祝意を表明した。そして今日のニュースで注目したのが、韓国の朴槿恵大統領が祝電を送るかどうか迷ったあげく、ついに送らないことをきめたようだ、というものだった。

 もちろん中国は「新総統」に祝電など送らないだろう。中国側の国務院台湾事務弁公室は「台湾地区の選挙によってわれわれの台湾に対する方針は変わることはない」といっているように、台湾が中国の一地方だ、という立場なのだから当然だ。

 朴槿恵大統領が祝電を送らなかったのは、中国に配慮した、ということなのだろう。それ以外に考えられない。2012年、朴槿恵氏が大統領に選出されたとき、台湾政府は祝電を送っている。また、朴槿恵大統領の自伝の台湾版に蔡英文氏が推薦の辞を寄せている。

 韓国政府と外交部は、「1992年に韓国と中国は国交を正常化し、台湾とは断交している」とその理由を説明したそうだが、日本政府は同じ立場ながら祝電を送っている。民主党が政権にあったら、祝電は送らなかっただろうけれど。何しろ、最も早く、しかも中国の十倍の義援金を送ってきた台湾に対して、礼儀を失する扱いを平気で行った政権である。

 礼儀をわきまえる、というのはおとなであることの証左であり、年齢や見かけや財力、権力とは関係がない。おとなならば、礼儀をわきまえない中国や韓国に強い不快感を感じて当然だが、今回もそのことが証明されたようだ。ちなみに泡沫候補としか思えない共和党のアメリカ大統領候補のトランプ氏が一時的にせよ人気を博したのは、アメリカが幼児化したのか、それとも幼児化した人たちが多数になったことの表れなのか、どちらにしても恐ろしいことである。

 韓国の昨年10~12月の対中国貿易額が日本を上廻った。中国に対しての輸出額では、韓国がしばらく前から上廻っていたが、貿易総額で日本を抜いたのだ。ただし韓国も日本もその額は減少している。つまり減り方が日本のほうが大きいということらしい。

 韓国はどんなことでも日本に勝てばめでたいことだから、ますます中国に肩入れするつもりなのだろう。ただし、韓国の主要貿易相手としては増加しているのはアメリカだけであるから、「親中」だけではなく、「親中、親米」の路線に修正するつもりらしい。中国にはどう見えるだろうか。

歌の力、歌詞の力

 昨晩NHKBSで「中島みゆき名曲集」を観た。ライブでいろいろな歌手が中島みゆきの歌を唱う。中島みゆき自身はそこにはいないが、映像で彼女自身の歌や、コンサートの様子が挿入される。

 何人もの歌手が唱ったが、特に大竹しのぶ、中村中、クミコの歌が胸に響いた。それぞれの歌手が中島みゆきの歌の歌詞から何を感じ、どう考えたのか、それはそれぞれの歌手の生きてきた人生を語ることでもある。中島みゆきのCDのアルバムはいくつももっているのに、わたしの知らない歌もある。

 中村中という、個性的で魅力的な女優が、どういう人か全く知らなかった。その語ったことばで驚いた。どうしてか、知っている人は知っているだろう。

 研ナオコももちろん唱ったのだけれど、中島みゆきの歌の世界によく似合う、あのわたしの知っている研ナオコではなくなっていることに哀しい思いをした。年齢的に衰えるのは仕方がないことなのだが。


 歌の力、歌詞の力を強く感じた。歌詞のイメージが歌によって増幅され、心に響く。車で歌を聴きながらドライブしていると、その歌詞の中のことばから映像がリアルに見え、そして心象が感じられることがある。その力の不思議さを思う。

 たまたま先日のドライブで森昌子の歌を聴いていたら、「孤愁人」という歌の歌詞に強く感じるものがあった。

  祭りが過ぎたら町に

  残るものは 淋しさよ

  花火が消えたら 空に

  残るものは 淋しさよ

  愛は風さ 激しく吹いて

  何処かへ 消えるよ

  だから 人のこころは孤独

  涙の愁い人

  花は咲いて 小鳥は啼いて

  その命 終わるのさ

  みんな独り 私も独り

  これが生きる さだめ

 全く関係ないのに、竹下景子の出演した「祭りの準備」という映画を思い出した。まだ新人だった竹下景子がヌードになったのを鮮烈におぼえている。ただ「祭り」、という言葉からの連想なのだが。

2016年1月17日 (日)

熱田神宮へ行く

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名古屋に越してきてから、特に用事のない限り、毎年一月十五に熱田神宮に詣でることにしている。昔は15日は成人式だったから、家族でかならず参拝し、帰りにウナギを食べた。この十年ほどは、わたしひとりで参拝している。

今年は十五日は旅先だったので、今日参拝した。雨か雪が降るという予報だが、降り出すのは夜からということで、助かった。

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大鳥居からの参道は広々としている。今日は日曜日なので例年になく人が多い。別に理由もあるらしいがよく分からない。

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昼時だったので、参道脇のきしめん屋の前には行列ができていた。

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おなじみの大楠。

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信長が寄進したという土塀。

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右手を洗い、左手を洗い、洗った左手に水を受けて、それで口をすすぐのが正式らしい。柄杓に直に口をつけてはいけないのだ。

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本殿前。お賽銭を投じて二礼二拍手一礼。

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お守りを買いたいが、人がごった返している。今度来たときにしよう。列ぶのは嫌いだ。

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神楽殿での祈禱も長い列ができていた。

このまま宝物殿の横を通り、近道を帰る。いい匂いがする。

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風に乗って紅梅が香っていたのだ。いままでで、こんなに早く梅が咲いたのをみたのは初めてだ。

いつもならとなりの金山駅前のボストン美術館にでも立ち寄るのだが、日曜なので混んでいるかもしれないし、そもそもいま何が展示されているか調べていないので、出直すことにしてこのまま帰宅した。

悲観は気分である

 ある本を読んでいたら(その本は読み終わってから紹介する)、アランの「幸福論」の中のことばが引用されていた。

  「悲観は気分であり、楽観は意志である」

 好いことばである。おぼえておこう。そういえば、このことが実感できているときは人生が順調で、そうでないときは不調だったような気がする。もちろん不調なときにはそれなりの外的要因もあるのだが、悲観的な気分のときにはそれをなかなか乗り越えられない。


 前回のブログで、堂場瞬一の鳴沢了シリーズを勘違いして、鳴神了シリーズなどと書いてしまいました。申し訳ありませんでした、まちがいでした。訂正しておきましたが、知っている人はびっくりしたでしょう。

堂場瞬一「ラスト・コード」(中公文庫)

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 刑事・鳴沢了シリーズで堂場瞬一と出会い、愛読してきた。その他のものもいくつか読んでいるが、多作なので、すべて読むわけにもいかない(ほかの本を読む余裕がなくなる)。そういえば先日観たWOWOWドラマの「誤断」も、原作は堂場瞬一だった。

 渋谷中央署の新米刑事・筒井が惨殺殺人事件の捜査に加わり、それがきっかけで被害者の娘と逃避行を余儀なくされる中で、変貌していく(本来の彼の暴力性がレベルアップする)という物語。

 被害者の娘、14才の天才少女・美咲はアメリカに留学していたが、父の死で日本に呼び戻される。およそおとなとのつき合い方というものを知らず、父の死にもなんの感情の変化もみせないというつっぱり娘だ。自分より愚かなものを見下す態度はまわりのものにとりつく島を与えない。その娘を命がけで護り続ける筒井に対しても美咲は心を開かない。

 警察からも支援が得られず、孤立無援の筒井だが、それでも援助してくれるものはあらわれる。おなじみの鳴海了が途中から登場する。鳴沢了も最初からみるとだんだん超人化し、神格化してきた気がするが、それはよしとする。

 追われるばかりだった筒井もなぜ追われているか、次第に真相をつかみ出す。そして反撃に転ずる。さらに自分を救うこともせず、おとりに使っていた警察トップに対しても刃を向ける。

 ラストには歯切れの悪さが残るものの、現実というのはこんなものか、とも思うし、筒井がこれから力を持つためにもこれがいちばんかもしれない、とも思う。

 堂場瞬一の小説だからもちろん面白い。特に美咲のキャラクターが好い。実際にこんな少女が自分の娘だったら恐ろしいが。とはいえ正直、どん姫を思わせるところがないことない。若い娘の冷たさ、というのは本能的なものなのだろう。

2016年1月16日 (土)

一週間ぶりにわが家に帰る

 北関東から長駆430キロ、途中どこにも寄り道せずにわが家に帰った。

 武尊(ほたか)山、谷川岳方面の銀嶺の山々さらば。関越道から上信越道へ乗り継ぎ、巍峨たる妙義の山々を眺めながら、その向こうに浅間山の霊峰をのぞむ。

 この上信越道を通らず、カーブの多い国道18号線を通ってあのバス事故があったのだ。原因はなんだったのだろう。

 浅間山は、北側は雪で真っ白だが、南側は初雪頃のようにほとんど雪がない。この時期にこんな姿を見るのは初めてだが、明日から大雪になるというから景色は一変していつもの姿に戻るのだろう。

 佐久の街へ一気に坂を下りれば、明るい陽光が降り注ぎ、春のようだ。更埴で長野道へ乗り継ぐ。松本の友人のところは今回もパス。今度寄るからね。上高地方面の山々はさすがに銀世界。北アルプス、中央アルプスの峰峰を楽しみながら一路南下する。

 岡谷から中央道へ。ここからはひたすら下り坂だ。土曜日なのに上りも下りも車が少ない。快適に走る。こういうときほど用心が必要なので、スピードは控えめに我慢した。

 中央道からは、木曽駒ヶ岳は一部しか見えない。それでも前山など、白く輝き、美しい。こんど、春にでもどん姫と駒ヶ岳のロープウエイに乗り、駒ヶ岳の絶景を見に来ることにしよう。いまならつき合ってくれるだろう。

 こうして車窓の景色を楽しんでいればあっという間だ。どこにも事故も渋滞もなく、無事わが家に到着。荷物を片付け、郵便物をチェックし、洗濯をしたら食糧の買い出しに行かなければならない。冷蔵庫は、ビールやワインなどの酒以外は見事に空なのである。

 明日から名古屋は雨、そしてそのあと雪の四日間という予報だ。読書と映画鑑賞をたのしむことにしよう。

 帰って来て早々、またゆっくり出かけたくなっている。出かけるのはくせになるものなのだ。

大沢在昌「流れ星の冬」(双葉文庫)

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 主人公は65才の大学教授。大学といっても小さな女子短大で、もともとは専門学校だったが、教授は教授である。65才といえばわたしと同年ではないか。生き方や外見(ロマンスグレーで女にもてる)はまるで違うけれど、死生観には共感するものがある。

 文庫化されたばかりだが、単行本は1998年刊行、と奥付にある。しかし、解説には1994年に刊行されたとあるが、どちらなのだろう。1994年には、大沢在昌は「新宿鮫 無間人形」で直木賞を受賞している。

 初老どころか、65才ではフィジカルな闘いが困難である。そんな主人公のハードボイルドというのは珍しいが、ないわけではない。ハードボイルドというのは格闘などの暴力だけを描くものではない。その折れない精神を描くものだ。だからまだ弱い少年や女性、老人が主人公でもハードボイルドは成り立つし、その暴力的な強さをもたないことが却って精神の強靱さを強調することにもなり、読者を感動させることにもなる。

 主人公が葬り去っていたと思った過去が、40年もたってよみがえってくる。愛するもののためにその過去とのけじめをつけるたため、男は狼に戻る。そして・・・。

 この小説に好感が持てたのは、ひねりがないことである。意外な人物が意外なことをして事態が二転三転する、というのは小説を面白くする常套手段だが、この小説ではそのようなことがない。この物語ではそのストレートさがいいのだ。ひねりがあったらリアリティを失っていただろう。

 もともと似ているのだけれど、北方謙三の初期のハードボイルドを思い出した。


 雪がちらつくか、と思ったら全く降らなかったようだ。
本日で今回の旅は終わり、名古屋へ帰る。よく考えると、帰っても食事を自分でつくらなければならないことを除けばほとんど同じことをして日を過ごすのだ。

 帰ったら、台湾総統選挙の結果を見るのが楽しみだ。今年は台湾一周を考えている。

2016年1月15日 (金)

柚月裕子「孤狼の血」(角川書店) と オマケ

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 警察小説で、本格的なハードボイルドである。

 舞台は広島県呉原市。呉原市は呉市のことだろう。ほかにも実際の地名をもじった場所がたくさん出てくるので、現地に詳しい人にはそれを楽しむこともできるだろう。

 呉原東署の捜査二課、暴力団係に配属された新人刑事、日岡秀一はなにかと噂の多い大上章吾というベテラン班長と組まされる。大上は功績の多さではピカイチでありながら、違法捜査なとでの処罰も多いことで知られる。

 短いプロローグとエピローグを除けば、各章は日岡の捜査ノートの簡潔でわずかな文章に始まり、それを実際の捜査活動を描いていくことで物語が進められていく。そのノートの文章が何行も抹消された形であることの意味が、エピローグで明らかになる。

 日岡と大上の出会い、暴力団係の仕事とはどんなものなのか、およそ警察官としての常識を絶するその事実に、日岡は驚かされる。そしていきなり新人としてその仕事の苛酷さを体験させられる。

 衝撃を受けながら、それにめげず立ち向かう姿に、読んでいる方はだんだん感情移入していくのだ。そして日岡から見える大上という人物のイメージも変わっていく。当然読者には、大上という刑事が次第に魅力的に見えてくる。

 違法すれすれ、というより、違法としか言いようのない捜査を続けているから、やくざからは毛嫌いされ、怨まれている。ところがその大上を、心から惚れ込んだり信頼しているやくざもいる。その筋の通し方にぶれがないのであり、何を是とし、何を非とするか、互いに明確に理解しているのだ。

 ある意味では警察組織よりも、そのような信頼関係は厚い。

 呉原市では二つの暴力団がしのぎを削っている。過去には大きな組織の代理戦争の形で、血で血を洗う抗争もあった。今、その暴力団の金庫番をしていた、表向きはかたぎの男が行方不明となる。物語はその男の行方を追うという捜査から始まる。

 しかしそれがきっかけで、互いの暴力団の小競り合いがエスカレートしていく。そして隠されていた過去の事件の真実が暴かれていき、事態は一触即発の状態になる。

 大上は身体を張ってその戦争を阻止するために奔走し、日岡もそれを補助するのだが、やがて悲劇が起こる。

 著者はペンネーム通りなら女性だが、どうしてこれほど男臭い小説が書けるのだろう。ハードボイルドの本道を行く熱い小説である。一気に読めた。


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こんな感じで本を読み、ブログを書いている。

気をつけないと

 群馬県の老神温泉にいる。片品川に沿った古くからの温泉で、たびたび来ているから以前にもここで紹介した。ちょっと変わった滝、吹割の滝はここから近い。みる値打ちのある滝である。

Dsc_7695 宿の窓から片品川を見下ろす

 老神温泉は、関越自動車道の沼田インターを降りて国道120号線を20キロ足らず東にあり、そのまま進めば尾瀬や日光にいたる。トンネルができてたいへん便利になった。昔は狭い道を峠越えしなければならず、30分以上余分にかかった。ただし、冬期間は金精峠あたりは通行止めなので、いまは日光には直接行くことができない。

 泊まっている宿は食事がバイキング式で、夜は酒も飲み放題。ふだん食事を摂生しているのに、ついあれこれ手を出して余分に食べすぎてしまう。気をつけなければ。

Dsc_7694 目の前は崖

 さすがに山際なので底冷えがする。風呂がありがたい。帰りそびれてもう一泊することにした。今晩あたり、雪がちらつくかもしれない、と先ほどの天気予報で言っていた。吹割の滝のあたりも道がぬかるんで足元が悪く、以前無理をしてすべって転んだことがあるので行く気にならない。そのときはズボンが泥で汚れてたいへんだったのだ。

 持って出た本はまだ半分も読んでいないので、今日も読書三昧するつもりだ。

黒田勝弘「どうしても”日本離れ”できない韓国」(文春新書)

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 帯に「一番嫌いな国」に呪縛される隣人たち、とある。このことばが韓国の反日状況をよく表している。

 今日本人の多くが韓国にうんざりしていて、嫌韓も反韓もどうでもいい、韓国の日本叩きの話は見たくも聞きたくもない、という思いだろう。日本のバカな代議士が、せっかく形だけでも打ち切った慰安婦問題を再燃させるような失言をしている。もう済んだのだから、韓国が何を言おうと「その話は済みました」でいいではないか。正しいことを言えば良いというものではないくらい、おとななら分かりそうなものなのに。その愚かさに腹が立つ。

 著者は、韓国は日本と戦って勝利して独立したのではないことが、トラウマのようになっていることを以前から指摘している。つまり日本になにかの形で完全に勝利した、と自他共に認める状況が達成できないと、永遠に反日は続く、というのだ。その通りだろう。

 ただ、そのような韓国の日本に対するコンプレックスがあるかぎり、永遠に韓国は日本に勝った、という実感をもつことは不可能だろう。

 韓国や北朝鮮がしばしば日本に対して内政干渉のような言動を繰り返している。これはまだ韓国が日本の植民地であった時代の意識から脱していないからだ、と云う著者の指摘はとても面白い。だから平気で日本人を拉致したり、金大中を国家が拉致したりするのだ。国と国との関係という意識がないからだ。

 それが証拠に、他の国に対して、日本に対するような内政干渉的なことは決していわない。アメリカや中国にはずいぶん煮え湯を飲まされているのに、何も言わないのをみればよく分かる。

 すでに独立して70年もたつのに、韓国はまだ日本から乳離れしていない。そろそろ日本も突き放してあげるときが来たのではないか。

 それなのに韓国と通貨スワップ再開の話がある、という報道もある。日本のお陰で通貨危機やデフォルトを回避したのに、恩知らずな形でスワップを破棄した。ところが、なんと「また日本とスワップをしてやってもいい」と韓国側はいっているという。

 こんなものに応ずるからまたつけあがるのだ。中国と巨額のスワップを締結しているのだから、日本は無視すればいいのだ。

2016年1月14日 (木)

アーナルデュル・イングリダソン「緑衣の女」(東京創元社)

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 傑作である。読み終わって、気がついたら涙が出ていた。

 著者はアイスランドのミステリー作家。この物語は彼のエーレンデュル捜査官シリーズの一つ。邦訳は「湿地」に続いての二作目で、「湿地」については先般ここで紹介した。

 この本のテーマはいくつかあるが、事件にかかわる最大のテーマはDV(ドメスティックバイオレンス)である。この物語に描かれているDVのシーンは、訳者の柳沢由実子氏もあまりのすさまじさに絶句した、こんなものを訳していいか迷ったほどだ、というほどだ。

 アイスランド・レイキャビク郊外の住宅地で、古い人骨の一部が発見される。数十年前の人骨なのだが、誰のものなのか、そして事件にかかわるものなのか皆目分からない。それをあきらかにするためにエーレンデュルは捜査を開始するが、同僚のエリンボルクやシグルデュル=オーリはそんな昔の事件に熱心になれない。

 捜査に並行して、エーレンデュルの娘のエヴァ=リンドの物語とエーレンデュルの過去、そして事件に関係があるらしい過去のDVに遭っている家族の物語が語られていく。

 救いのほとんどないようなそれぞれの話の中に、人間の業の恐ろしさ、哀しみが満ちあふれ、その中のかすかな曙光のようなものを感じたとき、読者は思わず胸が熱くなるだろう。特に私はある意味でエーレンデュルに感情移入する事情を抱えているので、その思いが強いかもしれない。ただし、わたしの息子も娘もわたしとは仲がいいのでその点は彼よりしあわせであるが。

 実はこの作家の「声」という出版されたばかりの本を店頭でみつけて購入したら、すでに「湿地」「緑衣の女」の二作が訳されていると知った。そうなると、そちらをさきに読みたくなるではないか。「湿地」は創元社の推理文庫になっているのですぐ見つかったけれど、この「緑衣の人」は何軒か本屋を歩いてようやくみつけた。

 これで心置きなく「声」を読めるのだが、今回の旅に持って出るのを忘れていた。帰ったら真っ先に読もう。


北関東、群馬県の老神温泉にいる。赤城の山を挟んで桐生の北側だ。定宿のバイキング式のホテル。飲み放題食べ放題。ただ、食べものも酒もあまりおいしいとはいえない。安いから我慢する。湯が二カ所あるのだが、片方の湯のパイプが不調で、修理中のため、一カ所だけしか入れないのが残念。

気がついたらブログのアクセス数の累計が20万を超えていた。今晩はささやかに一人で祝うことにする。四年半かかった。みていただいている方々にまず感謝しなければいけない。

ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

雪が積もった

昨晩、夜中に目覚めたら考えごとをして全く眠れなくなった。ようやくあけがた近くにまどろむ。目覚めたら食事の時間だ。


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鳴子・中山平温泉やすらぎ荘は今日でおしまい。雪があけがたに降ったのか、10センチほど積もっている。

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昨日は雪が見えなかった木立も白く化粧している。

車の雪を払わないと出立できない。出かけるまでが一仕事だ。

これで一気に帰るのはしんどい(名古屋まで約800キロある)ので、途中寄り道をすることにした。

ムウェテ・ムルアカ「中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う」(講談社+α文庫)

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 著者のムルアカ氏は現コンゴ民主共和国(旧ザイール)出身で、あの鈴木宗男代議士の秘書をしていた巨漢といえば思い出す人も多いだろう。現在は国際政治評論家として活躍し、千葉科学大学や神奈川工科大学の教授でもある。2005年、日本に帰化。

 1993年に設立され、五年に一度開かれる「アフリカ開発会議」の設立のメンバーである。2013年の横浜で開かれたこの会議に、アフリカ54カ国のうち51カ国が参加したことは、当時大きく話題になった。

 中国がアフリカの資源を狙い、かつ中国人をアフリカに大量に移民させようとしていることは周知のことである。巨額の援助をえさに独裁政権などの有力者に金をばらまき、中国はいまもっともアフリカに浸透している国家である。この手法がまさに欧米の植民地主義に酷似しているために、アフリカでも欧米でも「新植民地主義」と言われていることを日本のメディアはあまり伝えようとしないのは不思議なことである。

 中国が各国のインフラ整備に積極的に乗り出すことを、当初アフリカ諸国は歓迎していた。ところがそのインフラ整備には現地人はほとんど採用されず、ほとんど中国人労働者が送り込まれ、それがそのまま現地に居座っていること、そして行われた工事が劣悪で、大きな問題が起きていることをご存じの人も多いだろう。

 そのために現地での反発も大きく、中国人が襲われる事件も頻発している。この本ではその中国のインフラ工事のずさんさが、これでもか、というほど書き連ねられているが、話半分にしてもひどいものだ。

 このように中国がアフリカで圧倒的に精力を伸ばしながら反発されている現在、いま日本がアフリカ進出を本気で進めるべきときである、というのが著者の主張なのだ。

 ただ、著者が心配しているのは、日本のマスコミがアフリカについて治安の悪さばかりを強調し、それでなくとも海外雄飛の覇気を失いつつある日本の若者の意欲を、さらにアフリカに向けなくしていることを慨嘆している。

 リスクがなければ得るものも少ない。確かにいまが最高の時期かもしれないが、正直、今以上にさらに中国に対するアフリカ各地での反発が大きくなってからの方が、もっと楽に展開できるような気もする。そのときには中国も打ち出の小槌のようなふところも不如意になり出しているし、日本は少し経済的にゆとりも出るし、中国の代わりにインドやアフリカに進出することが絶対に必要になってくることだろう。

 アフリカが中国をどう見ているのか、そして日本をどう見ているのか、以前から興味があったので、この本でよく分かった。しかしムルアカ氏は日本贔屓過ぎるので、そこはある程度割り引く必要があるだろう。こういうときはあの鈴木宗男氏のような強引な政治家が必要な力を発揮できるのだが、いまの外務官僚では無理だろう。

2016年1月13日 (水)

東野圭吾「ラプラスの魔女」(角川書店)

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 東野圭吾は映画化されたものをいくつか見ているのに、実際に読んだものはほとんどない。嫌いなのではなく、はまるといままで出版されたものを片端から読まねばならぬ気になってしまうのがこわいのだ。面白いに決まっているから我慢している、といった方が好いか。

 帯の後ろに著者自身のことばとして「これまでのわたしの小説をぶっ壊してみたかった。そしたらこんな小説ができました」とある。それならどうしても読んでみたくなるではないか。

 「空想科学ミステリ!」と謳っている。東野圭吾ファンから叱られそうだが、なるほどテイストは宮部みゆき風になっている。著者を知らなければ宮部みきの小説と言っても、私などはそう信じるだろう。

 最初に断片的なプロローグとなる話がいくつか提示されたあと、最初の事件が起こる。事件というより、当初は温泉場での突発的な硫化水素による事故死として扱われるのだが、その調査に携わった地質学の教授が、類似の事故にふたたび遭遇することで不審を感じ始め、しかも調査中の事故現場近くで同じ若い女性に出会うことでいっそう疑いを深くしていく。

 そのことを、最初の事故を事件ではないか、と独自に捜査していた刑事に話したことから、二つの事故に関連する事実が次第に明らかになり、被害者につながりがありそうなことが分かってくる。

 しかしこれが故意に引き起こされたものだとするとその手口はどのようなものなのか、それがどうしても解明できない。

 やがて六年前に起こった硫化水素自殺による悲惨な事件が浮かび上がってくる。少女が自殺してその母親と弟が巻き添えとなり、少女と母親は死亡、弟は脳の機能に障害が起こり、植物人間となっていた。

 残された父親がその事件のてんまつとそれを乗り越えていく状況をブログに切々と書き綴っていた。彼は家族のことを何も知らなかったことを悔い、娘がなぜ自殺したのか、それぞれの家族がどのように生きていたのかを、いろいろな人に出会って聴取し、家族を再構成していく。やがて息子に回復の可能性があるという天才脳外科医の申し入れに、手術を承諾するのだが・・・。

 こうして最初に提示されたプロローグの断片が次第につなぎ合わされ、全体が見えてきたとき、驚くべき罠が隠されていたことが明らかになっていく。

 たいへん面白いのだけれど、硫化水素で殺された被害者の、なぜ殺されなければならなかったのか、どうしてそれほどの憎悪の対象になったのかが、多少弱いような気がした。

 この物語も超能力ではないのだけれど、特殊能力がテーマとなっている。人間の脳の能力はまだまだ奥深いのだ。

今日も読書三昧

今日も鳴子・中山平温泉に滞在中。


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写真は今朝の窓外の景色。雪は降っていないが気温が低いので路面は凍結している。窓を開けると朝風呂のあとの冷気が気持ちが好いが、しばらくすると寒くなってきた。気温は-2~3℃だろう。

午前中は小康状態だが、午後は50%以上の降雪予想。以前ならこんな中でも昼間は出かけるのだが、どうせ明日は移動日なので、今日もごろごろ読書三昧する。さいわい読書に飽きてこないので、テーブルに積んだ本をあと二、三冊片付けるつもりだ。

大沢在昌「魔女の封印」(文藝春秋)

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 特殊能力を持つ人間というのが存在するという話がある。しかしその能力を持つことを人が恐れるのならば、その持ち主はそれを隠すだろう。

 「魔女」シリーズの第三弾。やくざや警察、公安などが入り乱れて戦い、だまし合い、その中で生きぬいてきた一匹狼である美女、「水原」はすさまじい過去を持つ。

 その話は前二作を読んでもらうとして、今回はいささかSF的な(超能力の話だからまさにSFなのだが)物語となっている。彼女もやはり特殊な能力を持つのだが、それは人の外見からその人物の本質を見抜くというもので、その観察力が彼女の特別な生き様によって鍛え上げられたものであり、超能力というものではない。

 その彼女が元警視庁公安で今は国家安全保障局にいるという湯浅から、ある人物を鑑定するよう依頼される。興味を持った彼女は堂上というその初老の男性に会うのだが、不思議なことに全くその男のことが読めない。今までになかったことである。

 堂上について湯浅はほとんど情報をくれなかったのだが、独自に調査していくうちにその堂上のまわりで不思議なことが起きていることが判明する。その一億人に一人という能力を持つ堂上に惹かれてかかわるうちに「水原」はどんどん危険な世界にはまり込んでいく。

 最後は中国の公安も絡み、絶体絶命の危機にたびたび陥ることになるのだが・・・。

 572ページという長編で、読みでがあった。一応説明はあるけれど、前作を読んでいないと彼女の性格や能力について分かりにくいかもしれない。「魔女の笑窪」、「魔女の盟約」という前作を読んでからの方が感情移入しやすいかもしれない。どちらもすさまじい話で、だから面白い。

2016年1月12日 (火)

陳舜臣「実録 アヘン戦争」(中公文庫)

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 本文から

 たとえば高校の世界史教科書にも、アヘン戦争について、
---清国の変則的貿易形式を打破するために、イギリス商人のアヘンが焼きすてられたのを口実に、イギリスが宣戦を布告した。
 といった記述がみられる。

 公行のみを通じる貿易形式は、あるいは変則かもしれない。だがそれを打破するのが、戦争の主要目的で、アヘンが没収されたのは口実にすぎなかったのか?

 真相はその正反対である。アヘン貿易を認めさせるのが戦争の主目的で、変則貿易形式打破のほうが、たんなる口実にすぎなかった。

 貿易形式はその国の都合できめることで、外国が武力をもって干渉すべき性質のものではない。それを敢えてするのも不義の戦いであろうが、アヘンのための戦いにくらべると、まだしも不義の程度が浅い。そう考えたイギリスの「愛国的」史家が、主目的をねじまげたのである。日本の教科書の編者も、知らずにその説を採りいれたのであろうが、これははっきりさせねばならない重要なポイントである。

 イギリス議会が中国へのイギリス海軍の派兵を論じたとき、賛成271票、反対262票という僅差であった。

 ふたたび本文から

 英国会における賛成と反対の論旨の、エッセンスともいうべき部分を、ここに抜粋して紹介しよう。
 賛成演説のほうは、「おしゃべりマコウレー」の異名をもつ
トマス・バビングストン・マコウレーのそれである。

 ・・・エリオット氏(当時のイギリス駐清商務監督・海軍大佐)は、包囲された商館のバルコニーに、高々と英国旗を掲揚することを命じた。・・・その国旗をみれば、死に瀕した人たちの心も、たちまちよみがえった。なぜなら、それは彼らに、敗北も降伏も屈辱も知らぬ国に自分たちが属していることを想起させたからである。・・・プラッシーの原野でブラック・ホールの犠牲者の仇を討った国である。偉大な摂政が、イギリス人の名をローマ市民の名がかつてそうであった以上に、尊敬されるものにすると誓って以来、退歩することを知らなかった国である!敵に包囲され、大洋と大陸とによって、あらゆる救援の手から隔離されていたが、彼らは髪の毛一本たりとも、それに危険を加えるものは、罰せられずにはすまないことを知っていた。・・・

 帝国主義的感覚のサンプルのような演説である。これに対して、保守党のジェイムズ・グラハムは、三時間にわたって、「このような不義の戦争には、たとい買っても如何なる栄光も得られない」と非難したが、ここではもう一人の反対者グラドストンの演説の一部を抜粋してみよう。

 ・・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、わたしはかつて知らないし、読んだこともない。いまわたしと意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちてひるがえった英国旗について言及された。だが、その旗こそは、悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえったのである。゛んざいちゅうごくえんがんに掲揚されているようにしか、その旗がひるがえらないとすれば、われわれはまさにそれを見ただけで恐怖をおぼえ、戦慄せざるを得ないであろう。

 こうしてイギリスは不義の戦争を強行し、香港を割譲させ、林則徐によって廃棄されたアヘンの代金600万ドルを賠償させた。

 林則徐がこちこちの厳格主義者出あったのではないことがこの本を読めばよく分かる。イギリス側があまりにも理不尽で横暴であったのだ。それはイギリス側に経済的な理由があったのだが、それはこの理不尽の言い訳にはならない。

 多分イギリスはこの調子でインドや中東でもやりたい放題をしてきたのだろう。そのツケをいま世界が払わされている。そのイギリスが、いま、中国の帝国主義的覇権主義を黙認しようとしている。これは中国に対する贖罪意識のなせるわざなどではなく、イギリスという国家の体質なのかもしれない。

 陳舜臣には「小説 アヘン戦争」という3000枚の小説がある。そのあとにこの「実録 アヘン戦争」は書かれ、毎日出版文化賞を受賞している。読んでいるうちに感情が高ぶらずにはいられない本である。

澤田ふじ子「虹の見えた日 公事宿事件書留帳21」(幻冬舎時代小説文庫)

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 これもわたしの大好きな時代劇シリーズだ。NHKのドラマ(はんなり菊太郎シリーズ)にもなった。内藤剛志が主人公の田村菊太郎を好演していた。

 新刊が出たら即買うことにしているが、ハードカバーではなく、文庫の方で揃えている。

 物語の舞台が京都であり、季節の情景や人の気持ちが、饒舌ともいえるほどたくさんの会話文できわめてリアルに描き出されていて、ほかの小説とは少し毛色が違うかもしれない。その京都弁のテンポになじむと、物語にすっと入り込んでしまう。

 一応捕物帖形式の短編集なのだが、事件解決が勧善懲悪ですっきりするものもあるけれど、人の心の不思議さ複雑さを考えて、玉虫色の処理で終わることもある。理非曲直だけでは世の中は丸く収まらないものなのだ。そのことをやんわりと教えてくれる。

 今回は表題の「虹の見えた日」が出色。菊太郎の思い人、お信の娘・お清が十四才になり、その才覚を発揮して周囲をうならす。なんだか自分の娘がおとなになったのを知った父親みたいな気持ちになって、じんわりとしてしまった。


 朝起きたら積雪はそれほどでもなく、数センチ積もっただけだった。しかし気温が低いから路面も白くなっている。

2016年1月11日 (月)

鳴子・中山平温泉

昨晩は桐生の夜を楽しんだので、ゆっくり起床。朝食を食べてチェックアウトぎりぎりまで部屋で本を読んでいた。


それから北関東自動車道、東北自動車道と乗り継ぎ、いま鳴子温泉郷の一番西端、紅葉で有名な鳴子峡の少しさきにある中山平温泉にいる。

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部屋の窓から道路を見下ろす。ふだんなら雪が50センチ以上積もっているのだが、今年は少ない。車を駐車場に入れるのも楽である。

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ホテルの反対側の景色。木立の向こうに山があるのだが、ほとんど見えない。右上隅は鴉。やがてちらちらだった雪が強くなってきた。

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源泉の湯煙を遠望する。雪の降りだしたのが分かる。

今夜は積もるだろう。車はすっぽり雪の中に埋まるかもしれない。今年初めての雪体験である。ここに三泊する。明日は出かけないで温泉と読書三昧で命の洗濯をするつもりだ。

これから湯に入り、缶ビールを飲んで夕飯を待つ。極楽、極楽。

桐生でキューバの話をする

Dsc_7681 9日の日に東名の鮎沢インターから見た富士山。西側からは秋の富士山のように雪が少なく見えた。鮎沢は南東の方角になる。昨日は東北自動車道の四重衝突で大渋滞にはまり、えらい目に遭った。

 昨晩は桐生の周大人と久しぶりに酒を飲んだ。わたしが桐生に行ったことを、サルサのダンスを趣味にする女性のやっているバーで周大人が話したら、是非話をききたいというので、一軒めで飲み食いをしたあとでその店に行った。

 店の入り口にゲバラの大きな肖像がかかり、テレビではキューバの映像を流している。しかし店のママさんはまだキューバに行ったことがないのだという。酔った勢いで、自分なりに記憶しているキューバの話をした。

「行きたい!」というから、「行こうと思ったときに行けばいい」といった。いけない理由は山ほどあるのだろうけれど、そんなことを言っていたら永遠に行くことができないではないか。

「アメリカナイズされる前に行かないと、キューバを見損なってしまう」といったら、「行く」という。キューバに観光に行くのではなく、キューバの人々の暮らしを見るのならいましかないと思ったからそう言ったのだけれど、そのことが瞬時に分かったらしい。

 こうしてキューバの音楽の中で、久しぶりにダイキリ(ラム酒を濃くして!)を飲み、楽しい夜を過ごした。桐生の周大人もわたしも糖尿病なのだけれど、楽しければいいのだ。

 いろいろわたしの屈託を分かってくれているので、そのやさしさに感激している。友人がいるということはなによりありがたいことだ。もちろん迷惑でもまた来るつもりだ。

2016年1月10日 (日)

平岩弓枝「お伊勢まいり」(文藝春秋)

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 「新・御宿かわせみ」シリーズ最新刊。帯に「最初で最後の長編小説」とあるのが気になる。大好きなこのシリーズもそろそろ終わりなのだろうか。それはどこにも明記されていないけれど、物語の最後に「かわせみ」に登場人物が勢揃いするし、いままで明かされていなかった幕末の事件がようやく解決する。著者の中では多分このシリーズはこれで終わりのつもりではなかろうか。・・・残念だけれど、仕方がないことでもある。
 一度最初からこのシリーズを読み直してみようか。全部で40巻くらいあるからたいへんだけれど、多分没頭して読みふけることになるだろう。
 このシリーズを読んだことのない人で、時代小説が嫌いでなければ一度読んでみたらいかがだろうか。新シリーズの前の「御宿かわせみ」なら文春文庫で全34巻が揃っている。お薦めである。登場人物が頭の中で動き出すだろう。

2016年1月 9日 (土)

葉室麟「はだれ雪」(角川書店)

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 直接ではないが、「忠臣蔵」のサイドストーリーの形で、武士とは何か、男とは何かをとことん考えさせてくれる時代小説。

 二千五百石の旗本でありながら、浅野内匠頭の切腹の直前に、勝手に彼の最後のことばをひそかに聞いた男として幕府から罪を問われ、扇野藩に流罪幽閉となった永井勘解由と、その接待役を藩から命じられた寡婦の紗英の愛の物語である。

 それを縦軸にして忠臣蔵の人々がかかわっていく。当然浅野内匠頭がなぜ吉良上野介に殿中で切りつけたのか、その真相もかかわってくるのだが、それが明かされるかどうかは本を読まれたい。

 幕府の、特にときの権力者であった柳沢吉保が、どのようにこの殿中の刃傷と赤穂浪士の事件を処理したのか、そのときの世相がどうであったのか、どうして討ち入りが成功したのか、それが幽閉された勘解由のわずかな社会とのかかわりから見えてくる。

 そして討ち入り成功により、勘解由と紗英に絶体絶命の危難が降りかかる。それをどうしのぐのか、運命に翻弄される二人はどうなるのか、それが最後のクライマックスである。

 こんな人間関係は理想だけれど、だから自分がいい加減でいいというわけではない。理想をめざしたいではないか。

核保有論

0071k イムジン川から北朝鮮をのぞむ
 韓国与党のセヌリ党のなかには以前から核保有論があり、今回の北朝鮮の水爆実験と称する核実験を機にその論調が高まっているのだという。そして朴槿恵政権はアメリカや中国と(日本は対象とされていない)核保有について本気で交渉することを検討せよと称えているそうだ。

 朝鮮日報は「韓国の核武装は現実的に容易なことではないが、北朝鮮が水爆実験まで実施している状況なのだから、中国やアメリカと協議しても良いのではないか」と報じた。その前段階として在韓アメリカ軍に核配備をしてもらい抑止力として北朝鮮に備えるのも良いけれど、朝鮮半島にさらなる緊張が生ずることになる、と論評している。

 韓国マスコミはアメリカや日本が北朝鮮の核実験を事前に察知していたのに、韓国はそれを知らず、アメリカからも知らされていなかったことを非難している。韓国国防省は「北朝鮮が核実験をするなら、一ヶ月くらい前にはその兆候を察知できる」と明言していたのに、今回は気象庁の地震計からの情報で初めて知った、と暴露している。

 韓国は本音では核兵器を持ちたいだろう。核兵器を持つことで初めて日本と戦っても勝てる、という自信が持てる。韓国と日本は戦争をしたことがない。しかし韓国国民の多くは、過去日本と戦った、と思い込んでいる(そのシンボルが光復軍だが、ゲリラともいえないような名前だけの存在で、戦いの事実は存在しない)。そして明日にでも日本がまた韓国に攻めてきて占領されてしまう、と思い込まされている。だから核兵器を保持することは夢なのかもしれない。

 いま目前にある北朝鮮の危機ではなく、ありもしない日本との戦いを想定しての妄想であろう。教育やマスコミの刷り込みが異常だと国民の精神は病んでしまう。

2016年1月 8日 (金)

葉室麟「草雲雀」(実業之日本社)

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 真摯に生きていればいつか運命は開けてくる。そんなことをしみじみと思わせてくれるのが葉室麟の小説だ。

 主人公は小藩の軽輩の次男坊で、すでに養子の口もかからなくなって、家の厄介者になっている。心根の美しい女中とわりない仲になり、彼女を自分の妻として日陰で生きていくことを覚悟しいる。

 しかし彼は藩内でも有数の剣の使い手で、師から秘太刀も伝授されている。その彼をたのんで、剣友から護衛をたのまれる。剣友は同じような冷や飯食いなのだが、実は藩の家老の隠し子で、跡を継ぐはずの兄の急死で突然家を継ぐことになった。

 敵がまわりじゅうにいるなかで、体のいい用心棒をむりやり引き受けされられたのは、剣友が出世すれば一家を構え、いまは決してかなわない、自分の子をつくることができるからだ。

 そのささやかな望みはほとんど叶いそうもないほどの敵ばかりの中で、事態は少しずつ好転していく。絶望から、もしかしたら、という思いへ、そして本当の希望へ。

 愛する妻に危難が及ぶことで彼が何を叫び、どんな行動を取るか。本当の男とは何か、そのことを考えさせた上で物語は終わる。

苦難を乗り越えて見えるもの

 明日からしばらく不在なので、今日中に宿題をしておかなくてはならない。それなのにやる気にならず、NHKBSのグレートレースを観ていた。

 2014年に行われたマダガスカル島250キロ走破レースである。それも山あり谷ありぬかるみありの道を、6日間で走り抜けなければならない。平均一日40キロ、最長の日は77キロという苛酷なレースだ。

 しかも日中は太陽が照りつけ、熱中症状態で走る。命がけである。つらい、帰りたい、などと泣き言を言いながら、しかし楽しい、という選手たち。最年長は69才の日本人。女性もたくさん参加している。

 男子は初参加の日本人が健闘して総合二位であった。なんと女子は日本人女性が総合トップと、すばらしい結果であった。

 ゴールでは感極まって泣く選手も多い。つらかったレースが思い出されたのだろう。しかし息が整い、涙が収まると全員が満面の笑みを浮かべる。異口同音に「楽しかった、また走りたい」という。

 ランナーズハイというけれど、そんなこちらが想像できる限界をはるかに超えた苦難があったはずなのだが、どうして楽しかったといえるのだろう。

 彼らはそういう苦難を乗り越えて何を見たのだろう。彼らにしか見えないものがあったらしいことだけは感じた。

さわやかな朝

 昨日泣き言めいたブログを書いたけれど、けっして泣き言ではなく、闘争心を表明したのだ。それが証拠に昨晩はおいしい酒を飲んだ。つい先日も書いた通り、わたしは嫌なことがあったときには決して酒を飲まない、と自分にルールを課している。

 だから今朝の目覚めはさわやかであった。

 明日、弟のところへ行き、若干の雑用を片付けたら、北関東の兄貴分の人に会って馬鹿酒を飲む。そして北への旅に出かける。

 いま湯治宿で読む本を選定している。多分一日二冊は読めるだろう。湯につかり、雪を見ておいしい酒を飲む。どんな本が読みたくなるか分からないので五日分として20冊くらい抱えていくつもりだ。もしかしたら一冊も読まないかもしれないのだけれど・・・。

2016年1月 7日 (木)

話がかみ合わない

 今日は離婚調停の話し合いで、先方が弁護士と名古屋にやってきた。当方の弁護士の事務所で会うことになっていたのだが、昨晩になって本人が来られないと連絡があった。結果として義兄と弁護士との話し合いになった。

 こちらは意を尽くして話しているつもりだが、しばしば義兄から話が途切れさせられた。こちらも理由があって話さなければならない話をしているつもりなのだが、そもそもあまり聞く気がないのか。わたしは相手の弁護士に説明しているつもりだったのだが。

 しかしやってこなかった当の本人を除いて、離婚はやむなしと思っているように感じたことは収穫であった。ただし最後に少しだけ話し合った離婚条件については全くかみ合わない。わたしがよほどのお金持ちだと思っているのだろうか。できないことはできないが、できることはする、とだけ言った。

 最後の最後に向こうの言い分を書いたという書面を渡された。こちらの感情を逆なでする文言が連ねられていた。だれが書いたか即座に分かった。これはお金に異常にこだわる嫂の文章である。多分離婚当事者本人は読んでいないし、知らないものだろう。うんざりした。

 弁護士から反論を書け、と宿題を渡された。

三つ子の魂

 三つ子の魂百まで、というが、韓国は国難に臨んでも百家争鳴、論ばかりを戦わせてまとまった行動のできない国であることを露呈している。

 日清戦争のきっかけは朝鮮である。そのとき朝鮮は百家争鳴、国難に対してそれぞれがてんでに行動し、国論がまとまらず、結局最後は日本の植民地となった。このことは日本にとっても朝鮮にとってもたいへん不幸なことであった。

 慰安婦問題について日韓政府が合意したけれど、それは政府が合意したことだとして野党や市民運動家は合意を破棄せよと騒いでいる。

 そんなさなかに北朝鮮が水爆実験をした、と発表した。それについても各論噴出、まとまって何をなすか考えようという様子が見られない。これは韓国の新聞が嘆いていたこと(1月7日の朝鮮日報日本語版)で、私が偏見で言っていることではない。

 日本が直ちにNSCを招集し、状況分析と対策検討を始めたのに、韓国はそれより遅れたという(韓国のテレビでは即時招集した、と報じているが)。日本の民主党のコップの中の嵐のような無意味な党内争いと同じようなことが、韓国政界で渦巻いているらしい。それならまとまるのは困難だろう。こんな国とはかかわりたくないものだ。

 朴槿恵大統領がいままでの反日姿勢を翻して妥協し、慰安婦問題について日本と合意したのは、北朝鮮がいつ何時暴発乃至崩壊するのか分からない危機的状況を慮ってのことだろう。そんなことはまともな頭があれば自明のことだ。

 今回の核実験がその兆しなのかもしれないし、そうではないのかもしれないが、まわりじゅうの国が、なんとか存続して欲しいと思っている金王朝の破綻は残念ながらこのままでは必至だろうから、その事態に備えなければならない。

 日本の安保法制もその有事の際の朝鮮半島の日本人救済を想定しているのだ。しかし最も備えなければならないのは韓国だろう。その韓国が、非常事態なのに政争に狂奔している様は・・・あの朝鮮の亡国のときにあまりに似ている。

長谷川慶太郎・田原総一朗「2020年 世界はこうなる」(SBC Creative)

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 長谷川慶太郎節(ぶし)に田原総一朗が挑む。世界観はずいぶん違うのだが、田原総一朗は長谷川慶太郎に一目置いており、敬意を払っていることが読み取れる。

 「中国では年間5000万台の自動車が生産され、2000万台が供給過剰だ」といわれるが、「中国で売れる自動車販売台数は2000万台で、3000万台が供給過剰だ」というメーカー筋の話もある。

 経済の成長には4つの条件がある。
第一 民族対立がないこと
第二 農地改革をしていること
第三 教育
第四 民主主義であること

 中国はすべての条件が満たされていないから、経済は必然的に破綻する、と長谷川慶太郎は断言する。破綻がいつどのように起こるかについて長谷川慶太郎はハードランディングを予想しているが、はたしてどうだろうか。

 尖閣問題、南沙諸島問題は中国共産党政府のコントロール下にないと見る。つまり軍の独走だというのだ。これでは戦前の大日本帝国と同じではないか。ということは結末も予測が立とうというものだ。

 AIIBに参加すべしと考える田原総一朗に、長谷川慶太郎はAIIBは中国に私物化されるだけで失敗に終わる、という。AIIBは中国国有大企業の鉄やセメントの過剰な在庫の処理が目的であることは明らかだからであり、しかも融資先の選定が不明朗で不良債権化が必至であると見る。当時の石原東京都知事の肝いりで設立された新東京銀行と同じ轍を踏む、といわれるとよくわかる。

 これらは出だしの部分だけを読んで紹介したもので、まだまだなるほど、そうだろうな、そうだったのか、と思うことがたくさんあげられている。

 例によって多少自慢話の繰り返しが見られるが、先生もお年なので仕方がないのだ。案外面白かった。

2016年1月 6日 (水)

同じことを言う

 このことは繰り返し書いた。テレビが好きなのだが、テレビ番組のCMのあまりの多さが耐えられない。先日の箱根駅伝でも、CMだらけの異常さにうんざりした。民放のスポーツ番組など、リアルタイムに見ることに意味のあるものは、録画してみるというわけにも行かないから、その苦痛に耐えるしかない。最近はNHKまで自社番組CMがどんどん増えている。不愉快だ。

 短時間のニュースや天気予報など、枠の時間のほとんどがCM、などと言うのが当たり前になっている。いまにCMの間に番組がちょっとだけ流れるようになるだろう。すでに民放の衛星放送はそうなっている。

 みたい番組を録画して、CMを飛ばして観る人がどんどん増えているはずだ。CMに大枚を投じている会社は費用対効果がどんどん低下していることに気がついているのだろうか。

 ときどきぼんやりとCMをそのまま見てしまうことがあるが、それはCMとして出来がいいのかもしれないけれど、たいていなんのためのCMか分からない。

 たいていのテレビ局が、あとで好きな番組をダウンロードして観ることができるようになった。わたしはNHKだけ古い番組を観られるようにしている。古いドラマにすばらしいものがあるのだ。このような見方がどんどん増えていることだろう。これならCMなど見ないですむ。

 視聴率などどんどん無意味になっていくだろう。そもそも番組が無料だから堕落するのだ。ただほど高いものはない。金で買えない「時間」を空費させてくれるのだから。

居眠り磐音シリーズついに完結

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 第五十巻「竹屋ノ渡し」、第五十一巻「旅立ノ朝(あした)」同時刊行。著者は全五十巻完結を宣言していたが、収まりきれなかった。終わってしまった、という残念な思いと、ようやく終わったか、という安堵のようなものが同時にやってきた。

 ペリーローダンシリーズのように五百巻(もしかして千巻以上?)も続いているものにくらべれば可愛いものだが、とにかく長かった。

 昨日新刊で店頭に並んだばかりの本を購入し、夜の間に二冊一気に読了した。

 「竹屋ノ渡し」では久しぶりの強敵との戦い、「旅立ちノ朝」では同じく久しぶりの関前藩の騒動始末が描かれる。同時に磐音の息子、空也の成長、おなじみの人との死別や離別が描かれている。

 死は誰にもやってきて避けることはできない。その死がその人の生きてきたことの集大成であることをしみじみと感じさせる。誰と死別するのかは読む前に知らない方が良いだろう。

陳舜臣「随縁護花」(集英社文庫)

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 三部に別れていて、秦の時代から孫文までの日中関係の歴史、西域など塞外との関係を踏まえた上での中国の歴史、そして中国の代表的な詩人たちについて語られている。

 「落紅は化して春泥となり、さらに花を護る」とのことばが添えられている。

 長い歴史の中で日本と中国の関係は深まったり疎遠になったりを繰り返してきたが、おおむねそれほど悪いものではなかった。それが20世紀以降に現在のような最悪の関係になったことは残念で、悲しむべきことだ。いつになったら良好な関係を再構築できるようになるのだろうか。

 過去、西域の民が平和でしあわせだったのは強権を持つ周辺国が支配している時期で、その支配力が衰えると小勢力のせめぎ合いが始まって不幸になるという指摘は意外である。これは中東がオスマントルコやアメリカなどの強権の支配下にあったときほど安定していて、その箍(たが)が外れると不安定になることを想起させる。

 しかしながらウイグルなどは中国共産党帝国の支配下にありながら不安定であるのは、実は中国という国の支配力はそれほど強力ではないのかもしれない。強ければ良いのではなく、統治されることに不満がないのが強力な支配ということなのかもしれない。つまり中国共産党帝国はそれが下手くそだということなのだろう。

 李白と杜甫は旅先での詩が数多い。芭蕉は『奥の細道』で「古人も多く旅に死せるあり」と書いているが、それは西行や宗祇のことばかりではなく、李白や杜甫のことも含まれている。別の文章に「李杜が心酒を嘗めて」とあるという。旅先では、李白や杜甫の詩は芭蕉にとっては心の酒であったのだ。

 杜甫の「成都賦」という詩のむすび

   古(いにしえ)より羈旅あり

   我何ぞ苦(ねんごろ)に哀傷せん

 (むかしから旅はあった。私だけがそれを悲しむことはない)

 芭蕉は旅に出たくて旅に出た。しかし李白や杜甫の旅は意に染まないやむを得ざる旅が多かった。その違いを彼らの旅の詩から読み取れるだろうか。もう一度それを意識して漢詩を見直すのも良いかもしれないと思う。新しい視点を教えてもらった。

2016年1月 5日 (火)

思い出

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以前撮った写真を眺めていたら、来週行くつもりの鳴子温泉に、昨年なくなった母と行ったときの写真があった。

当時のことを思い出した。

叔母が新庄に住んでいて、学生時代にはずいぶん世話になった。新庄は宮城県側の鳴子から峠を越えて山形県側にある。母と新庄へ行き、駅のなかに展示してあった連獅子の写真を撮った。

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すぐとなりにあった看板に母が顔を出した。

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2012年初めの母との旅行である。鳴子には何泊かしたので、このときに石巻や東松島の震災のあとを見に行った。

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母は震災の現場で寒気がすると言った。あたりにただようなにものかを感じたらしい。

決定

140925_63 バリ島のいたずら猿

 周大兄から早速のお誘いがあり、迷っていた北への旅を決行することに決め、すぐに宿の予約を入れた。

 週末から気温が下がるらしいので、東北は雪だろう。来週は雪景色の写真をブログに載せることになると思う。どうなりますことやら。

2016年1月 4日 (月)

迷っている

 七日にストレスフルな用事がある。そして九日には弟のところ(いままでは実家)で用事があるので千葉まで行かなければならない。

 そのまま北関東か東北まで足を伸ばして温泉でゆっくりしようかどうしようかと迷っている。久しぶりに桐生の周大兄に会いたいところだけれど、いつものように即連絡、という行動が取れない。

Dsc_0066 初冬の日本海

 正月がハイテンションに過ぎて、その反動が来ている、というほどのこともなかった。いつもより控えめなぐらいだったのに。

Dsc_0080 山形蔵王あたりの冬景色
1101_7 山形から峠を越えて鳴子へ
1101_17 ときどき行く鳴子の湯治宿の窓から

 気持ちは出かけたいのに、ジャランで宿の空室状況を見ながら迷っている。

今年の目標

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 毎年年初に年間の読書数の目標を立てる。昨年の目標は240冊だったが、結果は236冊で、わずかに達成できなかった。読みやすい本で数字あわせができないことはないが、今回はその気にならなかった。

 昨年、数が稼げたのは、母の介護のために、母のベッドのそばでひたすら本を読んだからだ。というより本を読むしかすることがなかった。今年はそれがないから少し減らして220冊を目標にすることにした。

 蔵書の再読も多くなっているので、購入する本も少し減らすことにしなければと思っている。図書館で借りるのは嫌いなので、本はすべて購入する。ある事情から経済的にかなり倹約が必要になることがはっきりしているので、購入する本を厳選することにする。

 もうひとつはウエイトコントロールだ。この五年で10キロ以上減量した。正月であっという間に2キロほどリバウンドしたが、今年はリバウド前から3キロ、つまり現在の体重から5キロ減らすことをめざしたい。これは自動的に節酒、食事の量の減少、美食の我慢につながるから、経済的にもありがたいのだ。

 ただし、出かけることは増やしたいと思っている。昨年までは母のことが気になってスケジュールを立てにくかったけれど、今年はあることを除けばだいぶ自由になった。これはそのまま身体を動かすことにもなる。ケチケチ旅行は得意だし。

 今日から仕事始めの人も多いだろう。息子も娘のどん姫も今日から仕事だ。私も月初めの定番の雑用その他がいくつかたまっているので順次片付けていかなければならない。新しい手帳にはいくつかの予定が書き込まれ、新年が始動したことを実感している。

 人生はほとんど些事で成り立っている。些事はわずらわしいけれど、それが生きていることなのだと思いたい。そう思えることが楽観的な生き方で、それを苦痛にしか感じなければ悲観的な生き方になる。悲観的な生き方ではもったいない。

2016年1月 3日 (日)

あんのじょう

0401255 韓国は儒教の国

 韓国には「不参客」ということばがあるらしい。予約したのに、連絡無しにキャンセルすることを「不参客」という。飲食店などではなんと予約の20%が、客の来ない「不参客」になっており、収益を大きく圧迫しているという。しかもそれが定常化しているために、店側が泣き寝入りせざるを得ないのだそうだ。 

 旅行会社やホテルの予約でも「不参客」が定常化したため、いまは契約時にキャンセル料を取り決めることになり、大幅に「不参客」は減少している。予約して都合が悪くなったらキャンセルの連絡をするのは当たり前のことなのだが韓国ではそうではないらしい。

 昨年末に、慰安婦問題について日韓の合意が成立した。世界の多くがその合意を歓迎していた。韓国のマスコミもおおむね歓迎を示していた・・・はずだったのだが、年が明けてからの韓国マスコミの論調が変わってきた。

中央日報「慰安婦問題、もう一度始めよう!」

朝鮮日報「慰安婦問題の蒸し返しを拒む安倍首相、歴史の真実を覆い隠すな」

挺対協「独自財団を設立する運動を始め、韓国民から10億円の寄付金を集める」

野党「慰安婦問題の合意は無効である。朴槿恵大統領の外交の大惨事である。たった10億円では寄付金募集で簡単に集められる。慰安婦は金を受け取るな!」

 日本大使館の入っているビル(現在日本大使館は建て直しのためにビルに仮入居している)には学生達が無断で乱入し、「慰安婦交渉合意を無効化せよ!」と騒ぎ、30名以上が検挙された。

 韓国は約束など守らなくても良い、という国であることがよくわかる。世界中にこの実態を知らせたいものだ。誰も信用しなくなるであろう。まああんのじょうといおうか、予想通りのことなのだが。

正月早々怒りを覚えた

 元旦の群馬を走る実業団駅伝は、若いころ仕事で走り回ってなじみのある桐生、伊勢崎、太田などが舞台なので、沿道の景色がなつかしい。そこでひとりのランナーが転倒するというアクシデントがあった。転倒はときに起こることだが、このときの理由がいけない。毛足の長い黒い小型犬がランナー集団の中に飛び出して足元に絡んだのだ。

 さいわい立ち上がってすぐに走り出したが、足を痛めたのか、その走りは精彩を欠いてしまった。選手にとっては練習を重ねた上の年に一度の晴舞台である。人生に何度もあることではない。しかもこの選手は外国人選手であった。これが新しい飛躍の数少ない機会だったのかもしれない。この選手の人生を狂わせてしまった痛恨事だった可能性もある。もし怪我でもして選手生命にかかわればそれ以上に罪は重い。

 まさか犬の飼い主は故意で犬を放したわけではないだろう。レース観戦で夢中になって綱を持つ手が緩んだと思われる。しかしその結果について、責任は重大である。それを自覚しているのだろうか。犬はレースなど知ったことはない。人混みのそんなところに犬を連れてくるという不見識は咎められて当然だろう。うっかりですまないことに鈍感な、このような飼い主に怒りを覚えた人は多いだろう。

 箱根駅伝のテレビでは、危険なので応援に行くときは幼児やペットをしっかりと確保するよう注意して欲しい、といっていた。このアクシデントを教訓としていることは間違いない。

2016年1月 2日 (土)

今年もよろしくお願いします

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 皆様、良いお年を迎えられたことと思います。今年もよろしくお願いします。

 元旦は近くの鹽竈神社に初詣に行ったあと飲んでは食べ、料理をつくり、また飲んでは食べて過ごした。

 これ以上のペースで飲むとアウトになる、というぎりぎりのところで飲み続けると、信じられないほど果てしなく飲み続けられる。ただしこの後遺症はしばらく残る。昔は、三が日は友人や先輩、上司の家を次々に訪ねては飲み続けた。体調が戻るのに一月いっぱいまでかかったこともある。いまはそんな無理がきかないから元旦だけ無茶をすることにしている。

 私のマンションのすぐそばにスーパーがあり、元旦から開いているから、刺身類は当日に買うことができる。働いている人はたいへんだが、こちらにはたいへんありがたい。

 フライや天ぷらをつくる。帰省している息子と娘は若いからつくった尻からガンガン食べてくれる。出来はあまり良くないけれど、うまいうまいといってくれるから嬉しい。

 いままでは正月といえば実家で弟と飲むことが習慣になっていたが、母が死んだので、それぞれの家が実家になった。これからはわが家が正月の拠点になったのだ。

 仕度はたいへんだけれど、こういう行事をきちんと行うことが大事なことなのだと思う。

2016年1月 1日 (金)

アーナルデュル・インドリダソン「湿地」(創元推理文庫)

 大晦日に、読みかけのミステリーを読了した。

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 アイスランドはそのむかし無人島だったといわれ、ノルウエーのバイキングやアイルランド人やケルト人が移住してきて、後に定住するようになった。十三世紀以降はノルウエーとデンマークの支配下に置かれたが、十九世紀に独立運動が起こる。十九世紀後半にアイスランド自治法が制定されたが、その後もデンマークの支配が続いた。完全な独立を果たしたのは1944年である。

 国土は日本の三分の一ほど、人口は三十万人あまり。首都はレイキャビクである。

 このミステリーはそのレイキャビクが舞台。主人公は刑事のエーレンデュル。古い小さな集合住宅の半地下にすむ老人の他殺死体が発見される。状況から行きずりの発作的な犯行に見えたのだが、そこに残されていた不可解なメッセージに、エーレンデュルはこの犯罪の背景に根深いものがあることを直感する。

 このミステリーの読みどころは、エーレンデュル刑事の地道な捜査で次第に明らかにされていく老人の過去である。最後に明らかになる犯行動機に、この世の不条理と人間の業の深さを強烈に思い知らされる。

 エーレンデュル自身が抱える家族の悩みもこの小説に深味を持たせている。北欧ミステリーのおもしろさを堪能できるけれど、このような陰鬱な物語が苦手な人にはつらいかもしれない。

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